お散歩ツアー「釈迦涅槃図と街中散策」報告

寒かったり暖かったりと気温差がある今日この頃です。
館山・南房総市では、フキノトウが顔をだし春の気配を感じられるようになってきましたが、
寒い日も続いています。

さて、今回のお散歩ツアー「釈迦涅槃図と街中散策(鴨川市)」を開催しましたので、報告です。
集合場所は、鴨川市民会館前の駐車場。ここから駅周辺のエリアを散策します。

最初に訪れたのは、諏訪神社。

祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)。南北朝時代(1336~1392)の頃、信州(現長野県)
高梨郷より、ここに移り住んだ人たちが、天授3年(1377)に社殿を建て諏訪大社の分霊を迎えました。
安永8年(1779)に社殿が再建され、享和元年(1801)に大造営を行いました。明治2年(1869)、花房
藩庁の布令により社格を定めて本社に列し、諏訪神社というようになりました。

こちらの神社には、初代伊八・武志伊八郎信由の作品、本殿内の「本殿の龍」と南北側面の「波と雲」
があります。本殿は見る事ができませんが、南北の側面の「波と雲」は外から見る事ができます。

神社を修繕した時に、彫刻が壁に半分埋められてしまっています。

わかりますか?きっと逃げ出さないように半分埋めてしまったのかと・・・(想像です(笑))

諏訪神社が所有する山車と人形(神功皇后)は、もともと神田鍋町が所有していた(江戸時代、
神田祭りに参加していた5番山車)山車一揃えを、明治43年(1910)に横渚地区の関係者が東京
で購入したものです。山車と人形は霊岸島より東京湾汽船に船積みし、海路運ばれました。大正
時代中頃、神田松田町が所有していた(神田祭り36番)の人形源頼義を購入しました。
現在も、9月の鴨川合同祭に曳きまわされています。

ここでなぜ?神田・山王祭りで江戸型山車が衰退してしまったの?なんて思って調べてみました。
江戸時代、山車を曳くのは牛だったそうで、その牛を雇うのには費用が必要、山車を組み立てその
山車を置く山車小屋を建て、曳き回す時にはその警護にあたる鳶職の手間賃、山車練り物に付き添
う町役人等の衣服なども用意しなければならなかったそうです。山車が傷んだら修理、傷みが激し
い場合はすべて作り直しとなり、火事によって山車を失う事も度々あったそうです。当時、1台作
るのは、およそ400両から500両の費用がかかったそうで、現在で言うと、4000万~5000万位
だそうです。町役人はつねに資金の工面に頭を悩ませてたそうです。
幕末から明治となり、江戸が東京に代わっていくと、東京の各市街に電線がはられるようになり、
背の高い江戸型山車は電線に阻まれて道を通りづらくなってしまい、各町では次第に山車の曳行を
とりやめ、山車の人形だけを各町のお神酒所に飾るようになっていきました。
関東大震災や戦災により、山王・神田の山車にかかわるもののほとんどが消滅していき、ごく一部の
例外を除いてはその後再び造られることはなかったそうです。ですが、ここ鴨川の山車のように売ら
れ、今も大事に使われている山車もあります。

ここで、もう1つ疑問点が・・・江戸城の門をくぐる時はどうしたのかです。
江戸城の門の高さは4.4m。山車は、人形を出したままだと(カラクリ伸長時)約7.5mです。
そこで通過する時には、木枠を綱や滑車を使った仕掛けで上下にスライドさせ、門を通ったそうです。

次に向かったのは、観音寺。安房鴨川駅を通り反対側へいきますと、途中珍しい物を発見しました。

綱つりです。場所によっては道切りともいうそうです。
災いを封じる行事として、正月から2月にかけて行われる昔からの行事です。疫病神は道を通って
やってくると考えられていたので、むらの出入り口にあたる道に吊るされています。
大きなわらじは、わざと編まない部分があり未完成のわらじで、それに杉の葉を編み込んで、「う
ちの村では、悪病除けは済みました。疫病神は過ぎ(杉)ました。大わらじを履く巨人がいます」
という印で、外から来る悪疫が集落の入口で引き返すように願ったものです。下の方にあるのは、
藁で作った酒樽は、疫病神を追い払うにも村人たちの思いやりだそうで、「酒でも一杯やって気持
ちよく帰って下さい」という事だそうです。
 
