お散歩ツアー「西岬の小道で江戸時代の遺産に触れよう」報告

暑くなってきた館山・南房総。でも・・・木陰の下では、海から吹く風が心地よい。
そんな中、お散歩ツアー「西岬の小道で江戸時代の遺産に触れよう」を開催してきました。
今回の、ウォーキングエリアは、花の栽培が盛んな地域で、この時期はひまわりの栽培が
行われていました。

出発は西岬地区公民館分館からです。
IMGP3085

まずは、坂足にある長江山照浪院へ。あっ!「坂足」と書いて「さかだる」って読むん
です。地名の読み方って難しいですよね。
入口には、前不動があります。
IMGP3087

ほんの少し歩くと本堂に辿り着きます。
IMGP3100
地元では「波切不動」と呼ばれているお堂です。大漁、海上安全のご利益があるということで、
多くの信仰を集めていました。
波切不動尊の縁起によると、「足利尊氏の時代(室町時代頃)、坂足村では七晩続いて海上から
山上の木の枝に竜灯(火の玉)が移動しました。ある夜の夢に竜王が自分の懐に入るのを見た
村人が翌日漁に出ると、夕方の海の中に輝くものを見つけました。網には不動明王の木造が掛
かっていました。これを山頂に安置して大漁と海上安全を祈ると、願いがかないました。波切
の尊像と言って今も皆が信心しています。」との事です。

IMGP3090
文化12年(1815)の六地蔵です。可愛らしいお地蔵さんです。

次に向かったのは、如意山宝安寺。
IMGP3102IMGP3104
曹洞宗の寺院で本尊は木造虚空蔵菩薩です。本尊は南北朝時代から室町時代にかけての作と
考えられています。

大正時代に住職をしていた岩永益禅(昭和27年没)は、西岬地区に花づくりを広めた人なん
です。安房地方に金盞花の種子が渡ってきたのは大正2年です。西岬坂井地区の和城家の次男
常吉さんが、横浜の港でヒヤシンスの球根と金盞花の種子を見つけ、花好きだった岩永益禅住
職のために入手しました。住職は早速栽培したところ、金盞花は大きく葉を広げて伸び、旺盛
に育ちました。暖かい気候にはぐくまれて、美しいオレンジ色の花を咲かせたので、切花とし
て東京の築地に持参したところ、それが米二斗分に当たる値段で売れたのです。そこで、住職
は種子を採ってお寺の畑に本格的に金盞花を作り、切花の生産を行うとともに、村人にもその
栽培をすすめました。大正9年に和田町の間宮七郎平氏らも住職を訪ね、金盞花の種子を譲り
受けて作り方を教わっていったそうです。その後、白浜町でも栽培されるようになりました。

境内には、寛政5年(1793)に安心房という人が奉納したお地蔵さまがあります。
IMGP3109

次は、道路から少し階段を上がったところにある大きな地蔵尊へ。
IMGP3115IMGP3116
少し赤っぽい石のお地蔵さまです。この石は安山岩でできているそうです。
地蔵尊の隣には、青面金剛の庚申塔と二十三夜塔があります。
IMGP3117
二十三夜塔とは、二十三夜の月が出るのを待って、お念仏をして飲んだり食べたりする月待行事
に関連して建てられた碑です。

すぐ下にある日露戦役戦没者碑です。
IMGP3121
明治39年(1906)に日露戦争で戦死した陸軍近衛工作上等兵の碑です。
このころは、戦死してしまうと碑を作れる状態だったんですね。その後、戦況が悪化して
行くと戦死した人の個人の碑はまったくと言っていいほど見られなくなります。

次は、諏訪神社へ。
IMGP3124IMGP3127
祭神は建御名方命(たけみなかたのかみ)と八坂刀咩命(やさかとめのかみ)。
こちらの諏訪神社は山の中腹にあり、もう一つは平坦地にあります。長野県の諏訪大社を
意識して上諏訪、下諏訪として祀ったのかな?と想像できます。

次は、地蔵堂です。
IMGP3136
松寿山地蔵堂。かつては安房108箇所地蔵巡礼の97番目の札所でした。
IMGP3129IMGP3132
天明4年(1784)、寛政10年(1798)、文化元年(1804)、文政元年(1818)の出羽三山碑や、
嘉永から明治の馬頭観音が並んでいます。

次に向かったのは、日光大権現です。
IMGP3151
日光の二荒山神社の日光権現を勧請したものです。
境内には、文政4年(1821)に奉納した手水鉢や文政11年(1828)に奉納した狛犬があります。
IMGP3148IMGP3149
なかなかの狛犬ですが、作者がわかりません。

次に向かったのは、居原台墓地です。
IMGP3156
宝暦6年(1756)の廻国塔、大日如来像が祀られています。

次は、諏訪神社へ。
IMGP3158
元々は、先ほど行った諏訪神社と一体と考えられます。

最後の見学場所・富士登山碑へは、畑の道を通っていき、出発地点の公民館の側に
あります。
IMGP3161
「富士一山二十八度大願成就」と書かれた山包講の富士登山碑があります。この碑には、
清行参伸という先達が、28度の富士登山を達成したということが書かれています。

ここに来る入口付近には、大日如来坐像や享保2年(1717)の銘記のある台座、中世の五輪塔・
宝篋印塔の一部などが積み重なっています。
IMGP3164
ここの大日如来さんは、よだれかけや赤い帽子を付けられてしまってます。
お地蔵さまではないのですが・・・

今回の見学場所はこれで終わりです。集合場所に戻り解散しました。
また旅倶楽部のウォーキングツアーは、8月はお休みになります。いやぁ~暑さには勝てません
からねぇ~。次回のウォーキングツアーは、9月11日の月イチツアー「幻の「皆倉」の滝と日本
最古の「柱木牧」を訪ねる」です。かつての和田地区と丸山地区を結んだ古道を歩きます。
是非、ご参加下さい。

月イチツアー「加賀名・波左間の陣屋跡と戦跡探訪」報告

7月に入りました。1年の半分が終わって後半戦へ突入ですが、7月に入りすごく暑く
なってきました。熱中症に気を付けないといけませんね。
さて、7月に入り第一日曜日に、月イチツアー「加賀名・波左間の陣屋跡と戦跡探訪」
を開催しました。当日は、暑さに加え風も強い1日でしたが、こんだけ暑いと風があって
良かったです。

出発場所は、休暇村たてやま前駐車場から、洲崎第一砲台を目指します。
最初に、洲崎第一砲台跡についてお話ししておきます。
洲崎第一砲台は、旧陸軍と旧海軍の協働により、昭和3年(1928)起工、昭和7年(1932)に
完成しました。軍艦生駒に搭載されていたイギリスビッカース社製の45口径30cm砲
(前部砲塔2門1基)を陸上に供え付けた砲台です。この砲塔は、横須賀海軍工廠で改造
され、分解され、見物海岸から陸揚げされ、標高約40mの高台まで、組立式の門型クレ
ーンやウインチなどにより、引き上げられました。
敵の艦船をみつけるための観測所は、坊の大山(房の大山)などに設けられました。
砲塔砲台は射程約26㎞で、約1tの砲弾が発射されるので、その時に受ける反動だけで
なく、敵の大型砲弾から防護することを考え、施設の外壁は暑さ3.5mの鉄筋コンクリ
ート構造になっていました。砲塔は分厚い鉄鋼で覆われた射撃室と、鉄筋コンクリート製
の地下施設から成り立っていて、地下部分の深さは13.5mで、施設内部も厚さ3.5m
の厚い鉄筋コンクリート構造といいます。

まずは、地下施設跡。現在小学校になっていますので、普段は見る事ができませんが、今
回は許可をいただき見せていただきました。
IMGP3060IMGP3063
入口は、安全の為にふさがっています。

