急に暑くなってきました。気が付けば、もう7月。夏本番です。
今年の夏は暑くなりそうですね。 夏と言えば、当倶楽部は、今年も4回ウミホタル観察会を
開催します。是非、お子さん・お孫さんに夏の館山の体験をさせてみてはいかがでしょうか?
HPのイベント案内に、詳しく載せておりますので御覧ください。
月イチツアー「正木氏の郷」を開催しました。当日は、梅雨明け前だったので、出発時間ちょっと
前から雨が降り出してしまいましたが、今回は、山の方に入るわけではないので、雨の中、開催し
ました。(という事で、掲載する写真は、下見の際に撮ったものになります)
今回は、勝浦正木氏に関係する南房総市和田町の中三原・小川地区なので、勝浦正木氏の話を
入れながら書いていきたいと思います。
「正木氏ってけっこう出てくるよね~」って思ってる方が多いかと・・・結構、「??」
ってなる事が多い私ですが、房総正木氏は、大きく分ける2つの系統に。内房の正木氏と外房
の正木氏です。ここから、外房の正木氏は、さらに小田喜正木氏と勝浦正木氏と一宮正木氏に
分かれます。これ以上細かく書いてしまうと、なかなか前へ進まないので・・・
今回は、勝浦正木氏に関係する場所を巡ります。
最初に訪れたのは、正木時忠の菩提寺でもあります正文寺へ。
まずは、正木時忠についてご紹介したいと思いますが、諸説ありますのでその1つだと思って
下さい。安房里見氏の家臣であった正木通綱の三男として生まれます。里見氏のお家騒動のあと、
里見義堯・義弘の下で、功績をあげてきましたが、兄の時茂の死後、正木氏の実力者となって
いき、里見氏からの自立を目指すようになり、永禄7年(1565)に離反し、北条氏康に接近しま
す。翌年、北条氏政が両総に侵攻すると、時忠は逸早く参陣しました。その時、子の時長(正
木頼忠)を人質として差し出しました。北条氏が駿河国を巡って甲斐武田氏との抗争を繰り広
げるようになると、思うような支援がえられなくなったため関係は悪化しました。天正2年
(1574)には北条領の上総国大坪に正木氏は侵攻していますので、この頃までには里見氏に帰参
したものと考えられます。その後、時忠は今回訪れた、三原の地隠退して、天正4年(1576)三
原城で51歳で亡くなりました。
左側が本堂、右側が祖師堂です。
日蓮宗大本山小湊誕生寺の末寺で、本尊は本堂の日蓮聖人奠定大曼荼羅です。安元・治承(1175~
1180)の頃、当地の豪族真田氏の菩提寺として創建された禅宗の寺でしたが、天正2年(1574)に
勝浦城主だった正木頼忠が父正木時忠の菩提を弔うため、亡くなったこの三原の地に日蓮宗として
再建したと伝えられています。
正木頼忠は、時忠の五男です。時忠が里見氏を裏切り北条氏に属した時、頼忠は人質として小田原
城におくられました。頼忠は小田原で北条氏隆の娘と結婚し、直連・為春・於万をもうけました。
時忠と兄の時通が北条氏を見限って里見氏に再属してしまい、頼忠は北条氏の縁戚であるので殺害
はされなかったものの、その日常生活は厳しく監視されていたそうです。
兄にの時通が急死、父も死去したため、天正6年(1578)頃、勝浦城に戻り、勝浦正木氏の家督を相
続しましたが、妻や子どもたちは小田原に残すことになりました。いろいろあり、直連・為春を上総
に呼び戻し、母は蔭山氏広の室となり於万は氏広の養女となしました。
その後、慶長元年(1596)於万は、徳川家康に見初められ側室になりました。於万17歳、家康54歳。
慶長7年(1602)に長福丸(後の徳川頼宣)、翌年に鶴千代(後の徳川頼房)を産みました。
祖師堂には、於万の方寄進の科註箱(高座の説教の時に教本・道具を入れておく箱)があります。また、
駕籠もあったようですが・・・今は、担ぎ棒が残されています。
正文寺境内には、いろいろなものがあります。
大檀那正木環斎(頼忠)の墓(市指定史跡)があります。
子の為春が紀州藩徳川頼宣の家老となり、里見氏改易後に紀州へと赴いて元和8年(1622)没しました。
いぼ観音です。
砂岩で出来ています。十一面観音と思われますが、風化がすすんでいて、頭部の化仏がいぼのように見
えるので、いぼ観音と呼ばれています。耳が蛎殻のように見えるので、耳の悪い人が願をかけ、病が癒
えるとお礼に蛎殻を納める信仰が伝わっています。
やぐら・磨崖阿弥陀三尊像です。
奥の壁面に三体の仏像が浮彫にされ、一部彩色が残されています。中世の阿弥陀三尊像と思われますが、
仏像は大きく破損しています。
やぐら・磨崖五輪塔(市指定史跡)です。
