月イチツアー「古東海道と伊予ヶ岳伝説」報告

平成30年も残すところ1ヶ月を切りました。今年は、冬の訪れが遅いような気がしていましたが、ここの所寒い日が続いています。
先日、都内から来られたお客様とお話ししたのですが、私「今日の朝は、寒かったですね。」お客様「そんな寒くなかったわよ。」と答えが返ってきました。やっぱり館山・南房総市は暖かいのだなぁ~と感じた1日でした。

さて、11月の月イチツアー「古東海道と伊予ヶ岳伝説」を開催いたしましたので、報告します。
開催日の数日前は、雨の予報が出てて心配しましたが、天気も回復し、絶好のウォーキング日和になりました。出発は、南房総市の平久里地域にある天神社からです。

まず向かったのは、金比羅大権現(写真左)・伊豫大明神(写真右)へ。

伊豫大明神の創建は不詳ですが、伊豫ヶ嶽をご神体として「伊豫大明神」と尊称し山麓に祀ったのが始まりと言われています。阿波忌部の伊豫の人々が移住したとき、故郷の伊豫高峯(石鎚山)にそっくりな山容に、故郷を偲び伊豫ヶ嶽と名付け、天狗伝説と共に伝わり、後に現在地に移転します。明治37年以降、諏訪神社に呼称を変更しています。
金比羅大権現の社号額の裏書に、文政7年(1824)甲申五月とあります。

昔話「伊予ヶ岳の天狗」の話を・・・
昔むかし、平群の伊予ヶ岳に天狗が棲んでいしました。天狗は神通力で人里に舞い降り、農家の納屋に置いてある米や、畑の野菜を盗む悪い奴でしたが、しかし村人たちは、その天狗の祟りが怖いので我慢していたのです。天狗はそれをよいことに、ある夜、山の麓のある家に、とんでもない要求を書いた紙きれを投げ込んだのです。
「今月の満月の夜、村で一番きれいな娘を伊予ヶ岳の下の天神社に連れてこい。もし断るならば、儂(わし)の団扇で大風を起し、村中を吹っ飛ばすぞ。伊予ヶ岳の天狗より」
家の主は、びっくりして名主に知らせました。名主は、村一番の知恵者でしたから、「天狗が団扇でくるなら、こちらも団扇で懲らしめてやるべぇ」と言い、天狗の物より三倍の大団扇を作ると、伊予ヶ岳に登り、天狗に見せびらかしました。それを見た天狗は、名主の大団扇が欲しくなり、自分の物と取り替えたのです。間もなくですが、得意になって大団扇を扇いでいた天狗が、山の天辺から舞い降りますと、何と真っ逆さまに落ち、大怪我をしてしまったのです。天狗は団扇を人間の作ったものと替えたため、神通力を失っていたのです。
(南房総市の昔話より)

ここから、坂道をを登って正壽院へ向かう途中、この地域に住んでいるお客様から、旧道に六地蔵があるよと教えていただいき、ちょっと旧道に寄り道。

正壽院の近くからは、伊予ヶ岳がこんな感じで見えます。

正壽院です。

真言宗の寺院で、経瑩山住正壽院住吉寺といいます。本尊は、地蔵菩薩。寺に伝わる縁起では、延喜21年(921)小松寺の七堂伽籃落慶法要の時に安房の国司小松民部正壽の子「千代若丸」がさらわれ、後日、家臣が伊予ヶ岳山中で遺骸を見つけ、法華経1000部の書写を納め墓を作り、小堂を建て、釈迦如来・弥勒菩薩・薬師如来・虚空蔵菩薩・不動明王の五尊を配し、延喜22年(922)に小松民部正壽が開基となりました。幾度か焼失しましたが、諸尊は損傷無く、南の麓に下り、原の十王堂に安置されました。
今回は、たまたまご住職が来られ、本堂をあけていただきました。

境内には、千代若丸の供養のために建てられた観音堂と法華経一千部が納められた供養とと子安地蔵堂があります。

もう一つの昔話「天狗の人さらい」をご紹介します。
伊予ヶ岳には、大昔から天狗が棲み、ときどき世間を騒がすような恐ろしい事をしでかしたそうです。延喜21年(921)2月の話です。朝夷(現千倉)の小松寺で再興した大檀那の安房守小松民部正壽が、七堂伽籃の落成の日、子の千代若丸に、祝いの稚児舞を舞わせていますと、その最中に、伊予ヶ岳の天狗が、突然、襲いかかり、千代若丸を抱き上げると空高く舞い上がり、棲処の伊予ヶ岳に飛び帰ってしまったのです。小松寺に集まっていた大勢に人は、皆驚き大騒ぎになりましたが、相手が神通力を持った天狗ですから、どうすることもできなかったようです。今の小松寺の方でも、そのときの出来事を小松寺七不思議の一つ「乙王の滝」の中で「延喜20年8月8日、本寺七堂伽籃ができ、翌年、坊舎の建築すべてが終わったので2月15日、普請成就の祝いとして当国の国司、安房守小松民部正壽の子息、千代若丸をさらって飛び去り、平久里の郷に捨てたという。千代若丸の従僕、乙王丸はその惨劇に驚き、どうする事もできず、近くの滝壷に身を投じた・・・」と語り継いでいます。(南房総市の昔話より)

ここまで、ずっと登り坂でしたが、ここから下りに入ります。正壽院の近くにある、御嶽信仰の碑へ。

この石碑は、数年前、正壽院の役員さんが、寺の周辺の掃除をしていた時に見つけたそうです。当時は、石碑は倒れ、土に埋もれていたそうです。修復作業の参加者を募りましたが、なかなか集まらず、やっと修復する事ができたそうです。
石碑は、山岳信仰を中心とする神道教団「御嶽教」のものです。高さは1mほどでひし形。明治21年11月に建立したとされています。下には、「太陽講」と彫られています。地元の方の話によると、戦前までは、年に一度、のぼり旗を立ててオコモリをしていたそうで、講元となっていた住民の家が火災で、のぼり旗などが失われてしまったそうで、詳しい資料は残されていましそうです。

少し下ると、視界が開けてきます。目の前には、「富山」が見えています。下見の際に会った人は、「富山登って、いまから伊予ヶ岳登ってきます」と言っていました。少し早いですが、この景色の良いところで昼食です。

昼食のあとは、下見で見つけた、熊野堂へ(おくまんさま)。

創建等については不詳ですが、地元の方がいまでもお供えしているそうです。参道は、竹に囲まれいい感じの道で、綺麗に手入れされていて歩きやす道でした。

次は、八雲神社を目指し、山を下って行きますが、途中、ここも旧道だったところを見つけたので、コンクリートの道からはずれ、通っていきます。その道の途中には、馬頭観音観音がひっそりとありました。
その道をでると、林道になります。車も通らず楽しく歩ける道で、林道を抜けると八雲神社に辿り着きます。

八雲神社は、旧称は牛頭天王宮。創建は棟札に安永2年(1733)とあります。明治初年に八雲神社に改称しました。

次に向かったのは、原の十王堂です。

平群二十一大師霊場二番にあたります。ご詠歌は「諸人の 苦役はらうか 大師尊 原の緑に 晴るる月影」。
堂内の諸像は、正壽院が火災に見舞われた時に避難して安置した諸仏です。十王のうち、二体は盗難に遭ってなくなっています。今は地蔵堂とも呼ばれ境内には、六地蔵やお地蔵さんが祀られています。

今回の見学場所は、ここまでです。あとは、出発地の天神社へと戻ります。

平久里地域には、天狗の昔話がまだ残されています。最後にもう1つ「天狗の仕事」をお話ししましょう。
房州平久里に伊予ヶ岳は、昔から天狗の集まる場所でした。ある夜、天狗たちは頂上の座敷岩に座って、麓の村の灯を眺めながら会議を始めました。先ずは長老の天狗が、「この山は儂(わし)たちの寄り合いに、たいへん都合の良い場所だが、雨風の時は困るので、この岩の下に部屋を造ろうと思うが、みんな賛成してくれぬか。」と話しを切り出しました。大勢の天狗たちは拍手して、「良いところに気が付かれた。儂たちの力なら、たやすく出来上がると思うので、急ぐ事にしよう。」と天狗たちは、自分の棲処まで道具を取りに行く事を決めました。そして天狗たちは羽音高く空へ舞い上がりました。一人残った長老の天狗が、長い髭をしごきながら夜空を見つめていると、出発してまだ間もないのに、もう帰ってくる天狗の姿が、白い星のように見えました。
天狗たちが蝶のように舞いながら、大きな鑿(のみ)を岩に打ち込むと、その度に小さく砕けた岩が流星のように光って散りました。
丁度その頃、麓の村の甚兵衛としう早起きの百姓が、囲炉裏に火を燃やすと、土間で縄をなう稲わらを、とんとんと、打ち始めたのです。その音の響きは、静かな村里にこだまして、しだいに渦のように広がり、伊予ヶ岳へも伝わりました。天狗たちは聞き耳を立てて、顔を見合わせながら、「村に怪しい音がする。」と言いますと、地元の天狗が、「あれは、早起き甚兵衛の朝の音だ。」と言いました。天狗たちは、「しまった。夜が明けたか。残念だが終わりにしよう。村人共に儂たちの仕事を見られたくない。」と言い合って、各自の棲処へ飛び去りました。今でも伊予ヶ岳の頂上には、その時の名残の太い石柱が一本立っているという事です。

今回は3本、天狗にまつわる昔話を書きましたが、書いていて、天狗ってなに?って・・・天狗そのものが神様な鞍馬山の神社とか、猿田彦の化身だったりと、良い天狗がいるのに、昔話になると悪い天狗が出てくるの?って不思議に思い、ちょっと調べました。

鎌倉時代中期に書かれた「沙石集」(1283成立)(仏教説話集)に、天狗の分類の説明がのってます。
天狗というものは、本物の知恵がなく、執着心が強く、偏った考え方で驕り昂った人が天狗の仲間にされやすい。
悪い天狗は、傲慢で、偏屈で、仏法を信じない。良い行いを妨げ、煩悩にまみれ、驕り昂っている。
良い天狗は、仏道に志がある。知恵も徳もありながら、執着心はなく、人の行いを妨げたりしない。また、悪い天狗が悪事をはたらくのを制し、仏法を守る。

なるほど、人間と同じで、色々な天狗がいるのですね。
倶楽部の代表曰く「平久里の天狗は、少し抜けてるところがかわいい」と言っておりました。

12月の月イチツアー、1月の月イチツアーは、平久里地域になります。今年度は、平久里地域特集になっていますね(笑)来年度のコースもそろそろ考えないといけません。駐車場を考えると悩む~いいところがあったら教えて下さい。

