お散歩ツアー「那古山へ旧登山道を歩く」報告

段々と寒くなってきました。今年は、台風の塩害でイチョウの木の葉が枯れ落ちてしまって
いる神社仏閣が多いですね。今回のコースでお伺いした那古寺のイチョウの葉も枯れてしま
っていました。今年は、あまり紅葉が楽しめないですね。

お散歩ツアー「那古山へ旧登山道を歩く」を開催しましたので報告します。
集合時間頃は、雨がポツポツ降ったりしていましたが、出発時間には無事に雨が上がりまし
た。まずは、安房の古刹・那古寺へ。

こちらは本坊です。皆さんいつも観音堂の方にすぐいかれてしまうので、今回はこちらから。
真言宗智山派の寺院で、本尊は千手観世音菩薩像。創建は養老元年(717)、元正天皇の病気
平癒に、行基が海中より得た香木で千手観音菩薩像を刻み祈願したところ、たちどころに病
気が治り、その報謝で建てられたと伝えられています。以来、源頼朝をはじめ足利尊氏、里
見義実、徳川氏らの武士の信仰を集め栄えました。
坂東三十三観音霊場札所の結願寺です。江戸時代に元禄大地震で倒壊しましたが、安房全域
に及び万人講勧進により再建されました。

坂道をあがり、観音堂へ。

手前は、多宝塔です。江戸時代の宝暦11年(1761)に、那古の伊勢屋甚右衛門が願主となり、
地元の大工たちが再建しました。内部には、大日如来を安置しています。
2枚目は、観音堂です。宝暦8年(1758)に再建されました。那古寺の本堂にあたり県指定文
化財の建物です。入口に掲げられた「円通閣」の額は、江戸時代末の幕府老中松平定信の書
によるものです。堂内には、本尊の木造千手観音立像(館山市指定有形文化財)を安置してい
ます。鎌倉末期作の銅造千手観音立像は、国の重要文化財に指定されています。
観音堂は、館山湾を見渡す那古山の中腹に建ち、海上保安・航海の安全を祈る対象としても
信仰されました。

次は、観音堂前から、階段を下りて閼伽井へ。

閼伽井は、仏様にお供えする浄水をあかといい、その井戸を閼伽井とよんでいます。
観音堂が再建された時に、伊勢屋甚右衛門が伊豆石を運び、井戸に石組をして宝暦11年(17
61)つるべで水を汲み観音堂へ奉納しました。水神の弁天様が祀られ、安房路を巡る旅人は、
この霊水で渇きをいやし、喉を潤したそうです。なかには、遠方からこの霊験あらたかな万
病に効くと閼伽井の水を汲みに参詣したそうです。
閼伽井の下の地域を赤井下といい、那古寺本坊前の地域を寺町といい、二つ合わせて寺赤町内
会になったそうです。

次は、金比羅神社へと向かいますが、旧道をとおって向かいます。この道は、地域の里山古道
野会が整備している道です。
古道の入口には、鳥居があります。

登っていくと、石柱の門のようなものがあります。

ここはなんだったのか?わかりませんでした。
少し行くと防空壕があります。

すごく狭い場所でした。

金比羅様へは、もう少し古道を歩きます。途中、トンネルらしきものがあります。

この狭いトンネルを抜けると金比羅様へと抜けられます。
出口は、扉があります。写真は、金比羅様の境内から撮ったものです。

金比羅神社です。

祭神は大物主神。四国の漁師が、江戸時代の地元の人と協力して海の見えるこの場所に建てた
ものです。航海の安全を司る神です。
建物の入口にある丸金マークはとても印象的です。某携帯会社の金太郎を思い出してしまいま
した(笑)