坂道を上り砲台跡へ。現在は、私有地ですの勝手に入る事はできません。
IMGP3067
砲台のあった場所は、上手に花壇を作られています。

IMGP3069IMGP3068
ワンちゃんも一緒にガイドの話を聞いています。

次は、裏下の雑林の中にある地下入口です。
IMGP2943IMGP2946
地下入口の前に祠があります。

次は、山を下り、加賀名の鎮守、熊野神社へ。
IMGP2951IMGP2954
境内には、ヤグラがあり、中に一石で作られた五輪塔があるそうですが・・・・
ごみが溜まっていて、わからない状態になっています。

阿弥陀堂から波左間陣屋跡へ。
波左間陣屋跡は、今は畑だったりと家が建ってたりと「あったの?」と思うくらいになって
いるので、写真も撮っていませんが、少し解説だけしておきます。
文化7年(1811)に奥州白河藩に東京湾西側の房総沿岸警備が命じられました。藩主松平定信
は、洲崎に台場、波左間に陣屋を置き、江戸の防衛にあたりました。波左間の陣屋は、松ケ岡
陣屋と呼ばれ、砲台のある洲崎とともに、白河から500人もの人がやってきて警備にあたっ
たといいます。松ケ岡陣屋が使用されたのは、文政6年(1823)までの14年間でした。今でも
陣屋に近い光明院・西方寺・東伝寺には、白河藩関係者の墓が残されています。

さて、次は、稲荷神社へ。
IMGP2961
その奥には、熊野神社があります。
IMGP2959
熊野神社は紀州から移り住んだ人たちが建てたもので、現在もその子孫が守っているそうです。
稲荷神社の前には、明治6年(1873)に開校した波左間学校があったところだそうです。

本当は、海岸で昼食だったのですが、大風で食事が砂でジャリジャリになってしまうと大変なの
で、ここで昼食です。

昼食の後は、光明院と諏訪神社へ。
行く途中に、珍しいお墓があります。
IMGP2963
何の形に見えますか? 酒樽型のお墓です。なかなかないですよね。

光明院は、真言宗の寺院で、山号は青龍山。本尊は不動明王。本堂向拝正面には、後藤義光の彫刻
が施されています。本堂裏手の墓地には、波左間陣屋に配置された白河藩士たちの墓が数基残され
ています。
IMGP2964IMGP2967

お寺さんの上にあります諏訪神社へ。
こちらは、波左間地区の鎮守で建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀っています。
毎年7月1日に行われる祭礼では、国の選択記録無形文化財の「ミノコオドリ」が奉納されます。
IMGP3077DSC_0363
(「ミノコオドリ」の写真は数年前に撮影しました。)

見学場所も残り少なくなってきました。次に向かったのは、震洋格納庫跡と震洋滑り台跡です。
震洋とは、太平洋戦争がしたいに苦戦に陥ってきた頃、昭和17年(1942)のミッドウェィ-海戦の
大敗、ガダルカナル島防衛戦の失敗で、日本は不利となりました。兵器や燃料は不足し、ついては
搭乗員の死を最初から計画に入れた特別攻撃が行われるようになりました。そして、体当たり攻撃
のみを目的とした兵器も開発され、旧海軍の海の特攻兵器のひとつが震洋です。
船首に約250㎏の爆薬を乗せた長さ5mほどのベニヤ板製のモーターボートで、ガソリンエンジ
ンを搭載し、約20ノットで走行しました。入り江の奥の洞窟などから出撃して、上陸してくる敵
艦に体当たりすることを目標としました。 
昭和20年(1945)3月下旬から、波左間海岸から約200mとやや離れた山すそに、格納壕7本と
燃料や食料などの地下壕が掘られ、海岸まで移動させるためのコンクリート道路がひかれ、海岸に
はコンクリート製の滑り台や係留施設などが建設されていきました。同様に、西方約3㎞の栄の浦
にも同様な震洋の基地の建設も進めました。7月14日に第59震洋隊・真鍋部隊長らが、波佐間
基地に到着しましたが、主力兵器の「震洋」はまだ配備されず、8月13日になって、 6隻が基
地に到着しましたが、出撃する事なく敗戦を迎えました。
IMGP2971IMGP3082IMGP2972IMGP3083

ここまでが、今回の見学場所になりす。後は、海岸線を歩いて出発地点へと戻ります。
暑い中のウォーキングは、普段より疲れました。
皆さんも、外にでて運動・お仕事する場合は、十分熱中症に気を付けて下さい。

お散歩ツアー「岩屏風に囲まれた隠れた漁村」報告

梅雨明けしていない館山・南房総ですが、夏の匂いがしてきました。
6月21日にまた旅倶楽部では、お散歩ツアーを開催しました。前日の午前中は、曇り予報だった
ので、安心していたのですが、時間が経つにつれだんだんと予報が悪い方へと・・・・
当日になると、弱雨ですが降りはじめていました。警報が出ていないので、お散歩ツアーは開催
しました。

集合場所は、富浦町南無谷にある豊受神社。
IMGP3038
祭神は豊受大神。和久産巣日神(わくむすびのかみ)と弥都波能売神(みつはのめのかみ)の子で
五穀をつかさどる女神です。

お昼前後に大雨になる予報が出ているので、早めに出発します。
旧道を通り国道127号線を横断して石小浦・小浜地区へと進みます。
IMGP3041
旧南無谷トンネルは、明治31年頃に完成していそうです。全長191m、幅3.9m、高さ3.4m
あります。旧国道で、今では電気がついていますが、昔は、電気がなく真っ暗だったそうです。

トンネルを出てからの景色は、とても素敵な景色です。
IMGP3043
雨が降ってなければよかったのですが・・・

少し歩くと右側に鷹八幡神社があります。
IMGP3046
ここには、お話しが残っています。
昔、石小浦のある漁師が不思議な夢をみました。白髪の老人が現れて、「私は、遠く西方より
海を渡って来た八幡神である。汝に社殿を建ててもらいたい。その場所は、明朝、私の使いの
鷹が空から羽を落として教える。願いを聞いてくれたなら、火伏せの神となって石小浦を守ろう」
と言ったので、夢が気になり、夜明けを待って空を眺めていると、夢のお告げの通り鷹が現れ、
羽を一本落としました。漁師はさっそく、その場所に社殿を建てて、鷹八幡と名付けました。
それ以来、石小浦では火災がなくなったそうです。

鷹八幡にお参りした後は、池田弥三兵衛のお墓(左側)へ。
IMGP1459
慶長年間(1596~1615)に、泉州堺から南無谷の石小浦へ池田弥三兵衛という漁師がやってきました。
石小浦では、「イシゴラヨソベエ」と呼ばれ、弥三兵衛は、大消費地の江戸市場に目を付け、地元漁民
を雇うと長縄漁(はえ縄漁)を使い鯛漁を開始し、海岸の岩礁を加工して、周囲20mもある円形の生簀
を作りました。漁場を房州ばかりでなく、寛永年間(1624~1644)には、相州真鶴までおよびました。
弥三兵衛に指導を受けて進歩した鯛漁のお蔭で、富浦の鯛の漁獲量は関東屈指となり、相場を左右するほど
に成長しました。寛政6年(1794)に、子孫は真鶴に移転してしまいました。弥三兵衛の存在した証拠となる
ものは、このお墓にある延享元年(1744)に没した墓石と海岸の生簀が残っているだけでした。ところが、
弥三兵衛の一族が進出して行った真鶴の貴船神社に、鯛漁の記録文書が残されていて、弥三兵衛の事が
わかったそうです。