お散歩ツアー「加茂川流域散策」報告

11月の中旬だというのに、暖かい日が多い館山・南房総です。紅葉は、台風の影響
で海岸に近い場所は、塩害で紅葉を楽しむ事はできませんが、少し中の方に行くと、
塩害の影響がなく、紅葉を楽しめるかと・・・でも、館山・南房総は、もう少し後で
はないかと・・・

11月のお散布ツアー「加茂川流域散策」の報告をします。
今回は、鴨川市田原地域を散策しに行きました。
スターとは、JAの斎場 虹のホール鴨川さんの駐車場をお借りしてスタートです。

最初に行った場所は、田原交差点の所にあります、道標へ。

この道標は、鴨川の石造物百選に選ばれた道標です。
年号は、はっきりと読み取れませんが、文政4年(1821)に造られて物だと思われます。
兜巾(ときん)型の道標で、正面の上部、舟形の龕(ずし)の中に如意輪観音が刻まれ、
下部には、「西大山道」と大山寺への道筋が示されています。右側面には「右いそむら
前はら道」、左側面は「左清すみ天津道」とあり、磯村・前原・清澄・天津の現在地名
が刻まれています。

長狭街道を渡り、川代エリアの須賀神社へと向かいます。

祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。通称は、天王様。創建・由緒は伝えられていま
せん。別当寺は、勝福寺が努めていました。旧号は、牛頭天王社と称しましたが、明治
2年(1869)9月に現号を改めました。川代地区の祭礼では、川代神楽が奉納され、須賀
神社と熊野神社で奉納されます。起源は、江戸時代初期と言われています。

次に向かったのは、熊野神社。

祭神は、速玉男命(はやたまのおのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・伊邪那
岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)・仁徳天皇など八柱の神が
祀られています。創建の年や由緒は明らかではありませんが、土地の人々が熊野三山(本
宮・新宮・那智)を中心に広まった熊野信仰を伝え、土地の「守り神」としたのだと考え
られます。川代の字名に熊野道があります。

こちらの龍の彫刻は、後藤福太郎橘義道の作です。

次は、お隣にある勝福寺へ。

真言宗智山派の寺院で、桂林山多門院勝福寺と称します。南房総市府中の宝珠院の末寺。
本尊は不動明王(はじめは阿弥陀如来)です。勝福寺は、房州真言宗の十本寺の一寺に数え
られ、門葉20か寺をもつ当地有数の寺院でした。江戸幕府から寺領20石を認められてい
ました。勝福寺に伝来する「由緒書」によると、創建の年は明らかではありませんが、厳海
(げんかい)という僧が阿弥陀如来を本尊として、川代の熊野道の地に建立したと伝えられ
ています。境内の毘沙門堂は、文明16年(1484)に完成し、その後、衰微した勝福寺を聖興
法印が永正2年(1505)に中興開山したといいます。天正年間(1573~1591)の初めには、安
房を支配した戦国大名里見氏の保護をうけ、大般若経六百巻と寺領20石の寄進をうけてい
ます。天正の中ごろ、度々の洪水によって境内地が崩され、本堂も流失したといいます。
そこで、慶長2年(1597)、宥長法印が里見氏の援助を得て、熊野権現屋敷跡(現宮ノ脇)に
本堂を建立したと伝えられています。宝暦2年(1752)には住職宥海法印が発願し、領主本多
正安の援助をもって毘沙門堂を再建しました。天保5年(1834)12月、火災によって本堂・
庫裡・土蔵・長屋門の四棟を失いました。住職憲勝法印は、さっそく再建に取り掛かり、多
くの人々の浄財を得て、天保7年に本堂・庫裡・長屋門を再建しました。このとき本尊を不
動明王に改めています。寛政元年ごろには、勝福寺祭礼には、市が立ち相当賑わいをみせて
いたようです。

区画整理された田んぼを見ながら、諏訪神社へ。

祭神は、建御名方神(たけみなかたのかみ)。創建等は不詳です。
本堂脇には、桜が咲いていました。

敷地内には大きな松の木があります。まつぼっくりも大きく、とげが出ています。葉も3本
で普通の松とはちがいます。テーダマツかスラッシュマツか私には、区別が難しいのですが、
日本古来のアカマツやクロマツとちょっと違います。

この松の葉は、まれに4本のがあり、少し探してみました。

次は、安房国札観音巡礼16番の石間寺(せきがんじ)へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は十一面観世音。
昔は、嶺岡山系の山の頂上にありましたが、火災で伽藍を焼失し、その後、観音台という所
に再興したといいます。江戸時代の元文年間にも火災があり、宝暦年間に再建されましたが、
さらに明治33年の火災で焼失すると、明治39年(1906)に、西福院と合併し小原寺(しょ
うげんじ)と改称し、翌年に再建したのが観音堂です。
小原寺は、真言宗に属し、本尊は不動明王(西福寺)と十一面観音菩薩(石間寺)。西福寺
の創建の年は不詳ですが、不動明王像は奈良時代の高僧・良弁僧正の作、十一面観音菩薩像
は弘法大師の作とする伝承があります。良弁僧正は、奈良時代の高僧の一人で、東大寺創建
の中心人物です。鴨川市平塚地区の大山寺の創建者とも伝えられています。
ご詠歌は「石のつま 峰よりおつる たきの水 むすぶこころは すずしかるらん」
観音堂の向拝の龍の彫刻は、後藤義光の弟子で国分の後藤義信です。

今回のウォーキングの見学場所はここまでです。あとは、出発地点へと戻ります。

今回駐車場を借りるのにご協力いただきました鴨川市田原公民館長さん、快くお貸しいただ
きましたJA斎場のみなさんありがとうございます。

月一ツアー「岩糸・戦国武将の栄枯盛衰をたどる」報告

なんだか色々な事がありすぎて、独り言を書くのを後回しにしてしまう今日この
頃です。歩いた内容を忘れてしまいそうです。

10月の月イチツアー「岩糸・戦国武将の栄枯盛衰をたどる」を開催しましたので、
報告します。
今回は、南房総市丸山エリアを散策します。この丸山エリアは、大和王権の軍事部
族「丸子連」の子孫「丸氏」が開いた場所になります。当日は、雨が降ったり止ん
だりとあいにくの天気でした。

集合場所は、南房総市丸山分庁舎。ここから出発です。
まず最初に、貴船神社へ。

祭神はたかおかみのかみ。創建の詳細は不明ですが、社伝による明徳元年(1390)再
興され、延享3年(1746)に社殿の修築をしました。また、安政5年(1858)松平肥後
守の家臣石岡喜右衛門代官在任中、拝殿ならびに廻廊を修復したとあります。大正
元年にも、社殿を改築。大正3年に岩井糸第六天にあった第六社、同西谷頭の熊野
神社、同池下の稲荷神社、同天神前の天神社の4社を合祀。大正12年の関東大震
災により社殿が倒壊し、昭和初年に再建されました。

次に向かったのは、青龍寺。

真言宗智山派の寺院で山号は新田山。本尊は不動明王です。
寺伝によると、延元3年(1338)仁慶法印の開基。一時は荒廃しましたが、中興伝
青和尚が再興し、明治41年堂宇を改築しましたが、大正12年の関東大震災で
すべて倒壊してしまいました。大正15年に千倉町の円蔵院の客殿を譲り受け再
建しました。
別の文章によれば、新田義貞公の同族小宮某なる者が、主人義貞公の菩提を弔う
ため一寺を建立し、新田山青龍寺と号し、延元3年(1338)仁慶法印を迎え開山
したとあります。
新田義貞は、南北朝時代の武将で、上野国(群馬県)新田荘を本拠とする豪族
で、後に鎌倉に攻め入り北条氏を滅ぼしました。建武政権下で功により、武者
所の頭人職になりますが、将軍足利尊氏との不和が表面化し、暦応元年(1338)
藤島(福井県)の戦いで敗死したため、追善供養のため青龍寺を建立したと言
われています。

次は、円照寺へ。

円照寺山と呼ばれる小高い山には、和田一門の墓地が築かれています。山裾を流
れる温石川(おんじゃくがわ)を挟んだ土地が、和田ヶ崎と呼ばれ和田の家が集
落をなしています。

次は、大聖寺へ。

真言宗智山派の寺院。創建は不詳ですが、和田助右衛門の開創と伝わっています。
暦応3年(1340)、悦翁闇和尚が再興し、享保6年(1721)に四国の行者・松岸道寿
が供養仏を勧請しました。年代は明らかではありませんが、安政年間に十一面観音
堂が、松平肥後守の家臣より寄進されました。この十一面観音の胎内仏は、和田義
盛が戦場に挑むとき、護身仏として2寸の金像観音と言われています。
和田義盛は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人です。初代侍
所別当。三浦氏の一族で、源頼朝の挙兵に参加し、鎌倉の頼朝の初期武家政権がつ
くられると、初代侍所別当になりました。頼朝の時代には、功績を残しましたが、
2代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦う
が敗死し、和田一族も滅亡しました(和田合戦)。

次は、丸岩糸殿本拠地と言われている西原長谷へ。
丸岩糸殿平朝臣豊常をその子、時綱が本拠としたのは、西原の長谷で、岩糸殿・長
谷殿と呼ばれ、館があったといいます。

次は、西原神社へ。

祭神は大山祗命・住吉大神。西原の鎮守で、創建は不詳です。江戸初期、正保年間
(1644~1648)西郷若狭守の知行地の時、神田を除地され、享保年間(1716~1736)
旗本、小笠原石見守の時代まで、名主管理の山神社でした。大正3年(1914)、西原
神社と改め、村社住吉神社を合祀しました。

次は、住吉神社の跡を見て、慈眼寺へ。

天台宗の寺院、長谷山(はがやつさん)普明院慈眼寺と号します。本尊は、館山市
の笠名のお堂にあった虚空蔵菩薩で、行基菩薩作といわれています。創立は不詳。
天文21年(1552)、室町戦国時代に大阿闍梨・宗聚法印の中興。もとは、丸本郷十
王台にあり、西原字長谷に移り、現在地に移りました。中興開山の時、当地主旦那
丸修理亮平種が、鰐口を寄進しました。江戸中期の安永2年(1773)には、この地を
知行していた小笠原上総介の家臣・加瀬七朗右衛門が半鐘を寄進しました。

