お散歩ツアー「天面磯浜古道を歩く」報告

ここの所、大雨の災害が多く発生しています。館山・南房総では、昨年9月に経験をしていますが、今回の九州地方の災害は、すごく大変な事になっています。特に熊本県は、震災でやっと復興してきたところ、新型コロナウィルス・大雨での災害・・心が痛みます。これから、夏に向けて台風の発生もあるかと思います。館山・南房総も備えておかなければなりません。
令和2年7月大雨災害に遭われた皆さまが、日常の生活に早く戻れる事を願っています。

今回は、当初予定していたのは「頼朝伝説と洲崎を訪ねる」でしたが、訪問する地区の方に多くの張り紙がしてあり、「新型コロナウィルスが終息するまで観光客は立ち入り禁止」となっていて、下見で歩いてるときも、地域の方の目が厳しい状況でした。
たしかに、高齢者の多い地域ですので、警戒心が強くなっているんだろうなぁ~と思い、コースの変更した次第です。
今回のコースは、緊急事態宣言中に予定していた「天面磯浜古道を歩く」を開催しました。

出発場所は、道の駅鴨川オーシャンパーク。
最初に訪れたのは、名馬橋。

この付近には、頼朝伝説があります。
頼朝が安西氏のもとに向かう途中、太海の太夫崎で休憩をしている時に、一頭の名馬を得ます。この橋の下の川で、頼朝が馬を洗ったことから、川を名馬川、そこにかかる橋が名馬橋となりました。

次は、岩屋山波切不動堂へ。
参道には、鴨川の石造物百選に選ばれている「百番観音」があります。

雑草に覆われてしまっていますが、観音像が多くあります。百番観音ですので、百体あるかと思われますが、損壊などが進み百体ない状況です。年代でみると、寛政10年(1798)や享和2年(1802)などがみられますので、数年かけて建立したものと推察できます。観音信仰は、法華経の観世音菩薩普門品(観音教)に、観世音菩薩は三十三に姿を変えて衆生を教化し救う事が説かれていて、聖徳太子が法隆寺に救世観音を安置して以来、観音信仰が広まったそうです。

お堂へ。

本尊は11面観音。詳細等は不詳です。
お堂の前(脇)には、鴨川市の石造物百選に選ばれている倶利伽羅竜王と狛犬があります。
お堂に向いて左側に倶利伽羅竜王があります。

紀年銘は確認できませんが、江戸時代後期のものだと言われています。
倶利伽羅竜王は不動明王の変化身だと言われています。

本堂向かって右側には、狛犬があります。

普段ご紹介している狛犬と異なった狛犬です。嶺岡山系産出の蛇紋岩で造られていて、江戸時代後期に地元の石工によって製作されたものと考えられています。愛嬌のあって可愛い狛犬です。

ここにも、源頼朝の伝説があります。
不動堂の側に駒穴があります。先ほど名馬橋のところで少し話をしましたが、付け足しです。
頼朝は、付近に馬の蹄の跡が多いことに気付き、家来に探させると、洞窟の中で一頭の馬をみつけました。頼朝は滝から流出した川で馬を洗ったといいます。その馬は「太夫黒(たゆうぐろ)」と名付けられ、頼朝の愛馬となり、のちに義経に与えられたそうです。この馬が、一の谷の戦いで有名な鵯越えの逆落としを結構したときの義経の馬だそうです。太夫馬については、いろいろな地域でお話しが残っていますが、今回はここでの話という事にしておきます。

境内には、穴の開いた石があり、これらを馬蹄石と呼ばれ、名馬の蹄のあとと伝えられています。

今回は、雨が降ったあとだったので、不動滝の勢いが素晴らしかったです。

波切不動を後にし、大夫崎の方を通り出世不動前を通り四社神社へ。

祭神は瓊瓊杵尊・木花開耶姫・大山祗尊・誉田別尊の四神です。詳細等は不明です。

すぐ隣にある西徳寺(天面善光寺)へ。

真言宗智山派の陣で、山号は龍光山。本尊は不動明王です。創建の年は明らかではありませんが、明治後期にまとめられたと思われる寺院明細帳によれば、慶長9年(1604)の大津波によって建物や伝来の古文書類が流失してしまいました。慶長11年に長空という僧侶が中興開山したといいます。境内の阿弥陀堂には信濃国(現長野県)の善光寺の創建者と伝えられる本多(本田)善光が、善男善女の寄進した金銀財宝を基にして鋳造した48体の尊像の一つと言われている、善光寺式阿弥陀三尊が祀られています。三尊像は、もとは波太の宝幢院に安置されていましたが、慶長の津波で慶長年間(1569~1614)に西徳寺へ移されたと伝えられています。
西徳寺に伝来する「阿弥陀如来略縁起」によれば、当地を支配した有馬氏は、七堂伽籃を建て厚く信仰していましたが、有馬氏の没落後に来た領主は、全く信仰心のない人で伽籃を破却し、如来像は打ち壊そうとしました。その時、にわかに異変が起こり、領主寵愛の息女が急死し、家人の多くが狂気しました。阿弥陀如来の天罰の示現に愕然とした領主は、尊像を即時に本所に送り戻し、旧悪を改め仏法に深く帰依しました。寺主と里の民は力を合わせ、近隣・郷党に広く助成を求め堂を再興しました。慶長9年(1604)の冬、大津波が房州の沿岸を襲いました。民家を押し流し堂宇も流失してしまい尊像を失い、人々は悲しみました。ところが天面村の鎮守である四社神社の井戸が夜な夜な光を発していました。早速占ったところ、「尊像はこの井戸に在します」とのお告げがあり、井戸を掘ると井戸の底で釜を被った状態で三尊が輝き現れました。
阿弥陀如来三尊は、南北朝時代から室町時代の作品と考えられていて、千葉県の文化財に指定されています。