これが生簀です。
IMGP1466

中はこんな感じです。
IMGP3051
中もちゃんとできています。昔の人の知恵は素晴らしいです。

次に向かったのは金毘羅様です。
IMGP1462IMGP1460
金毘羅様のご神体は鰐(クンピーラ)と言われていますが、房州では甲殻が一丈(3m)もある大きな蟹
だといい、信者が海難に遭いそうになると、助けてくれると信じられています。
石小浦の船主・石井家が、江戸時代、四国讃岐の金毘羅大権現を勧請し、海沿いに横穴を掘ってお祀りし
ました。大正12年(1922)の地震により隆起するまでは、金毘羅様の横穴はいつも波が打ち寄せ、まるで
大きな蟹の棲み処のようだったと語り継がれています。

天気が良ければ、旧小浜トンネルを通り小浜海岸へ行く予定でしたが、雨が強くなってきましたので、
ここから、戻ります。
行く予定だった場所ですが、下見の時の写真と合わせて、少し説明します。
IMGP1467IMGP1469
旧小浜トンネルは、旧南無谷トンネルと同じ時期に出来たと思われます。
小浜海岸まで降りる砂浜の端の岩礁を加工した壕があります。ドックのような作りで、壕より直接海面に
進水出来る構造になっています。証言によりますと、戦時中は浦賀水道の敵潜水艦を監視するソナーを備
えた監視船が格納されたといいます。

豊受神社にあと少しのところで、南房総市の防災無線から警報の知らせが出ました。なんとか無事に帰路
に付く事ができました。

また旅倶楽部では、8月は外での活動(ウォーキングツアー)はお休みです。
8月は、「大人の学習旅行・川崎大師と周辺散策」のバスツアー企画しています。ぜひ、ご興味のある方は、
お問合せ下さい。

月イチツアー「古代鷹の島湊を探す」報告

梅雨ですねぇ~。っと言っても、関東では水が不足するのではないかと、心配されていますが、
まだ、梅雨に入ったばっかりなのでどうなることか心配です。

そんな梅雨の晴れ間に、6月の月イチウォーキング「古代鷹の島湊を探す」を開催いたしました。
出発は、館山市城山公園芝生広場です。
IMGP2975
ここでは、準備体操をして出発です。

最初に向かったのは、黒島。お堀の跡をみながら、歩いて行きます。
IMGP2980IMGP2982
元禄地震前までは海に浮かぶ岩礁で、高の島・沖ノ島・黒島が鏡ケ浦三島と呼ばれていたそうです。
どこに島?っと思うかもしれませんが、稲荷の脇に少し岩礁が出てるのが、黒島の一番高い所だった
んだと思います。

次にむかったのは、北下台(ぼっけだい)。
城山の北側にある小高い丘一帯をさす呼び名です。
古くは北下崎と呼ばれ、鏡ケ浦に突き出た小岬だったそうです。元禄地震・大正地震の隆起や港湾
埋立工事を経て、北下台の海側は現在のような低地となりました。
新井浦から柏崎浦にかけての浜は、物産の積み出し港として江戸時代より栄え、ほぼその中央に位置
する北下台は、高の島・沖ノ島を眺望する景勝地として、明治初期に館山町で最初の公園となり、
「館山公園」という景勝地として知られていました。

まずは、正木灯へ。
IMGP2983IMGP3029
船形町長を務めた正木清一郎が、水産業の発展につくした父貞蔵の実績を祈念して、晩年の隠居所
があった北下台に建てた照明塔です。残っているのはその基台の部分で、かつては木の柱が立ち
アーク灯が灯っていました。大正5年(1916)に建てられ昭和26年(1951)にその役目を終えました。

次は琴平神社へ。
IMGP3023
江戸時代からこの場所にあり、地域の人々の信仰を集めていました。

次は、関沢明清顕彰碑へ。
IMGP2984IMGP3017
捕鯨や遠洋漁業などの水産業に功績を残した関沢明清の顕彰碑です。
かつてはここに、関沢が捕まえたというクジラの頭骨が置かれていたそうです。
この関沢明清さんって???関沢さんは、幕末から明治期の水産業の指導者です。加賀金沢藩の出身
で、蘭学を修め、藩命で英国に留学しました。帰国後、新政府に入り水産技師、水産伝習所長などと
なります。サケ、マスなど魚類の人工孵化、巾着網、米国式捕鯨法の導入などに功あり、退官後、館
山を拠点とし、みずから遠洋漁業を起業しました。晩年は館山に住んでいました。
北下台には、坂東丸船員殉難碑や順天丸遭難記念碑などの碑もあります。
北下台を後にし、地震で隆起した場所などを見ながら鷹の島を目指します。
IMGP2986

鷹の島の側には、水産伝習所高島実験所跡が残されています。
IMGP3011IMGP3005
白浜海岸の網小屋を借りて実験を行っていましたが、明治42年4月の高の島に、農商務省により
魚の孵化やプランクトンの研究の為に開設されたそうです。昭和5年海軍飛行場建築で移転が決まり、
残された建物は海軍に移管され、観測所などの用途に使用されていました。

鷹之島弁財天で昼食です。今日は市内にあるお弁当屋さんに注文しましたが、写真を撮る前に食べて
しまいました。

昼食が終わり、弁財天の解説です。
IMGP3000
平安時代、安房の国司・源親元がお告げにより勧請した厳島神社で、永長2年(1097)、沼の総持院
と同時期の創建と推測されます。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。海上交通の平安
を守護する神として、漁師や船乗りたちの信仰を集めています。
市杵島姫命は、、神仏習合によって弁財天と同視され、「弁天様」としても広く信仰されています。
七福神としても弁財天は、本来ヒンズー教の神ブラフマン(梵天)の妻とも娘ともいわれ、財宝の
神、美の神、音楽芸能の神とされています。
明治時代の神仏分離で宗像三神を復活させた神社もありますが、弁財天のまま今日に至る神社が多い
そうです。

昭和5年に鷹の島を含む海上部分を埋立て、海軍館山航空隊が開隊され、弾薬庫・燃料庫が建設され
ると、管理上、海軍が買収し、館空神社に変わりました。厳島神社は、北下台へと移されましたが、
終戦後元の場所へと鎮座しました。館空神社の時に奉納された、飛行機印の手水石が残っています。
IMGP3001
この石には由来がありまして、江戸初期、江戸城外堀の石垣用とし海路24個の大石を積んで江戸に
運ぶ途中の千石船が暴風に遭い、高の島の島影に逃れたが、不幸にも大波に呑まれて沈没してしまい
ました。昭和5年に海軍創設の際、海中から引き揚げられたそうです。

波切不動尊があります。
IMGP2993
航海の安全を祈る不動明王で、この不動様は、戦前に洞窟の中に倒れているのを発見され、見つけた人
が毎日お参りしたところ、戦争で命が助かったというお話しがあります。昭和26年に現在の場所に移
動されたそうです。

鷹の島を後にして、スタート地点の城山へ向かいます。今回は、諸事情があり、鷹の島でコースアウト
してしまったので、ガイドの独り事はここまでですが、後から他のガイドに聞きましたが、赤道などを
通って無事に城山公園に着いたとの事でした。

歴史ツアー「三浦一族をたどる旅」報告

梅雨に入ったようで・・・ウォーキングツアーを企画している私たちにとっては、悩ましい
季節に入りました。

5月の最終日曜日に、歴史ツアー「三浦一族をたどる旅」のバスツアーを開催しました。
安房とゆかりの深い三浦一族の最後の地新井城へ。普段は入る事の出来ない新井城跡を見学
し、三浦一族のお家芸えでもある笠懸を見学してきました。