境内には、安房の俳人井上杉長の門弟「素兆」句碑があります。

今回は、堂内で、素兆のお話しをしてもらいました。

今回お話しして頂いた方は、元丸山町長の福原さん、 この場を作っていただいた加
瀬さんありがとうございます。

昼食を取り、次に向かったのは、鰻塚。
写真が・・・ない。撮り忘れていました。残念。
この鰻塚は、民話にもなっているのでご紹介します。
「皆倉堰の大鰻」
旧豊田村岩糸の久麦に、丸氏本家と呼ぶ屋敷跡があります。丸氏本家とは、今絶えて
しまっていますが、鎌倉時代以来の名門でしたから、江戸時代の頃は代々名主だった
のです。ある年の暑い夏の日でした。その名主が、珠師ヶ谷の皆倉の堰に釣りに行き、
足を浸して休んでいますと、小さな鰻が出てきて足をなめ始めたのです。
「アッハハ。こんな小さい鰻じゃ、捕まえて食べるわけにもいかないし、どうしよう
もないな。」と名主が馬鹿にして笑いますと、なんと不思議なことに、その鰻が見る
見る大きくなって、化け物のような大鰻になり、名主を丸呑みにしようとしたのです。
名主はびっくり仰天、腰の脇差を抜くと、夢中で大鰻を切り殺しましたが、恐ろしさ
のあまり、暫く震えが止まりませんでした。どうにか名主は、無事家に帰ることがで
きましたが・・・・時が経ちますと、いくら自分の身を守るためだとはいえ、殺した
大鰻の祟りがあるのではと心配になり、屋敷の中へ鰻塚を祀ると、大鰻の供養をした
そうです。そのときの鰻塚は、今も久麦の丸氏本家の屋敷跡に残っています。
(南房総市の昔話より)

今は、分家の方が守っています。今回は、分家の方にお断りして見学させてもらいました。

さぁ~ここから、スタート地点へと戻ります。昼食を取ったころから雨があがり、
無事にたどり着く事ができました。

駐車場を快く貸してもらった南房総市さん、慈眼寺の檀家さん元町長さん、鰻塚の丸さん
ありがとうございました。

お散歩ツアー「那古山へ旧登山道を歩く」報告

段々と寒くなってきました。今年は、台風の塩害でイチョウの木の葉が枯れ落ちてしまって
いる神社仏閣が多いですね。今回のコースでお伺いした那古寺のイチョウの葉も枯れてしま
っていました。今年は、あまり紅葉が楽しめないですね。

お散歩ツアー「那古山へ旧登山道を歩く」を開催しましたので報告します。
集合時間頃は、雨がポツポツ降ったりしていましたが、出発時間には無事に雨が上がりまし
た。まずは、安房の古刹・那古寺へ。

こちらは本坊です。皆さんいつも観音堂の方にすぐいかれてしまうので、今回はこちらから。
真言宗智山派の寺院で、本尊は千手観世音菩薩像。創建は養老元年(717)、元正天皇の病気
平癒に、行基が海中より得た香木で千手観音菩薩像を刻み祈願したところ、たちどころに病
気が治り、その報謝で建てられたと伝えられています。以来、源頼朝をはじめ足利尊氏、里
見義実、徳川氏らの武士の信仰を集め栄えました。
坂東三十三観音霊場札所の結願寺です。江戸時代に元禄大地震で倒壊しましたが、安房全域
に及び万人講勧進により再建されました。

坂道をあがり、観音堂へ。

手前は、多宝塔です。江戸時代の宝暦11年(1761)に、那古の伊勢屋甚右衛門が願主となり、
地元の大工たちが再建しました。内部には、大日如来を安置しています。
2枚目は、観音堂です。宝暦8年(1758)に再建されました。那古寺の本堂にあたり県指定文
化財の建物です。入口に掲げられた「円通閣」の額は、江戸時代末の幕府老中松平定信の書
によるものです。堂内には、本尊の木造千手観音立像(館山市指定有形文化財)を安置してい
ます。鎌倉末期作の銅造千手観音立像は、国の重要文化財に指定されています。
観音堂は、館山湾を見渡す那古山の中腹に建ち、海上保安・航海の安全を祈る対象としても
信仰されました。

次は、観音堂前から、階段を下りて閼伽井へ。

閼伽井は、仏様にお供えする浄水をあかといい、その井戸を閼伽井とよんでいます。
観音堂が再建された時に、伊勢屋甚右衛門が伊豆石を運び、井戸に石組をして宝暦11年(17
61)つるべで水を汲み観音堂へ奉納しました。水神の弁天様が祀られ、安房路を巡る旅人は、
この霊水で渇きをいやし、喉を潤したそうです。なかには、遠方からこの霊験あらたかな万
病に効くと閼伽井の水を汲みに参詣したそうです。
閼伽井の下の地域を赤井下といい、那古寺本坊前の地域を寺町といい、二つ合わせて寺赤町内
会になったそうです。

次は、金比羅神社へと向かいますが、旧道をとおって向かいます。この道は、地域の里山古道
野会が整備している道です。
古道の入口には、鳥居があります。

登っていくと、石柱の門のようなものがあります。

ここはなんだったのか?わかりませんでした。
少し行くと防空壕があります。

すごく狭い場所でした。

金比羅様へは、もう少し古道を歩きます。途中、トンネルらしきものがあります。

この狭いトンネルを抜けると金比羅様へと抜けられます。
出口は、扉があります。写真は、金比羅様の境内から撮ったものです。

金比羅神社です。

祭神は大物主神。四国の漁師が、江戸時代の地元の人と協力して海の見えるこの場所に建てた
ものです。航海の安全を司る神です。
建物の入口にある丸金マークはとても印象的です。某携帯会社の金太郎を思い出してしまいま
した(笑)

次に向かったのは里程標へ。

明治26年(1893)の里程標です。東京や千葉県庁、佐倉などへの距離が刻まれています。当時、
町・村ごとに建てられたもので、これは船形町が建てたものです。

また、那古山へと入って行きます。次は等覚院跡へ向かいます。

那古寺への古い山道沿いにあったとされる、修験寺院の跡です。安永4年(1775)に川名地区の
行者秀善が四国八十八ヶ所巡礼した供養塔や、年代の異なる3基の庚申塔、安政4年(1857)・
慶應2年(1866)の馬頭観音像、明治42年(1909)の牛頭観音、明治6年(1873)の牛供養塔、
その他出羽三山碑などが残されています。

古道を通り潮音台へ。途中、富士山講祠があります。

富士講とは、富士を霊山として登拝する信仰組織です。江戸時代半ばに、江戸とその周辺農
村部に組織化されました。伝説上の富士講の開祖は、長谷川角行といい、富士の人穴で修行
した修験の一人だったそうです。江戸中期に食行身禄(じきぎょうみろく)、村上光清が布
教し、浅間信仰と結び、江戸で多く発展しました。
こちらには、山に三のマークから山三講が祀ったものだと思います。
今は、樹々に覆われていますが、木々がなければここからは富士山を拝む事ができると思い
ます。

いよいよ潮音台へ。ここからの景色は、こんな感じです。天気が良ければ最高です。

こちらの潮音台にも富士講祠があります。

こちらも山三講の祠です。

もう一つ和泉式部供養塚があります。

平安時代の歌人和泉式部の墓と言われています。こうした伝説の地は全国各地にありますが、
明治32年頃、ここで病気が治ったという噂が広がり、大勢の参詣者が来るようになったそ
うです。隣には、娘の小式部内侍の供養塔もあります。
和泉式部・紫式部って学校で習ったことはありますが、今になって和泉式部ってどんな人?
って思ったので調べてみました。
百人一首56番の「あらざらむ この世のほかの 思ひでに 今ひとたびの 逢ふこともがな」
で有名な人で、生まれは、貞元1年(976)頃、亡くなったのは長元9年(1036)頃とはっきりし
ていません。平安時代の女流歌人で、20歳前後で和泉守橘道貞と結婚し和泉国へ行き、小式
部内侍を出産しましたが、京に戻った頃、離婚しました。理由は、冷泉天皇皇子為尊親王と関
係したとかしないとか・・
長保4年(1002)為尊親王と死別、翌年夏頃からその弟敦道親王と関係が生まれた。正室だった
藤原氏の姫が家出し、後妻に居座りました。その3年後には、男の子が生まれました。寛弘4年
(1007)敦道親王とも死別し、同6年頃一条天皇中宮彰子に再出仕しました。紫式部も、彰子に仕
えていました。その後、藤原保昌と再婚し、万寿2年(1025)小式部内侍が子を産むと同時に亡く
なってしまいました。その後は、仏教に帰依したようですが、亡くなった場所についてはいくつ
かの説があり、北は岩手県から南は佐賀県まで、和泉式部のお墓であるとされるものや、地名に
彼女の名がそのまま残っている場所が多く存在しています。
作品には、「恋」というテーマの歌が多くあります。和泉式部の特徴は「恋にまつわる話が多い」
そうです。今の時代みたいに、電話で話をしたりとできなかった時代なので、文という形で、歌
を詠み男性に送っていたので、歌を情熱的に詠む女性は、モテモテだったんでしょうね。
そんな女性が和泉式部だったんですね。

潮音台から少し下り、三又を観音堂に向かって少し降りると少し広く平坦になっている場所があ
ります。

ここは古屋敷とよばれるところで、元禄16年(1703)の大地震まで、那古寺の本堂があったとこ
ろだといわれています。奥の方に紫式部の供養塔がひっそりとあります。

次は、飯縄権現の前を通り、七曲がりで下っていきます。

七つ曲がっているので七曲がりなんだそうです。
あとは、舗装された道を通り、集合場所の那古公民館へと向かいます。
里山古道野会の皆さんが案内看板を付けたり、整備されていて、とても歩きやすかったです。
スタート時は、傘を持って出発しましたが、傘を使う事がなく終了しました。 

特別ツアー「大多喜城下町散策といすみ鉄道」報告

9月の終わりに特別歴史ツアー「大多喜城下町散策といすみ鉄道」を開催しまし。
この特別ツアーは、歴史の勉強会を兼ねて行っています。自分たちも違うエリアに行くと勉
強にもなりますし・・・

