特別ツアー「大多喜城下町散策といすみ鉄道」報告

9月の終わりに特別歴史ツアー「大多喜城下町散策といすみ鉄道」を開催しまし。
この特別ツアーは、歴史の勉強会を兼ねて行っています。自分たちも違うエリアに行くと勉
強にもなりますし・・・

集合場所は、館山市の城山公園。里見氏の城から本多氏の城へと攻略しに向かいます。
高速を使い2時間弱で大多喜城駐車場に到着。

駐車場で少し、大多喜城の歴史を説明しました。
大多喜城は、大永元年(1521)真里谷氏の築いた小多喜城(小田喜城)が始まりと言われています。
小多喜城(小田喜城)の位置については諸説ありますが、大多喜城の西側の栗山に城の遺構が残
せれていますので、こちらが初代の城と考えれています。
真里谷氏は、甲斐武田10代「信満」の次男「信長」が、古河公方「足利成氏」の命で、上総に
進出し、房総武田の初代となります。房総武田3代「信興」のとき真里谷武田に改称。真里谷城
4代城主の「信勝」は実子が無く、弟の「信清」が真里谷城主を継ぎましたが、信勝に子が出来
たので城主を譲り、小多喜城(小田喜城)を築城して初代城主となりました。その後、2代「直
信」3代「朝信」となり、朝信の時代天文13年(1544)、里見氏の武将正木時茂に城を奪われ、
以後「時茂」「信茂」「憲時」の3代に渡って正木氏が支配されました。天正9年(1581)里見義
頼との内紛によって憲時が殺害されると、里見氏の代官が派遣されたといいます。天正18年
(1590)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与えられ、家
康の配下の本多忠勝が城主となり大多喜藩10万石が成立しました。忠勝は里見氏の北上を防止
するために工事を行い、3層4階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町の建設
を行いました。城主は、本多氏3代のあと、阿部・青山・稲垣氏へと引き継がれ、元禄16年
(1703)松平(大河内)正久となりました。松平氏は9代続き、廃藩置県を迎えました。

さて、いよいよ登城です。途中には、城の遺構が残されています。

このお城は、昭和50年に大多喜城本丸跡に、昔をしのんで城郭様式の千葉県立総南博物館として
建設し、平成18年からは千葉県立中央博物館の大多喜城分館となっています。

ここで、トラブルが発生しました。なんと、乗ってきたバスが故障してしまい、動かせなくなって
しまいました。昼食の場所で、バスは待機してもらう予定だったので、荷物を残して見学に行った
方もいらしゃいましたので、一旦、荷物を残した方は、駐車場に戻って来てもらいました。駐車場
に戻られたお客様は、別ルートでの見学となりました。

まずは、大井戸(県指定史跡)

大井戸のある場所は、県立大多喜高校のグランドの一隅にあります。本多忠勝が、天正18年(1590)、
徳川家康の命で大多喜城を築いた時に、生活に水は欠かせない。まして戦で籠城ともなると、水が生
死を分ける。そこで城内の二の丸に、日本一と呼ばれる大井戸を掘りました。雨の降らない夏でも、
満々と水をたたえ「底知らずの井戸」と呼ばれていました。深さは約20m、周囲17m。

大井戸の民話が残されています。
八代藩主松平正和の時、「あの大井戸は、底知らずの井戸だ。いくら水を汲んでも尽きることはない」
「いや、そんなバカなことがあるか。たくさん汲めば水はなくなるに決まってる」っと侍たちば言い
争いになったそうです。そこで、殿様に許しを得て井戸の水を汲み出すことにしました。
城下の力自慢五十人の人夫を集め、八個の滑車に十六個のつるべ桶で、水汲みが行われました。人夫
たちも言い合いになり、「底のない井戸なんてあるものか。昼頃には底が出てくるさ」「いや、底な
し井戸といわれてるらしい・・・」「こん井戸は夷隅川につながってるらしいぞ」「夷隅川どころか、
遠く太東岬の海につながっているんだって」「そんなばかなことがあるもんか」「いや、城が敵に囲
まれたら、大井戸に逃げ道が・・・」
陽が沈み暗くなり、それでも作業は続き、夜を徹して水を汲み出し、朝を迎えました。さすがに人夫
は、疲労の色は隠せなくなりました。「本当に底がないのかねぇ」「ばかな、あるに決まっている。
もう一日水を汲みだしてみよう」ということになりましたが、いくら汲み上げても底が見えない。二日
目の夜になっても底は見えてこない。やがて、空が明るくなり夜が明けました。井戸をのぞいてみると、
相変わらず満々と水をたたえています。「やっぱり、お城の井戸は底なしだ」みな、その場に長々と寝
そべってしまったそうです。

そんな民話の残る井戸を後に薬医門へ。(県指定史跡)

この門は大多喜城内建造物唯一の遺構です。本柱が中心により前方にあり、控柱を付けた薬医門形で、
天保13年の火災後に建築された二の丸御殿の門です。明治4年の廃藩の際に、城山水道の開鑿によ
り、功績のあった小高半左衛門に払い下げられましたが、大正15年、曽孫にあたる県立大多喜中学
校第一回卒業生小高達也氏により、同校の校門として寄贈されました。昭和40年代に始まる大多喜
高等学校新校舎建築の際に、いったん解体保存されていましたが、昭和48年、大中第26回卒業生
中村茂氏の復元設計により建造されたものです。