西徳寺の境内には、鴨川市の石造物百選の2つがあります。
まずは千手観音。

千手観音を石で造る例は少なく、安房の中でも単独で造られたものは少ないといいます。文化10年(1813)に建てられたものです。

千手観音の奥に十九夜塔(如意輪観音陽刻)があります。

享保2年(1717)に当地の十九夜講の人たちによって造立されたものです。十九夜講は、十九日に拝む女たちの念仏講です。如意輪観音は血の池地獄で苦しむ女性を救う仏と言われています。地の池地獄の苦を逃れるものであったり、安産や育児、婦人病の回避などの女性特有の祈願だったのだと思います。如意輪観音は、墓塔にも刻まれています。

次は、西院の河原地蔵尊へ。

全国に「賽の河原」は数多くありますが、「西院の河原」と呼ばれるのは千葉県でも唯一。幕末期、この地を治めていた岩槻藩の藩士が天面にやってきて砲台を検分した時の日記に、「砲台の左方にサイノカワラの石積みがある」と記してあります。
国道128号線が出来るまでは、海岸で石をひろってきて西院の河原に積んでいいたそうですが、国道ができてからは石を拾ってくることができなくなり、石積みは途絶えたそうです。
少し賽の河原の説明を・・・
三途川は、現世とあの世を分ける境目にあるとされています。三途川のほとりには「賽の河原」と呼ばれる河原があり、死んだ子供が逝く場所と言われています。そこで子供たちは、親よりも先に死んだという親不孝の罪の報いを受けるのです。
鬼は、「こんな土壇場にきて、早死した罪に報い、まだ善行を積んでいないというのでは、先ず三途の川を渡れないが、それに気付くのが遅かったのには目をつぶってやろう。しかし、日の出から日の入りまでの間に、大きな石を運んできて塚を築き、日の入りから日の出までの間に小さな石を拾って塔を築きなさい。そうすれば川を渡らせてやろう。
「ひとる積んでは父のため、ふたつ積んでは母のため・・・」子供たちは悲しげにうたい、父母恋しと泣きながら石を泥と血にまみれながら、一つ一つ積み上げて塔を作るのです。やっと出来上がった塔を、鬼が回ってきていいます。「お前たちが積む塔は、歪んでいてみっともない。これではご利益もないだろう。さっさとこれを積みなおして成仏を願え」と無情にも壊してしまい、また最初から作らなくてはなりません。何度も何度も作り直しても鬼がきて壊されてしまいます。泣き叫ぶ子供たちに、最後は地蔵菩薩が慈悲の手を差し伸べてくれるという話です。
ここの西院の河原には、水子や幼い子供たけでなく、未婚の若者がども供養されていて、多くの地蔵さんが祀られ、たくさんの玩具や人形が供えられています。考えさせられる場所です。

あとは、出発地点へと戻りますが、今回のメインイベント、JR東日本山生橋梁を下から見に行きます。

山生橋梁は、前兆1,647.8m、脚高11.5m、幅5.9m。国道128号線の房州大橋と並び、JR内房線江見~太海の海岸線をまたぐように、架けられた鉄道橋としては日本初の鉄筋コンクリートT型はり形式の橋梁です。大正13年(1924)の房州西線(現在の内房線)の延伸に合わせて、大正9年(1920)に、鉄道院総裁官房研究所・柴田直光の設計により建造されました。橋梁は、海岸線に沿って緩やかにカーブし、橋脚の一部は満潮時に浸水する厳しい自然環境下に作られました。特に塩害による鉄筋の腐食が心配されていましたが、昭和58年(1983)に行った調査では一部に鉄筋の発錆などがみられましたが、おおむね健全でした。入念な施工を行えば、このような環境下でも長期使用に十分耐えられる鉄筋コンクリート構造が実現できることを証明した橋梁でもあります。平成24年度(2012)に関東の土木遺産として認定されました。
いつもは国道を車で通ってしまって下から見るなんて考えもしなかったのですが、下から見ると迫力があります。この橋梁が約100年近くここに建ってると思うと、素晴らしい技術なんだなぁ~と思わせてくれます。下から見るには、干潮時でないと厳しいものがあります。

あとは、出発地点へと戻ります。
今回のコースは、普段車で通り過ぎてしまうような場所ですが、歩いてみると素敵な場所が多くあります。地元でも見過ごしてしまっている場所でした。

最後に、今回「賽の河原」の話を少し書きましたが、最近TVで置き去りにして3才の子どもが亡くなってしまった事件がありましたが、この世で苦しんだ分、早く地蔵菩薩が慈悲の手を差し伸べてくれる事を願っています。

月イチツアー「にしざき民話の里を歩く」報告

ご無沙汰しております。緊急事態宣言出てから、ウォーキングツアーも自粛していました。
新型コロナウィルスの関係で、当倶楽部はかなり厳しい状況になってしまいました。夏のウミホタル観察会をどうするか?とか・・・ウォーキングツアーどうしようか?とか・・・緊急事態宣言が解除されましたが、地域の中には、他から来てほしくないという地区もありまして・・・ウォーキングツアーのコースの変更があります。(ウミホタル観察会は開催予定です)

県またぎの移動が解除された6月20日の月イチツアーは、5月に中止としました「にしざき民話の里を歩く」に変更して開催しました。マスク着用のウォーキングは、この時期大変ですが、熱中症対策をしながらあるきましたので、報告します。

集合場所は、休暇村たてやま前の公共駐車場からです。今回散策するエリアには、多くの民話が残されていますので、それを紹介しながら巡ります。
まず最初に訪れたのは、金山神社。

