お散歩ツアー「滝口下立松原神社と鹿倉山」報告

3月になりました。春なのに・・・新型コロナウィルスでウキウキ気分も台無しですね。
色々と自粛していて楽しみにしていた事が無くなってしまった方とかもいらっしゃいますが・・・当倶楽部のウォーキングツアーも悩みましたが、館山・南房総では新型コロナウィルスが発生していない事、野外での活動、50名以下という事で、色々賛否もありますが、ウォーキングツアーを開催しました。

集合場所は、南房総市白浜町にある下立松原神社です。

祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)。朝廷の命により、天富命が天日鷲命の孫・由布津主命とその他の神々と当地方開拓に上陸し、後に由布津主命が祖神の天日鷲命を祀った社です。いく度かの合祀が行われ、現在では祭神を19柱を数えています。武将の尊崇も厚く、源頼朝や里見義実など、太刀を奉納して武運長久を祈願しています。
本殿は明治初頭の再建、拝殿は元禄時代に建築された本殿を移したもので、ともに入母屋造です。8月1日例大祭があり、9月の八幡の祭りには神輿が出祭します。

下立松原神社では、神狩神事が毎年行われています。神狩神事は江戸時代(文化13年頃)から行われたとされています。「ミカリ」の由来は、由布津主命が天富命と一緒に安房に上陸し、農作物を荒らす猪や鹿を狩って退治し、住民を安堵させた神徳を慕い、今も神狩神事として旧暦11月26日夜から10日間にわたり行われています。期間中には、「サバシ参り」「イチノビ」「注連張り」「夜明かし祭」などが行われています。

注連張りの写真です。参道に注連縄を千鳥掛けに張ってあります。

参道脇には后神社があります。

阿波忌部の祖神天日鷲命の孫由布津主命の后で、房総を開拓した天富命の娘の飯長姫命(いいながひめのみこと)を祀っています。

下立松原神社を後にし、鹿倉山へと向かいます。
鹿倉山山頂への道は、2019年の台風で、大変な事になっていますが、ここを神狩神事の時には、宮司さんは登っていきます。

なかなかのアドベンチャーです。写真を撮ってる余裕がなく、この写真は頂いた写真を使わせて頂いてます。

やっとこさ頂上に到着です。頂上には、石宮があります。

石宮三社は、狩りをした神々だと言われています。

ここで、南房総の昔話より「曲田の小平」というお話しを紹介します。
大古から、輪の沖には大きな潮の道(黒潮)が、西から東へ流れています。神武天皇の時代に、その潮の流れに乗って現れた、数艘の独木舟の人たちが、安房の南の端に上陸しました。その人たちは、天神の子孫である天富命が率いた、四国の阿波忌部族の由布津主命たちだったのです。船から降りた命たちは、気候や景色が故郷に似ていいることを慶び、そこに住む家を建てると、野山を切り開き、粟や麻を植えました。しかし、鹿や猪が多く棲んでいて、せっかく育てた作物を荒らすので、それを防ぐのに一苦労でした。仕方なく、由布津主命は、村人の「曲田の小平」に案内させて、山狩りを行いましたが、その時、山頂に追い上げた大鹿が荒れ狂って、命の従者たちに傷を負わせたのです。「小平はいないか、早く来て大鹿を捕えてくれ。」命が大声で叫びますと、「おーおー」と小平は答えましたが、手にする狩りの道具は何もなかったので、急いで近くにあった藤の蔓を持って駆け付けました。命は弓と矢を取って首尾よく大鹿を退治し、多くの猪も捕えることができました。それから粟の平野には、粟が大きな穂を垂れ、麻は長く伸びましたので、村人は衣食に事欠くことは無くなったといいます。小平は皆に感謝されました。今も滝口の下立松原神社の「神狩神事」に鹿倉山から大声で、「曲田の小平やぁーい。」と呼びますと、5~600m離れた家から、小平が藤蔓を手に持ち、山を登ってくる厳しい姿が見られるという、言伝えがあります。