まずは、三浦一族の説明を・・・
平安末期、武士の台頭により東国に多くの氏族が誕生します。三浦氏の始まりは、平為通が
三浦郡衣笠城を築き、初めて、三浦姓を名乗ったとされています。その後、源頼朝につき鎌倉
幕府では「宿老」となり、三浦一族らは、鎌倉幕府で重要な地位につきました。頼朝死後、幕
府内で抗争が繰り返され、宝治元年(1247)の宝治合戦で北条氏と安達景盛らに滅亡され、三浦
氏宗家は滅亡しました。宗家滅亡後、三浦氏の名跡は一族で北条方に味方した佐原氏一族の盛
時によって再興され、執権北条氏の御内人として活動しました。時高の代になると、駿河国から
伊豆・相模へと力を伸ばしてきたのが伊勢盛時(のちの北条早雲)です。永正10年(1513)盛時
が義同を討つべく大軍を率いて攻撃を仕掛けました。三浦軍は防戦しますが、住吉城・岡崎城が
相次いで陥落し、徐々に新井城に落ち詰めらえていき、そして永正13年(1516)、三年間の長期
にわたつ籠城戦の末に義同は自刃、子の三浦義意は戦死しました。これによって三浦氏は滅亡し
ました。

そんな三浦氏が籠城した新井城跡(油壺)へ向かいました。
油壺の市営駐車場へ。道も空いていてスムーズに到着しました。
まずは、三浦道寸義同と三浦荒次郎義意のの墓へ向かいます。途中、甲冑を着た人たちにあいました。
IMGP2883

油壺マリンパークを正面に見て、右側に行き、海へと続く道を歩いていくと、三浦道寸義同の墓へ。
IMGP2884IMGP2509
三浦義同は、上杉高救の子。高救とともに、三浦時高の養子となりますが、時高の実子高教の誕生
で不仲となり、父子ともに追放され、足柄下郡の総世寺で出家して道寸と号し、そののち、大森氏
の支援を得て、時高を討ち新井城主となりますが、その後、北条早雲と対立し、戦いに敗れ自害し
てしまいました。義同辞世の歌と伝えられる、「うつものも、うたるるものもかわらけよ、くだけ
てのちは、もとのつちくれ」をの文字が記されています。
※道寸の実の墓は鎌倉円覚寺の塔頭寿徳庵にあります。

降りてきた道をもどり、三浦荒次郎義意のお墓へ。
IMGP2889IMGP2514
この三浦義意は大男だったといわれ、伝説も残っています。。
戦いのあった永正13年(1516)、義意は21歳でした。85人力で、身長7尺5寸、今でいうと、
約2m27cm位だったと伝えられています。7月11日、新井城は北条軍に攻められ最後の合戦が
繰り広げられ、三浦勢は力及ばず、道寸を含む残った75人は切腹して無惨な最期を遂げました。
残った義意は、雄叫びをあげながら、門外に躍り出し、白樫の丸太を八角に削った筋がね入りの棒を
振り回し、一払いに5人から10人と敵をなぎ倒し、棒の威力で、五百余人が重なるように倒れてい
ましたが、北条軍の攻め続き、これまでと悟った義意は、自らの首をかき落とし壮烈な最期を遂げま
した。ところが、首は高く舞い上がり、恨み深き北条軍の拠点である小田原城へ飛んで行き、近くの
松の枝に引掛りました。松に引っかかった首は、三年間「眼はさかさまに割け、鬼ひげは針をすった
ようにとがり、歯をくいしばり、下を睨み付ける眼の光は百錬の鏡に血をそそいだよう」だったそう
です。困り果てていると、小田原の久野にある総世寺の禅師が来て、「うつつとも、夢ともしらねひ
とねぶり、浮世のひまをあけぼのの空」と、一首の歌を手向けたところ、それまでどんなに高名な僧
侶が来ても効き目がなかった首が、不思議なことに、眼を閉じ、たちまちのうちに肉が朽ちて白こう
べになったといいます。
二人の墓(供養塔)は、天明2年7月11日(1782)に、美作国勝山城主・正木志摩守誠次、紀伊藩家
老・三浦長門守等が施主となり建立したものだそうです。

次は、予定ではこの後昼食でしたが、道が順調だったので、予定を変更して、新井城跡の見学へ。
通常は、東京大学臨海実験所の構内にあるので、見学は出来ませんが、道寸まつりの時だけ、見学する
事ができます。

IMGP2901IMGP2906
構内に入ると、ボランティアの方に説明してもらいました。説明してくれた方は、三浦市の
市議会議員さんです。「三浦どうするん会」のメンバーなんだそうです。その他に地元の中学生
の子たちもお手伝いしていました。地元の歴史を子供のころから、勉強して、お話しできる
という事はいいことですね。市議会議員さんも素晴らしいです。

IMGP2896IMGP2894
空堀(左)と土塁(右)です。
構内には、戦国時代の城の一部が残されていて空堀(写真左)とよばれる土を掘って落とし穴の
ようにした場所や、土塁(写真右)と呼ばれる土盛りをした所が残されています。
元弘2年(1334)の時、三浦介を継ぐ三浦時継が将来に備えて海陸両用の作戦に至便の地としてこの
城を整備したようです。南は油壺湾、北は小網代湾、西は相模湾に面し、断崖にして自然の要害で、
引橋だけで城外と繋がっていました。自然を利用した比類ない堅城で、当時は三崎要害と呼ばれて
いました。落城後、油壺城と名前を変え、新井城と呼ばれるようになったのは、江戸時代になって
からだそうです。
新井城跡1
このマップは、会長が資料を元にして描きました。

三浦氏は、宝治合戦で鎌倉北条執権政治の確立の時に、第一の滅亡をし、後北条氏の相模平定の
しめくくりで2回目の滅亡をしました。北条氏と後北条には血縁関係はないといいますが、後北
条死が自負しているので、三浦市は、北条氏に2度倒されて事になります。
その因縁なのか・・後北条氏が小田原で滅びたのは、三浦氏が滅びてから85年後のしかも7月
11日。歴史の巡り合わせなのでしょうかねぇ~
それと、今でも、毎年のように7月11日は天候が悪く、黒雲が低くたれこみ、雷雨になる日が
多いといいます。

ここまで、三浦氏に触れてきましたが、なぜ?安房と関係があるのか?という声が聞こえてきた
ので、ここで少しお話しします。
義同の二子・時綱(通綱)が、祖父高救の居地であった安房正木郷へ逃れ、正木氏を称し、安房
里見家三代義通(1481生)の妹を娶り、国衛の奉行人として大膳亮(だいぜんのすけ)の官職を
得て、子らは上総国の小田喜城主(大多喜町)、勝浦城主となったそうです。(諸説あります)

昼食は、ホテル京急油壺観潮荘で、特選まぐろ丼を食べました。

三崎港が近いので、まぐろです。平日は、レストランの予約ができるのですが、今回は日曜日だ
ったので予約ができないという話だったのですが、下見の時に無理にお願いして、今回は、お座敷
で食べる事ができました。(食事代プラス部屋代がかかってますけど・・・)

部屋からの景色はこんな感じです。小網代湾が一望できます。
IMGP2907IMGP2908

食事を済ませた後は、笠懸を見学しに2グループに分かれて荒井浜海岸へ。
1グループは油壺湾が見える道を通って荒井浜海岸へ。もう1グループは胴網海岸を通って
荒井浜海岸へと行きました。

油壺湾の見えるコースを紹介します。油壺湾です。
IMGP2496
油壺湾の由来は、三浦義同の自害した後、残る武士たちはこの湾に投身し、湾一面が血汐で
染まり、まるで油を流した状態になってので、後に「油壺」と言われるようになったとされ
ています。

次は胴網海岸経由の紹介です。まずは、胴網海岸です。
IMGP2505
ここは、義意が首をはねた際に、胴ばここの浜に落ちたからとか、胴が網にかかったから
とかという事で、胴網海岸と名が付いたといわれています。