祭神は、金山毘古神。早物地区の鎮守で、鉱山や金属技工の神が祀られています。

次はすぐ隣にある観音堂へ。

文政8年(1825)の六十六部廻国供養塔があります。

次は、西岬地区公民館(昔西岬東小学校)へ。門を通った直ぐの所に孝子新四郎の碑があります。

太田新四郎は、江戸時代の塩見の人です。両親への孝行から、寛政7年(1795)に領主から褒美を与えられたそうです。

次に、船越鉈切神社へ。

祭神は豊玉姫命。参道を登った奥に鉈切洞穴があり、この中に本殿があります。洞穴は、自然につくられた海食洞穴で、縄文時代の地球温暖化で水位が上昇して、崖地が浸食されて出来ました。洞穴の入口は、高さが最大4.2m、幅は開口部で5.85m、奥行き36.8mと大きく、縄文時代には住居として使われたらしく、土器や鹿角製の釣針・銛・魚の骨や貝などが発見されています。古墳時代に一部は墓として利用され、その後海神を祀る神社として、地元漁民の信仰をあつめています。昭和42年(1967)に県指定史跡になりました。宝物として独木舟や元禄10年(1697)に紀州漁民が奉納した鰐口などがあり市指定文化財です。7月の祭礼ではかっこ舞(市指定文化財)が演じられます。

ここで、伝説をお話しをします。
一つ目は...
昔むかし鉈切明神はこの地に渡って来られ、まずは使いの神様に鎮座する場所を探させました。使いの神様は上の宮(船越鉈切神社)の側にある洞窟に犬を連れて入ったまま帰って来ませんでした。再び洞窟探検に向かうと使いの神様はすでに亡くなり、恐ろしげな大蛇が棲んでいたので退治をすると、村人は安心して暮らせるようになったそうです。その後、犬だけは犬石(神戸地区)の岩穴から傷だらけで出てきたそうです。犬が出てきた地を犬石と呼ぶようになりました。

二つ目は...
大蛇は紫池にいて村人に悪さをするので、退治すると傷を負った大蛇は池に逃げました。大量の血で池や川が紫色に染まったので、海岸の大岩を鉈で切り裂き海に血を流しました。それ以来、池は紫池と呼ばれ、死んだ大蛇が横たわっていたので、蛇骨川と名が付きました。

以前、洞穴の入口を開けてもらって中に入ることができ、写真を撮ってきたのでここで載せておきます。

あと伝説で大蛇を退治したといわれる鉈も見せてもらいました。

二枚とも8年位前の写真です。鉈の大きさをみて、少し驚きました。(もっと大きいものかと・・)

まだまだ、説明するところがありますが今日はこの辺で。

次は、高性寺へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は虚空蔵菩薩。むかしは船越鉈切神社の別当寺だったことから、神社の祭礼の時には、かっこ舞の行列がここの寺から出発していました。

御嶽神社へと向かう途中の川底には、カナクライシ(ビーチロック)を利用した橋の跡があります。前日に雨が降っていたので、増水していてあまり見えませんが・・・

カナクライシは、一般的にはビーチロックといいます。サンゴ礁が発達する海で潮間帯に多く見られる石です。炭酸カルシウムによるセメント作用で海の堆積物が固まったもので、板状の石灰質砂礫岩です。短期間で固まるので櫛などの人工物が混ざったりしています。

御嶽神社へ。

祭神は日本武尊。塩見地区の鎮守で、本殿の彫刻は後藤三四郎作。後藤三四郎は後藤義光の師匠である江戸の後藤恒俊と思われます。境内にある岩はご神体岩と伝えられています。

次は善栄寺へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は阿弥陀如来。本尊について口上書が残されていて、江戸時代に善栄寺の本尊が盗難にあい、廻り廻って麻布善福寺(東京)で開帳されたところを、檀家が発見し、檀徒の六兵衛と四宮又兵衛の尽力により7年越しに戻ってきたといいます。またあざとり阿弥陀として信仰されています。戦後に地区内にあった宝蔵寺を合併しています。安房百八か所地蔵の第99番札所で、明治6年(1873)の御詠歌額が松の堂に残されています。

次は、松の堂へ。

江戸時代の幕府老中の松平定信が訪れ、臥龍松と名付けた大きな松があった観音堂です。安房郡札観音の三十番札所で、「霧の海 霞に浮かぶあま人の むりの願いも浜の観音」が御詠歌です。

臥龍松の写真です。

松は東西に50mも枝を広げていましたが、大正の大震災頃から枯れはじめ、戦争中に消滅してしまいました。当時は、名勝として知られていました。松があった跡地には、旧道から松の堂への入り口に建てられた道標が移設されています。

次に、中原淳一詩碑へ。

中原淳一は、少女雑誌の編集や人形作家・挿絵作家、またファッションデザイナーなど多彩な活躍をしていた人です。
昭和35年(1960)47歳の時に、心臓発作を起こして入院。仕事の禁止と5年間の安静を宣言され、「海の近くで静養したい」という願いから、塩見の網元の離れを借り生活していました。その後、体調も回復し仕事を始めましたが、再び倒れ、塩見にあったシャンソン歌手、高英男さんの別荘で療養し、昭和58年(1983)に70歳で永眠しました。
詩碑は平成14年に土地所有者らの協力で建立されたものです。

海岸線を通りながら、次の目的地、海南刀切神社へと向かいます。

祭神は刀切大神。船越鉈切神社は、かつて一つの神社として信仰されていました。拝殿向拝の龍や獅子の彫刻は、明治の彫工・北条の後藤忠明によるものです。現在は、向拝の龍は2019年の台風以降、社殿へと置かれています。

社殿の壁面の天岩戸伝説やヤマタノオロチ伝説の彫刻は見事なもです。細かい作品は、弟子と共に作成しています。

社殿内には、日本画家・岩崎巴人画伯が描いた風神・雷神の絵があります。

社殿の裏側に伝説の岩があります。

民話(伝説)をご紹介します。
1つ目は。
昔むかし、鉈切岩は近づく事が出来ない断崖でした。鉈切明神は丸木舟でつきましたが、上陸することができませんでした。鉈切明神は持っていた鉈で岩を切り裂いて上陸したといいます。

