2週連続でお散歩ツアーを開催しました。
今回は、「館野・萱野・滝川の歴史散策」という事で、館山市の館野地区を歩いて
きました。
出発は館野地区公民館。天気はというと、台風が来るとかいう話でしたが・・・
少し不安定な雲行きでしたが出発しました。
まずは、橋本地蔵尊へ。
外房と内房を結ぶ街道の所にあり、滝川用水堀を渡る橋のたもとの地蔵尊です。
寛政10年(1798)に日本廻国行者が建てた道標や、明治24年(1891)の孝子塚への案内標、
大正14年(1925)に国分青年団が建てた三義民刑場跡への案内標があります。
次は、滝川用水の滝川分水堰へ。
滝川用水の分水池、国分・高井・上野原・長須賀の水田への灌漑用水として使われていた
そうです。
この滝川用水というのが次に行く、三義民刑場跡のお話しに関わってくるんです。
では、その前に少し、この事件についてお話しします。
時は、正徳元年(1711)、徳川6代将軍家宣の時、安房国北条藩で起こった農民一揆。
北条藩1万石の所領27ケ村全体の農民が参加したことから、万石騒動という名前が付いた
のです。この万石騒動は、北条藩は1万石の小藩でしたが、藩主の屋代忠位は幕府の百人組
大番頭などを歴任していました。このことは財政難に繋がり、忠位は職を辞して財政再建を
図らざるを得なくなりました。そこで、新規に召抱えた家臣に、川井藤左衛門という人物に、
忠位は、御用人・上席家老として財政再建のために全権を与えました。川井は宝永6年(1709)
に北条陣屋に派遣され、元禄地震で隆起した北条海岸に新田を開発、灌漑用水路(滝川用水)
の開削して増産を図りました。また、鶴ケ谷の保護林の伐採・売却した他、酒屋・糀屋の運
上金の取立てを行い増収を図りましたが、農繁期の労役や、苛酷な増徴策の強行は、領民に
とって負担の大きいものでした。川井が各村に割り当てた年貢量は、従来の2倍近いものでし
た。これに対して、農民600名が北条陣屋に押し寄せて減免を求めましたが、川井の部下は
取り合わず、川井は江戸屋敷に名主を呼び出し圧力を加え、首謀者を探りました。
600名の農民は江戸に出て、江戸屋敷にいる藩主への門訴をおこないました。川井は、いったん
農民の要求を呑んだように装い、年貢減免の墨を与え農民たちを国許に帰しましたが、農民たち
を追う形で、川井は北条屋敷に赴き、名主を陣屋に呼び出し墨付の奪還を図り、6名を投獄、
6名のうち3名を国分村萱野の刑場で処刑、その妻子を追放し家財は没収するという弾圧をし
ました。また、農民に協力した代官行貝弥五兵衛国定及び息子を処刑しました。行貝は国分村
出身で地代官でした。
名主の投獄を受け、農民側は再び江戸で訴えを起こすことを決め、代表者が江戸に上り、老中
秋元喬知に駕籠訴を行いましたが、却下されてしまいました。今度は老中阿部正喬への駕籠訴
を行い結果、幕府は訴えを取り上げて審議が行われることになりました。評定所は、農民の訴え
をほぼ認め、川井は投獄されました。正徳2年(1712)、幕府の裁断が下され、川井は息子と共に
死罪、北条藩屋代家は改易になり、農民側も、捕えられたままであった3名が追放に処せられま
した。
という事で、三義民刑場跡へ。
大正14年(1925)に三人が処刑された場所に三義民殉難之跡という石碑が建てられました。
その後、平成22年には義の伝承碑が建てられました。
今でも、名主3名の命日(11月26日)には供養が行われ、語り継がれています。
次に行ったのは、稲荷神社。
神社のある周辺は、明治元年から4年まで、館山周辺を支配した大名、長尾藩本多氏の
家臣たちの屋敷地として開発されました。その一画に本多氏の氏神であった稲荷神社が