集合場所は、館山市の城山公園。里見氏の城から本多氏の城へと攻略しに向かいます。
高速を使い2時間弱で大多喜城駐車場に到着。

駐車場で少し、大多喜城の歴史を説明しました。
大多喜城は、大永元年(1521)真里谷氏の築いた小多喜城(小田喜城)が始まりと言われています。
小多喜城(小田喜城)の位置については諸説ありますが、大多喜城の西側の栗山に城の遺構が残
せれていますので、こちらが初代の城と考えれています。
真里谷氏は、甲斐武田10代「信満」の次男「信長」が、古河公方「足利成氏」の命で、上総に
進出し、房総武田の初代となります。房総武田3代「信興」のとき真里谷武田に改称。真里谷城
4代城主の「信勝」は実子が無く、弟の「信清」が真里谷城主を継ぎましたが、信勝に子が出来
たので城主を譲り、小多喜城(小田喜城)を築城して初代城主となりました。その後、2代「直
信」3代「朝信」となり、朝信の時代天文13年(1544)、里見氏の武将正木時茂に城を奪われ、
以後「時茂」「信茂」「憲時」の3代に渡って正木氏が支配されました。天正9年(1581)里見義
頼との内紛によって憲時が殺害されると、里見氏の代官が派遣されたといいます。天正18年
(1590)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与えられ、家
康の配下の本多忠勝が城主となり大多喜藩10万石が成立しました。忠勝は里見氏の北上を防止
するために工事を行い、3層4階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町の建設
を行いました。城主は、本多氏3代のあと、阿部・青山・稲垣氏へと引き継がれ、元禄16年
(1703)松平(大河内)正久となりました。松平氏は9代続き、廃藩置県を迎えました。

さて、いよいよ登城です。途中には、城の遺構が残されています。

このお城は、昭和50年に大多喜城本丸跡に、昔をしのんで城郭様式の千葉県立総南博物館として
建設し、平成18年からは千葉県立中央博物館の大多喜城分館となっています。

ここで、トラブルが発生しました。なんと、乗ってきたバスが故障してしまい、動かせなくなって
しまいました。昼食の場所で、バスは待機してもらう予定だったので、荷物を残して見学に行った
方もいらしゃいましたので、一旦、荷物を残した方は、駐車場に戻って来てもらいました。駐車場
に戻られたお客様は、別ルートでの見学となりました。

まずは、大井戸(県指定史跡)

大井戸のある場所は、県立大多喜高校のグランドの一隅にあります。本多忠勝が、天正18年(1590)、
徳川家康の命で大多喜城を築いた時に、生活に水は欠かせない。まして戦で籠城ともなると、水が生
死を分ける。そこで城内の二の丸に、日本一と呼ばれる大井戸を掘りました。雨の降らない夏でも、
満々と水をたたえ「底知らずの井戸」と呼ばれていました。深さは約20m、周囲17m。

大井戸の民話が残されています。
八代藩主松平正和の時、「あの大井戸は、底知らずの井戸だ。いくら水を汲んでも尽きることはない」
「いや、そんなバカなことがあるか。たくさん汲めば水はなくなるに決まってる」っと侍たちば言い
争いになったそうです。そこで、殿様に許しを得て井戸の水を汲み出すことにしました。
城下の力自慢五十人の人夫を集め、八個の滑車に十六個のつるべ桶で、水汲みが行われました。人夫
たちも言い合いになり、「底のない井戸なんてあるものか。昼頃には底が出てくるさ」「いや、底な
し井戸といわれてるらしい・・・」「こん井戸は夷隅川につながってるらしいぞ」「夷隅川どころか、
遠く太東岬の海につながっているんだって」「そんなばかなことがあるもんか」「いや、城が敵に囲
まれたら、大井戸に逃げ道が・・・」
陽が沈み暗くなり、それでも作業は続き、夜を徹して水を汲み出し、朝を迎えました。さすがに人夫
は、疲労の色は隠せなくなりました。「本当に底がないのかねぇ」「ばかな、あるに決まっている。
もう一日水を汲みだしてみよう」ということになりましたが、いくら汲み上げても底が見えない。二日
目の夜になっても底は見えてこない。やがて、空が明るくなり夜が明けました。井戸をのぞいてみると、
相変わらず満々と水をたたえています。「やっぱり、お城の井戸は底なしだ」みな、その場に長々と寝
そべってしまったそうです。

そんな民話の残る井戸を後に薬医門へ。(県指定史跡)

この門は大多喜城内建造物唯一の遺構です。本柱が中心により前方にあり、控柱を付けた薬医門形で、
天保13年の火災後に建築された二の丸御殿の門です。明治4年の廃藩の際に、城山水道の開鑿によ
り、功績のあった小高半左衛門に払い下げられましたが、大正15年、曽孫にあたる県立大多喜中学
校第一回卒業生小高達也氏により、同校の校門として寄贈されました。昭和40年代に始まる大多喜
高等学校新校舎建築の際に、いったん解体保存されていましたが、昭和48年、大中第26回卒業生
中村茂氏の復元設計により建造されたものです。

そこから、大多喜駅前にある観光センター(大多喜町観光本陣)へ。
観光協会さんにお願いしてありました、お弁当をこちらの会議室で食べます。
また旅倶楽部は、いつもお弁当を地元の方が作るお弁当をお願いしておりまして、今回も観光協会さ
んにご紹介いただき、美味しいお弁当を食べる事ができました。
残念ながら、バタバタしてしまい写真を撮るのを忘れていました。内容的には、太巻き寿司・稲荷す
し野菜の天ぷら、煮物、栗等、皆さんに大変喜んでいただけました。

昼食が終わると、ここから、大多喜のボランティアガイドさんにお願いしまして、2班に分かれて、
城下町を散策しました。

まずは、天然ガス記念館へ。

大多喜町は、この地方の天然ガス発祥の地と言われています。この天然ガスがいつごろ発見されたか
と言うと、諸説ありますので、実録によれば、大多喜町坂花(現大多喜町上原)で醤油醸造業を営ん
でいた山崎屋太田卯八郎氏(1843~1895)の掘削した水井戸の一つが、天然ガス発見の事例として残
されています。明治24年(1891)、屋敷内に水井戸を掘りましたが、真水は湧き出さず、なお追堀し
ても湧き出る水は、泡を含んだ茶褐色をした塩水のみで、遂に目当ての真水は得られませんでした。
これに気落ちし、他に良い案がないまま、口にしていたタバコの吸殻を何気なく水泡のなかに投げ捨
てたところ、水泡はたちまち青白い炎を上げて盛んに燃えだしました。その場に居合わせた人たちは
驚きの声を上げ、その様子を見守りました。天然ガスが湧きだしました。その後、色々と工夫をして
天然ガスを利用したのですが、後年、その子伊之太郎氏は井戸の様子を銅板に刻ませ「天下無比天然
水素瓦斯」と称して後世に伝えました。
大多喜地方で、民家井を掘るようになったのは、大正の初期ごろからで、昭和に入ってから、さく井
が一段と盛んになり、昭和4~5年(1929~1930)には井戸数40~50抗を数えました。動力等によ
らず自噴する天然ガスは、簡易な分離器を経て導かれ、家庭燃料や灯火に、ある者は精米・精麦の動
力用に、繭の乾燥用に利用しまいた。

建物の脇には、ガス燈があります。

日本では、明治27年頃からガスマントル利用したガス燈が現れましたが、その後、石油ランプや電球
普及により照明としてのガス燈は姿を消しました。しかし近年、レトロな雰囲気が好評で新設される動
きもあるそうです。有名なところでは、北海道の小樽運河がそうです。千葉県では、四街道のガス燈通
りが有名です。

こんなに詳しく書いていたら、なかなか進まないので、次からはサァーっと行きます。
次は、房総中央鉄道館の前を通り

(館内には鉄道のジオラマがあるそうです。)

渡辺家住宅(国指定重要文化財)へ。

この住宅は、嘉永2年(1894)に地元猿稲町の棟梁、佐治兵衛によって建造られた江戸時代末期の代表的
な商家造りです。寄棟棧瓦葺(創建時は茅葺)二階建で、正面入り口は縦格子戸を、表板戸には上下戸
をつけてあります。間取りは、店・茶の間・中の間・奥座敷となっていて、南に勝手の間・土間がありま
す。奥座敷には木口縁をめぐらせてあって、床の間などに重厚さが見られ、武家造り風付書院・竿縁天井
・箱階段・欄間の透かし彫りなど、各部に雅趣とすごれた技法が見られます。店構えや整った座敷など、
この時代の上層商家の規模が良く示された重要な建物です。
渡辺家は、大多喜藩の軍用金御用達をつとめた豪商でした。先代は、「開運!なんでも鑑定団」のレギュ
ラー鑑定士だった渡邉包夫さんでした。

次は、伊勢幸(国登録有形文化財)へ。

こちらは、現在は酒店になっていますが、昔は、質・古物商を営む商店でしたが、廃藩置県の折、廃城の
大手門部材を使って建築されました。松・杉・欅材をもとに木造二階建て七寸角の隅柱、八寸角の欅の大
黒柱に支えられ、外壁一階には、下見板張、二階には白漆喰、正面は格子造りとなっています。

次は、釜屋へ。

土蔵造りの商家で質屋・金物屋を営業していました。

隣の博美堂。

昔は、郵便局だったそうです。瓦に郵便局のマークが入っています。現在は、手づくり甲冑教室が開催さ
れています。

次は、商い資料館。

町並みの中心として、平成13年にオープンしたそうです。江戸~明治の資料が展示されています。

次は、豊乃鶴酒造(国登録有形文化財)へ。

豊乃鶴酒造は、1781年から1788年頃に操業し、明治時代に今の場所に移動しました。格子戸と
蔵造りの家屋など歴史的な面影を色濃く残していて、ドラマの撮影にも度々利用されているそうです。
庄屋造りの母屋や赤レンガの煙突、元精米所等は国の有形文化財に登録されています。
代表するお酒は「大多喜城」と「銭神」です。(観光協会で味見させてもらいましたが、銭神は辛口で
するっと飲めて切れがありました。)

次も国登録有形文化財の大屋旅館へ。

夷隅神社の参道脇にある門前宿です。江戸期から続く老舗旅館で、明治24年(1891)歌人・正岡
子規が学生時代、房総の旅に出た時に泊まったとも言われています。
建物は、明治18年(1885)頃の建築で、南北棟、木造二階建。瓦葺切妻屋根の平入で、正面2階
左右の戸袋に大きく屋号を漆喰で表しています。

次は、城主本多氏の菩提寺の良玄寺。

浄土宗の寺院で、山号は金澤山。本尊は阿弥陀三尊像です。
文禄4年(1595)、大多喜城主本多忠勝の開基、照誉了学の開山により創建されました。当初は、
忠勝の法号から良信寺といいましたが、子の忠朝の死後、忠朝の法号をとって現在の良玄寺と
なりました。
堂内には、本多忠勝の肖像画があります。甲冑を着て大きな鹿の角を付けた兜をかぶっている姿
の肖像画は、一度は見たことがあるかと思います。こちらのお寺の所蔵なんですが、今は、千葉
県立中央博物館大多喜城分館に保管されています。正式な名称は「紙本著色本多忠勝像」なんだ
そうです。関ヶ原の後、武勇が必要とされなくなってしまい、武将だった自分の姿を残そうと思
い甲冑を身に着けて肖像を書かせたそうです。