2つ目は。
里人の言い伝えによると、鉈で切った岩の間は、孝行な人は傘をさしても通れますが、不孝者が通ると両方の岩が合わさって、一つの山になり決して出ることが出来なくなると言われています。

3つ目は。
ある夏の昼下がり、白い幣束を一本立てた丸木舟が流れてきました。夜のうちに鉈切山の頂上に打ち上がっていました。そのうち舟を削ってのむと、癪が治ると評判になりました。近くに住んでいた欲張り婆さんは、夜のうちに大量に削って隠していましたが、その後、その家は滅亡してしまいました。

今回のお客様は、大丈夫だったようですので、あとは、出発地点へと戻ります。

久ぶりのウォーキングツアーだったのもあり、急に暑かったので、大変でしたが、無事に終了する事ができました。

これかも、新しい生活様式でマスク着用が必要かと思いますが、熱中症には気を付けてツアーをやっていきます。

お散歩ツアー「今なお信仰深い風早不動尊と鎌倉文化を伝える小網寺へ」報告

今年度もあと少しで終わりです。今年度は、色々な事がありました。台風被害で、団体のお客様のキャンセルがあったり、だいぶ落ち着いてきたと思った矢先に、新型コロナウィルスの発生だったりで・・・早く終息してもらいたい限りです。
まぁ~なんやかんやあっても自然の事?には敵いませんので、4月から新年度ですので、気持ちを新たに頑張って行きたいと思います。

さて、今年度最後のお散歩ツアー「今なお信仰深い風早不動尊と鎌倉文化を伝える小網寺へ」を開催しましたので、ご報告します。(ちょっとタイトルが長すぎですね(笑))

集合場所は、小網寺近くの空き地を貸してもらいそこから出発です。
小網寺へと続く道の途中に出羽三山碑郡があります。

西長田・出野尾・岡田の境にあるホウボウ山の裾野に出羽三山碑があります。他には、岡田地区の行者・吉五郎が西国・坂東・秩父の百観音霊場の巡拝記念に建てた、文政3年(1820)の百観音巡拝塔もあります。

少し上って行くと、下の堂という地蔵堂があります。その入口付近に弘法大師像があります。

文政7年(1824)に西国東秩父の百観音と四国八十八箇所の巡礼を記念して建てられたものです。

小網寺へといいたいところですが、小網寺は後にして、出野尾洞窟遺跡へと向かいます。

標高約25m~30mにある海食洞穴で、縄文時代の貝塚と古墳時代の人骨・土器片が確認されています。昭和29年(1949)、千葉大の教授の指導により、千葉県安房第一高等学校(現安房高等学校)郷土史研究部による発掘調査が行われました。その後、平成22年から、館山市教育員会と千葉大学文学部考古研究室が連携して再発掘調査が行われました。入口幅約4m、奥行き約7m。昭和の発掘時には、上層から古代時代の須恵器・土師器、下層から貝塚と縄文土器。平成の発掘時には、落盤と混貝層の間から縄文時代の前期末と、後期の土器ほか、黒曜石、イルカの骨、カキや二枚貝などが出ています。

次に向かいうのは風早不動尊。

天正18年(1590)2月29日に建立されたと伝えられている不動尊です。小さな滝の行場があり、大正頃には二階建ての行屋があったそうです。本堂向かって左手を流れる小さな滝の近くに、不動明王の利剣にかみつき飲み込もうとしている俱利伽羅竜王の石塔があります。この形は不動明王の象徴的に表しているものです。
お不動さまは、子宝・安産・良縁祈願の御利益があると言われ、遠くからも参拝に来られるそうです。初不動の際には、本堂にある犬のぬいぐるみをお借りして家に持ち帰り、願いがかなった時には新しい犬のぬいぐるみと2体一緒に納めるそうです。

ちなみに紅葉の時期には、こんな感じです。

イチョウの絨毯が敷き詰められています。

次は、三連の滝へ。(滝の本当の名前は不明です)

ちょっとなかなかいい雰囲気の滝です。人もあまり通らない場所なので、初夏とかいいかもしれません。でも蛇が出てくるかも?ですね。あとイノシシさんに会うかもしれません。

大日様へと向かいますが、滝の所からずっと登り坂になります。

大日様です。

文化9年(1812)と天保5年(1834)の出羽三山碑2基と地蔵尊2体、11基の馬頭観音があります。馬頭観音は昔、ゴミ処理場がある山にあったそうですが、開発によってここに移動してきたそうです。大日如来の石像があることから、地元ではここをお大日と呼んでいるそうです。

次に向かったのは、十三騎塚。
十三騎塚がある場所は、私有地になるので、当日は見学しませんでしたが、説明だけでも・・・

館山落城にまつわる里見氏の伝説が残る場所です。慶長19年(1614)9月9日に里見氏が徳川幕府によって館山を追われると、その4日後の9月13日に、家臣13人が近くの三ツ山で無念の自害をし、館山城が見える場所に葬られたと伝えられています。小さな塚がいくつかあったのそうですが、今は藪となって行く事ができないので、少し下がった入口に供養の場所がつくられています。

次は、小網寺へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王。寺伝によると、和銅3年(710)に行基が創建したと伝えられています。かつては密教道場として隆盛しましたが、その後荒廃し、文明5年(1477)に再興しました。里見氏から15石、江戸時代は幕府から25石の寺領を与えられました。境内には、安房国札観音霊場の三十二番札所で聖観音菩薩が観音堂に祀られています。木造聖観音立像は、平安時代のものです。

