ご無沙汰しております。緊急事態宣言出てから、ウォーキングツアーも自粛していました。
新型コロナウィルスの関係で、当倶楽部はかなり厳しい状況になってしまいました。夏のウミホタル観察会をどうするか?とか・・・ウォーキングツアーどうしようか?とか・・・緊急事態宣言が解除されましたが、地域の中には、他から来てほしくないという地区もありまして・・・ウォーキングツアーのコースの変更があります。(ウミホタル観察会は開催予定です)
県またぎの移動が解除された6月20日の月イチツアーは、5月に中止としました「にしざき民話の里を歩く」に変更して開催しました。マスク着用のウォーキングは、この時期大変ですが、熱中症対策をしながらあるきましたので、報告します。
集合場所は、休暇村たてやま前の公共駐車場からです。今回散策するエリアには、多くの民話が残されていますので、それを紹介しながら巡ります。
まず最初に訪れたのは、金山神社。
祭神は、金山毘古神。早物地区の鎮守で、鉱山や金属技工の神が祀られています。
次はすぐ隣にある観音堂へ。
文政8年(1825)の六十六部廻国供養塔があります。
次は、西岬地区公民館(昔西岬東小学校)へ。門を通った直ぐの所に孝子新四郎の碑があります。
太田新四郎は、江戸時代の塩見の人です。両親への孝行から、寛政7年(1795)に領主から褒美を与えられたそうです。
次に、船越鉈切神社へ。
祭神は豊玉姫命。参道を登った奥に鉈切洞穴があり、この中に本殿があります。洞穴は、自然につくられた海食洞穴で、縄文時代の地球温暖化で水位が上昇して、崖地が浸食されて出来ました。洞穴の入口は、高さが最大4.2m、幅は開口部で5.85m、奥行き36.8mと大きく、縄文時代には住居として使われたらしく、土器や鹿角製の釣針・銛・魚の骨や貝などが発見されています。古墳時代に一部は墓として利用され、その後海神を祀る神社として、地元漁民の信仰をあつめています。昭和42年(1967)に県指定史跡になりました。宝物として独木舟や元禄10年(1697)に紀州漁民が奉納した鰐口などがあり市指定文化財です。7月の祭礼ではかっこ舞(市指定文化財)が演じられます。
ここで、伝説をお話しをします。
一つ目は...
昔むかし鉈切明神はこの地に渡って来られ、まずは使いの神様に鎮座する場所を探させました。使いの神様は上の宮(船越鉈切神社)の側にある洞窟に犬を連れて入ったまま帰って来ませんでした。再び洞窟探検に向かうと使いの神様はすでに亡くなり、恐ろしげな大蛇が棲んでいたので退治をすると、村人は安心して暮らせるようになったそうです。その後、犬だけは犬石(神戸地区)の岩穴から傷だらけで出てきたそうです。犬が出てきた地を犬石と呼ぶようになりました。
二つ目は...
