月一ツアー「岩糸・戦国武将の栄枯盛衰をたどる」報告

なんだか色々な事がありすぎて、独り言を書くのを後回しにしてしまう今日この
頃です。歩いた内容を忘れてしまいそうです。

10月の月イチツアー「岩糸・戦国武将の栄枯盛衰をたどる」を開催しましたので、
報告します。
今回は、南房総市丸山エリアを散策します。この丸山エリアは、大和王権の軍事部
族「丸子連」の子孫「丸氏」が開いた場所になります。当日は、雨が降ったり止ん
だりとあいにくの天気でした。

集合場所は、南房総市丸山分庁舎。ここから出発です。
まず最初に、貴船神社へ。

祭神はたかおかみのかみ。創建の詳細は不明ですが、社伝による明徳元年(1390)再
興され、延享3年(1746)に社殿の修築をしました。また、安政5年(1858)松平肥後
守の家臣石岡喜右衛門代官在任中、拝殿ならびに廻廊を修復したとあります。大正
元年にも、社殿を改築。大正3年に岩井糸第六天にあった第六社、同西谷頭の熊野
神社、同池下の稲荷神社、同天神前の天神社の4社を合祀。大正12年の関東大震
災により社殿が倒壊し、昭和初年に再建されました。

次に向かったのは、青龍寺。

真言宗智山派の寺院で山号は新田山。本尊は不動明王です。
寺伝によると、延元3年(1338)仁慶法印の開基。一時は荒廃しましたが、中興伝
青和尚が再興し、明治41年堂宇を改築しましたが、大正12年の関東大震災で
すべて倒壊してしまいました。大正15年に千倉町の円蔵院の客殿を譲り受け再
建しました。
別の文章によれば、新田義貞公の同族小宮某なる者が、主人義貞公の菩提を弔う
ため一寺を建立し、新田山青龍寺と号し、延元3年(1338)仁慶法印を迎え開山
したとあります。
新田義貞は、南北朝時代の武将で、上野国(群馬県)新田荘を本拠とする豪族
で、後に鎌倉に攻め入り北条氏を滅ぼしました。建武政権下で功により、武者
所の頭人職になりますが、将軍足利尊氏との不和が表面化し、暦応元年(1338)
藤島(福井県)の戦いで敗死したため、追善供養のため青龍寺を建立したと言
われています。

次は、円照寺へ。

円照寺山と呼ばれる小高い山には、和田一門の墓地が築かれています。山裾を流
れる温石川(おんじゃくがわ)を挟んだ土地が、和田ヶ崎と呼ばれ和田の家が集
落をなしています。

次は、大聖寺へ。

真言宗智山派の寺院。創建は不詳ですが、和田助右衛門の開創と伝わっています。
暦応3年(1340)、悦翁闇和尚が再興し、享保6年(1721)に四国の行者・松岸道寿
が供養仏を勧請しました。年代は明らかではありませんが、安政年間に十一面観音
堂が、松平肥後守の家臣より寄進されました。この十一面観音の胎内仏は、和田義
盛が戦場に挑むとき、護身仏として2寸の金像観音と言われています。
和田義盛は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人です。初代侍
所別当。三浦氏の一族で、源頼朝の挙兵に参加し、鎌倉の頼朝の初期武家政権がつ
くられると、初代侍所別当になりました。頼朝の時代には、功績を残しましたが、
2代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦う
が敗死し、和田一族も滅亡しました(和田合戦)。

次は、丸岩糸殿本拠地と言われている西原長谷へ。
丸岩糸殿平朝臣豊常をその子、時綱が本拠としたのは、西原の長谷で、岩糸殿・長
谷殿と呼ばれ、館があったといいます。

次は、西原神社へ。

祭神は大山祗命・住吉大神。西原の鎮守で、創建は不詳です。江戸初期、正保年間
(1644~1648)西郷若狭守の知行地の時、神田を除地され、享保年間(1716~1736)
旗本、小笠原石見守の時代まで、名主管理の山神社でした。大正3年(1914)、西原
神社と改め、村社住吉神社を合祀しました。

次は、住吉神社の跡を見て、慈眼寺へ。

天台宗の寺院、長谷山(はがやつさん)普明院慈眼寺と号します。本尊は、館山市
の笠名のお堂にあった虚空蔵菩薩で、行基菩薩作といわれています。創立は不詳。
天文21年(1552)、室町戦国時代に大阿闍梨・宗聚法印の中興。もとは、丸本郷十
王台にあり、西原字長谷に移り、現在地に移りました。中興開山の時、当地主旦那
丸修理亮平種が、鰐口を寄進しました。江戸中期の安永2年(1773)には、この地を
知行していた小笠原上総介の家臣・加瀬七朗右衛門が半鐘を寄進しました。

境内には、安房の俳人井上杉長の門弟「素兆」句碑があります。

今回は、堂内で、素兆のお話しをしてもらいました。

今回お話しして頂いた方は、元丸山町長の福原さん、 この場を作っていただいた加
瀬さんありがとうございます。

昼食を取り、次に向かったのは、鰻塚。
写真が・・・ない。撮り忘れていました。残念。
この鰻塚は、民話にもなっているのでご紹介します。
「皆倉堰の大鰻」
旧豊田村岩糸の久麦に、丸氏本家と呼ぶ屋敷跡があります。丸氏本家とは、今絶えて
しまっていますが、鎌倉時代以来の名門でしたから、江戸時代の頃は代々名主だった
のです。ある年の暑い夏の日でした。その名主が、珠師ヶ谷の皆倉の堰に釣りに行き、
足を浸して休んでいますと、小さな鰻が出てきて足をなめ始めたのです。
「アッハハ。こんな小さい鰻じゃ、捕まえて食べるわけにもいかないし、どうしよう
もないな。」と名主が馬鹿にして笑いますと、なんと不思議なことに、その鰻が見る
見る大きくなって、化け物のような大鰻になり、名主を丸呑みにしようとしたのです。
名主はびっくり仰天、腰の脇差を抜くと、夢中で大鰻を切り殺しましたが、恐ろしさ
のあまり、暫く震えが止まりませんでした。どうにか名主は、無事家に帰ることがで
きましたが・・・・時が経ちますと、いくら自分の身を守るためだとはいえ、殺した
大鰻の祟りがあるのではと心配になり、屋敷の中へ鰻塚を祀ると、大鰻の供養をした
そうです。そのときの鰻塚は、今も久麦の丸氏本家の屋敷跡に残っています。
(南房総市の昔話より)

今は、分家の方が守っています。今回は、分家の方にお断りして見学させてもらいました。

さぁ~ここから、スタート地点へと戻ります。昼食を取ったころから雨があがり、
無事にたどり着く事ができました。

駐車場を快く貸してもらった南房総市さん、慈眼寺の檀家さん元町長さん、鰻塚の丸さん
ありがとうございました。

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