次に滝山薬師堂跡へ薬師巡礼道を通って向かいますが、今は人が通らないので荒れています。

右側に落ちたら、崖から川に一直線なところがあります。

滝山薬師堂跡です。

ここも台風の被害がり、薬師堂跡の碑がありましたが、木が覆いかぶさり見れなくなってしまいました。
前回行った時の写真です。このような碑が建てられています。

この場所に薬師堂がありました。現在、薬師像は、安房自然村にある薬師堂に祀られています。

次は、大門院へ。

大門院には、4つの南房総市の文化財があります。お堂内に見えていないものから説明します。
1つ目は、木造菩薩形坐像です。像高は53㎝。髻を結い、宝冠を載いて両肩を衣で覆う形式の像です。腹の前で結ぶ印相の上方がかけていますが、宝冠阿弥陀如来像として間違いないそうです。製作年代は11世紀半ば前後ととみられています。
2つ目は、本尊厨子の左右に安置されているのが木造天部形立像です。左手を振り上げる像と、左手は胸脇で持物を捧げる像があります。両像は法量や当初部材の状態から見て、一具の二天像(あるいは四天王像のうちの二躯)とみられます。保存状態はかなり悪いものの、本像は当初部の肉取ちに柔らかみがあり、腹部の膨らみや脇腹の引き締めも程よくまとめられています。製作は平安時代後期も11世紀あたりまで遡るとみられています。
3つ目は木造金剛力士立像です。

阿形像は像高165㎝。吽形像は像高161.8㎝。檜材の寄木造で、当初は玉眼を嵌入していたとみられます。両像とも動勢を抑えた太造りの姿形で、ほとんど腰を捻らず、足の踏み出しもわずかです。また阿形像にみられる忿怒相も怒りの表情が抑えられ、肉付き豊かな両像の上半身にしても誇張は少なく、多くの仁王像のように隆起した筋肉が瘤のようになる表現はみられません。製作は無漏真時代の前ごろと考えられています。

最後の4つ目は、木造僧形坐像です。

像高34.6㎝。頭部を円頂にあらわし、両肩をおおう衣を着て座る。両手は胸の前、衣の下で拱手しています。面貌などは不明ながら、特定の僧の肖像を表したとは見難く、その手勢や高く襟を立てるさまからみて僧形神像の形をしめるものと考えられます。朽損甚だしく、像容がはっきりしないため、制作年代の推定は困難ですが、頭部の幅広くゆったりとした曲面による構成、体躯の量感が控えめののことから平安時代後期、12世紀の作だと考えられます。

小さなお堂なのに、南房総市の文化財が多くあります。このエリアには、他にもお寺が1つ、お寺あった場所が1つあります。小さなエリアでも信仰が深かったのです。

あとは駐車場へと舗装された道を通ってかえります。
途中には、長尾城跡や、陣屋跡などがあります。

今は、菜花の畑が広がっています。
因みに、長尾藩は明治元年(1868)7月、本多氏が駿河藤枝から安房への転封を命じられ、軍事的な要害として白浜の長尾の地に城を建設しました。明治2年になると藩士の移住が本格的にはじまりましたが、地の利の悪さから藩士には不評でした。その夏に台風によって建設中の陣屋が倒壊したので、北条(館山市)への移転が進められ、長尾城建設は中止されました。
来年度のウォーキングツアーでは、北条の方を歩きます。

なんとか無事に下立松原神社へと着く事ができました。今回のこのコースは、1月に予定していましたが、雨が降ってしまい安全第一で延期としました。安全第一といいながら、世間では新型コロナウィルスで自粛という事になっていますが・・・
自然の中の空気を吸って、大地を踏みしめ免疫力アップしてきました。

今年度も、残すところあと1コースのお散歩ツアー「今もなお信仰深い風早不動と鎌倉文化を伝える小網寺へ」を3月19日(木)に開催します。是非、ご参加下さい。

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