本堂の向拝の彫刻は明治25年(1892)後藤義光の作です。

 
境内にある鐘楼のかかる梵鐘は、鎌倉時代の弘安9年(1286)の作で、国の指定文化財になっています。

この梵鐘は総高107.5㎝、口径62.1㎝で、三段組で鋳造されています。小網寺の旧名とされる「金剛山大荘厳寺」の銘や弘安9年(1286)に「金剛佛隆尊」を大願主、「矢作助定」「大田末延」が大檀那となり「大工大和権守物部國光」によって鋳造されたことなどが刻まれています。物部國光の作の梵鐘は、ほかに鎌倉市の円覚寺、横浜市称名寺・東漸寺にもあり、当代一流の鋳物師であったことが分ります。

他にも寺宝として鎌倉時代の密教法具21点があり、千葉県指定有形文化財になっています。
密教では、智恵の火により煩悩を焼くための護摩、密教伝授の灌頂等の儀式や法会が重んじられます。この法具類は、これらの儀式に用いられる器物で、五鈷鈴・五鈷杵・独鈷杵・金剛盤・花瓶・羯麿・輪宝・羯麿台・四橛・蓮華型柄香炉などがあります。いずれも鋳銅製で、鍍金が施されています。独鈷杵は室町時代の作で、他の法具の製作年代はいずれも鎌倉時代です。金剛盤・花瓶・羯麿台には「金沢審海」の銘が刻まれていて、この法具類が、横浜市金沢区にある称名寺を開いた妙性房審海にゆかりのあることを示しています。相模と安房との文化交流を考えるうえで貴重なものです。

次は、少し下がった所の、通称法華谷(ほっけやつ)へ。

2基のやぐらが並んでいます。左側のやぐらには、生井氏に浮彫された五輪塔が2基あり、南北朝時代に造られたようです。手間のやぐらには、文政11年(1828)に地元の人々が奉納した弘法大師像があり、両側には五輪塔が置かれています。伝説では、弘法大師が修行した場所とも言われていています。

あとは、出発地点へと戻ります。
無事にたどり着く事ができました。ありがとうございます。

来年度に向けてご参加いただける皆さんにお願いがあります。
当倶楽部の集合場所は、わかりづらい場所が多くあります。またトイレもなかったりします。いろいろご指摘がありますが、色々な所をご案内しようと心掛けておりまして、なかなか設備が整った場所からのスタートが少なくなっています。また、設備が整った場所での集合ですとご案内するエリアが絞られてしまい、同じ内容になってしまいます。その点ご理解いただきたいと思います。よろしくお願いします。

お散歩ツアー「滝口下立松原神社と鹿倉山」報告

3月になりました。春なのに・・・新型コロナウィルスでウキウキ気分も台無しですね。
色々と自粛していて楽しみにしていた事が無くなってしまった方とかもいらっしゃいますが・・・当倶楽部のウォーキングツアーも悩みましたが、館山・南房総では新型コロナウィルスが発生していない事、野外での活動、50名以下という事で、色々賛否もありますが、ウォーキングツアーを開催しました。

集合場所は、南房総市白浜町にある下立松原神社です。

祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)。朝廷の命により、天富命が天日鷲命の孫・由布津主命とその他の神々と当地方開拓に上陸し、後に由布津主命が祖神の天日鷲命を祀った社です。いく度かの合祀が行われ、現在では祭神を19柱を数えています。武将の尊崇も厚く、源頼朝や里見義実など、太刀を奉納して武運長久を祈願しています。
本殿は明治初頭の再建、拝殿は元禄時代に建築された本殿を移したもので、ともに入母屋造です。8月1日例大祭があり、9月の八幡の祭りには神輿が出祭します。

下立松原神社では、神狩神事が毎年行われています。神狩神事は江戸時代(文化13年頃)から行われたとされています。「ミカリ」の由来は、由布津主命が天富命と一緒に安房に上陸し、農作物を荒らす猪や鹿を狩って退治し、住民を安堵させた神徳を慕い、今も神狩神事として旧暦11月26日夜から10日間にわたり行われています。期間中には、「サバシ参り」「イチノビ」「注連張り」「夜明かし祭」などが行われています。

注連張りの写真です。参道に注連縄を千鳥掛けに張ってあります。

参道脇には后神社があります。

阿波忌部の祖神天日鷲命の孫由布津主命の后で、房総を開拓した天富命の娘の飯長姫命(いいながひめのみこと)を祀っています。

下立松原神社を後にし、鹿倉山へと向かいます。
鹿倉山山頂への道は、2019年の台風で、大変な事になっていますが、ここを神狩神事の時には、宮司さんは登っていきます。

なかなかのアドベンチャーです。写真を撮ってる余裕がなく、この写真は頂いた写真を使わせて頂いてます。

やっとこさ頂上に到着です。頂上には、石宮があります。

石宮三社は、狩りをした神々だと言われています。

ここで、南房総の昔話より「曲田の小平」というお話しを紹介します。
大古から、輪の沖には大きな潮の道(黒潮)が、西から東へ流れています。神武天皇の時代に、その潮の流れに乗って現れた、数艘の独木舟の人たちが、安房の南の端に上陸しました。その人たちは、天神の子孫である天富命が率いた、四国の阿波忌部族の由布津主命たちだったのです。船から降りた命たちは、気候や景色が故郷に似ていいることを慶び、そこに住む家を建てると、野山を切り開き、粟や麻を植えました。しかし、鹿や猪が多く棲んでいて、せっかく育てた作物を荒らすので、それを防ぐのに一苦労でした。仕方なく、由布津主命は、村人の「曲田の小平」に案内させて、山狩りを行いましたが、その時、山頂に追い上げた大鹿が荒れ狂って、命の従者たちに傷を負わせたのです。「小平はいないか、早く来て大鹿を捕えてくれ。」命が大声で叫びますと、「おーおー」と小平は答えましたが、手にする狩りの道具は何もなかったので、急いで近くにあった藤の蔓を持って駆け付けました。命は弓と矢を取って首尾よく大鹿を退治し、多くの猪も捕えることができました。それから粟の平野には、粟が大きな穂を垂れ、麻は長く伸びましたので、村人は衣食に事欠くことは無くなったといいます。小平は皆に感謝されました。今も滝口の下立松原神社の「神狩神事」に鹿倉山から大声で、「曲田の小平やぁーい。」と呼びますと、5~600m離れた家から、小平が藤蔓を手に持ち、山を登ってくる厳しい姿が見られるという、言伝えがあります。