14世紀(鎌倉~南北朝期)に造られたと推定されるやぐらで、五輪塔の浮彫が奥壁に1基、左側に2基、
右側に1基あります。中世にこの地を支配して真田氏(三浦氏一族)の墓所という伝承があります。
他にもありますが、正文寺だけで終わってしまいそうなので、次にいきます。
三原城跡・大庭遺跡へ。
正木時通の居城と言われています。勝浦城主の正木時忠は家督を時通に譲り、古里の三原に隠退してこの
地で亡くなりました。また台地の畑は大庭遺跡といわれ、縄文土器片や黒曜石が出土したそうです。
次は、小社(おちょうや)へ。
境内には、天保年年間の石灯篭、弘化4年(1847)の手水石があります。
三原川を渡り、日枝神社へと向かいます。
写真を撮り忘れてしまいましたが、祭神は大山咋神。元禄3年(1690)に小川村向根組の信徒が勧請したと
いわれ、地域の人々は「山王様」と呼んでいます。
日枝神社のすぐそばに、やぐら・磨崖五輪塔がひっそりとあります。
15席(鎌倉~南北朝期)頃に造られたそ推定されるやぐらが3基あり、13基の五輪塔がそれぞれ時代
を異にして彫られています。
近くには、和田の真浦地区に抜けるトンネルがあり、内部には防空壕があります。
近くにいたおばあちゃんやご近所さんに少しお話しをうかがうと、「昔はここから真浦の海に泳ぎに行っ
たんだよ」とか、「牛を飼っていた家が多かったので、牛が死んでしまうと、ここに石仏を置いたんだよ」
とか、空襲警報がなると、「小川地区の人も、真浦地区の人もこの防空壕に避難したんだよ」とか、「変な
人が入ったら困るから防空壕は入れないようにしてもらった」とかお話を聞くことができました。
次は、常宣院殿妙達尊尼の墓へ。
ツアー当日は雨だったので、墓までは行きませんでしたが、下見時に撮ったので、ご紹介します。
正木頼忠の妹で、上総国東金城主酒井氏に嫁した女性のお墓です。父の菩提寺が見える場所に造ったと
言われています。
次は、天御中主神社(あめのみなかぬしじんじゃ)へ。
千葉氏の末流とされるこの地の豪族境井氏が創建したといわれ、戦乱で荒廃した社殿を正木頼忠が
慶長年間(1596~1615)に修復しました。天御中主命はむかしから妙見尊星王とし崇敬され、千葉氏
の守護神としてお祀りされています。また妙見菩薩は主として日蓮宗で崇敬されています。
次は、妙達寺へ。
日蓮宗の寺院で、正木頼忠の妹で東金城主酒井氏に嫁いだ、常宣院殿妙達尊尼の菩提寺です。
慶長17年(1612)に、正木頼忠が菩提を弔うために建立しました。本堂の向拝には、三代後藤義光
の彫刻があります。
後は、正文寺へと戻ります。朝は、裏から正文寺に行きましたので、帰りは仁王門から入ります。
宝暦5年(1755)、第14世住職日証の代に建立され、その時仁王尊が誕生寺からおくられました。
頭部が大きく六頭身ということで、室町期の作と考えられています。
仁王尊は、小湊浦から舟に乗り、真浦へ。そこから人が背負ってこの地に運ばれたと伝えられてい
ます。
本当は、もう1カ所行く予定でしたが、雨が強くなる予報も出ていたのと、雨では滑りやすくなって
いるので、ここで終了しまいた。
行く予定だったのは、お塚という場所で、正文寺から少し行った場所にあります。そこは、紀州三浦
氏の遠祖・三浦義同(道寸)及び正木時忠・時道らの供養塔と旗本正木家代々の墓があります。
三浦義同と正木時忠・時通の供養塔は、紀州藩家老だった三浦長門守為積が建てたもので、旗本正木家
代々の墓は、寛政元年(1789)、正木左膳によって建てられました。
なぜ紀州藩の家老が・・・と思われたでしょうが、正木頼忠の子供の於万の方は、家康の子供を産んだ
というお話をしましたが、一人は、初代紀州徳川家、もう一人が初代水戸徳川家なのです。
里見氏改易の後、正木為春(正木頼忠の子・於万の方と兄弟)が紀州藩家老となり、三浦姓に戻したと
いいます。
さぁ、ここでなぜ三浦姓なのか・・・三浦義同(道寸)は戦国時代初期の武将で、東相模の小大名でした。
永正13年(1516)三浦義同(道寸)は、北条早雲に攻められ新井城(現神奈川県三浦市)で自害しました。
その子時綱が房州に逃れて里見氏に仕え正木姓を名乗ったと言われています。(諸説あります)
里見氏改易後、正木為春が三浦姓を名乗ったそうです。
書いてても頭の中が、ごちゃごちゃになってしまってますが・・・ちょっとお分かりいただけましたで
しょうか? 色々と考えると「?????」になってしまうので、この辺にしておきますが、三浦義同の
話は諸説あります。
今日はこれまでとさせていただきます。ありがとうございます。