綱つりから少し行くと観音寺です。観音寺の本堂に行く途中に「畠山勇子の墓」があります。

畠山勇子は、慶応元年(1865)安房国長狭郡鴨川町横渚の生まれ。畠山家は鴨川の農家で、かつては
資産家でしたが、明治維新のおり私財を投じたため、生活は貧困だったといいます。
17歳で隣の千歳村(現南房総市)に嫁ぎましたが、うまくいかず、23歳で離婚、その後東京に
出て華族の邸宅などで女中として働いた後、伯父の世話で日本橋室町の魚問屋にお針子として住み
込みで奉公します。父や伯父の影響で政治や歴史に興味を持ち、政治色の強い新聞などを熱心に読
み、店の主人や同僚たちから変人と見られていたそうです。大津事件(明治24年(1891)日本を訪
問中のロシア帝国皇太子ニコライが滋賀県滋賀郡大津町で警備にあたっていた警察官に斬りつけら
れ負傷した暗殺未遂事件)が起こると「国家の有事」と嘆いていましたが、ニコライ皇太子が急遽
神戸港から帰国の途につくことになり、それを知った勇子は、魚問屋を辞め、汽車で京都に旅立ち
ました。勇子は、3通の嘆願書を京都府庁に投じ、府庁前で死後見苦しくならないように両足を手
ぬぐい縛って、剃刀で咽喉と胸部を切って自殺を謀りました。すぐに病院に運ばれましたが、傷が
深く出血多量で亡くなりました。享年27歳でした。
その壮絶な死は、「烈女勇子」とメディアが宣伝して世間に広まりました。彼女の死は、ニコライ
皇太子に宛てた遺書や新聞の報道などによって国際社会からの同情をかい、ロシア側の寛容な態度
につながったと評価もあるそうです。
「勇子」とかいて「ゆうこ」。名は体を表すというのは彼女にふさわしいのではないでしょうか?

次は、山門脇にある旗本北条三代の供養塔があります。

山門の左側の供養塔です。今回は、担当ガイドだったのでなんだか写真を撮り忘れてしまいました。
旗本北条氏は、長狭五ヵ村を統治してきました。横渚村は知行地で、石だかを上げるため色々な
努力をしたそうです。この供養塔は村の人によって享保9年(1724)に建てられたものです。

本堂へ。

真言宗智山派の寺院で、山号を普門山といい、本尊は聖観世音菩薩です。伝承によると、慈覚大師円仁
(793~864)の開基で、永徳年間(1381~1384)に中興開山とありますが詳細は不明です。

ご住職がいらっしゃいましたので、中を見させていただく事ができました。

欄間の彫刻は、伊八の師匠の作品ではないかと言われています。
また、曼荼羅は前住職さんが手書きで書かれたものです。すごく細かく書かれていて、感動します。

観音寺では、2月の終わりから3月4日まで、ひな祭りが開かれます。畠山勇子のお雛様や吊るし
雛など見る事ができます。

次に線路を渡り、米倉稲荷神社へ。
写真が撮れてないので、ここは失礼します。

次は、善能院・日枝神社までマリンロードを歩いていきます。マリンロードはかつて、鴨川銀座と
呼ばれていた道です。今は、各地方にもあるように商店街が寂しくなってしまっています。
商店街の趣が残っている建物がありました。

善能院です。

真言宗の寺院で山号は観音山。本尊は聖観世音菩薩で長狭観音霊場第10番です。
金剛院の受持ちで、正暦発巳(しょうりゃくきし)年(993)、行基菩薩が回国の際、自作の尊像を
安置し堂宇を創立されたと言われています。本尊の左右に三体ずつ六観音が安置されています。

なかなか良い仏様たちです。

お堂の脇の階段を上り日枝神社へ。

祭神は大山祗命(オヤマツミノミコト)。創建年代は不明。
日枝神社は、少し高くなっている場所にあります。(写真が撮れてなくてすみません)
高さでいいますと二階建ての家の屋根の高さ位です。
ここだけ、ぽっこり高くなっているかといいますと、慶長地震(慶長9年(1605))で大きな津波
被害を受け、次の津波に備え前原の住民が避難場所として築いたもので、元禄地震(1703)の時、
この丘に逃げ込んだ人は助かったと言伝えられています。
境内には、元禄津波犠牲者の供養塔が多く残っています。元禄地震では、「前原一村ことごとく
流れ、溺死千三百人、流失千軒」と言われています。この丘は、江戸時代は土、明治時代は石垣、
昭和ではコンクリートというように変えています。

日枝神社・山王講が所有する山車と恵毘須の人形も、もともとは神田新石町が所有する江戸時代
の神田祭りに参加していた25番山車と、神田白壁町が所有し、神田祭り35番の人形を明治42
年(1909)に東京で別々に購入したものです。諏訪神社と同様に、海路でここまで運ばれてきました。
諏訪神社の山車よりも日枝神社の山車の方が1年早く江戸から運ばれています。