次に滝山薬師堂跡へ薬師巡礼道を通って向かいますが、今は人が通らないので荒れています。

右側に落ちたら、崖から川に一直線なところがあります。

滝山薬師堂跡です。

ここも台風の被害がり、薬師堂跡の碑がありましたが、木が覆いかぶさり見れなくなってしまいました。
前回行った時の写真です。このような碑が建てられています。

この場所に薬師堂がありました。現在、薬師像は、安房自然村にある薬師堂に祀られています。

次は、大門院へ。

大門院には、4つの南房総市の文化財があります。お堂内に見えていないものから説明します。
1つ目は、木造菩薩形坐像です。像高は53㎝。髻を結い、宝冠を載いて両肩を衣で覆う形式の像です。腹の前で結ぶ印相の上方がかけていますが、宝冠阿弥陀如来像として間違いないそうです。製作年代は11世紀半ば前後ととみられています。
2つ目は、本尊厨子の左右に安置されているのが木造天部形立像です。左手を振り上げる像と、左手は胸脇で持物を捧げる像があります。両像は法量や当初部材の状態から見て、一具の二天像(あるいは四天王像のうちの二躯)とみられます。保存状態はかなり悪いものの、本像は当初部の肉取ちに柔らかみがあり、腹部の膨らみや脇腹の引き締めも程よくまとめられています。製作は平安時代後期も11世紀あたりまで遡るとみられています。
3つ目は木造金剛力士立像です。

阿形像は像高165㎝。吽形像は像高161.8㎝。檜材の寄木造で、当初は玉眼を嵌入していたとみられます。両像とも動勢を抑えた太造りの姿形で、ほとんど腰を捻らず、足の踏み出しもわずかです。また阿形像にみられる忿怒相も怒りの表情が抑えられ、肉付き豊かな両像の上半身にしても誇張は少なく、多くの仁王像のように隆起した筋肉が瘤のようになる表現はみられません。製作は無漏真時代の前ごろと考えられています。

最後の4つ目は、木造僧形坐像です。

像高34.6㎝。頭部を円頂にあらわし、両肩をおおう衣を着て座る。両手は胸の前、衣の下で拱手しています。面貌などは不明ながら、特定の僧の肖像を表したとは見難く、その手勢や高く襟を立てるさまからみて僧形神像の形をしめるものと考えられます。朽損甚だしく、像容がはっきりしないため、制作年代の推定は困難ですが、頭部の幅広くゆったりとした曲面による構成、体躯の量感が控えめののことから平安時代後期、12世紀の作だと考えられます。

小さなお堂なのに、南房総市の文化財が多くあります。このエリアには、他にもお寺が1つ、お寺あった場所が1つあります。小さなエリアでも信仰が深かったのです。

あとは駐車場へと舗装された道を通ってかえります。
途中には、長尾城跡や、陣屋跡などがあります。

今は、菜花の畑が広がっています。
因みに、長尾藩は明治元年(1868)7月、本多氏が駿河藤枝から安房への転封を命じられ、軍事的な要害として白浜の長尾の地に城を建設しました。明治2年になると藩士の移住が本格的にはじまりましたが、地の利の悪さから藩士には不評でした。その夏に台風によって建設中の陣屋が倒壊したので、北条(館山市)への移転が進められ、長尾城建設は中止されました。
来年度のウォーキングツアーでは、北条の方を歩きます。

なんとか無事に下立松原神社へと着く事ができました。今回のこのコースは、1月に予定していましたが、雨が降ってしまい安全第一で延期としました。安全第一といいながら、世間では新型コロナウィルスで自粛という事になっていますが・・・
自然の中の空気を吸って、大地を踏みしめ免疫力アップしてきました。

今年度も、残すところあと1コースのお散歩ツアー「今もなお信仰深い風早不動と鎌倉文化を伝える小網寺へ」を3月19日(木)に開催します。是非、ご参加下さい。

お散歩ツアー「千倉朝日大仏と御嶽山」報告

あっという間に2月も終わってしまいます。今年は閏年なので1日多く2月がありますが、年度末に向けて来年度のウォーキングツアー予定作成に余裕がなくなってきました。子供の頃から追い込まれないとやらないタイプだったので、今その状態のような・・・
しかしながら、新型コロナウィルスか日本でも感染者が増えてきていますね。なんだか、感染力が増してきてるような・・千葉県でも数名でていますが、館山・南房総ではないので、一安心です。でも、いつどこで感染するかわからないので、しっかり睡眠をとって抵抗力をつけ、手洗いうがいをしてウィルスから守りましょう。

そんな中、お散歩ツアー「千倉朝日大仏と御嶽山」を開催してきましたので、報告します。
集合場所は、南房総市千倉町にある高家神社。

祭神は磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)。料理の神・調味料の神として全国只一社の神様です。
創立年代は明らかではありませんが、一説に第114代・中御門天皇(1709(宝永6年)~1735(享保20年))の頃といわれています。
景行天皇が当地に渡られた時に、天皇に随行していた神で、天皇が安房の浮島に寄せられた折、海中より白アワビとカツオを得て、膾にして天皇に進上したところ、この美味なるに天皇が多いに賞賛され、膳大伴部(かしわでのおおともべ)の姓を下され、その子孫は髙橋氏として代々宮中の大膳食として仕えました。ここ高家神社は、磐鹿六雁命を祀る珍しい神社です。味噌・醤油の醸造の神として、調味料・調味業者はもとより、一般の信仰も厚く、毎年10月17日(神嘗祭)11月23日(新嘗祭)の祭礼に古式に則り荘厳な包丁儀式が行われます。