そこから、大多喜駅前にある観光センター(大多喜町観光本陣)へ。
観光協会さんにお願いしてありました、お弁当をこちらの会議室で食べます。
また旅倶楽部は、いつもお弁当を地元の方が作るお弁当をお願いしておりまして、今回も観光協会さ
んにご紹介いただき、美味しいお弁当を食べる事ができました。
残念ながら、バタバタしてしまい写真を撮るのを忘れていました。内容的には、太巻き寿司・稲荷す
し野菜の天ぷら、煮物、栗等、皆さんに大変喜んでいただけました。

昼食が終わると、ここから、大多喜のボランティアガイドさんにお願いしまして、2班に分かれて、
城下町を散策しました。

まずは、天然ガス記念館へ。

大多喜町は、この地方の天然ガス発祥の地と言われています。この天然ガスがいつごろ発見されたか
と言うと、諸説ありますので、実録によれば、大多喜町坂花(現大多喜町上原)で醤油醸造業を営ん
でいた山崎屋太田卯八郎氏(1843~1895)の掘削した水井戸の一つが、天然ガス発見の事例として残
されています。明治24年(1891)、屋敷内に水井戸を掘りましたが、真水は湧き出さず、なお追堀し
ても湧き出る水は、泡を含んだ茶褐色をした塩水のみで、遂に目当ての真水は得られませんでした。
これに気落ちし、他に良い案がないまま、口にしていたタバコの吸殻を何気なく水泡のなかに投げ捨
てたところ、水泡はたちまち青白い炎を上げて盛んに燃えだしました。その場に居合わせた人たちは
驚きの声を上げ、その様子を見守りました。天然ガスが湧きだしました。その後、色々と工夫をして
天然ガスを利用したのですが、後年、その子伊之太郎氏は井戸の様子を銅板に刻ませ「天下無比天然
水素瓦斯」と称して後世に伝えました。
大多喜地方で、民家井を掘るようになったのは、大正の初期ごろからで、昭和に入ってから、さく井
が一段と盛んになり、昭和4~5年(1929~1930)には井戸数40~50抗を数えました。動力等によ
らず自噴する天然ガスは、簡易な分離器を経て導かれ、家庭燃料や灯火に、ある者は精米・精麦の動
力用に、繭の乾燥用に利用しまいた。

建物の脇には、ガス燈があります。

日本では、明治27年頃からガスマントル利用したガス燈が現れましたが、その後、石油ランプや電球
普及により照明としてのガス燈は姿を消しました。しかし近年、レトロな雰囲気が好評で新設される動
きもあるそうです。有名なところでは、北海道の小樽運河がそうです。千葉県では、四街道のガス燈通
りが有名です。

こんなに詳しく書いていたら、なかなか進まないので、次からはサァーっと行きます。
次は、房総中央鉄道館の前を通り

(館内には鉄道のジオラマがあるそうです。)

渡辺家住宅(国指定重要文化財)へ。

この住宅は、嘉永2年(1894)に地元猿稲町の棟梁、佐治兵衛によって建造られた江戸時代末期の代表的
な商家造りです。寄棟棧瓦葺(創建時は茅葺)二階建で、正面入り口は縦格子戸を、表板戸には上下戸
をつけてあります。間取りは、店・茶の間・中の間・奥座敷となっていて、南に勝手の間・土間がありま
す。奥座敷には木口縁をめぐらせてあって、床の間などに重厚さが見られ、武家造り風付書院・竿縁天井
・箱階段・欄間の透かし彫りなど、各部に雅趣とすごれた技法が見られます。店構えや整った座敷など、
この時代の上層商家の規模が良く示された重要な建物です。
渡辺家は、大多喜藩の軍用金御用達をつとめた豪商でした。先代は、「開運!なんでも鑑定団」のレギュ
ラー鑑定士だった渡邉包夫さんでした。

次は、伊勢幸(国登録有形文化財)へ。

こちらは、現在は酒店になっていますが、昔は、質・古物商を営む商店でしたが、廃藩置県の折、廃城の
大手門部材を使って建築されました。松・杉・欅材をもとに木造二階建て七寸角の隅柱、八寸角の欅の大
黒柱に支えられ、外壁一階には、下見板張、二階には白漆喰、正面は格子造りとなっています。

次は、釜屋へ。

土蔵造りの商家で質屋・金物屋を営業していました。

隣の博美堂。

昔は、郵便局だったそうです。瓦に郵便局のマークが入っています。現在は、手づくり甲冑教室が開催さ
れています。

次は、商い資料館。

町並みの中心として、平成13年にオープンしたそうです。江戸~明治の資料が展示されています。

次は、豊乃鶴酒造(国登録有形文化財)へ。

豊乃鶴酒造は、1781年から1788年頃に操業し、明治時代に今の場所に移動しました。格子戸と
蔵造りの家屋など歴史的な面影を色濃く残していて、ドラマの撮影にも度々利用されているそうです。
庄屋造りの母屋や赤レンガの煙突、元精米所等は国の有形文化財に登録されています。
代表するお酒は「大多喜城」と「銭神」です。(観光協会で味見させてもらいましたが、銭神は辛口で
するっと飲めて切れがありました。)

