暖かかったり、寒かったりと、なんだか変な天候な館山・南房総。最近は、新型コロナウィルスの感染のニュースが騒がれていまて、同じ千葉県にある勝浦市では、第一便で帰国した人たちが、滞在しているため、風評被害が起きてるとか・・・もう少しすると、勝浦ビッグひなまつりも始まりますので、是非!!足をお運びください。
新型ウィルスも心配ですが、花粉の季節がやってまいりました。ドラッグストアやホームセンタ-ーにはマスクが品切れで少し困っております。早め早めに花粉症の薬を飲んでいたので、少し良いのかなぁ~なんて思ってますが、マスクが品薄では・・・一応、1月の終わりにマスクを2箱購入しているので、なんとかもって欲しいです。
さて、2月に入り月イチツアー「真野の大黒さんと古道を歩く」を開催しましたので、報告します。
1月の月イチツアー・お散歩ツアーは、雨で延期となってしまったので、久しぶりのウォーキングツアーを開催する事ができました。出発場所は、九重小学校近くの空き地をお借りして、ここからスタートです。先ずは、薗の堰のはずれにある石造物郡へと向かいます。
小山を上った所に石造物郡があります。
山王石碑や三山碑・浅間様が祀られています。
小山の下には、馬頭観音碑があり、古道のにぎわいを感じさせる場所です。
住宅地を抜けると昔の千倉街道へと入って行きます。
昨年の台風の影響で、樹々が倒れている場所が多くありました。
ですが・・・林道上には倒木が少なく真野寺までの間は歩きやすくなっていました。
途中、小さな石仏があります。
この後ろ側の小高い平地にいくつかの塚があり、燈篭塚と呼ばれ古墳時代の円墳とされています。昭和の初め頃、5基の円墳が報告されています。残念ながら今は、藪の中です。
千倉街道を進んで行くと、大井に下る三叉路にあたります。そこには、ばあ神とよばれる、縄文時代の石棒を祀った石宮があります。石棒は、縄文時代中期以降に現れる棒状の磨製石器で、用途は明らかではないそうで、生殖器崇拝、武器、権威の象徴、穀物するつぶし具などの諸説あるそうです。
この近くには、明治30年ころまで茶店があったといいます。
ここから、真野寺の方へと進むにつれて、猪の足跡や蒐場現れきますが、鹿島塚の国見松跡へと向かって行きます。5年前に来た時には、ここの存在を知らなかったのですが、下見の際に看板がり整備もされていたので知る事ができました。
鹿島塚の国見松跡ですが、南房総市の昔話に「高倉山の五本」といお話しが載っていたので、ご紹介します。
むかし真野の大黒様(高倉山真野寺)に、大きくて立派な松の木が五本ありました。一番有名だったのは、「鹿島塚の国見松」で、源頼朝が伊豆の石橋山の戦に負けて、安房国に逃げて来た時、この松に登り、安房国全体の様子を見たのだと言われていましたが、惜しいことに昭和の中頃、枯れてしまいました。その時、立派な由緒のある松だったからと、その太い幹で臼を作ったそうです。国見松の生えていた鹿島塚の名称は、遠いむかし、真野の大黒様が鹿島から運んで来た、建物の礎石や神道に敷く土砂を、一時、山のように積んでおいた所だったため、いつの頃からそう呼ぶようになったのです。枯れた松の跡には二代目の国見松にしようと、新しい松を植えましたが、それも間もなく枯れてしまいました。他の四本も、それぞれ由緒を秘め「中尾の影向松」「山神宮の一本松」「燈籠塚の光り松」「蔵王堂の岩割松」と呼ばれ、「鹿島塚の国見松」と共に高倉山の五木として有名でしたが、全て枯れ今はありません。昔むかし存在したという伝説の松になってしまいました。
というお話しでした。
いよいよ、真野寺へと向かいます。
途中、猪の蒐場に、カエルの卵らしきものが・・・(後日、サンショウオの卵だとご連絡ありました)
