ここの所、大雨の災害が多く発生しています。館山・南房総では、昨年9月に経験をしていますが、今回の九州地方の災害は、すごく大変な事になっています。特に熊本県は、震災でやっと復興してきたところ、新型コロナウィルス・大雨での災害・・心が痛みます。これから、夏に向けて台風の発生もあるかと思います。館山・南房総も備えておかなければなりません。
令和2年7月大雨災害に遭われた皆さまが、日常の生活に早く戻れる事を願っています。
今回は、当初予定していたのは「頼朝伝説と洲崎を訪ねる」でしたが、訪問する地区の方に多くの張り紙がしてあり、「新型コロナウィルスが終息するまで観光客は立ち入り禁止」となっていて、下見で歩いてるときも、地域の方の目が厳しい状況でした。
たしかに、高齢者の多い地域ですので、警戒心が強くなっているんだろうなぁ~と思い、コースの変更した次第です。
今回のコースは、緊急事態宣言中に予定していた「天面磯浜古道を歩く」を開催しました。
出発場所は、道の駅鴨川オーシャンパーク。
最初に訪れたのは、名馬橋。
この付近には、頼朝伝説があります。
頼朝が安西氏のもとに向かう途中、太海の太夫崎で休憩をしている時に、一頭の名馬を得ます。この橋の下の川で、頼朝が馬を洗ったことから、川を名馬川、そこにかかる橋が名馬橋となりました。
次は、岩屋山波切不動堂へ。
参道には、鴨川の石造物百選に選ばれている「百番観音」があります。
雑草に覆われてしまっていますが、観音像が多くあります。百番観音ですので、百体あるかと思われますが、損壊などが進み百体ない状況です。年代でみると、寛政10年(1798)や享和2年(1802)などがみられますので、数年かけて建立したものと推察できます。観音信仰は、法華経の観世音菩薩普門品(観音教)に、観世音菩薩は三十三に姿を変えて衆生を教化し救う事が説かれていて、聖徳太子が法隆寺に救世観音を安置して以来、観音信仰が広まったそうです。
お堂へ。
本尊は11面観音。詳細等は不詳です。
お堂の前(脇)には、鴨川市の石造物百選に選ばれている倶利伽羅竜王と狛犬があります。
お堂に向いて左側に倶利伽羅竜王があります。
紀年銘は確認できませんが、江戸時代後期のものだと言われています。
倶利伽羅竜王は不動明王の変化身だと言われています。
本堂向かって右側には、狛犬があります。
普段ご紹介している狛犬と異なった狛犬です。嶺岡山系産出の蛇紋岩で造られていて、江戸時代後期に地元の石工によって製作されたものと考えられています。愛嬌のあって可愛い狛犬です。
ここにも、源頼朝の伝説があります。
不動堂の側に駒穴があります。先ほど名馬橋のところで少し話をしましたが、付け足しです。
頼朝は、付近に馬の蹄の跡が多いことに気付き、家来に探させると、洞窟の中で一頭の馬をみつけました。頼朝は滝から流出した川で馬を洗ったといいます。その馬は「太夫黒(たゆうぐろ)」と名付けられ、頼朝の愛馬となり、のちに義経に与えられたそうです。この馬が、一の谷の戦いで有名な鵯越えの逆落としを結構したときの義経の馬だそうです。太夫馬については、いろいろな地域でお話しが残っていますが、今回はここでの話という事にしておきます。
境内には、穴の開いた石があり、これらを馬蹄石と呼ばれ、名馬の蹄のあとと伝えられています。
今回は、雨が降ったあとだったので、不動滝の勢いが素晴らしかったです。
波切不動を後にし、大夫崎の方を通り出世不動前を通り四社神社へ。
祭神は瓊瓊杵尊・木花開耶姫・大山祗尊・誉田別尊の四神です。詳細等は不明です。
すぐ隣にある西徳寺(天面善光寺)へ。
真言宗智山派の陣で、山号は龍光山。本尊は不動明王です。創建の年は明らかではありませんが、明治後期にまとめられたと思われる寺院明細帳によれば、慶長9年(1604)の大津波によって建物や伝来の古文書類が流失してしまいました。慶長11年に長空という僧侶が中興開山したといいます。境内の阿弥陀堂には信濃国(現長野県)の善光寺の創建者と伝えられる本多(本田)善光が、善男善女の寄進した金銀財宝を基にして鋳造した48体の尊像の一つと言われている、善光寺式阿弥陀三尊が祀られています。三尊像は、もとは波太の宝幢院に安置されていましたが、慶長の津波で慶長年間(1569~1614)に西徳寺へ移されたと伝えられています。
西徳寺に伝来する「阿弥陀如来略縁起」によれば、当地を支配した有馬氏は、七堂伽籃を建て厚く信仰していましたが、有馬氏の没落後に来た領主は、全く信仰心のない人で伽籃を破却し、如来像は打ち壊そうとしました。その時、にわかに異変が起こり、領主寵愛の息女が急死し、家人の多くが狂気しました。阿弥陀如来の天罰の示現に愕然とした領主は、尊像を即時に本所に送り戻し、旧悪を改め仏法に深く帰依しました。寺主と里の民は力を合わせ、近隣・郷党に広く助成を求め堂を再興しました。慶長9年(1604)の冬、大津波が房州の沿岸を襲いました。民家を押し流し堂宇も流失してしまい尊像を失い、人々は悲しみました。ところが天面村の鎮守である四社神社の井戸が夜な夜な光を発していました。早速占ったところ、「尊像はこの井戸に在します」とのお告げがあり、井戸を掘ると井戸の底で釜を被った状態で三尊が輝き現れました。