次も国登録有形文化財の大屋旅館へ。

夷隅神社の参道脇にある門前宿です。江戸期から続く老舗旅館で、明治24年(1891)歌人・正岡
子規が学生時代、房総の旅に出た時に泊まったとも言われています。
建物は、明治18年(1885)頃の建築で、南北棟、木造二階建。瓦葺切妻屋根の平入で、正面2階
左右の戸袋に大きく屋号を漆喰で表しています。

次は、城主本多氏の菩提寺の良玄寺。

浄土宗の寺院で、山号は金澤山。本尊は阿弥陀三尊像です。
文禄4年(1595)、大多喜城主本多忠勝の開基、照誉了学の開山により創建されました。当初は、
忠勝の法号から良信寺といいましたが、子の忠朝の死後、忠朝の法号をとって現在の良玄寺と
なりました。
堂内には、本多忠勝の肖像画があります。甲冑を着て大きな鹿の角を付けた兜をかぶっている姿
の肖像画は、一度は見たことがあるかと思います。こちらのお寺の所蔵なんですが、今は、千葉
県立中央博物館大多喜城分館に保管されています。正式な名称は「紙本著色本多忠勝像」なんだ
そうです。関ヶ原の後、武勇が必要とされなくなってしまい、武将だった自分の姿を残そうと思
い甲冑を身に着けて肖像を書かせたそうです。

良玄寺の墓域の一番奥に、忠勝のお墓があります。

中央に忠勝、左が次男の忠朝、右が忠勝夫人です。
忠勝は、慶長15年(1610)10月18日、63歳で亡くなり、桑名の浄土寺に葬られますが、遺
言によって大多喜の良玄寺にも分骨されました。大阪夏の陣で戦死した忠朝も大阪一心寺に埋葬
され分骨し、この地に親子で眠っています。 

次は、夷隅神社へ。

祭神は、素戔嗚尊。創建については明らかではありませんが、社伝によると、長久2年(1041)の
再建後、さらに天正15年(1587)に里見氏の将、正木大膳亮(時堯)が再築したと伝えられてい
ます。その後、代々の大多喜城主に崇敬され加護されたとあります。
むかしから、牛頭天王宮と称し、明治の初めに夷灊(いしみ)神社と改号して村社となり、明治
12年には社格が郷社になりました。現在の建物は江戸時代末期のものと思われます。
地元では、縁結びにご利益があると言われています。

次は、大多喜小学校へ。

1997年に千葉県建築文化賞になった校舎です。

次は、大多喜町役場(中庁舎)へ。

1959年日本建築学会賞、2013年ユネスコアジア太平洋遺産商をもらっています。

出発地観光センターにて終了です。私の方のガイドさんは、説明も聞きやすく楽しく散策する事が
できました。因みに、ガイドさんは、車掌さんだったそうです。だから、言葉がはっきりしていて
聞きやすかったんだぁ~と思いました。もう1つのグループは、着物を着て案内してくれたそうで
す。途中、歌も歌ってくれたみたいです。大多喜町観光協会さん、ボランティアガイドの方、あり
がとうございました。

さて、いよいよいすみ鉄道に乗車です。
いすみ鉄道は、昭和63年(1988)3月にJR東日本木原線から第三セクターとして引き継がれまし
た。赤字経営が続き、2007年に行われた、いすみ鉄道再生会議で、2009年度の決算で収支
の改善が見込めない場合は廃止を前提に代替交通を検討することになりました。2009年に、社
長公募で選ばれた鳥塚氏により、いすみ鉄道は、増便・駅の命名権(ネーミングライツ)売却・新
駅開設などの経営立て直しが行われ、経営状態の回復が認められ、2010年にいすみ鉄道線の存
続が決定しました。ムーミン電車も経営状況回復の一つなんですね。

いよいよ乗車です。ムーミン電車に乗る事ができました。

こちらの運転手さんも、いい人で、少し案内もしてくれました。

一両の電車は、田んぼの中を走っていきます。館山ものどかですが、いすみ市はもっとのどか
なような気がします。

途中、ムーミンの住む谷?を通ります。運転手さんの計らいで、徐行してくれました。
たぶん、観光客が多かったからと、私が電車に乗る前にムーミンが居るところを聞いたからかな?
なんて思ってます。

ムーミンが住む谷?も、イノシシの被害が出ているそうで、周りはイノシシにやられていました。
(乗る前、運転手さんが教えてくれました。)
ムーミンにも傷がついてるみたいで、倒されていました。

さぁ~いすみ鉄道の旅を楽しんで、大原駅に到着です。バスは、別のバスが来てくれていて、
無事に館山へと向かい城山へと到着しました。
今回は、アクシデントがありましたが、時間通りで終わる事ができました。

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