岩場を歩き、荒井浜海岸へ。
IMGP2502

会場の海岸では、神事が行われ笠懸が始まります。
IMGP2909IMGP2911
IMGP2935IMGP2926
笠懸は平安末期から鎌倉、室町時代にかけて流行した流鏑馬、犬追物と並ぶ、わが国三大古弓
馬術の一つです。この中でも笠懸は標的が多彩なうえに障害物があり、実践的かつ難易度が高
いとされています。源頼朝が、三浦岬遊覧の際、笠懸が催され、三浦義澄、和田義盛ら、三浦
一族は弓上手として知られていました。以来、笠懸は三浦一族のお家芸として長く伝えられて
きています。

この白い馬は、競走馬メジロホマレの子孫だそうです。

写真がお尻ばかりですみません。

荒井浜海岸には、祭壇がありました。
IMGP2936
二人が死んでから、今年の7月11日で500年になります。

笠懸を堪能し、バスに乗って帰路につきます。三浦半島は、結構混むのではないかと予想して
いたのですが、結構スムーズに帰れました。

今回のガイドの独り事で書いた事は諸説あります。歴史には、いろいろなロマンがありますね。

月イチツアー「嶺岡浅間と天狗伝説」報告

ここの所日差しが強くなってきました。山は新緑で、天気が良い日は、心なしか
さわやかな気分です。もう夏が近いんのですね。

今月の月イチツアー「嶺岡浅間と天狗伝説」を開催しました。当日は、天気もよく、
ウォーキング日和でした。

出発は、鴨川市南小町区民センターです。
ここから、白滝山不動教会まで登っていきます。
IMGP2829

今日のコースはトイレがないので、途中のサテライト鴨川さんのお手洗いをお借りする
ことにしました。サテライトさんは、競輪の車券売り場なので、大きな画面にオッズが
映し出されていました。競輪については、まったくわからないので、初めての・・・と
いうパンフレットがあったので、貰ってきました。

まずは、昭和院へ。
IMGP2839
真言宗の寺院で山号を大森山といいます。本尊は不動仏(明王)。創立年代は不詳です
が、宝暦5根(1755)法印源雄が中興したといいます。いくつかの寺院が合併したり編入
したりで、今にいたります。

側には、鴨川市指定の天然記念物「白滝山の姉妹イチョウ」があります。
IMGP2845
樹高18メートルの巨木で、1本の幹がもう一本の幹を包み込むように合体している姿
から姉妹イチョウと呼ばれています。
その独特の姿と乳柱(気根)のでき方は県下でも非常に珍しいものだそうです。
IMGP2843

白滝不動教会へは、この階段が正式?なのでしょうが・・・
IMGP2836
今回は、途中の白絹の滝を見学するので、別のコースから向かいます。

白絹の滝です。
IMGP2849IMGP2164
左5/21日撮影           右1/20撮影
この白絹の滝は、嶺岡山の山頂付近の水をあつめて流れる加茂川の支流にかかる滝です。
この滝は30m以上の崖ですが、もともと山の斜面が急であるため、滝の削りとった崖
ではありません。滝は白滝不動の霊地とされています。
季節や水量によって、滝を見る景色が変わってきますね。

滝を後にして、白滝不動教会へ向かいます。
IMGP2853
真言宗の寺院で、本尊は不動明王。大同3年(808)、弘法大師が自刻の不動明王を安置
したと伝えられています。永正年間(1504~1521)に長狭郡山之城・城主正木大膳が白
滝山滝谷寺として創建しました。境内には、白絹の滝があることから、滝の不動と呼ばれ
一帯は霊場地として崇められました。
IMGP2166
本堂向拝の龍は、明治17年(1884)、後藤義光70歳の作です。本堂正面の懸魚の鳳凰
も義光作とされています。向拝の海老虹梁の龍は紋次郎、明治16年(1883)の作です。

いよいよ、嶺岡浅間山にむかってアタック開始です。
IMGP2858IMGP2859
結構、急な坂を上がっていくと、どれくらい上がったかは定かではないですが、不思議な
石の祠を見る事ができます。
IMGP2864
石尊神社といい、石祠にはめ込まれた石造りの天狗面が祀られています。
奉納碑を見ると、「奉納 宝暦九年七月(1759)」と刻まれています。
石尊神社は、雨乞い神事と関わりが深いので、これらの天狗面は雨を降らせる神通力の発揮
を祈願して奉納されたのではないかと思われています。この一帯が修験道との結びつきが深
いことから、修験者によって相模大山の阿夫利神社が勧請されたのかもしれないそうです。
天狗の面の中には、アニメの巨匠の作品に出てきたものに似ている顔があります。

さて、次に向かうのは、嶺岡浅間神社です。
IMGP2867IMGP2866
嶺岡東牧を代表する山で、360.8mの円錐形の雄峰として長狭平野に君臨していましたが、
昭和40年代後半より行われた山砂採取工事により、山頂をはじめ北面中腹を削り取られ現在
の姿となってしまいました。新しい山頂(334.8m)に遷された浅間神社の巨大な石宮に、かつ
ての風格が偲ばれます。

浅間神社で、昼食休憩をとり、三角点へ。
IMGP2871

すぐそばには、小御岳石尊の石碑もあります。
IMGP2875

2分も歩くと嶺岡林道にでます。すぐに、道があると少しがっかりしますが・・・
嶺岡林道・熊取林道を通って下山していきます。
IMGP2878
途中、いろいろの植物があります。

40分位下り、やっと平坦な道へと出ます。あとは奥野神社を目指します。
IMGP2185
裏からお邪魔しましたが、この奥野神社は、昔は別の場所にあったといい、江戸
時代初期に、現在の場所に移ったといいます。江戸幕府が開かれたとき天海僧正
が奥州より徳川家にゆかりのある奥野甚五郎という人の御霊を迎えお祀りしたと
いいます。
神社の言い伝えがあります。文亀元年、諸国で旱魃がおこり飢餓となったとき、
境内にある井戸で渇きをいやす者が多かったことで、霊験多い井戸といわれています。
また、旱魃が続いて浜が不漁になった時、神社の神輿をしほごりに浜に下向させたと
ころ、前原海岸に魚の大群が来て浜の人たちは大喜び、農民も豊作を迎えたと、戦前
まで言い伝えられてきました。

神社の参道を通り、スタート地点へ戻ります。戻ると言っても隣なので、すぐに着き
ました。
今回は、天気に恵まれて、歩くのにも良い気候でした。

お散歩ツアー「古地図を持って寺町散策」報告

アサイド

大型連休前に行いました、お散歩ツアー「古地図を持って寺町散策」の報告です。
更新したと思っていましたが、更新されていなく・・・だいぶ日にちが経ってしまい
ました(汗)

集合・出発は城山公園芝生広場。
IMGP2788
準備体操をして出発します。

まずは、城山の下にある館山神社へ。
IMGP2793
関東大震災で倒壊した館山町内の神社を合祀して、昭和5年(1930)に新しく建てられた神社
です。合祀されたのは、新井と下町の諏訪神社と、中町と上町の諏訪神社、上須賀にあった
稲荷神社と八坂神社、楠見の厳島神社、城山南麓の御屋敷にあった稲荷神社です。
こちらの狛犬は、石工・俵光石の作で大正6年(1917)の銘があります。
IMGP2794IMGP2795

館山神社を後にして、昔の浜通りを通って三福寺に向かいます。
向かう途中の辻には、お地蔵さんがあります。
IMGP2808
浄土宗のお寺で、観立山九品院三福寺(かんりゅうさんくほんいんさんぷく)といい、
本尊は阿弥陀如来です。文明3年(1471)、里見氏の家臣・岩崎与次衛門の帰依に基づき、
相蓮社順譽上人(そうれんしゃじゅんよしょうにん)を開山に浄土宗念佛道場として創建
されました。元禄16年(1703)の大津波の後、新井浜から現在地に移転したといわれて
います。境内には、館山ゆかりの偉人の碑や墓があり、その中に、幕末の房州の儒学者、
新井文山夫婦の墓碑があります。
IMGP2805(左側)
文山は、館山新井に生まれ、幼少時より三福寺住職や地元の鈴木直郷に学問の指導を受け
ました。14歳の時、住職の援助で江戸に遊学し、昌平坂学問所に入門し、儒学を学び、
28歳で帰郷して塾を開き地域の教育に力を注ぎました。天保7年(1836)、館山藩主稲葉公
に仕え、天保13年(1842)に目付兼郡奉行となり、藩士や領民の教育に尽力し、嘉永4年
(1851)73歳で亡くなりました。