良玄寺の墓域の一番奥に、忠勝のお墓があります。

中央に忠勝、左が次男の忠朝、右が忠勝夫人です。
忠勝は、慶長15年(1610)10月18日、63歳で亡くなり、桑名の浄土寺に葬られますが、遺
言によって大多喜の良玄寺にも分骨されました。大阪夏の陣で戦死した忠朝も大阪一心寺に埋葬
され分骨し、この地に親子で眠っています。 

次は、夷隅神社へ。

祭神は、素戔嗚尊。創建については明らかではありませんが、社伝によると、長久2年(1041)の
再建後、さらに天正15年(1587)に里見氏の将、正木大膳亮(時堯)が再築したと伝えられてい
ます。その後、代々の大多喜城主に崇敬され加護されたとあります。
むかしから、牛頭天王宮と称し、明治の初めに夷灊(いしみ)神社と改号して村社となり、明治
12年には社格が郷社になりました。現在の建物は江戸時代末期のものと思われます。
地元では、縁結びにご利益があると言われています。

次は、大多喜小学校へ。

1997年に千葉県建築文化賞になった校舎です。

次は、大多喜町役場(中庁舎)へ。

1959年日本建築学会賞、2013年ユネスコアジア太平洋遺産商をもらっています。

出発地観光センターにて終了です。私の方のガイドさんは、説明も聞きやすく楽しく散策する事が
できました。因みに、ガイドさんは、車掌さんだったそうです。だから、言葉がはっきりしていて
聞きやすかったんだぁ~と思いました。もう1つのグループは、着物を着て案内してくれたそうで
す。途中、歌も歌ってくれたみたいです。大多喜町観光協会さん、ボランティアガイドの方、あり
がとうございました。

さて、いよいよいすみ鉄道に乗車です。
いすみ鉄道は、昭和63年(1988)3月にJR東日本木原線から第三セクターとして引き継がれまし
た。赤字経営が続き、2007年に行われた、いすみ鉄道再生会議で、2009年度の決算で収支
の改善が見込めない場合は廃止を前提に代替交通を検討することになりました。2009年に、社
長公募で選ばれた鳥塚氏により、いすみ鉄道は、増便・駅の命名権(ネーミングライツ)売却・新
駅開設などの経営立て直しが行われ、経営状態の回復が認められ、2010年にいすみ鉄道線の存
続が決定しました。ムーミン電車も経営状況回復の一つなんですね。

いよいよ乗車です。ムーミン電車に乗る事ができました。

こちらの運転手さんも、いい人で、少し案内もしてくれました。

一両の電車は、田んぼの中を走っていきます。館山ものどかですが、いすみ市はもっとのどか
なような気がします。

途中、ムーミンの住む谷?を通ります。運転手さんの計らいで、徐行してくれました。
たぶん、観光客が多かったからと、私が電車に乗る前にムーミンが居るところを聞いたからかな?
なんて思ってます。

ムーミンが住む谷?も、イノシシの被害が出ているそうで、周りはイノシシにやられていました。
(乗る前、運転手さんが教えてくれました。)
ムーミンにも傷がついてるみたいで、倒されていました。

さぁ~いすみ鉄道の旅を楽しんで、大原駅に到着です。バスは、別のバスが来てくれていて、
無事に館山へと向かい城山へと到着しました。
今回は、アクシデントがありましたが、時間通りで終わる事ができました。

月イチツアー「信仰の里・佐久間を歩く」報告

なんやかんやで10月です。もう秋ですね。昨年は、10月に台風が来て、館山・南房総の海岸線
は、かなりダメージがありました。今年は、今までの大きな台風が来ていますので、もう台風は来
ないで欲しいと願っています。

さて、9月の月一ツアー「信仰の里・佐久間を歩く」を開催しましたので、報告です。
当日は、雨が降りそうな天気でしたが、なんとか開催する事ができました。基本的に、また旅倶楽
部のウォーキングツアーは、平坦な道や舗装している道を巡るコースが多いので、基本的には、
小雨決行です。

出発地点は、鋸南町さんにご協力いただきまして、旧佐久間小学校をお借りしました。
出発する前に佐久間地区のお話しを少し・・・
佐久間の郷とは、いつごろ成立したかは定かではありませんが、里見分限帳によりますと、全地域が
一村となって佐久間村となり、江戸時代(1603~1867)には佐久間下村。佐久間中村と称し、後に大崩
村と奥山村が分郷したと考えられています。里見氏が滅亡したあと、上・下に分郷し、上組は萩原源
左エ門善雅の知行地となり、下組は旗本杉岡佐渡守能連の知行地となり代々子孫によって治められま
した。

まず向かったのは、旧佐久間小学校の裏手にある白旗神社。

祭神は、誉田別命(はおんだわけのみこと)。社歴不明。石棒が5本あります。

次は、十王堂へ。

本尊は地蔵菩薩座像ですが、十王10体を安置するところから十王堂と称します。十王堂に安置され
ている木造十王坐像は、ヒノキ材寄木造りで、高さ約34cmで、各像底に室町中期の永享8年(1436)
から12年(1440)の墨書があり製作時期が明らかな点や10体揃っている点などから、鋸南町の重要な
文化財になっています。
お盆のころ、佐久間の祭礼には地域の人たちが、こぞってお参りするのが、十王様です。
ここで、十王様のお話しをしておきます。
十王とは、冥界において死者の生前における罪を裁く、言わば十人の裁判官です。人は死ぬと、初七日
より七日ごとに十王の前へ召し出され、罪状を吟味されます。その判決によって、六道(天・人間・修羅
・畜生・餓鬼・地獄)のいずれかへ行くことが決定します。
平安時代末期ごろから広まり、十王堂が各地で作られ、それらを祀ることで、少しでも罪を軽くすることを
祈ったのが十王信仰です。
亡くなってから、通夜~6日目までは、抜け出した魂はやがて真っ暗なトンネルに入っていき、そこを抜け
ると、今度は「死出の山」と呼ばれる距離3200㎞の険しい山が現れます。暗闇の中、不安で登っていると、
どこからか家族や友人の声(お経)が聞こえてきて、それらの声に励まされ、ひたすら暗い山道を登ってい
きます。やがて峠を越えると、ようやく明るくなり、見下ろす山の麓には、曼珠沙華と曼茶羅華の美しい花
畑が広がっていて、あの世でしか見る事ができない風景だそうです。
山を降りると、大きな川が見えてきて、この川がこの世とあの世の境目となる「三途の川」です。その河岸
は「賽の河原」と呼ばれ、そこでは父母より先に死んだ罪で、あの世に行けない子供らが罪を償うために小
石を積み続けていますが、石を積み上げればすぐに鬼が壊しに来るのでなかなか完成しないのです。お地蔵
様はそのような子らを救済し、あの世に導いてくれます。
三途の川は川幅4000kmもあるそうです。渡る場所は生前に犯した罪の深さで決まり。罪の浅い者は、山水
瀬や七宝飾りの美しい橋を渡ることができ、罪の深い者は、激流の江深淵を泳いで渡るそうです。また、
善人用の渡し舟(六文船)も用意されているそうです。
対岸に渡ると「奪衣婆」と「懸衣翁」の二人の老人があなたの衣服をはぎ、衣領樹の木にかけ、その濡れ具
合で罪の重さを計ります。
三途の川を渡るといよいよ十王による審査が始まります。
7日目には、まず第一の王「秦広王」が生前の殺生、つまり虫や動物に無駄な殺生をしなかったかを調べま
す。続いて14日目に「初江王」が盗みについて、21日目に「宋帝王」が不貞について、28日目に「五
官王」がウソについての聞き取り調査を行います。ここで生前の悪行を後悔しても手遅れで、正直に話さな
いと罪は重くなるそうです。35日目は「閻魔王」からの審判が下り、来世が言いわたされます。
閻魔王は太陽のようにまぶしい眼と、雷光のように恐ろしい声であなたの罪を読み上げ、「浄玻璃鏡」に現
世での行いが映し出され、「閻魔帳」に罪が書き留められています。また「人頭幢」は、悪の本質を見抜き
ます。来世の行先が決まれば、42日目の「変成王」により生まれかわる細かい条件が加えられます。そし
て49日目はいよいよ六道の淵です。「泰山王」が六つの世界の中からあなたの行く先を選びます。
この日は、現世ではあなたの家族が法要を勤め、死者の良い来世を祈っています。
ちなみに、「金輪際」という言葉を使いますが、これは地獄の淵のことを言うそうです。
六道には、地獄道・畜生道・餓鬼道・修羅道・人道・天道です。
地獄道は、別名「奈落」とも呼ばれ、その罪の深さにより八つの種類に分けられ、細かく分類すると合計
136種類の地獄があり、自殺者や殺人者は必ずこの地獄へ落とされます。罪の順に、①等活地獄、②黒縄
地獄、③衆合地獄、④叫喚地獄、⑤大叫喚地獄、⑥焦熱地獄、⑦大焦熱地獄、⑧無間地獄となります。
畜生道は、本能や欲望のおもむくままに生きてきた者の末路です。自分だけの利益を求めるエゴイストは
狐に、猜疑心が強く、残忍で執念深い人は蛇に、ごう慢な生活をした人は豚に、その品性の低さにあった
動物に生まれ変わります。
餓鬼道は、飢えと渇きに苦しむ日々が続きます。食べ物や飲み物を口にすると、それが火に変わり体中を
焼きます。欲深く、富や権力に執着した者の末路です。現世では、この餓鬼道に苦しむ者を救うため、お
盆に「施餓鬼法要」が行われます。他の命を奪って自分が生きていることを知り、感謝する機会でもあり
ます。
修羅道は、阿修羅が住む世界です。阿修羅は帝釈天との争いで善心を見失い、妄執の悪となって天道を追
われ、修羅の世界を作りました。ここでは毎日戦闘が繰り返され、心の休まる間がありません。ここに来
るのは、現世で戦争や争い事をしていた人だけとは限りません。平和に生きていても、心の内側で強い自
尊心や競争震を持っていた人は修羅におちます。
人道は、人間の世界です。大半の人は衣食住苦労なく暮らせますが、ご存じのように、楽しいように見え
て実はストレスや煩悩だらけの苦しみの多い世界です。この世界に来るとき、その人の生前の行いにより
幸せな暮らしが出来たり、病気で苦しんだり、様々な条件がつけられます。
天道は、多くの善行を積んだ者だけが辿り着ける世界です。ここには「弁才天」「大黒天」「毘沙門天」
などの「天部」と呼ばれる様々な神が住み、彼らは特別な力を与えて仏の手伝いをしています。ちなみに
「聖天」は象の顔をした開運の神ガネーシャがモデルですが、実は天部のほとんどはヒンドゥー教を司る
神々が仏身なのです。そのため、この世界の公用語はサンスクリット語となります。俗に言う「天国」は、
ここの天道のことですが、仏教ではさらに上の浄土をめざします。
六道で思わぬ世界に落ちてしまったとしても、この世の供養により救われる場合もあります。百日目には
「平等王」、二年目(一周忌)には「都市王」、三年目(三回忌)には「五道転輪王」が現れ、死者を再
審し、最後のチャンスを与えます。ただし家族や親族の供養がなければいかなる救済も受ける事が出来
ないそうです。
追善供養は、残された者が法要を勤めることにより、この世からあの世へと「善を送る」ことです。法要
を重ねることで故人の善が増し、罪が軽減されます。またそれは同時に法要を勤める人の徳にもなり、自
身の善行としても積み重ねられます。(諸説あります)

