月イチツアー「もののけの里・たたらを巡る」報告

10月に入り、秋らしくなってきました。大型台風が来て、各地では被害が出て
います。南房総でも停電があったり、農作物のハウスがやられたり、葉もの野菜
は塩害にあったり、被害もでております。

また旅倶楽部では、9月から月イチウォーキングツアーを復活しました。やはり
夏場のウォーキングは辛いので・・・
9月は「もののけの里・たたらを巡る」と題して、館山の船形エリアから小原エリア
富浦エリアを歩いてきましたので報告します。

9月の月イチツアーは天気にめぐまれ、暑い位でした。
館山市若潮ホールを出発し、川名金毘羅神社から千日堂を通り、海底地崩れ地層へ。
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こちらの道は、私道なので許可が必要です。今回は、お願いをして通らせてもらい
ました。推進1500~2000mの海底にあった地層が、200万年前の巨大地震
で、液状化した海底斜面が地すべり、分断、かき回された状態を残し、長い時間をか
けて隆起したものです。白浜グリーンラインで見れるものと同じ状態なので、見たい
方は、グリーンラインの方をご覧ください。

農道を通りながら、日枝神社へ。
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こちらの狛犬たちは、チャーミングな狛犬たちでした。
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次は、金気神社へ。
この神社は、養老2年(718)創建したと伝えられています。祭神は須佐之男命。
強風が吹き荒れて漁に出れなかった漁師が、祈願したところ翌日から海が凪いだそう
です。それ以来風の神様として知られるようになりました。
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木の間に、愛嬌のある石像があります。
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昼食を、金気神社ですませ、のどかな道を歩き、目の病にご利益があると評判の明眼
地蔵へ。ここの由来は不明ですが、近くに川が流れていて、昔処刑場に使われてた場所
だったので、供養塔が築かれていたらしいです。
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お地蔵さんの写真を撮ったところ、デジカメがお地蔵さんを顔認識し、目つぶり機能が
働いてしまって、ビックリしました。石仏を撮っていますが、今まで初めてです。

その後、御霊神社・船形用水跡を見学し、忍足佐内の碑へ
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佐内は、金尾谷村の名主です。江戸時代、徳川10大将軍家治の世であったの明和5年から
7年にかけて、旱害が日本を襲いました。毎年のように田植え前から日照りがつづき、稲が
実らず村人たちは大変苦しんでました。特に、金尾谷・白坂(共に現福澤)、小原(小原)
の村むらは、山田が多かったため被害がひどく、その上、奉行の稲葉重左衛門と代官の藤田
嘉内が悪い政治を行って重い税を課したので、村民たちの暮らしはどにもならないほど追い
つめられていました。金尾谷村の名主の佐内は正義感の強い人でしたので、村民を救うため
大和守の江戸屋敷に村民の困っている様子や、奉行たちの不正横暴を上訴したのです。
悪い政治を行っていたことがばれるのを恐れた奉行は、佐内を勝山(鋸南町)の牢獄へとじ
込められました。金尾谷村の万福寺の小僧祖淳は、以前佐内に情けをかけてもらい恩義を感
じていたので、なんとか佐内の命を助けようと、藩主酒井忠隣の菩提寺である芝の青松寺の
天徳和尚に嘆願書を出しました。この嘆願書が藩主の奥方の目に入り、奥方が寛大な処置を
とるよう伝えた為、佐内は無罪と決まりました。そして嘆願書が、藩主忠隣まで届き、自分
が大阪から戻るまで決して刑を行ってはならないと命じましたが、再び取り調べが行われれ
ば、自分達の悪事が露見すると考えた奉行らは、佐内を罪人を乗せる唐丸籠に乗せ、領内を
引き廻した後、白塚河原に連れていきました。無罪という言葉を信じて、村に返される佐内
を出迎えようとした村民たちが、様子が変だと騒ぎだすと、奉行は佐内を籠から引き出し、
「百姓たちを煽動し、徒党を組んだ罪で死罪」と書かれた書付を読み上げました。佐内は、
「徒党など組んでいない」と言いかけましたが、その時はもう奉行の刀が佐内の命を奪って
ました。奉行は、百姓達の報復を恐れて、逃げるように立ち去ったといいます。佐内44歳
でした。
近くに、地元では「砂かみ地蔵」と呼んでいる物があります。佐内の正義の訴えは凶刀によ
ってかき消され、佐内の首は川原で跳ね、無念さゆえに、胴体を離れた佐内の頭部は川原の
砂をかんだといいう言い伝えがあります。

佐内の碑を見学し、のどかな道を通り出発地点の若潮ホールへ。
天候にも恵まれ、久々のウォーキングでした。

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