境内に是非、見ていただきたいのが石造釈迦如来三尊坐像です。
IMGP2803
こちらは、館山神社の狛犬と同様、石工・俵光石によるものです。礎石を含めた高さは、
3.85m。伊豆の小松石を使い、螺髪(らほつ)や口髭を付けふっくらとしたお顔で、
脇侍(わきじ)を従えています。舟形の光背には菩提樹の葉を模った光輪、その両脇には
インド風な仏塔があります。釈迦像の下には獅子と上向きに手を合わせた人物が彫られて
います。ちょっと他とは違う石仏です。

次に向かうは、神明神社。
IMGP2812
新宿地区の鎮守で、祭神は天照大御神です。
祭礼の時には、「神明丸」とよばれる御舟が引き回されます。
かつて汐入川に海が大きく湾入していた頃、八幡神社に出祭する「安房神社」「洲宮神社」
「下立松原神社」の御三神を、この船で渡したと言われています。

次は、神明神社の脇に海蔵寺へ。
IMGP2815
こちらには、幸福地蔵があります。

さて、次に向かった熊野神社。
IMGP2819
長須賀地区の鎮守で、イザノアミノミコト・コトサカノミコト・ハヤタマノオミコトです。
創建は不明ですが、家内安全、五穀豊穣、商売繁盛・学業成就の神様として崇められています。

こちらの狛犬は、なんと!!砲弾を持っている狛犬なのです。
IMGP2817IMGP2818
かなり珍しい狛犬です。やはり、軍隊があった地域だからでしょうか?

さて、次は来福寺です。
真言宗智山派のお寺で、寺号は海富山医王院来福寺といい、本尊は薬師如来です。
室町時代の木造薬師如来立像が祀られています。神亀2年(725)創立とされ、元聖法印の開基。

IMGP2825
薬師堂左側に初代後藤義光の門人や友人が「米寿」を祝って建てた「後藤義光翁寿蔵碑」が
あります。功績をたたえた文は、元長尾藩教授の恩田城山、石碑上部の篆額は万里小路通房が
「後藤義光之碑」と篆書しています。

来福寺をあとにし、城下町のころの痕跡の残る菱沼や堀の後などを見ながら進み、長福寺へ。
真言宗智山派のお寺で、寺号は普門山長福寺といい、本尊は千手観世音です。もとは、北下
台(ぼっけだい)にあり、神亀2年(725)、行基菩薩が自ら刻んだ千手観音菩薩を安置した
のが始まりと言われています。いく度かの震災に耐えましたが、大正の地震で倒壊し、昭和
39年に観音像を現在地の長福寺に移したとの事です。観音堂があった場所には、「館山
観音堂旧址」の碑が残されています。

IMGP2826
境内の永代供養墓の中には、「寄子萬霊塔」があります。これは明治維新の戊辰戦争の際、
箱根山崎の戦いに加わり異郷の地で亡くなった農兵の慰霊碑です。塔の裏には、「鐘の音
の落葉さみしき夕べかな」の句が詠まれています。

今回の見学場所は、ここまでです。城下には「福」の付いたお寺を3つお参りしてきました。
「来る福」「長い福」「三つの福」ということで、寺町散策は終了です。

新年度月イチツアー「加茂坂から沓見の郷へ」報告

新年度になりました。平成28年度は、すべての企画合わせて23本の開催します。
今年度は、イベントツアー・シリーズツアーをなくして、お散歩ツアーを増やしてみ
ました。お散歩ツアーは、体力には自信がなくなってしまったけど、健康の為に歩か
なくちゃいけない人や、なかなか外に出て歩く機会のない方などに、これをきっかけ
に外に出てもらおうと思って企画しています。是非、皆さまのご参加お待ちしており
ます。
ちなみに・・・ウォーキングツアー予定表は、道の駅などに置かせてもらってます。

さて、今年度一発目は、「加茂坂から沓見の郷へ」を開催しました。加茂坂は、
昨年、一昨年と加茂坂を歩いていて、今回で3回目の加茂坂です。

集合は、南房総市の加茂神社。お天気を心配しながら、出発します。
IMGP2708

まずは、弘法伝説のある井戸へ。
IMGP2715

次に向かうは、円鏡寺。
IMGP2719
真言宗のお寺で本尊は如意輪観音菩薩。山号が、春延山・東覚山・東光山と三回も
かわっているお寺さんです。安房国八十八カ所霊場の内76番霊場です。

本堂の脇には、立派なミツバツツジが咲いていました。
IMGP2720
このミツバツツジは、関東地方から近畿地方東部の太平洋側に分布し、主にやせた
尾根や岩場、里山の雑木林などに生息します。古くから庭木としても植えられてい
ますが、盗掘の影響もあるせいか野生の個体数は決して多くないそうです。
ミツバツツジは、4~5月頃に咲く紅紫色の花が美しい。花が終わってから葉が出
てきます。枝先に三枚の葉がつくことからこの名がついたそうです。

いよいよ加茂坂へ。入口?には、地蔵尊や馬頭観音、題目塔があります。
IMGP2724IMGP2725IMGP2726
このお地蔵さんは、顔が岩に押しつぶされてしまっているみたいです。
題目塔は、近くに日運寺がある為、日蓮宗のお題目「南無妙法蓮華経」と書かれて
います。

少し歩くと鎌田台分岐点があります。
IMGP2727
ここは、昔、稲村城や館山湾の眺望がとてもよかったそうです。里見氏の時代「天文
の内乱」のとき、ここで稲村城方の兵が守備をしてたという伝承がある場所です。

さて、古道に突入します。
IMGP2729IMGP2731

途中、戦時中に掘られた穴があります。
IMGP2732
ちょっと、よそっぽ見てらた、落ちちゃいそうです。

落葉の道をずっと歩いていくと、舗装された道にでます。舗装された道の脇に子安
地蔵があります。
IMGP2733

次に、沓見大塚山へ。
標高約100m。山頂には沓見山三講の「浅間様」と左に「リョウゴ様」、右に「山
神様」があります。
IMGP2737
「リョウゴ様」は竜宮様が訛ったもので、雨乞いの竜神を祀ったものと思われます。
入口右手に明治17年の手水鉢があり、水向けが瓢箪の形になっていて、珍しいものです。
IMGP2736

裏手には金毘羅宮もあります。
IMGP2739

山を下りて、迎接寺(こうしょうじ)へ向かいますが、途中、地蔵尊や牛頭観音、
三山碑、大日様などがあります。
IMGP2743

迎接寺は、天台宗の寺院で、大光山蓮臺院迎接寺といいます。
IMGP2751
本尊は、阿弥陀如来・勢至菩薩。寺伝によると、その昔、沓見村根方にあって、
天沼山蓮光院光照寺と称し、仁寿2年(852)大阿闍梨顕秀法印の開基といいます。
建保2年(1214)鎌倉幕府源実朝が軍用人夫を課してきましたが、応じることがで
きなかったため、わずか5畝を残し、寺領を没収されていまいました。それから
約450年間、廃寺同様荒れ果てた状態でしたが、享保17年(1732)、賢秀法印
の時中興し現在に至ります。しかし、なぜか本尊が勧請されていなく、たまたま
白子の浜辺に打ち上げられた仏像を本尊に迎え安置したと伝えられています。