次は、熊野神社へと。

祭神は伊弉那岐命(いざなぎのみこと)、速玉男命(はやたまおのみこと)、泉津事解男命(よも
つことさかおのみこと)。南北朝時代の貞和4年(1348)に紀伊国(現・和歌山県)の熊野大社の
分霊を迎えて奉祀されました。永禄年間(1558~1569)に里見義弘夫人の祈願所となり、神領30石
が寄進され、徳川幕府により里見忠義が改易されると、元和元年(1615)本社の神領も没収されたと
いいます。寛永19年(1642)以来、明治維新に至るまで熊野三社大権現と称しました。大正12年
(1923)関東大震災で拝殿が倒壊し、昭和2年(1927)頃に改築しました。


拝殿向拝の龍は、初代後藤義光の作です。顔を左に向け牙をむき出しています。
向拝の懸魚には三代後藤義光による鳳凰が大きく大きく羽根を広げ龍と同じ左を向き同じ敵を鋭く
見つめているようです。本殿にも見事な彫刻がありますが、銘はなく作者不明です。

次は、熊野神社の別当寺院だった神蔵寺へ。

真言宗智山派の寺院で山号を明光山と言います。本尊は大日如来。
南北朝時代の貞和元年(1345)法印 源祐によって創建されました。
鴨川小学校の前身である前原小学校は、明治7年(1874)にここ神蔵寺で開校、大正11年(1922)
に創立された組合長狭中学校(現県立長狭高等学校)は、ここを仮校舎として開校しました。


本堂向拝の龍は、二代伊八(武志伊八郎信常)の作です。

いよいよ本日のツアーのメインイベント「釈迦涅槃図」を見させていただきます。

釈迦涅槃図は、182cm×200cmで200年前位のものです。作者は不明ですが、狩野派の
特徴が見られることから、格子天井絵を描いた白井休盛ではないかと推測されます。
2月15日は、お釈迦様の入滅の日です。最期の説法の旅に出られたお釈迦様は、クシナガラの郊
外でついに動けなくなり、沙羅双樹の間に床を敷かせ、北を枕に、右脇を下に、足と足を重ねて横
になられました。弟子のアーナンダは、クシナガラの町の人々に、お釈迦さまの入滅が近いことを
伝えました。すると、出家修行者や在家の信者、人間の目には見えない諸天神、鳥や獣たちが、嘆
き悲しみ、お釈迦さまのまわりを埋め尽くしたといいます。そしてついに、お釈迦さま最期の言葉
が発せられ「世はすべて無常である。比丘よ、怠ることなく努力するように・・・」
その光景が書かれたものです。2月15日には、お釈迦さまの業績を讃え、追慕、感謝を捧げる法
要の涅槃会に掲げられます。

格子天井絵です。地引村(現千葉県長南町)出身で狩野派の絵師、白井休盛の作です。茂原周辺の
古寺に仏画を残していて、天保2年(1831)70歳で没しました。

本当は、寝っこがりながら撮りたかったんですが・・・仏様の前なので出来ませんでした。

釈迦涅槃図で見えませんが、欄間の彫刻は、作者不明ですが、初代伊八・武志伊八郎信由の師匠、
島村系の作風に似ているそうです。

ご住職に色々とお話しをいただきました。ありがとうございます。
因みに、お客様がご住職の事を「歌舞伎俳優の海〇〇に似てる」と言っていました。

あとは、出発地点へと海岸へ出て帰ります。途中、牛頭天王の石宮や猿田彦神社などありました。
前原のエリアには、石宮などがあります。

最後に前原地区のお話しを・・・
元和元年(1615)横渚村は旗本北条氏領になりました。横渚無駄の前原は、海岸沿いの街で、伊南
房州通往還が通っていました。前原町は、寛永年間(1624~1644)までは家はなく、横渚村の前の
空地だから前原と呼ばれていたと言われています。延宝年間(1673~1683)に紀州漁民が「まかせ
網」というイワシ網を伝えたために漁業が発展し、元禄年間(1688~1704)はじめ頃には、他の地
域の商人たちが店を構え、近郷の農民が移り住み開拓を行いました。しかし、元禄16年の大津波
により壊滅状態となってしまいましたが、享保4年(1719)頃から次第に復興していったそうです。
最初は紀州の漁民たちは、出稼ぎできていたのですが、定住により漁法も沿岸漁業から沖合漁業へ
と発展しました。享保17年(1732)町明細帳控では、前原町の家数415・人数1862で多くの
家は漁業・干鰯(ほしか)業で働いていました。江戸後期より、横渚村から分離独立を求めていま
したが許されず、明治7年になって分離が認められました。

前原海岸です。

前原海岸は日本の渚百選に選ばれています。サーファーの方もいらっしゃいました。

お散歩ツアーではありましたが、盛りだくさんな内容になってしまいました。
今回は、私がガイド担当だったため、写真を撮り忘れる事が多々ありました。下見の時にも写真を
撮ってはいたのですが・・足りませんですみません。

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