月イチツアー「新・旧加茂坂」報告

新年度が始まりました。新年度一発目は4月14日のお散歩ツアーを予定しておりましたが大雨で中止となり、さい先の悪いスタートとなってしまいました(汗)新型コロナウィルス感染症の先行きがまだ不安ですが、安房地域でもワクチンの接種が始まりましたので、少し兆しが見えてきたような・・・でも油断は禁物です。ワクチン接種しても感染したという方もいたみたいで・・・マスク着用は必須なんでしょうね。

さて、4月24日に「新・旧加茂坂」を開催いたしました。当日は、天気が良くてよかったです。っと言ってもこれを書いている私は、腰痛&股関節痛で距離を歩く事が出来ない状態でして・・・写真はガイドの庄司さんに撮ってきてもらいました。

出発地点は、日運寺からです。

日蓮宗の寺院で、本尊は日蓮聖人。昔は勝栄坊という真言宗(天台宗の説も)の小堂でしたが、文永元年(1264)日蓮聖人が鎌倉から小湊に帰る途中、この堂に止宿したことが縁で、当時の住職が日蓮の門下に改宗したそうです。約300年後、里見の重臣正木時通と弟・頼忠は村の押本右京亮と図り、元亀2年(1571)に勝栄坊を再興、勝栄山日運寺としました。勝浦正木氏の菩提寺であり、頼忠は大旦那として主君里見義頼に願い出て寺領を寄進、その後徳川幕府からも寺領10石の御朱印を賜っています。
大正12年(1923)の大震災では本堂など倒壊焼失し、昭和12年(1937)に現本堂ぞ造営しました。昭和56年(1981)に日蓮聖人七百遠忌記念事業として、仁王門の屋根改修、七面堂再建などを行いました。昭和45年(1970)には2万株のあじさいが境内に植樹され、房州のあじさい寺と呼ばれるようになりました。

日運寺の境内に、正木時通・頼忠の墓があります。

勝浦城主正木時通は、元亀元年(1570)戦いに敗れて伊豆の寺に蟄居、数ヶ月後に出家帰房して日運寺を開き中興の祖になったといいます。天正3年(1575)没。墓は宝篋印塔で第7世日性が建てたものです。
頼忠は時通の弟で、時通死後の勝浦城主です。加茂村の所領から寺領を寄進しました。徳川家康の側室で水戸・紀州両徳川家の生母お万の方の父です。元和8年(1622)没。笠塔婆の墓が寛文2年に建てられました。南房総市指定文化財になっています。

少し上の方に行くと日艦上人入定窟があります。

第18世日鑑は、現在の館山市広瀬の出身で、住職として29年間在職していました。寛政3年(1791)に、光格天皇皇后の病気平癒の祈願のため上洛して導師をつとめ、その功で幕府から10万石の格式を与えられました。また、、天明5年(1785)夏の旱魃で村人が困り、上人は21日間の雨乞祈願をし、村人をすくいました。晩年には窟に断食入定し、文化5年(1808)入滅しました。
入定窟は、南房総市指定文化財です。中には石造武人像などが安置され、昔は清正公ヤグラと呼ばれていたといいます。

その後、ひょうたん淵地蔵の前を通り春光寺へ
ひょうたん淵地蔵

日本全国の廻国巡礼をしていた河内国蚊谷振郷(大阪府八尾市)の安蔵という人の廻国供養塔です。巡礼の途中、ここの瓢箪淵に落ちて死んでしまったと伝えられています。嘉永5年(1852)のものです。
この道は、加茂坂を越える旧道で、幕末の馬頭観音も並んでいます。岩肌には穴があり、昭和30年代ごろまで牛をつないでいたものだそうです。

春光寺です。

曹洞宗の寺院で、北条藩主の初代屋代忠正が室の昌泉院の供養のために承応3年(1654)に建てたと言われていますが、中世の宝篋印塔が数基分ありますので、それ以前からあった寺のようだと思われます。屋代家三代(忠正・忠興・忠位)の菩提を弔っています。

春光寺の裏山の明星山が戦国時代の城跡と伝えられ、鎌倉時代の多々良庄(富浦町)のご家人多々良氏の子孫である薦野氏の居城とされています。戦国時代、薦野神五郎時盛の娘が里見義弘の側室となって頼俊を生み、頼俊は薦野家を継いで、慶長年間は里見一門として、竹原を中心に2500石を知行しました。明星山城は内房と外房をつなぐ道を管理する役割があったと考えられています。

相賀地蔵堂前を通り、いよいよ旧加茂坂へとはいっていきます。
途中には、トーチカが残されています。

浅間山トーチカ


大峯山トーチカと横穴

この辺は加茂坂陣地といわれています。通称「旗立山」の三角点の下に昭和19年本土決戦にむけて、千倉白子海岸、館山鏡ケ浦よりの米軍上陸に備えて、陸軍東京湾兵団の地下陣地が始まりました。監視所や作戦室、垂直壕を備えた地下壕は、迷路のような通路で結ばれていて、入口も爆風除けの小山で隠されています。
トーチカはロシア語で、鉄筋コンクリート製の防御陣地を示す軍事用語です。

旧加茂坂を抜けて、日運寺まで戻ります。

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