その本尊は、寺領を没収された時、本尊と仁王は丸山川にすてられてしまいました
が、年月が経ち、本尊は白子浦に流れ着き、漁師に拾われ後、迎接寺の本尊として
迎えらました。仁王は石堂寺に移されたという伝説があります。

こちらで、昼食休憩です。その後、迎接寺の境内にある秘密の場所へと向かいます。
IMGP2757
嘉永元年(1848)の三十三体供養塔・胎内巡りです。今回は、檀家さんに許可をもら
い入らせていただきました。中は、天井が低く崩れている場所もあり懐中電灯を持っ
ていないと入れませんが、めったにない場所です。あとから、聞きましたが大きな
ガマ蛙がいたそうです。

あとは、出発地点に戻ります。
途中には、吹代堰や地蔵尊があります。
IMGP2758IMGP2760

出発地点の賀茂神社へ。無事に帰ってきたので、お礼をしに・・・
本当は、最初に行って方がよかったのですが、雨が強まりそうだったので、先に山へ
向かってしまいました。

賀茂神社。
IMGP2783
祭神は賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)。和銅5年(712)創建といいます。
雨乞い祈願の霊験があり、村人乱舞して感謝したと伝えられています。本殿は、現存
する銘札から天正2年(1574)の造営とみられ、蟇股や斗供、妻飾り・軒まわりなどの
構成の室町時代末期の特色をよく残しています。本殿は、千葉県の有形文化財です。
8月1・2日の八朔祭りには、県無形民俗文化財に指定されている「加茂の三番叟」
と「加茂の花踊り」が奉納されます。

拝殿の横には、神紋の二葉葵があります。
IMGP2772IMGP2777
この時期は、二葉葵の花を見る事ができます。少し地味な花です。
二葉葵は、徳川家のいわゆる『葵の御紋』のモデルになったことでも知られて
います。ミツバアオイと言う植物は存在しないのです。

最後に賀茂神社の車止めは、かわいいです。
IMGP2785

とい事で、今回の「加茂坂から沓見の郷へ」は無事終了しました。
今年度もはじまりました。まだまだ面白いコースがありますので、是非、
ご参加下さい。

イベントツアー「小塚大師の大祭」報告

27年度最後のウォーキングツアーを先日開催いたしました。来年度からは、イベントツアー
というツアー名がなくなってしまい、今年度最後のツアーにふさわしいウォーキングツアーと
なりました。

本日のコースは、たてやま野鳥の森駐車場から出発して、安房神社・小塚大師・資生堂創業者
の生誕地を巡ります。
まずは、安全を祈願して安房の一の宮・安房神社を参拝します。
IMGP2577
安房神社は安房国の一宮で、祭神は天太玉命。古代の安房開拓神話に登場する、安房忌部氏の
祖天富命が、祖神を祀ったものと言われています。

拝殿の近くにはは、綺麗な花が咲いていました。
IMGP2575

安房神社からすぐそばに忌部塚があります。
IMGP2388
安房神社洞窟から発見された人骨を、忌部一族の御霊・人骨として祀られています。

赤道を通り、安房神社の神主さんのお墓(奥津城(おくつき))へ。
IMGP2390IMGP2394
こちらは、あまり知られていない場所です。やはり神職の方なので、鳥居があります。
お参りの方法は、神社にお参りする時と同じように、柏手をうってお参りするそうです。

近くのお墓?の前には、狛犬がいました。
IMGP2583

奥津城を後にし、小久保ケ谷やぐらへ。
IMGP2405IMGP2585
やぐらは中世の武士のお墓です。五輪塔と宝篋印塔の断石が見られます。
丘の中腹にあり、落ち葉などで埋もれてきています。

やぐらの近くに「ごりんさま」と書かれた祠があります。
IMGP2400IMGP2401

この祠は、木の洞に祀られいます。
IMGP2408
安房地域で色々な場所に行っていますが、なかなか見られない光景です。

次に大神宮義民七人様の供養碑がある千祥寺へ。
IMGP2396IMGP2591
大神宮村で起こった農民一揆の犠牲者7名を大神宮義民七人様と呼んでいます。
寛文12年(1672)に大神宮村の領主旗本河野三左衛門は、年貢を引き上げたばかりか、
村人の山支配を禁じて材木を独占し、大凶作のときも厳しく年貢を取り立てました。
農民たち15人は、江戸の河野家に直接押しかけて、年貢の減免などを要求する門訴を
しましたが、訴えた農民全員を所払いのうえ家財没収にされていましました。そこで、
天和2年(1682)に、今度は直接幕府に領主の悪政を訴えたものの、一人の農民が偽証し
河野側に有利な判決となってしまい、名主小柴三郎左衛門ら訴えた7人は処刑され、家
族たちは家財をとられ追放となったといわれています。

千祥寺を後にし、小塚大師へ。途中、誰が彫ったのか?磨崖仏?があります。
IMGP2409

小塚大師は、弘法大師が創建したという真言宗のお寺です。正式には遍智院といい、弘法
大師が本尊です。東京の西新井大師・神奈川の川崎大師と共に、関東厄除大師として知ら
れています。
本堂の裏の方に行きますと、資生堂の創業者福原有信家のお墓があります。また、仏前に
供える水を汲むための井戸(閼伽井)があり、この井戸に弘法大師は自分の姿を映して像
を彫ったと伝えられています。
IMGP2593IMGP2414

なぜか?本堂の写真がないのですが・・・当日は、大判焼きやらたい焼き、お好み焼きなど
のお店が出ていまして・・・そちらに夢中で、写真を撮るのを忘れてしましました。

そんなこんなで、お参りしてお腹に詰めて、次へ向かいます。
次に向かったのが、岩屋地蔵です。
IMGP2416
全体のわかる写真がありませんが・・・
本尊のお地蔵さまはお堂の裏の崖に彫り込んであります。このお地蔵さまは、弘法大師
が自分の手の爪で彫ったものだと伝えられていて、爪彫り地蔵とも呼ばれています。
IMGP2594
通常は、鍵がかかっていて見れませんが、今回は特別に空けて見せてもらいました。
暗い場所に彫られていますので、写真は懐中電灯を当てて撮っています。

次に向かったのは、竜岡神社。ここで昼食を取らせていただきました。

お腹いっぱいの後は、資生堂の創始者の福原有信のゆかりのある場所に向かいます。
っとその前に姥神社へ。
IMGP2419
姥神の信仰は日本各地にあって、子育てをする女性(乳母=うば)に関連した伝承が
あり、子供の疱瘡や咳をなおす神として信仰されていました。

次の予定場所・松ケ岡八幡宮の前に、地元の方のご厚意で菜花摘みをさせていただきました。
IMG_5940
ありがとうございます。

思いがけないサプライズがあり足取りも軽く、松ケ岡八幡宮へ。
IMGP2428IMGP2421
松岡地区の鎮守で、祭神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと)。鳥居は資生堂の創始者
福原有信が明治44年(1911)に奉納したものです。平成7年に社殿を新築したときには、
資生堂が記念碑を建てています。

福原有信さんの話を少ししますかねぇ~
先ほどから書いてますが、銀座資生堂の創始者です。松岡村の名主の家から出ていて、里見家
家臣の家柄と伝えられています。父は漢学者でしたが、祖父有斎は漢方医であり薬学に通じて
いたといいます。幕府医学所(現・東京大学医学部)で西洋薬学をまなび、明治になって海軍
病院の薬局長となりました。その翌年、1972年23歳の時には、官を辞して、民間初の洋
風調剤薬局として資生堂を開業しました。
他から来た人は、なんで資生堂なんだ??と思うかと思いますが、生誕の地だったんです。