ズラズラと書いてしまいましたが、昔の人は、ここに書かれた事を信じ信仰をしていたのだなと。。。
法要もそのためなんだなぁ~と考えさせられました。生きている内に徳を積もうと思うお話しでした。

次に向かったのは、密蔵院ですが、その少し手前にあ不動橋と呼ばれる橋があります。

石積のアーチ橋です。明治42年(1909)架設。半円形のアーチリングで、アーチクラウン(要石)は五角形
で、明治期のアーチ橋の面影を残しています。

密蔵院です。

真義真言宗智山派宝珠院末。本尊は不動明王坐像。木像等身大、秘仏として公開しません。
古来「谷の不動尊」として名高く、弘化3年(1846)火災にあい嘉永年間(1848~1853)に再建されました。
本尊の不動明王は良弁僧都(宝亀元年(770))の作で、相州大山不動と同木同作と言われています。
源頼朝が石橋山の戦いで安房に逃れた時、この不動尊に参詣し、その後天下を取ったことから、立身不動
として名高く、里見氏以来20石の御朱印寺でした。
境内にある山車小屋には、谷地区の担ぎ屋台(明治20年頃)の彫刻は、4代目伊八・武志信明の作。
正面の唐破風や欄間にスサノウノミコト神話や唐子、波などが彫刻されています。

さて次は、往生寺(密厳院)です。

真言宗智山派の寺院で、山号を金清山。安房国札観音霊場第十番です。
寺伝によれば寛仁元年(1017)恵心僧都が創建。裏山山頂近くに数百坪の平地があり、かつてそこに観音堂
がsりました。西側は墓域で往生寺住職及び密厳院住職の墓があります。
長い年月が経ち、往生寺は廃寺となりましたが、現在の観音堂は明治2年(1869)、密厳院本堂脇奥に阿弥陀
堂として建てられたもので、明治42年(1909)に現在地へ移築して観音像を安置しました。

写真右が密厳院です。本尊は阿弥陀如来立像。開基、縁起は不詳。里見氏から30石・宝珠院の黒印寺で
あり徳川から御朱印を与えられていたといいます。宝永4年(1707)に寺普請を行ったことが知られていて、
やがて衰退し明治2年(1869)字堂下から山麓の本寺近くに移築され、その後、明治42年(1909)現在地へ
移し修復されました。

次に向かったのは、日枝神社です。

祭神は大山咋命。創建不詳。寛文7年(1667)・享保18年(1733)・文政18年(1819)・慶応元年(1865)
・明治22年(1889)の棟札が残っています。

次は、金銅寺へ。

真言宗の寺院で、山号は奇雲山。本尊は、和銅2年(709)、行基菩薩が自ら刻んだ聖観世音菩薩。
安房国札第11番札所です。由緒によれば、和銅2年(709)に現在の場所より北方の小萩坂に協議が観音
菩薩像を刻んで創建したといいます。その後、荒廃し草原となってしまいましたが、弘安3年(1280)、
小萩坂から一筋の光明が輝き、それが白雲となって立ち昇ったのを近くに住む僧、玄助がみつけました。
光に導かれ、草むらをかき分けたところ、金銅の聖観世音像が現れ、萩を束ねてはしらとし、茅で屋根を
葺き観音像を安置したとされています。奇雲が立ち込めたところに金銅仏が現れたことから、奇雲山金銅
寺とされました。文安5年(1448)、村人が協力して現在地に堂宇を建立。本尊は、昭和13年頃盗難に
あい、後に埼玉県において発見し取り戻しましたが、すでに金ぴかに塗り替えられていました。
また、境内にある町指定文化財の梵鐘は、寛政元年(1789)に大山(鴨川市)の鋳物師・藤原忠直の作で、
戦時中供出されましたが、山梨県の長生寺にあることが判り、昭和58年約40年ぶりに戻されました。
一度失われたものが現れるという、不思議なご利益があるお寺です。

次は、今はなくなってしまった梅胤寺跡を通り正法院へ。

臨済宗円覚寺派の寺院で、本尊は地蔵菩薩坐像。開基その他は不詳です。

次は、光明寺へ。

曹洞宗の寺院で本尊は釈迦如来。里見実堯が、三芳本織に延命寺を建立した時、吉州梵貞和尚を招いて開山
とし、その後、和尚は延命寺を弟子に譲って佐久間へ来て、光明寺を建立し第一祖となりました。寛政初期、
火災で全焼しましたが、同11年(1799)再建されました。
明治初年12世住職大州貞忍は、寺小屋の師匠として教授し、墓地内に筆子塚があります。その後、明治22
年まで小学校が置かれ、佐久間地区の教育に寄与しました。

境内には、曽根静夫の墓地があります。

曽根静夫は、1845年安房郡平郡奥山村(現:鋸南町奥山)で、農業・曽根良助・婦美夫婦の三男として生
まれました。農業なお傍ら、読み書きを光明寺の住職・貞忍に、算術を高見桂蔵(九重村水岡在住)に学びま
した。明治3年頃、東京に上京し、そば屋の出前、医師の書生などとなります。明治5年(1872)、北条県(岡
山県東北部)十五等出仕となり、地租改正の試験実施を担った。1873年、北条県で血税一揆が発生し、その
対処に尽力しました。1876年、内務省地理寮九等出仕となり、地租改正事務局に転じました。1877年、
西南戦争の最中、鹿児島県一等属を命じられ赴任。のち租税課長兼庶務課長を務める。書いているとキリがない
ので、途中省きます。
1893年、大蔵省国債局長心得となり国債局長に就任。1896年、新設の拓殖務北部局長に就任。高島鞆之
助拓殖大神から乃木希典台湾総督に推薦され、1897年、台湾総督府民政局長に就任し、されに、同府財務局
長を兼務しましたが、乃木総督の退任に伴い、1898年に辞職し、同年6月に山形県知事に就任し、1899
年4月まで在任しました。同ねん5月、北海道拓殖銀行建立委員に命じられ、1900年、同行建立後に初代頭
取となり、在任中の1903年に死去(57歳)しました。奥山の生家にあった墓地は、光明寺墓地入口正面に
移されました。
安房地域から、偉大な人が多く出てるんですね。

後は、出発地にもどるのみです。鋸南町の佐久間地域は、今回歩いた6キロの間に神社仏閣が8つほどあります。
それだけ、信仰が盛んな場所だったのでしょう。
今回のガイドの独り事は、長い話が多くて読みにくかったと思いますが、勘弁して下さい。

お散歩ツアー「民宿の町・岩井を散策」報告

皆さま、ご無沙汰しております。なんとかこの夏の猛暑を過ごす事ができました。
夏の間は、ウミホタル観察会を開催しておりまして、9月に入り、なんだかバタバタと忙しい
日々をありがたいことに送らせていただきまして、10月に入ってしまいましたが、9月11日
に行いましたお散歩ツアーの報告をします。

お散歩ツアー「民宿の町・岩井を散策」の報告をします。
集合場所は、道の駅富楽里。ここからスタートです。
スタート地点から少し歩くと恩田原古墳があった場所になります。

今は田んぼとなっていますが、5世紀後半のものと推定されています。安房地域でも、古墳時代
中期になると、本格的な古墳文化が始まります。安房地域では、前方後円墳で埴輪を持った古墳が、
2ヶ所確認されていて、ここ恩田原古墳と旧丸山町にある永野台古墳です。
大正7年(1918)の鉄道開通時の工事によって、学術調査を待たずに破壊されてしまいました。
墳形・内部主体・副葬品などの基本的な記録は残っていなく、人物埴輪や円筒埴輪の破片のみが散乱
していたといいます。当時の遺物として確認できるのは、館山市立博物館に寄託された円筒埴輪の破
片及び南房総市が保管する人物埴輪の顔面の一部のみです。

次に向かったのは、戦争遺跡「久枝陸軍補給廠跡」です。
久枝陸軍補給廠は、本土決戦の様相が濃くなった昭和18年ころから、陸軍の補給廠の工事が開始さ
れました。広い水田だったところを、天満山・峰岸山の山肌を削り取り埋め、そこに軍用円形道路が
でき、山肌をコンクリートで巻いた貯油タンクが造られましいた。
下の写真は、貯油タンクの跡です。イメージ的には、大きな石油のタンクローリー車のタンク部分が
並んでいた感じだったそうです。

もう一つは、門柱があります。片面からも撮りたかったのですが、現在の政治的な宣伝ポスターがあった
ので撮る事を断念しました。

次は、ツアー名の「民宿の町」の心臓部に入って行きます。
漁師町でもある岩井の町は、やはり狭い道だったり、入り組んでいたりと初めてでは迷子になってしまい
そうな感じです。
細い路地を入ったところに、いぼとり地蔵が祀られています。

このいぼとり地蔵は、道に背を向けて祠が建てられています。正面には、大きな座ったいぼとり地蔵、その
周辺には、雨風に耐えたお地蔵様が合祀されています。

次に向かったのは天満神社。

祭神は藤原道真。元は、天神山(現天満山)の中腹に鎮座し、社殿12坪に藤原大神が祀られていました。
しかし、大平洋戦争中、この地域一帯に陸軍施設が造られ、立ち入ることが出来なくなり、そのため、軍
の命令により社殿は取り壊され、昭和18年、現在地に新社殿の造営工事が始まり、翌19年に完成、神
霊を移転奉納しました。旧社の創建は、約400年前の天正時代以前と考えられています。手水石は、安
政3年(1856)、狛犬は安政4年(1857)、石灯籠は天保14年で、旧社境内より移転してきたものです。