阿弥陀如来三尊は、南北朝時代から室町時代の作品と考えられていて、千葉県の文化財に指定されています。
西徳寺の境内には、鴨川市の石造物百選の2つがあります。
まずは千手観音。
千手観音を石で造る例は少なく、安房の中でも単独で造られたものは少ないといいます。文化10年(1813)に建てられたものです。
千手観音の奥に十九夜塔(如意輪観音陽刻)があります。
享保2年(1717)に当地の十九夜講の人たちによって造立されたものです。十九夜講は、十九日に拝む女たちの念仏講です。如意輪観音は血の池地獄で苦しむ女性を救う仏と言われています。地の池地獄の苦を逃れるものであったり、安産や育児、婦人病の回避などの女性特有の祈願だったのだと思います。如意輪観音は、墓塔にも刻まれています。
次は、西院の河原地蔵尊へ。
全国に「賽の河原」は数多くありますが、「西院の河原」と呼ばれるのは千葉県でも唯一。幕末期、この地を治めていた岩槻藩の藩士が天面にやってきて砲台を検分した時の日記に、「砲台の左方にサイノカワラの石積みがある」と記してあります。
国道128号線が出来るまでは、海岸で石をひろってきて西院の河原に積んでいいたそうですが、国道ができてからは石を拾ってくることができなくなり、石積みは途絶えたそうです。
少し賽の河原の説明を・・・
三途川は、現世とあの世を分ける境目にあるとされています。三途川のほとりには「賽の河原」と呼ばれる河原があり、死んだ子供が逝く場所と言われています。そこで子供たちは、親よりも先に死んだという親不孝の罪の報いを受けるのです。
鬼は、「こんな土壇場にきて、早死した罪に報い、まだ善行を積んでいないというのでは、先ず三途の川を渡れないが、それに気付くのが遅かったのには目をつぶってやろう。しかし、日の出から日の入りまでの間に、大きな石を運んできて塚を築き、日の入りから日の出までの間に小さな石を拾って塔を築きなさい。そうすれば川を渡らせてやろう。
「ひとる積んでは父のため、ふたつ積んでは母のため・・・」子供たちは悲しげにうたい、父母恋しと泣きながら石を泥と血にまみれながら、一つ一つ積み上げて塔を作るのです。やっと出来上がった塔を、鬼が回ってきていいます。「お前たちが積む塔は、歪んでいてみっともない。これではご利益もないだろう。さっさとこれを積みなおして成仏を願え」と無情にも壊してしまい、また最初から作らなくてはなりません。何度も何度も作り直しても鬼がきて壊されてしまいます。泣き叫ぶ子供たちに、最後は地蔵菩薩が慈悲の手を差し伸べてくれるという話です。
ここの西院の河原には、水子や幼い子供たけでなく、未婚の若者がども供養されていて、多くの地蔵さんが祀られ、たくさんの玩具や人形が供えられています。考えさせられる場所です。
あとは、出発地点へと戻りますが、今回のメインイベント、JR東日本山生橋梁を下から見に行きます。
山生橋梁は、前兆1,647.8m、脚高11.5m、幅5.9m。国道128号線の房州大橋と並び、JR内房線江見~太海の海岸線をまたぐように、架けられた鉄道橋としては日本初の鉄筋コンクリートT型はり形式の橋梁です。大正13年(1924)の房州西線(現在の内房線)の延伸に合わせて、大正9年(1920)に、鉄道院総裁官房研究所・柴田直光の設計により建造されました。橋梁は、海岸線に沿って緩やかにカーブし、橋脚の一部は満潮時に浸水する厳しい自然環境下に作られました。特に塩害による鉄筋の腐食が心配されていましたが、昭和58年(1983)に行った調査では一部に鉄筋の発錆などがみられましたが、おおむね健全でした。入念な施工を行えば、このような環境下でも長期使用に十分耐えられる鉄筋コンクリート構造が実現できることを証明した橋梁でもあります。平成24年度(2012)に関東の土木遺産として認定されました。
いつもは国道を車で通ってしまって下から見るなんて考えもしなかったのですが、下から見ると迫力があります。この橋梁が約100年近くここに建ってると思うと、素晴らしい技術なんだなぁ~と思わせてくれます。下から見るには、干潮時でないと厳しいものがあります。
あとは、出発地点へと戻ります。
今回のコースは、普段車で通り過ぎてしまうような場所ですが、歩いてみると素敵な場所が多くあります。地元でも見過ごしてしまっている場所でした。
最後に、今回「賽の河原」の話を少し書きましたが、最近TVで置き去りにして3才の子どもが亡くなってしまった事件がありましたが、この世で苦しんだ分、早く地蔵菩薩が慈悲の手を差し伸べてくれる事を願っています。