月イチツアー「子の姫伝説と向西坊ゆかりの地を巡る」報告

花粉の季節が本格的にやって来ました。房総半島の南部にいると、私の場合1月位から
花粉症の症状が出始めるんですよねぇ~。風邪も流行ってくるので、1月からマスクは
必需品なのですが、歩いているとどうもマスクが嫌で・・・外してしまうと、帰ってか
らが大変なことになります。杉山が多いので、早く、花粉の飛ばない時期になって欲し
いものです。

そんな中、2月月イチツアー「子の姫伝説と向西坊ゆかりの地巡り」を開催しました。
当日は、朝寒かったのですが、天候にも恵まれて丁度良い気温になりました。

出発地点は、南房総市花園にある駐車場から。
まず最初に向かったのは、鴨川市江見にあります真門観音堂。

真門観音堂は、十一面観音菩薩を祀る小さなお堂です。向拝には肉厚な龍の彫刻があり、
獅子は、火炎に振り向いた姿をしています。

この彫刻には、「安房国彫工 後藤利兵衛橘義光」と刻銘がします。年代は刻まれてい
ないので不明です。

次は、鴨川市から南房総市に戻り諏訪神社へ。
諏訪神社の鳥居の手前に今回の題目に入っている子(ね)の姫を祀った社があります。

子(ね)の姫の民話をお話します。
遠い鎌倉時代のある日、今の和田の浜辺に一隻の舟が打ち上げられました。村人たちが駆け
寄ってみますと、たいそう驚きました。その舟には、一枝の黄色い花の花木を握りしめた、
美しい姫が倒れていたのです。村人たちは姫を村に連れて帰り、小さな庵を用意して手厚く
看護し、黄色い花の花木は、庵の庭に挿しておきました。その姫は誰だったかといいますと、
実は花園天皇の皇女・子の姫だったのです。そのころ、都では天皇の位をめぐり、よく争い
が起きましたので、花園天皇が子の姫を守るため、舟で淡路島に逃れさせたのですが、舟は
激しい風と潮で大平洋に押し出され、幾日も東東へ流され、安房の和田の浜辺へ打ち上げら
れたのです。助けられた子の姫は村人たちと仲良しになり、文字や歌を教えましたので、皆
に慕われましたが、佳人薄命です。間もなく心労のためか病にかかり、静かに息を引き取り
ました。村人はたいそう悲しみ、子の姫の住んでいた庵の跡に社を建てて子の姫の霊をお祀
りすると、庵の庭で大きく育った黄色の花の花木を分けあって植え、春になると、村全体が
黄色く染まるほどにしました。やがて村人たていは、子の姫が舟で打ち上げられた浜の地を、
子の姫の持っていた黄色い花の花木に因み「木花(ぼっけ)」。そして、助けた子の姫が花
園天皇の皇女であったことから、自分たちの住む村を、「花園」と呼ぶようになりました。
(南房総市の昔話より)

この木が黄色い花の花木と言われているものです。

まだまだ咲いていませんが、6月~7月に黄色い花を咲くそうです。

次は、諏訪神社へ。

祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)・八坂刀売命(やさかとめのみこと)。
詳細等は不明です。

次は、抱湖園へと向かいます。
途中、面白い置き物や元朝桜があります。

抱湖園周辺は、元朝桜多くあり見頃が少し遅かったのですが、まだ多くは咲いていて、
桜を見ながら歩く事ができました。

階段を上がって抱湖園へ。

本来は農業用水のために自然貯水されたいた堰です。小高い山の中腹のため眺望に恵まれ、
地主の間宮七郎平が堰の周りに緋寒桜を植えました。その後区民が手入れをし美しい花を
咲かせています。元日の朝咲くので元朝桜と言われ今では桜の名所になっています。

南房総市和田町は花作りが盛んな地域ですが、どうして花作りが始まったというと、間宮七
朗平によるものです。間宮七郎平は、明治26年(1893)の生まれで、当時、このあたりは貧
しく、冬場は男が出稼ぎに行くのが普通でした。七郎平は勉強が好きで、24歳の時、薬剤
師になる勉強に取り組み、薬草の研究や栽培をしているうちに、鑑賞用の花の需要がある事
に気付いたのです。そして大正9年(1920)から花園で花作りを始めました。農家の人たち
から、花が生活の糧になるかと笑われ、中傷もありましたが、それでも自分を理解し支えて
くれた、妻の死の悲しみも乗り越え、熱心に花作りを続けました。やがて、七郎平の熱心さ
は、農業を営む多くの人たちの心を動かし、花作りが広まり、大正12年(1923)には、和田
地区に花組合ができました。初代組合長になった七郎平は、花の共同出荷を始め、東北地方
の市場開拓や、また鉄道省に働きかけ、花列車を出して貰うなど、南房総の花組合のために
尽力を尽くしました間宮七郎平によるものです。