この水が無くなってしまったら、どうなるのか少し心配です。
木々に囲まれた道を進み明るく開けた場所に出ると、真野寺の梵鐘が目の前にあります。
大祭でもありますので、ここで、一旦自由行動になります。
真野寺についてご紹介します。
真言宗智山派の寺院で、本尊は千手観音像。神亀2年(725)奈良時代に1㎞東の高倉山山頂に行基菩薩により開山されましたが、建永元年(1206)鎌倉時代に野火で焼失し、翌年、大黒天を厚く信仰していた北条義時が、私財で七堂伽籃を現在の地に建立しました。その後も安房の国主・里見義堯や江戸時代には徳川家の加護を受けていました。
本尊の千手観音像は、神亀2年(725)、行基菩薩によって一木から彫り出したと伝わっています。行基菩薩の御霊作といわれるだけに、他に例をみないほど霊験あらたかで、非常に強い観音さまなので、非道邪念の者が参詣すると、たちどころに、その非道邪念を見破り、厳しい仏罰をあたえたというのです。恐怖で参詣者が途絶えるようになってしました。歳月が流れて貞観2年(860)、この地を遊行された慈覚大師が、この話を聞き、本尊千手観音像のお面を彫り、御慈眼を覆いますと、不思議なことに、千手観音像は、参詣者たちに厳しい咎めはなく、優しく諭してくださるようになったのです。いつしか覆面千手観音像と呼ばれるようになりました。11月23日には、本尊である千手観音像の御開帳が行われます。
次に、大黒様のお話しを・・・
大黒天大祭と呼ばれる縁日は、例年2月6日に行われています。お祀りされている大黒天像のいわれは、寺伝によりますと、貞観2年(860)この地を巡錫中の慈覚大師が訪れ、参籠中の旧正月6日、朝日の昇天を拝んでおられますと、大黒天が現れたので、大師は直ちにこの御尊像を一刀三礼により、お刻みになったのが、この大黒天像(像高140㎝)であると伝えられています。そのため、朝日開運の大黒様と呼ばれ、縁日には朝早くお参りするほどご利益があると、午前零時に打ち鳴らす大梵鐘の音を合図に参詣が始まるのです。客殿では、「宝槌」と「柳守」を授与しており、宝槌を授かれば人生一切の不運不幸を夢のごとく消散して、希望溢れる開運福徳に恵まれるといい、柳守は、柳のように柔軟でねばり強く、柳の枝に結わえ付けられている紙袋の中には、もち米のはね煎りが入っていて、八倍まで繁盛するようにとの願いが込められてています。
(※行基菩薩・・668年~749年。河内国大鳥郡蜂田里に生まれ、15歳で出家し、24歳の時に高宮寺で受戒し、飛鳥寺に入って日本に法相宗を伝えた道昭の弟子になります。生駒山地で修行をし、生家を家原寺として、民間布教を開始します。布教とともに貧しい人を助けるために布教屋と呼ばれる無料の宿泊所を作ったり、治水工事や架橋工事などの慈善事業を行ってきましたが、50歳の時に朝廷から「僧尼令」違反として行基の活動を禁圧されましたが、布教活動をつづけ、やがて1000人もの弟子が集まりました。こうして行基活動が拡大すると、朝廷は行基の活動を許容することとなり、743年に廬舎那仏造立を発願した際には、聖武天皇が行基を造立の中心的な役割を担う勧進僧に任命。745年には、日本初の大僧正の位を授けるのでした。大仏の完成をみることなく749年にお亡くなりになりました。ちなみに、師の道昭は、唐に渡って玄奘三蔵(西遊記のモデルといわれています)から教えを受けたことで有名な僧侶です。)
自由時間を満喫し、お弁当も食べ、午後からの行程へと進みます。
真野寺から手力雄神社へと向かいますが、これまた古道を通って行きます。今は、きちんと舗装した道が出来ていますが、あえて古道を通ります。こちらの道は、道上に大きな木が倒れていました。
途中に道標があります。
真野寺と大井を結ぶ旧街道の堀切に「まのじちか道」と彫られた道標。昔、往来の通行人に真野寺への近道を案内したものです。