大蛇は紫池にいて村人に悪さをするので、退治すると傷を負った大蛇は池に逃げました。大量の血で池や川が紫色に染まったので、海岸の大岩を鉈で切り裂き海に血を流しました。それ以来、池は紫池と呼ばれ、死んだ大蛇が横たわっていたので、蛇骨川と名が付きました。
以前、洞穴の入口を開けてもらって中に入ることができ、写真を撮ってきたのでここで載せておきます。
あと伝説で大蛇を退治したといわれる鉈も見せてもらいました。
二枚とも8年位前の写真です。鉈の大きさをみて、少し驚きました。(もっと大きいものかと・・)
まだまだ、説明するところがありますが今日はこの辺で。
次は、高性寺へ。
真言宗智山派の寺院で、本尊は虚空蔵菩薩。むかしは船越鉈切神社の別当寺だったことから、神社の祭礼の時には、かっこ舞の行列がここの寺から出発していました。
御嶽神社へと向かう途中の川底には、カナクライシ(ビーチロック)を利用した橋の跡があります。前日に雨が降っていたので、増水していてあまり見えませんが・・・
カナクライシは、一般的にはビーチロックといいます。サンゴ礁が発達する海で潮間帯に多く見られる石です。炭酸カルシウムによるセメント作用で海の堆積物が固まったもので、板状の石灰質砂礫岩です。短期間で固まるので櫛などの人工物が混ざったりしています。
御嶽神社へ。
祭神は日本武尊。塩見地区の鎮守で、本殿の彫刻は後藤三四郎作。後藤三四郎は後藤義光の師匠である江戸の後藤恒俊と思われます。境内にある岩はご神体岩と伝えられています。
次は善栄寺へ。
真言宗智山派の寺院で、本尊は阿弥陀如来。本尊について口上書が残されていて、江戸時代に善栄寺の本尊が盗難にあい、廻り廻って麻布善福寺(東京)で開帳されたところを、檀家が発見し、檀徒の六兵衛と四宮又兵衛の尽力により7年越しに戻ってきたといいます。またあざとり阿弥陀として信仰されています。戦後に地区内にあった宝蔵寺を合併しています。安房百八か所地蔵の第99番札所で、明治6年(1873)の御詠歌額が松の堂に残されています。
次は、松の堂へ。
江戸時代の幕府老中の松平定信が訪れ、臥龍松と名付けた大きな松があった観音堂です。安房郡札観音の三十番札所で、「霧の海 霞に浮かぶあま人の むりの願いも浜の観音」が御詠歌です。
臥龍松の写真です。
松は東西に50mも枝を広げていましたが、大正の大震災頃から枯れはじめ、戦争中に消滅してしまいました。当時は、名勝として知られていました。松があった跡地には、旧道から松の堂への入り口に建てられた道標が移設されています。
次に、中原淳一詩碑へ。
中原淳一は、少女雑誌の編集や人形作家・挿絵作家、またファッションデザイナーなど多彩な活躍をしていた人です。
昭和35年(1960)47歳の時に、心臓発作を起こして入院。仕事の禁止と5年間の安静を宣言され、「海の近くで静養したい」という願いから、塩見の網元の離れを借り生活していました。その後、体調も回復し仕事を始めましたが、再び倒れ、塩見にあったシャンソン歌手、高英男さんの別荘で療養し、昭和58年(1983)に70歳で永眠しました。
詩碑は平成14年に土地所有者らの協力で建立されたものです。
海岸線を通りながら、次の目的地、海南刀切神社へと向かいます。
祭神は刀切大神。船越鉈切神社は、かつて一つの神社として信仰されていました。拝殿向拝の龍や獅子の彫刻は、明治の彫工・北条の後藤忠明によるものです。現在は、向拝の龍は2019年の台風以降、社殿へと置かれています。
社殿の壁面の天岩戸伝説やヤマタノオロチ伝説の彫刻は見事なもです。細かい作品は、弟子と共に作成しています。
社殿内には、日本画家・岩崎巴人画伯が描いた風神・雷神の絵があります。
民話(伝説)をご紹介します。
1つ目は。
昔むかし、鉈切岩は近づく事が出来ない断崖でした。鉈切明神は丸木舟でつきましたが、上陸することができませんでした。鉈切明神は持っていた鉈で岩を切り裂いて上陸したといいます。
2つ目は。
里人の言い伝えによると、鉈で切った岩の間は、孝行な人は傘をさしても通れますが、不孝者が通ると両方の岩が合わさって、一つの山になり決して出ることが出来なくなると言われています。
3つ目は。
ある夏の昼下がり、白い幣束を一本立てた丸木舟が流れてきました。夜のうちに鉈切山の頂上に打ち上がっていました。そのうち舟を削ってのむと、癪が治ると評判になりました。近くに住んでいた欲張り婆さんは、夜のうちに大量に削って隠していましたが、その後、その家は滅亡してしまいました。
今回のお客様は、大丈夫だったようですので、あとは、出発地点へと戻ります。
久ぶりのウォーキングツアーだったのもあり、急に暑かったので、大変でしたが、無事に終了する事ができました。
これかも、新しい生活様式でマスク着用が必要かと思いますが、熱中症には気を付けてツアーをやっていきます。