抱湖園から山に登り、はなぞの広場を目指します。

今日は、はなぞの広場で昼食です。

今回は、道の駅和田浦のWA・O!にあるお食事処の南美舎(みなみや)さんにお願いしたお弁当
です。いつもは、直ぐに食べ始めるのですが、今回はちゃんと写真を撮ってみました。
その後、美味しくいただきました。

お腹がいっぱいになったところで、黒滝へと向かいます。

黒滝です。

長者川の中流にあり、高さ15m、幅は約2m、正面岩肌から垂直落下する滝です。 
少し水量がすくないのですが・・・・

この滝つぼ右上の所に、向西坊が入定した岩窟があります。

享保17年(1732)に「予を念ずれば火難諸災難を除き、家内安全五福寿を増長せしむと遺言し、
岩穴に自ら入定しました。入定して21日間最後の祈念を唱え生涯をおえました。53歳でした。

もう1つ滝側に似不動明王が祀られているほこらがあります。

次に向かいます。先ほど来た道を戻ります。

はなぞの広場から舗装された道をあるいて長香寺へとむかいます。l
途中には少し新しい双体道祖神や、虫供養塔がありました。

長香寺へ。

曹洞宗の寺院で、山号は花園山です。境内には、円玉石の向西坊供養塔が建てられて
います。

向西坊の事をお話しします。
向西坊は、名を元助といい、上州下秋間字館(現、群馬県安中市秋間)の百姓三右衛門の長男
に生まれました。幼くして母を失い、三右衛門は後妻をもらい、元助は養母に育てられました
が折り合いが悪く、14歳の時、家を飛び出してしまいました。少しのお金で、伊勢参宮を目
指しましたが、途中でお金が無くなり、道行く人の情けにすがっていたので、縄張りを荒らす
と付近の乞食共にいじめられていたところへ通りがかった、浅野内匠頭の代参で伊勢神宮に来
た片岡源五右衛門に助けられ、その下僕となって赤穂に連れられ、片岡の屋敷の下僕として下
働きをさせられました。元助は主人にその恩に報いたいと懸命に働き、その忠義は大石内蔵助
をも関心させられるほどでした。赤穂城明け渡し後、浪人となった片岡に仕え、片岡は元助を
伴って江戸へ下り、吉良への復讐の期を狙っていました。元禄15年(1702)12月13日討入
の前夜、突然片岡から解雇を申渡された元助は悲しさのあまり自殺しようとしました。片岡は
その忠心を認めて討入のことを話てくれましたが、そのお伴は許してくれませんでした。
四十七士は吉良邸に討ち入りして、本懐を遂げて切腹しました。元助は泉岳寺の墓前で泣きな
がら四十七士を手厚く弔い、生まれ故郷の秋間村へ帰り、出家して仏門に帰依し、名を「音外
坊」と名乗り四十七士と主君の浅野内匠頭夫婦の石像及び供養塔を造り始めました。近くの久
保観音堂にこもりながら、各地で托鉢・布施で石像建立の資金を集め、秋間の石工に彫らせた
石像を一体づつ岩戸山の岩壁まで担ぎ上げ、すべての石像が完成するまで20数年もの歳月を
要しました。その後「向西坊」と名を変えて全国を行脚しました。やがて房州和田浦長香寺に
足を止め、村人を済度し、その天命を知って、黒滝不動の側に岩を掘ってその中に入り、自ら
石蓋をし、「予念ずれば火難諸災難を除け、家内安全、五福寿を増長せしむべし」と遺言し、
念仏鉦声裡に三七、二十一日間にて入定しました。享保17年9月30日享年53歳でした。

長文になってしまいました。まだお話しが続きますが・・・今回はこの辺にしておきます。

長香寺を後にして、スタート地点へと戻ります。
せっかく菜の花が綺麗に咲いていたので、集合写真を1枚撮ってみました。

無事に駐車場に到着です。天候にも恵まれ無事に帰ってきました。
館山・南房総は、もう春です。(寒い日もありますが・・・)是非、冬眠していた体を動かし
にきませんか?

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