祀られています。手水石は旧藩士たちが、明治9年に奉納しています。
次は孝子塚です。
平安時代の初め、承和元年(836)に、安房郡の伴直家主(とものあたい やかぬし)と
いう人が居まして、朝廷から親孝行を表彰されました。(「続日本後記」巻五の承和三
年十二月七日の条にその徳行が記されています)
江戸時代になり、石工の武田石翁が、「家主」の事を調べ、その墓を探して、この塚が
孝子塚と推考し、嘉永3年(1850)、自らここに孝子「家主」に碑を刻み、その遺徳を顕
彰しました。さらに翌年、孝子に関係ある国分寺境内にも同様の碑を建てて顕彰し、そ
の後、地元有志者の尽力で整備が進められ、大正3年(1914)頃、現在のような形となり
ました。市指定史跡になっています。
伴直家主は、優しい心をもった真面目な人でした。両親が生きているうちに大切にし、親
孝行をつくしました。その両親がなくなると、今度は自分の食事や生活をきりつめて、親
のために立派なお墓を建ててあげ、両親の像までもつくり、生きていた時と同じように食
事を供え、供養を怠ったことはなく、いつまでも続いたので、人々に知れ渡り、やげて都
にいる朝廷の耳にまで届きました。感激した朝廷は、「この者を孝子と呼んで、生涯その
税を免状してあげるように」といい、身分も三階という位を授け、その家の入口には朝廷
から下された「孝子の門」という大きな旗があったといいます。そんなお話しです。
次に滝川のびゃくしんへ。
館山市天然記念物に指定されているびゃくしんです。
このビャクシンは、後から行く木幡神社の北方の河岸段丘上にあり、一帯は木幡神社創建
の地とされ、御神木としての言い伝えがあります。
びゃくしんは雄木で、目通り樹周4m30cm・樹高10m35cm・枝下2m70cm
(指定当時)、東西約11m、南北約12mの巨樹です。
びゃくしんの側にある三善寺へ。
浄土宗の寺院です。鎌倉時代の木造如来座像と南北朝時代の銅造観音・勢至菩薩立像が
ありますが、ともに市立博物館で保管されています。
この日は、安房国四十八ヶ所薬師如来霊場申歳中開帳の初日でしたので、薬師如来像を
拝見する事ができました。
次は、石橋供養塔のある場所へ。
かつて石橋が架かっていたようで、道の端に文政5年(1822)の石橋供養塔があります。
その脇の大きなお地蔵さんがありますが、顔がなくなってしまっています。
次は、木幡神社へ。
滝川地区の鎮守で、主祭神は天照大神の子とされる天忍穂耳尊(あめのおしほみみ)
で、その妻と子も祀られています。神社の縁起によると、大化改新(645)以前、中央
政権によって地方官として任命された大伴氏一族が安房に着任した際、現在の館山平
野の中央に館を建て、そこを館野原といい、支配の中心としたとされています。当時
着任地に氏神をまつる風習があり、それが木幡神社の起こりだといいます。
次は、伝説の石を見に。
この石は、立石と呼ばれ、鎌倉時代の武将、朝夷郡に育った朝比奈三郎義秀が投げた
ものだという伝承があります。以前、千倉を訪れた際も、朝比奈三郎が投げた石があ
りました。
次は、地蔵堂です。
本尊は木造地蔵菩薩。地蔵菩薩像は文明13年(1481)に造られたものです。
境内には江戸時代に建てられた鉄丸石の大きな出羽三山碑があります。
今日の見学場所はここまでで、出発地点へと戻ります。
半日コースですが、見る場所が満載でした。いやぁ~三義民も地域の人たちが、ずっと
言伝えて言ってほしいお話しです。まだまだ知らないことが多くあります。
みなさまも、是非、お住まいの地域を散策してみてはいかがでしょうか?
あっ!また旅倶楽部のウォーキングに参加して一緒に探しましょう。