皆さま、ご無沙汰しております。なんとかこの夏の猛暑を過ごす事ができました。
夏の間は、ウミホタル観察会を開催しておりまして、9月に入り、なんだかバタバタと忙しい
日々をありがたいことに送らせていただきまして、10月に入ってしまいましたが、9月11日
に行いましたお散歩ツアーの報告をします。
お散歩ツアー「民宿の町・岩井を散策」の報告をします。
集合場所は、道の駅富楽里。ここからスタートです。
スタート地点から少し歩くと恩田原古墳があった場所になります。
今は田んぼとなっていますが、5世紀後半のものと推定されています。安房地域でも、古墳時代
中期になると、本格的な古墳文化が始まります。安房地域では、前方後円墳で埴輪を持った古墳が、
2ヶ所確認されていて、ここ恩田原古墳と旧丸山町にある永野台古墳です。
大正7年(1918)の鉄道開通時の工事によって、学術調査を待たずに破壊されてしまいました。
墳形・内部主体・副葬品などの基本的な記録は残っていなく、人物埴輪や円筒埴輪の破片のみが散乱
していたといいます。当時の遺物として確認できるのは、館山市立博物館に寄託された円筒埴輪の破
片及び南房総市が保管する人物埴輪の顔面の一部のみです。
次に向かったのは、戦争遺跡「久枝陸軍補給廠跡」です。
久枝陸軍補給廠は、本土決戦の様相が濃くなった昭和18年ころから、陸軍の補給廠の工事が開始さ
れました。広い水田だったところを、天満山・峰岸山の山肌を削り取り埋め、そこに軍用円形道路が
でき、山肌をコンクリートで巻いた貯油タンクが造られましいた。
下の写真は、貯油タンクの跡です。イメージ的には、大きな石油のタンクローリー車のタンク部分が
並んでいた感じだったそうです。
もう一つは、門柱があります。片面からも撮りたかったのですが、現在の政治的な宣伝ポスターがあった
ので撮る事を断念しました。
次は、ツアー名の「民宿の町」の心臓部に入って行きます。
漁師町でもある岩井の町は、やはり狭い道だったり、入り組んでいたりと初めてでは迷子になってしまい
そうな感じです。
細い路地を入ったところに、いぼとり地蔵が祀られています。
このいぼとり地蔵は、道に背を向けて祠が建てられています。正面には、大きな座ったいぼとり地蔵、その
周辺には、雨風に耐えたお地蔵様が合祀されています。
次に向かったのは天満神社。
祭神は藤原道真。元は、天神山(現天満山)の中腹に鎮座し、社殿12坪に藤原大神が祀られていました。
しかし、大平洋戦争中、この地域一帯に陸軍施設が造られ、立ち入ることが出来なくなり、そのため、軍
の命令により社殿は取り壊され、昭和18年、現在地に新社殿の造営工事が始まり、翌19年に完成、神
霊を移転奉納しました。旧社の創建は、約400年前の天正時代以前と考えられています。手水石は、安
政3年(1856)、狛犬は安政4年(1857)、石灯籠は天保14年で、旧社境内より移転してきたものです。
次は蓮台寺へ。
浄土宗金台寺末の寺院で、金乗山九品院蓮台寺といいます。本尊は、阿弥陀如来。永和年間(1375~1379)
南北朝の時代、到阿上人によって開創されました。
本堂前には、南房総市天然記念物の「蓮台寺の大いちょう」があります。夫婦いちょうと呼ばれ約
500年前に植えられたと伝わっています。
境内には、産科の名医で「産科発明」の著述者でもある奥澤軒中のお墓があります。
薬師堂は、昭和61年に新たに建立され、安房国四十八薬師如来の北口第九番札所になっています。
次に向かったのは、JR内房線の岩井駅近くにあります伏姫と八房の像を見学し、福聚陰へ。
福聚院は、曹洞宗の寺院で、慈眼山福聚院燿沢寺といいます。本尊は釈迦如来。
明和8年(1771)に火災により焼失、安永9年(1781)に再建しました。大正12年関東大震災では、
本堂が倒壊し、現在の本堂は、昭和38年に落成しました。
道路からでも目につくのが、山門です。山門は勝山藩酒井忠国の父忠朝が、寛文元年(1661)に市部村
に社式を構え隠居していました。忠朝の死後、酒井家より、屋敷の門が寄進されました。
山門の左手には、酒井氏が寺へ来る時用いた駕籠を置いた場所があります。山門・駕籠置きは、市の
文化財に指定されています。
本日最後の見学場所、もう1つの天満神社へ。
祭神は藤原道真。別当寺であった福聚院が、明和8年(1771)の火災によって焼失したため、天満
神社の創建・由緒等は、一説では不詳と伝えられていますが、寛文12年(1672)、勝山藩祖酒井
忠国が、若狭小浜藩の藩主の奥方の安産祈願をするために社殿を造営したものでとも言われています。
あとは、出発地の富楽里へと戻ります。
民宿の町岩井は、中に入ってみると面白い場所でした。是非みなさんも歩いて発見してみて下さい。