道標から切通しを少し歩くと、お地蔵様が岩の所にあります。
往来する人々を見守ってくれていたと思われます。
何か所かの障害物を抜け、手力雄神社へ。
主祭神は、天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)で、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)・太田命(おおたのみこと)の三柱を祀っています。天手力雄命は、天岩戸神話で、天照大神が天岩屋に隠れていたのを天手力雄神が岩戸を開き天照大神をお出ししたという神話です。その神話から天手力雄命は大力の武勇の神として、武士の間で信仰が厚く、里見氏や徳川家から朱印地43石3斗を賜りました。
拝殿の右側に古事記天岩戸の場面が彫られた額があり、明治44年(1911)後藤義信の作です。
本殿は、三間社流れ造。天正12年(1584)、里見義頼が造営。元禄16年(1703)元禄大地震により破損、宝永6年(1709)に修理・改修されました。屋根は桧皮葺(ひわだぶき)(元は柿葺)、柱などの軸部は朱塗、彫刻は極彩色で彩りよく仕上げてあります。向拝の虹梁や蟇股、木鼻彫刻、脇障子や妻飾などは江戸時代中期の特色を示していますが、身舎の組物、蟇股、垂木の反り、手挟の先端や通肘木の地紋彫などは桃山時代の特色を示し、二の装飾技法が入りまじった独特の雰囲気を出しています。昭和55年に県の有形文化財に指定されています。
今回は、宮司さんがいらっしゃっていまして、お話しを聞く事ができました。ありがとうございます。
ここからは、舗装された道を歩いていきます。手力雄神社の近くの民家の敷地に止止山鼻(とどやまのはな)大岩屋跡という碑が建っています。
手力雄神社裏の止止山丘陵端(記念碑の場所)に、むかし岩穴があったといいます。この碑には、この碑を建てたタロベイ家は、かつて手力雄神社の別当を勤める円行寺という修験であったことなどが書かれています。
大井城跡の下を通り、出発地点へと戻りますが、途中六地蔵の道標があります。
この場所は、北西が府中(三芳)、西が北条・館山、東南が宇田坂を越えて千倉、東方区が加茂坂を越えて和田方面へ行く街道の交差点でした。正徳4年(1714)江戸中期の地元の念仏講と巡礼講の人々が建てたもので、ここから館山まで1里29町、松田(和田町)まで1里20町とあります。
ここが最後の見学場所です。出発地点へと戻ります。
今回は、天気に恵まれ、無事に戻って来れました。来年は、夜のうちに行ってみたいと思うのですが、寒さと眠気に負けてしまうでしょうね。昔の人は、電気もなく暗闇を進んで、山道でお参りに行っていたと思うとすごなぁ~と思います。今回の道を、夜中に行ったら、すご~く怖いだろうなぁ~。イノシシとご対面もしちゃうだろうし・・・昔の国道だけど、ちょっと無理でしょうね。
今回は真野の大黒さんに合わせて開催したので、出店が数多く出ていていろいろと誘惑があり、うずらの玉子入りのたこ焼きとベビーカステラをゲットしてきました。うずらの玉子入りのたこ焼き屋さんは、安房地域では、館山のまつり・館山の花火大会とここ真野の大黒さんだけの年3回しかこの地に来ないのです。たこ焼き屋さんは、男前でいつもはたこ焼き5個なんだけど、台風とかで大変だったからって今回は6個入っていました。お家に帰って、温めて美味しくいただきました。
最後は、たこ焼きの話でごめんなさい。
追伸:一月のお散歩ツアー「滝口下立つ松原神社と鹿倉山」ですが、3月5日(木)に再設定しましたので、是非、ご参加下さい。かなり足元が悪い場所もありますので、トレッキングシューズでお越し下さい。お待ちしております。