写真に写っている建物で包丁式が行われます。
ウォーキングツアーの時も、男性が1人でお参りに来ていたので、話してをてみると都会から来られて調理人の方でした。

高家神社を後にして、朝日大仏へと向かいます。

寺庭の八幡神社付近の大仏山とよばれる標高10~12mの雑木林に顔頭部だけの大仏が鎮座し、南の方を見下ろしています。


大仏の大きさは1.8m、幅1.3m、厚み76㎝もある大きなものです。材質は崖と同じ砂岩や凝灰岩からなる自然石です。石仏の由来は不明ですが、真言宗の本尊である「大日如来」と知識者の一致する意見だといいます。古老の話によれば、大仏は海から上がって、胴体は波で溶けて首だけ残っていたのを、もったいないからと大勢の人で山の上まで引き上げたという話があります。大仏様の脇には大日如来と関係の深い寛政6年(1794)の「出羽三山供養塔」が建っています。
昭和の初め頃、正月になると参拝者で山がいっぱいだったそうです。

次は、御嶽山へとむかいます。

御嶽山は、千倉中学校の真後にある海抜84.3mの山で、地元の人は御嶽山(おんたけさん)と呼んでいます。昭和初期に南朝夷ろ徳商店の上のほうに御嶽山の行者が住んでいて、白装束に身を固め登拝する姿を見た人がいるそうで、木曾の御嶽山を勧請した山かもしれません。
山の上り口に在郷軍人等の実弾射撃場があり、塹壕が残っているそうです。山には、庚申塚・金剛山供養塔・稲荷鳥居の台輪・手水鉢・燈篭片方・狐の石造片方・石宮・石仏群などが祀られていて、謎だらけな山です。
今回は、昨年の房総半島台風での被害が大きく、山の中に入る事が出来ないので、下でお話しをして次に向かいます。

次は揚島天神社へ。

詳細等は不明ですが、境内にある手水石は天保七年(1836)のものです。

次は西養寺へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王。安房三名工の後藤利兵衛橘義光の菩提寺で、初代義光夫婦・二代義光夫婦・三代義光夫婦・三代義光の次男の等のお墓があります。


客殿向拝の玉取竜・象・獅子の彫刻は天保15年(1844)義光がまだ光定と称していた頃のものです。祖父山口佐次右衛門と父山口弥兵衛が彫物施主となって奉納したもので、平成11年本堂新築を機に客殿に移されました。


魚藍観音堂には、銅製の大きな鯛が乗っていて、外房・内房の漁師の信仰が厚く、地域産業の振興、家運繁盛等の祈願所として参拝者が多かったといいます。観音堂前の木造賓頭盧尊者像も義光が小さな頃の作品と言われています。

墓地入口にある地蔵菩薩半跏像があります。

蛇紋岩で造られていて260㎝程の地蔵菩薩です。反花座正面に「牡丹」、基礎の正面に「獅子」・左面に「波に宝珠」・右面に「波に亀」が彫刻されています。南房総市指定文化財になっています。

次は、八幡神社へ。

祭神は譽田別尊(わんだわけのみこと)。創立は不詳ですが、江戸時代末期と言われています。譽田別尊は、15代応神天皇のことです。応神天皇は八幡信仰と結びつき八幡大菩薩と崇められています。八幡神社には、応神天皇・神功皇后・仲哀天皇の三柱が合祀されています。平成29年本殿が改築されました。懸魚を含めた彫刻は、初代後藤利兵衛義光のものです。

本殿のうらに行くと、立派な石があります。

祠もありで、御神石なのかなぁ~と思います。

最後は天満宮へ。

祭神は藤原道真公。詳細等は不詳です。
ちょっとのぞかせてもらったら、藤原道真公がいらっしゃいました。

この道真公は・・・表現が難しいのですが・・味があります。夢に出てきそうなお顔してます。

出発地へと戻ってこれました。今回は、安全策を取って御嶽山に登る事ができませんでしたが、山の中には私たちの知らない物が残されています。昔の人々の信仰心には、感心します。

今回のウォーキングは、天気にも恵まれ楽しく歩く事ができました。
また旅倶楽部は、楽しく歩く事を優先しています。地域の歴史文化をお伝えしながら、道中、くだらない話をして笑いながら和気あいあいと歩ければと思っております。是非、皆さまも楽しみながら歩きませんか?

月イチツアー「真野の大黒さんと古道を歩く」報告

暖かかったり、寒かったりと、なんだか変な天候な館山・南房総。最近は、新型コロナウィルスの感染のニュースが騒がれていまて、同じ千葉県にある勝浦市では、第一便で帰国した人たちが、滞在しているため、風評被害が起きてるとか・・・もう少しすると、勝浦ビッグひなまつりも始まりますので、是非!!足をお運びください。
新型ウィルスも心配ですが、花粉の季節がやってまいりました。ドラッグストアやホームセンタ-ーにはマスクが品切れで少し困っております。早め早めに花粉症の薬を飲んでいたので、少し良いのかなぁ~なんて思ってますが、マスクが品薄では・・・一応、1月の終わりにマスクを2箱購入しているので、なんとかもって欲しいです。

さて、2月に入り月イチツアー「真野の大黒さんと古道を歩く」を開催しましたので、報告します。
1月の月イチツアー・お散歩ツアーは、雨で延期となってしまったので、久しぶりのウォーキングツアーを開催する事ができました。出発場所は、九重小学校近くの空き地をお借りして、ここからスタートです。先ずは、薗の堰のはずれにある石造物郡へと向かいます。