次は蓮台寺へ。

浄土宗金台寺末の寺院で、金乗山九品院蓮台寺といいます。本尊は、阿弥陀如来。永和年間(1375~1379)
南北朝の時代、到阿上人によって開創されました。
本堂前には、南房総市天然記念物の「蓮台寺の大いちょう」があります。夫婦いちょうと呼ばれ約
500年前に植えられたと伝わっています。

境内には、産科の名医で「産科発明」の著述者でもある奥澤軒中のお墓があります。

薬師堂は、昭和61年に新たに建立され、安房国四十八薬師如来の北口第九番札所になっています。

次に向かったのは、JR内房線の岩井駅近くにあります伏姫と八房の像を見学し、福聚陰へ。

福聚院は、曹洞宗の寺院で、慈眼山福聚院燿沢寺といいます。本尊は釈迦如来。

明和8年(1771)に火災により焼失、安永9年(1781)に再建しました。大正12年関東大震災では、
本堂が倒壊し、現在の本堂は、昭和38年に落成しました。

道路からでも目につくのが、山門です。山門は勝山藩酒井忠国の父忠朝が、寛文元年(1661)に市部村
に社式を構え隠居していました。忠朝の死後、酒井家より、屋敷の門が寄進されました。
山門の左手には、酒井氏が寺へ来る時用いた駕籠を置いた場所があります。山門・駕籠置きは、市の
文化財に指定されています。

本堂の欄間には、初代武志伊八郎信由作の彫刻があります。

本日最後の見学場所、もう1つの天満神社へ。

祭神は藤原道真。別当寺であった福聚院が、明和8年(1771)の火災によって焼失したため、天満
神社の創建・由緒等は、一説では不詳と伝えられていますが、寛文12年(1672)、勝山藩祖酒井
忠国が、若狭小浜藩の藩主の奥方の安産祈願をするために社殿を造営したものでとも言われています。

あとは、出発地の富楽里へと戻ります。
民宿の町岩井は、中に入ってみると面白い場所でした。是非みなさんも歩いて発見してみて下さい。

月イチツアー「国札観音巡礼道」報告

夏本番です。毎日、猛暑が続いております。館山・南房総は、都内に比べると少し涼しい気が
します。海風のおかげでしょうか?
観光シーズンが始まって、海も賑わいをみせておりますが、くれぐれも事故には気を付けて下さい。

さて、このクソ暑い・・失礼しました。猛暑の中、月イチツアー「国札観音巡礼道」を開催しまし
た。実は、暑い日が続いていたので、申込が来ないかと思っていたら、開催日に近づくと申込みの
方が増えまして、ありがたい事です。

出発は、道の駅「鄙の里」からです。救護班を残し、元気に出発しましたが、最初から暑い。
最初の場所は、諏訪神社。

祭神は建御名方神。境内には天明3年(1783)、享保20年(1735)の庚申塔二基の他に、猿田彦大神
(明治17年)の碑もあります。

次は、安房国札22番にあたる勘修院。


真言宗智山派の寺院で、本尊は行基菩薩作と伝えられている千手観音菩薩です。山号は道場山。
元は寺の背後のリョウガイ山と称するところにあったと伝えられています。宝暦2年(1752)に
現在地に移されたといわれ、旧跡地には今も観音堂の痕跡が残っているそうです。
大正12年(1923)の関東大震災により、諸堂は全壊し、同14年に旧本堂と庫裏が再建されました。
境内には光明真言五百万遍供養塔や天明8年(1788)女性行者・貞信尼による廻国供養塔があります。

墓地には、漢学者・中村時中や、力士・常盤戸文吉の墓があります。

次は、薬王寺へ。

真言宗の寺院で、本尊は薬師如来。由緒は不詳です。現在は、音楽活動をされている方が、借りて
活動しています。

次は、三芳エリアのメインストリートを歩いて長谷寺を目指しますが、途中には、頼朝伝説が残され
ているので、少しお話ししながらあるきました。
少し紹介しておきます。県道88号線沿いには、千代(せんだい)という地名があります。
頼朝がここを通りかかった時、「源氏が千代に八千代に栄えるように」と命名した土地だといいます。
後に千代「ちよ」が「せんだい」という呼び名になりました。
同じく県道88号線沿いに「百不取」という場所があります。ここで頼朝軍の数が九十騎程になりま
した。百騎には足らなかったのでここを百騎不足(きゃっきたらず)と呼ぶようになり、やがて百不足
(ひゃくたらず)となり、百不取(ひゃくとらず)となったといいます。

頼朝伝説を説明し、県道88号沿いから少し入ると、小瀧先生遺徳之碑があります。

小瀧先生は滝田村下滝田の人です。幼くして、昼は農業に夜は読書に励み、明治10年に助教となり
訓導兼校長に累進し、29年にわたり本織村の教育に従事しました。病気で明治44年に亡くなりました。
享年59歳。昭和12年教え子により先生の偉業を称え碑が建てられました。

小瀧先生の碑から少し行くと、山が削られている所に、馬頭観音・青面金剛等の石造があります。
古い物は、文化14年(1817)のものがあります。

次は、長谷寺(ちょうこくじ)へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は十一面観音。由緒は不詳ですが、安房国札13番の札所です。
行基菩薩の開基と伝えられて、当初は近くにある観音山という山頂にありましたが、弘化3年(1846)
頃に今の場所へ移転されました。

ここで昼食です。今日は、道の駅三芳鄙の里内にあるます、カントリーマムのお弁当です。今回は、諸
事情により、私のお弁当はなかったのですが、美味しそうなお弁当でした。残念。

今回は、猛烈な暑さのため、ここで帰る人とまだ歩く人で分かれました。

歩く方は、滝田神社へ。

元諏訪神社といい、祭神は健御名方命(たけみなかたのみこと)。寛永2年(1625)の創建と伝えられて
います。棟札によると、現在の滝田神社は、明治41年に八雲・滝田・厳島・諏訪の4社を諏訪神社に合
祀し、滝田神社と命名したものです。裏山に琴平宮が祀られています。

あとは、県道88号線を道の駅三芳・鄙の里へと帰ります。
今年は、暑さがかなり厳しいかったので心配しましたが、みなさん無事に帰って来られました。

8月は、ウォーキングツアーはお休みです。9月からまた再開しますので、よろしくお願いします。

お散歩ツアー「いにしえの広瀬を探る」報告

本格的な夏に突入してしまいました。暑さで睡眠不足気味になってきていますが・・・
なんとかこの文書もがんばって書いております。

今回は、お散歩ツアー「いにしえの広瀬を探る」を開催しましたので報告です。
当日は曇り予報でしたが、晴天で暑いのなんのって・・・でも、今回は、半日なのでゆっくり
歩きます。出発地は、安房地域医療センターから三芳に向かったところの民家の駐車場をお借
りして出発しました。

武田石翁の生家があった場所の前を通り、東福院へと向かいます。

真言宗智山派の寺院です。本尊は薬師瑠璃光如来。創建は不詳ですが、境内には武田家(武田石翁
生家)の菩提寺です。
武田家の墓域には、文政9年(1826)、石翁48歳作の如意輪観音を刻んだ実相妙鏡大姉の墓碑があります。

武田石翁(たけだせきおう)の説明を少し・・・
本名は、小瀧周治(又は秀治)といいます。安房国平郡本織村宇戸(現南房総市本織)に鎌田四郎左
衛門金明の末子として、安永8年(1779)に生まれました。寛政3年(1791)、13歳の時に、安房国
平郡元名村(現鋸南町元名)の石工小瀧勘蔵に弟子入りし、23歳の時、師匠の小瀧勘蔵の娘いちを
妻とし、小瀧家の養子になりました。養子に入った後も、「鎌田周治」と名乗り、後には、「武田石
翁」と名乗るようになりました。

東福院から少し歩いた所に、狐塚があった場所を見る事ができます。

この樹々がある場所は、広瀬の字狐塚といいます。腰越地区(館山市)の青年館の横にある狐塚から、
いくつもの塚がが連続してありました。この塚は「いなり様」と呼ばれていて、砂丘の先端にあり、
塚の周辺からは土師器、須恵器の破片が出土して古墳時代の遺跡と言われています。また、里見氏の
内乱の決戦場にもなったと言われています。

次は、八幡神社へ。

広瀬の鎮守で、八雲神社(牛頭天王)と湯沢神社(湯沢権現)を合祀しています。境内には、阿弥陀
如来の種字「カーン」と刻んだ念仏供養塔や、青面金剛の庚申塔、浅間講碑、力石があります。

ここで、お客様から衝撃な話を聞きました。お客様が子供の頃(約70年前)この拝殿の下にお亡く
なりになられていた人が居たそうです。(ちょっと柔らかく書きました)
お子さんだったお客様は衝撃だったようで、記憶に残っていて、私に話してくれました。その後、
どうしたのかはお聞きしませんでしたが、ビックリです。

次は、釈迦寺へ。

臨済宗の寺院で、江戸時代初期・元和時代(1615~1624)に地元広瀬の徳山居士という人が開基したと
いいます。開山は道硯和尚。境内には享保5年(1702)の如意輪観音像、享保16年(1731)の地蔵尊、
安永8年(1779)の三界万霊塔があります。

次は、杉間の堂へ。

字杉間にある日蓮宗のお堂です。館山城跡で掘り出されたという観音菩薩が祀られています。
このお堂の裏の方の集落を市場といい、右手の田を字井戸場といいます。井戸場は問場のことです。
この周辺が、中世の荘園だった頃に流通の中心地だったと思われます。奈良の都から出土した735年の
年貢の荷札(木簡)にすでに「安房国広湍郷」の地名があります。

次は、宝積院へ。

真言宗智山派の寺院で、南房総市府中の宝珠院の末寺です。本尊は地蔵菩薩。創建は不詳ですが
寺伝によれば、寛永8年(1631)、本織の豪農「武田四郎左衛門」が発願して開基となりました。
後に寛文7年(1667)に法印頼運を要請し開山としました。

最後に本織神社へ。

昭和39年本織地区にあった六社を住吉神社の鎮座地に合祀しました。六社とは、今回の本織神社、
荒神社(字市場)、稲荷神社(字延命寺)、天満神社(字本織根方)、住吉神社(字番場)、熊野
神社(字不入斗)です。訪れた本織神社は旧社地ですが、現在この地にも神社が鎮座しているとい
のはなぜなのか?社号碑も新しいくなっているので・・・周りに人が居ないいので聞く事ができま
せんでした。因みに、三芳村史にも、跡地があるという事が書いてありました。