八幡宮の裏山に金毘羅様があります。
IMGP2424IMGP2426
地元の方たちで整備していて、椿の木を植えるという話をしてました。
椿といえば、資生堂ですね。

最後の見学場所、松岡観音へ。
IMGP2431IMGP2432
おいと塚ともいいます。その昔、お糸という女性が病気平癒の祈願をして叶い、建てた
ものだと伝えられています。寛文2年(1662)に滝田や白浜などの念仏講の人々が建立し
た石造の観音様が祀られています。

あとは、野鳥の森へ帰るのみです。自分たちでいうのもなんですが・・・なかなか面白い
コースでした。

さて、もう4月から28年度がスターとします。第1弾目は、4月17日日曜日月イチツアー
「加茂坂から沓見の郷へ」です。加茂坂第3弾になりますが、新たな発見がある場所です。
是非、お越し下さい。ちなみに・・・予定表は、順次道の駅とかに置いていきます。
とりあえず、今のところは渚の駅たてやま・館山市コミュニティーセンター・豊津ホールに
置いてあります。

月イチツアー「白浜城跡縦断」報告

今年度も残すところあと少しです。また旅倶楽部でも来年度(28年度)のウォーキングツアー予定表
を作成しました。印刷の上がりが発送作業が完了しました。3月中までには、安房の道の駅さんに置か
せていただけるように、配りに行きますので、もう少しお待ち下さい。

さて、2月に予定しておりました月イチツアーの「白浜城跡縦断」でしたが、当日は雨にみまわれてし
まい延期となりました。でも、中止ではもったいないとの事で、3月に入り復活ツアーとしてやりま
した。少し天気が不安定な感じではありましたが・・・なんとか開催する事ができました。

出発地点は、旧白浜町役場からです。
IMGP2534
本日は、小学生の男の子が参加してくれました。

まずは、白浜小学校の前にあります道標を見学しました。
IMGP2538
この道標は、大正天皇御大典を記念して対象4年11月に立てられたものです。

次に、福寿院の前を通り青根原東登山口から白浜城跡を攻めていきます。
福寿院の前には、お地蔵さまが・・・
IMGP2543IMGP2544
福寿院は山号を明堂山といいます。曹洞宗のお寺で、本尊は木造釈迦如来(南房総市指定文化財)。
里見成義の菩提寺で成義の木像があります。

青根腹登山口から白浜城跡を縦断していきます。
IMGP2545IMGP2546IMGP2548IMGP2552
ここのところ、雨が多かったり日照不足だったり、イノシシが居たりで足場がかなり悪く
なっていて、注意しながら歩いて行きます。なので、足場がいいところでの写真しかあり
ません。

白浜城跡を縦断し、出たところで昼食を取り、舗装された道路を歩いて行きます。途中、
サルを見かけたりと・・・長尾藩陣屋跡へ。
IMGP2557
明治維新で徳川政権が300年にわたる政権を朝廷に返上すると、将軍慶喜は水戸へ隠退、家達が
徳川家を継いで1大名として駿河・遠江・三河で70万石の静岡藩主となりました。このため駿遠
の諸大名は房総へ領土を移され、田中藩主本多正訥安房国長尾藩主として長尾(白浜)に陣屋を構
えました。後に北条(館山市)へ陣屋を移しますが、時代の急速な変化に明治4年長尾藩は解体し
ます。明治元年(1868)、田中藩は長尾に陣屋を建設することで、準備が進められました。その地を
選定し、中心となってこの任に当たった藩の兵学者恩田仰岳です。明治2年から藩士の移住も進ん
でいましたが、その年の夏大風のため建設中の陣屋は倒壊し、翌年正月から北条へ移転計画がすす
められました。長尾への陣屋建設は当初より反対もあったため、陣屋倒壊で仰岳は職を辞します。
北条移転後は荒廃し、現在は山林と畑になっています。

白浜城跡の搦手口(島崎口)を通り、青木太子堂へ。
IMGP2559
南房総市指定文化財でもあります、木造聖徳太子立像が本尊として祀られています。

次は、青木観音堂へ。
IMGP2560
この観音堂には十一面観音が祀られています。他にも南房総市指定文化財の木像賓頭盧尊坐像が祀ら
れています。これは、永禄6年(1563)に源民部太輔という里見氏の一族が奉納したものです。

すぐそばにある、弘法大師の芋井戸へ。
IMGP2565
言い伝えが2パターンあるので、不思議なのですが・・・・
まずは、南房総市の民話から・・・
昔むかし、房州の青木の里に住んでいた意地悪な婆さんが、ある日、清水の湧く井戸端で里芋を洗って
いると、「お婆さん、私にその芋を少し分けてくださらんか。」と静かな声で頼む人がいました。振り
返って見ると、そこにはみすぼらしい旅のお坊さんが立っていましたので、婆さんは、「お前さんにや
る芋はねえよ。」とけんもほろろに断りました。旅のお坊さんは重ねて芋を布施してくれるように言った
のですが、それでも婆さんは、「この芋は石芋で食えねえよ。」と嘘をついてまた断りました。お坊さん
は、「さようか、石芋か。」と言い、婆さんの姿をじっと見ていました。家に帰った婆さんが、芋を煮て、
食べようと口に入れたところ、どれも石のように固く食べられなかったのです。怒った婆さんが、その芋
を洗った井戸へ投げ捨てますと、何と、煮た芋なのに青い葉が出て、間もなく井戸いっぱいに広がったの
です。婆さんは驚き、「あのお坊さんは弘法大師様だったに違いない、私は悪いことをした。」とすっか
り改心し、信心深い優しい人になりました。
次は、芋井戸の前にかかれている南房総市の教育委員会が作った看板の内容・・・
その昔、弘法大師が諸国遍歴のおり、当地青木に立ち寄りました、その時、一人の老婆が正月用に神仏に
供える里芋を洗っているのを見て、「お婆さん、その洗っている芋を一つ私にください」と言うと、老婆
は心良く、「はいはい」と土で汚れている芋を綺麗に洗い差し上げました。弘法大師は、その厚意に大変
喜ばれ、今もらった芋を池に入れ「この芋は、何千何百年末代まで枯れることなく、青々と繁り、綺麗な
花も咲きますよ」と老婆に言い、立ち去りました。その後、芋は芽を出し夏になると2メートル30セン
チ位に育ち、5・6本の黄色カンナに似た花が咲きます。やがて、どの花に黒いゴマ粒の倍位の実がなり
ます。冬が来ると、芋の丈は1メートル30センチ位に短くなり・・・・・
という感じです。
1つ目は、悪いお婆さんが改心した話で、2つ目は、最初からいいお婆さんという形です。皆さんはどっち
だと思いますか?

次に青根原神社へ。
IMGP2568IMGP2567
青木・根本・原田地区の神社が合祀されています。この場所は館の前といい、白浜城主の館があった所の
前といつことで、里見成義の墓があったといわれています。ここには天保3年(1832)に福寿院11世龍山
やその檀家によって立てられて記念碑があります。碑文は杖珠院古記に基づいたもので、白浜にいた里見
氏の歴史を記録してあります。

最後に、種林寺跡へ。
DSCN0854
里見義堯の長女種姫が建てたと言われている種林寺跡です。「種林寺顕彰碑」には、「義実の娘で小田喜
正木時茂の次男大太郎(永禄7年(1564)没)の妻となった種姫が建立した寺」という。種姫が建てた寺が
市原市朝生原にあります。富士山宝林寺といい、曹洞宗です。

ここで、雨が少し降り出しました。あとは、駐車場まで帰るだけで、急いで帰ります。
駐車場に着いたら本降りになりました。なんとか無事に天気がもってくれて助かりました。

今回は、白浜城跡縦断という事でしたが、南房総市白浜町のじょうやまの会のみなさんが、白浜城跡の
コースを整備しています。まだまだ、歩けるコースができると思います。