次に向かったのは里程標へ。

明治26年(1893)の里程標です。東京や千葉県庁、佐倉などへの距離が刻まれています。当時、
町・村ごとに建てられたもので、これは船形町が建てたものです。

また、那古山へと入って行きます。次は等覚院跡へ向かいます。

那古寺への古い山道沿いにあったとされる、修験寺院の跡です。安永4年(1775)に川名地区の
行者秀善が四国八十八ヶ所巡礼した供養塔や、年代の異なる3基の庚申塔、安政4年(1857)・
慶應2年(1866)の馬頭観音像、明治42年(1909)の牛頭観音、明治6年(1873)の牛供養塔、
その他出羽三山碑などが残されています。

古道を通り潮音台へ。途中、富士山講祠があります。

富士講とは、富士を霊山として登拝する信仰組織です。江戸時代半ばに、江戸とその周辺農
村部に組織化されました。伝説上の富士講の開祖は、長谷川角行といい、富士の人穴で修行
した修験の一人だったそうです。江戸中期に食行身禄(じきぎょうみろく)、村上光清が布
教し、浅間信仰と結び、江戸で多く発展しました。
こちらには、山に三のマークから山三講が祀ったものだと思います。
今は、樹々に覆われていますが、木々がなければここからは富士山を拝む事ができると思い
ます。

いよいよ潮音台へ。ここからの景色は、こんな感じです。天気が良ければ最高です。

こちらの潮音台にも富士講祠があります。

こちらも山三講の祠です。

もう一つ和泉式部供養塚があります。

平安時代の歌人和泉式部の墓と言われています。こうした伝説の地は全国各地にありますが、
明治32年頃、ここで病気が治ったという噂が広がり、大勢の参詣者が来るようになったそ
うです。隣には、娘の小式部内侍の供養塔もあります。
和泉式部・紫式部って学校で習ったことはありますが、今になって和泉式部ってどんな人?
って思ったので調べてみました。
百人一首56番の「あらざらむ この世のほかの 思ひでに 今ひとたびの 逢ふこともがな」
で有名な人で、生まれは、貞元1年(976)頃、亡くなったのは長元9年(1036)頃とはっきりし
ていません。平安時代の女流歌人で、20歳前後で和泉守橘道貞と結婚し和泉国へ行き、小式
部内侍を出産しましたが、京に戻った頃、離婚しました。理由は、冷泉天皇皇子為尊親王と関
係したとかしないとか・・
長保4年(1002)為尊親王と死別、翌年夏頃からその弟敦道親王と関係が生まれた。正室だった
藤原氏の姫が家出し、後妻に居座りました。その3年後には、男の子が生まれました。寛弘4年
(1007)敦道親王とも死別し、同6年頃一条天皇中宮彰子に再出仕しました。紫式部も、彰子に仕
えていました。その後、藤原保昌と再婚し、万寿2年(1025)小式部内侍が子を産むと同時に亡く
なってしまいました。その後は、仏教に帰依したようですが、亡くなった場所についてはいくつ
かの説があり、北は岩手県から南は佐賀県まで、和泉式部のお墓であるとされるものや、地名に
彼女の名がそのまま残っている場所が多く存在しています。
作品には、「恋」というテーマの歌が多くあります。和泉式部の特徴は「恋にまつわる話が多い」
そうです。今の時代みたいに、電話で話をしたりとできなかった時代なので、文という形で、歌
を詠み男性に送っていたので、歌を情熱的に詠む女性は、モテモテだったんでしょうね。
そんな女性が和泉式部だったんですね。

潮音台から少し下り、三又を観音堂に向かって少し降りると少し広く平坦になっている場所があ
ります。

ここは古屋敷とよばれるところで、元禄16年(1703)の大地震まで、那古寺の本堂があったとこ
ろだといわれています。奥の方に紫式部の供養塔がひっそりとあります。

次は、飯縄権現の前を通り、七曲がりで下っていきます。

七つ曲がっているので七曲がりなんだそうです。
あとは、舗装された道を通り、集合場所の那古公民館へと向かいます。
里山古道野会の皆さんが案内看板を付けたり、整備されていて、とても歩きやすかったです。
スタート時は、傘を持って出発しましたが、傘を使う事がなく終了しました。 

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