境内には、武田石翁誕生之碑が建てられています。説明文もありましたが、ところどころ消えかか
っていて読みづらいのなんの・・・

色々な思いを残しながら、出発地点へと戻りました。
なかなか暑い日でしたが、田んぼにたまに吹く風が気持ち良い日でもありました。
今月は、月イチツアーが1本残っております。熱中症に気を付けて歩きたいと思います。

あっ!8月は、暑いので歩きませんが、8月11日(土)・18日(土)25日(土)とウミホタル
観察会を開催します。お申込み方法等は、イベントで確認して下さい。お盆以外は比較的まだ申込み
が少ないようです。お待ちしております。

月イチツアー「正木氏の郷」報告

急に暑くなってきました。気が付けば、もう7月。夏本番です。
今年の夏は暑くなりそうですね。 夏と言えば、当倶楽部は、今年も4回ウミホタル観察会を
開催します。是非、お子さん・お孫さんに夏の館山の体験をさせてみてはいかがでしょうか?
HPのイベント案内に、詳しく載せておりますので御覧ください。

月イチツアー「正木氏の郷」を開催しました。当日は、梅雨明け前だったので、出発時間ちょっと
前から雨が降り出してしまいましたが、今回は、山の方に入るわけではないので、雨の中、開催し
ました。(という事で、掲載する写真は、下見の際に撮ったものになります)

今回は、勝浦正木氏に関係する南房総市和田町の中三原・小川地区なので、勝浦正木氏の話を
入れながら書いていきたいと思います。
「正木氏ってけっこう出てくるよね~」って思ってる方が多いかと・・・結構、「??」
ってなる事が多い私ですが、房総正木氏は、大きく分ける2つの系統に。内房の正木氏と外房
の正木氏です。ここから、外房の正木氏は、さらに小田喜正木氏と勝浦正木氏と一宮正木氏に
分かれます。これ以上細かく書いてしまうと、なかなか前へ進まないので・・・
今回は、勝浦正木氏に関係する場所を巡ります。

最初に訪れたのは、正木時忠の菩提寺でもあります正文寺へ。
まずは、正木時忠についてご紹介したいと思いますが、諸説ありますのでその1つだと思って
下さい。安房里見氏の家臣であった正木通綱の三男として生まれます。里見氏のお家騒動のあと、
里見義堯・義弘の下で、功績をあげてきましたが、兄の時茂の死後、正木氏の実力者となって
いき、里見氏からの自立を目指すようになり、永禄7年(1565)に離反し、北条氏康に接近しま
す。翌年、北条氏政が両総に侵攻すると、時忠は逸早く参陣しました。その時、子の時長(正
木頼忠)を人質として差し出しました。北条氏が駿河国を巡って甲斐武田氏との抗争を繰り広
げるようになると、思うような支援がえられなくなったため関係は悪化しました。天正2年
(1574)には北条領の上総国大坪に正木氏は侵攻していますので、この頃までには里見氏に帰参
したものと考えられます。その後、時忠は今回訪れた、三原の地隠退して、天正4年(1576)三
原城で51歳で亡くなりました。


左側が本堂、右側が祖師堂です。
日蓮宗大本山小湊誕生寺の末寺で、本尊は本堂の日蓮聖人奠定大曼荼羅です。安元・治承(1175~
1180)の頃、当地の豪族真田氏の菩提寺として創建された禅宗の寺でしたが、天正2年(1574)に
勝浦城主だった正木頼忠が父正木時忠の菩提を弔うため、亡くなったこの三原の地に日蓮宗として
再建したと伝えられています。

正木頼忠は、時忠の五男です。時忠が里見氏を裏切り北条氏に属した時、頼忠は人質として小田原
城におくられました。頼忠は小田原で北条氏隆の娘と結婚し、直連・為春・於万をもうけました。
時忠と兄の時通が北条氏を見限って里見氏に再属してしまい、頼忠は北条氏の縁戚であるので殺害
はされなかったものの、その日常生活は厳しく監視されていたそうです。
兄にの時通が急死、父も死去したため、天正6年(1578)頃、勝浦城に戻り、勝浦正木氏の家督を相
続しましたが、妻や子どもたちは小田原に残すことになりました。いろいろあり、直連・為春を上総
に呼び戻し、母は蔭山氏広の室となり於万は氏広の養女となしました。
その後、慶長元年(1596)於万は、徳川家康に見初められ側室になりました。於万17歳、家康54歳。
慶長7年(1602)に長福丸(後の徳川頼宣)、翌年に鶴千代(後の徳川頼房)を産みました。

祖師堂には、於万の方寄進の科註箱(高座の説教の時に教本・道具を入れておく箱)があります。また、
駕籠もあったようですが・・・今は、担ぎ棒が残されています。

正文寺境内には、いろいろなものがあります。

大檀那正木環斎(頼忠)の墓(市指定史跡)があります。
子の為春が紀州藩徳川頼宣の家老となり、里見氏改易後に紀州へと赴いて元和8年(1622)没しました。


いぼ観音です。
砂岩で出来ています。十一面観音と思われますが、風化がすすんでいて、頭部の化仏がいぼのように見
えるので、いぼ観音と呼ばれています。耳が蛎殻のように見えるので、耳の悪い人が願をかけ、病が癒
えるとお礼に蛎殻を納める信仰が伝わっています。


やぐら・磨崖阿弥陀三尊像です。
奥の壁面に三体の仏像が浮彫にされ、一部彩色が残されています。中世の阿弥陀三尊像と思われますが、
仏像は大きく破損しています。


やぐら・磨崖五輪塔(市指定史跡)です。
14世紀(鎌倉~南北朝期)に造られたと推定されるやぐらで、五輪塔の浮彫が奥壁に1基、左側に2基、
右側に1基あります。中世にこの地を支配して真田氏(三浦氏一族)の墓所という伝承があります。

他にもありますが、正文寺だけで終わってしまいそうなので、次にいきます。
三原城跡・大庭遺跡へ。

正木時通の居城と言われています。勝浦城主の正木時忠は家督を時通に譲り、古里の三原に隠退してこの
地で亡くなりました。また台地の畑は大庭遺跡といわれ、縄文土器片や黒曜石が出土したそうです。

次は、小社(おちょうや)へ。

境内には、天保年年間の石灯篭、弘化4年(1847)の手水石があります。

三原川を渡り、日枝神社へと向かいます。
写真を撮り忘れてしまいましたが、祭神は大山咋神。元禄3年(1690)に小川村向根組の信徒が勧請したと
いわれ、地域の人々は「山王様」と呼んでいます。

日枝神社のすぐそばに、やぐら・磨崖五輪塔がひっそりとあります。

15席(鎌倉~南北朝期)頃に造られたそ推定されるやぐらが3基あり、13基の五輪塔がそれぞれ時代
を異にして彫られています。

近くには、和田の真浦地区に抜けるトンネルがあり、内部には防空壕があります。

中には、牛頭観音が祀られています。

近くにいたおばあちゃんやご近所さんに少しお話しをうかがうと、「昔はここから真浦の海に泳ぎに行っ
たんだよ」とか、「牛を飼っていた家が多かったので、牛が死んでしまうと、ここに石仏を置いたんだよ」
とか、空襲警報がなると、「小川地区の人も、真浦地区の人もこの防空壕に避難したんだよ」とか、「変な
人が入ったら困るから防空壕は入れないようにしてもらった」とかお話を聞くことができました。

次は、常宣院殿妙達尊尼の墓へ。
ツアー当日は雨だったので、墓までは行きませんでしたが、下見時に撮ったので、ご紹介します。

正木頼忠の妹で、上総国東金城主酒井氏に嫁した女性のお墓です。父の菩提寺が見える場所に造ったと
言われています。

次は、天御中主神社(あめのみなかぬしじんじゃ)へ。

千葉氏の末流とされるこの地の豪族境井氏が創建したといわれ、戦乱で荒廃した社殿を正木頼忠が
慶長年間(1596~1615)に修復しました。天御中主命はむかしから妙見尊星王とし崇敬され、千葉氏
の守護神としてお祀りされています。また妙見菩薩は主として日蓮宗で崇敬されています。

次は、妙達寺へ。

日蓮宗の寺院で、正木頼忠の妹で東金城主酒井氏に嫁いだ、常宣院殿妙達尊尼の菩提寺です。
慶長17年(1612)に、正木頼忠が菩提を弔うために建立しました。本堂の向拝には、三代後藤義光
の彫刻があります。

後は、正文寺へと戻ります。朝は、裏から正文寺に行きましたので、帰りは仁王門から入ります。

宝暦5年(1755)、第14世住職日証の代に建立され、その時仁王尊が誕生寺からおくられました。
頭部が大きく六頭身ということで、室町期の作と考えられています。
仁王尊は、小湊浦から舟に乗り、真浦へ。そこから人が背負ってこの地に運ばれたと伝えられてい
ます。

本当は、もう1カ所行く予定でしたが、雨が強くなる予報も出ていたのと、雨では滑りやすくなって
いるので、ここで終了しまいた。

行く予定だったのは、お塚という場所で、正文寺から少し行った場所にあります。そこは、紀州三浦
氏の遠祖・三浦義同(道寸)及び正木時忠・時道らの供養塔と旗本正木家代々の墓があります。

三浦義同と正木時忠・時通の供養塔は、紀州藩家老だった三浦長門守為積が建てたもので、旗本正木家
代々の墓は、寛政元年(1789)、正木左膳によって建てられました。

なぜ紀州藩の家老が・・・と思われたでしょうが、正木頼忠の子供の於万の方は、家康の子供を産んだ
というお話をしましたが、一人は、初代紀州徳川家、もう一人が初代水戸徳川家なのです。
里見氏改易の後、正木為春(正木頼忠の子・於万の方と兄弟)が紀州藩家老となり、三浦姓に戻したと
いいます。
さぁ、ここでなぜ三浦姓なのか・・・三浦義同(道寸)は戦国時代初期の武将で、東相模の小大名でした。
永正13年(1516)三浦義同(道寸)は、北条早雲に攻められ新井城(現神奈川県三浦市)で自害しました。
その子時綱が房州に逃れて里見氏に仕え正木姓を名乗ったと言われています。(諸説あります)
里見氏改易後、正木為春が三浦姓を名乗ったそうです。

書いてても頭の中が、ごちゃごちゃになってしまってますが・・・ちょっとお分かりいただけましたで
しょうか? 色々と考えると「?????」になってしまうので、この辺にしておきますが、三浦義同の
話は諸説あります。

今日はこれまでとさせていただきます。ありがとうございます。