小山を上った所に石造物郡があります。

山王石碑や三山碑・浅間様が祀られています。

小山の下には、馬頭観音碑があり、古道のにぎわいを感じさせる場所です。

住宅地を抜けると昔の千倉街道へと入って行きます。
昨年の台風の影響で、樹々が倒れている場所が多くありました。

ですが・・・林道上には倒木が少なく真野寺までの間は歩きやすくなっていました。

途中、小さな石仏があります。

この後ろ側の小高い平地にいくつかの塚があり、燈篭塚と呼ばれ古墳時代の円墳とされています。昭和の初め頃、5基の円墳が報告されています。残念ながら今は、藪の中です。

千倉街道を進んで行くと、大井に下る三叉路にあたります。そこには、ばあ神とよばれる、縄文時代の石棒を祀った石宮があります。石棒は、縄文時代中期以降に現れる棒状の磨製石器で、用途は明らかではないそうで、生殖器崇拝、武器、権威の象徴、穀物するつぶし具などの諸説あるそうです。

この近くには、明治30年ころまで茶店があったといいます。

ここから、真野寺の方へと進むにつれて、猪の足跡や蒐場現れきますが、鹿島塚の国見松跡へと向かって行きます。5年前に来た時には、ここの存在を知らなかったのですが、下見の際に看板がり整備もされていたので知る事ができました。

鹿島塚の国見松跡ですが、南房総市の昔話に「高倉山の五本」といお話しが載っていたので、ご紹介します。
むかし真野の大黒様(高倉山真野寺)に、大きくて立派な松の木が五本ありました。一番有名だったのは、「鹿島塚の国見松」で、源頼朝が伊豆の石橋山の戦に負けて、安房国に逃げて来た時、この松に登り、安房国全体の様子を見たのだと言われていましたが、惜しいことに昭和の中頃、枯れてしまいました。その時、立派な由緒のある松だったからと、その太い幹で臼を作ったそうです。国見松の生えていた鹿島塚の名称は、遠いむかし、真野の大黒様が鹿島から運んで来た、建物の礎石や神道に敷く土砂を、一時、山のように積んでおいた所だったため、いつの頃からそう呼ぶようになったのです。枯れた松の跡には二代目の国見松にしようと、新しい松を植えましたが、それも間もなく枯れてしまいました。他の四本も、それぞれ由緒を秘め「中尾の影向松」「山神宮の一本松」「燈籠塚の光り松」「蔵王堂の岩割松」と呼ばれ、「鹿島塚の国見松」と共に高倉山の五木として有名でしたが、全て枯れ今はありません。昔むかし存在したという伝説の松になってしまいました。
というお話しでした。

いよいよ、真野寺へと向かいます。
途中、猪の蒐場に、カエルの卵らしきものが・・・(後日、サンショウオの卵だとご連絡ありました)

この水が無くなってしまったら、どうなるのか少し心配です。

木々に囲まれた道を進み明るく開けた場所に出ると、真野寺の梵鐘が目の前にあります。

大祭でもありますので、ここで、一旦自由行動になります。

真野寺についてご紹介します。

真言宗智山派の寺院で、本尊は千手観音像。神亀2年(725)奈良時代に1㎞東の高倉山山頂に行基菩薩により開山されましたが、建永元年(1206)鎌倉時代に野火で焼失し、翌年、大黒天を厚く信仰していた北条義時が、私財で七堂伽籃を現在の地に建立しました。その後も安房の国主・里見義堯や江戸時代には徳川家の加護を受けていました。
本尊の千手観音像は、神亀2年(725)、行基菩薩によって一木から彫り出したと伝わっています。行基菩薩の御霊作といわれるだけに、他に例をみないほど霊験あらたかで、非常に強い観音さまなので、非道邪念の者が参詣すると、たちどころに、その非道邪念を見破り、厳しい仏罰をあたえたというのです。恐怖で参詣者が途絶えるようになってしました。歳月が流れて貞観2年(860)、この地を遊行された慈覚大師が、この話を聞き、本尊千手観音像のお面を彫り、御慈眼を覆いますと、不思議なことに、千手観音像は、参詣者たちに厳しい咎めはなく、優しく諭してくださるようになったのです。いつしか覆面千手観音像と呼ばれるようになりました。11月23日には、本尊である千手観音像の御開帳が行われます。

次に、大黒様のお話しを・・・
大黒天大祭と呼ばれる縁日は、例年2月6日に行われています。お祀りされている大黒天像のいわれは、寺伝によりますと、貞観2年(860)この地を巡錫中の慈覚大師が訪れ、参籠中の旧正月6日、朝日の昇天を拝んでおられますと、大黒天が現れたので、大師は直ちにこの御尊像を一刀三礼により、お刻みになったのが、この大黒天像(像高140㎝)であると伝えられています。そのため、朝日開運の大黒様と呼ばれ、縁日には朝早くお参りするほどご利益があると、午前零時に打ち鳴らす大梵鐘の音を合図に参詣が始まるのです。客殿では、「宝槌」と「柳守」を授与しており、宝槌を授かれば人生一切の不運不幸を夢のごとく消散して、希望溢れる開運福徳に恵まれるといい、柳守は、柳のように柔軟でねばり強く、柳の枝に結わえ付けられている紙袋の中には、もち米のはね煎りが入っていて、八倍まで繁盛するようにとの願いが込められてています。

(※行基菩薩・・668年~749年。河内国大鳥郡蜂田里に生まれ、15歳で出家し、24歳の時に高宮寺で受戒し、飛鳥寺に入って日本に法相宗を伝えた道昭の弟子になります。生駒山地で修行をし、生家を家原寺として、民間布教を開始します。布教とともに貧しい人を助けるために布教屋と呼ばれる無料の宿泊所を作ったり、治水工事や架橋工事などの慈善事業を行ってきましたが、50歳の時に朝廷から「僧尼令」違反として行基の活動を禁圧されましたが、布教活動をつづけ、やがて1000人もの弟子が集まりました。こうして行基活動が拡大すると、朝廷は行基の活動を許容することとなり、743年に廬舎那仏造立を発願した際には、聖武天皇が行基を造立の中心的な役割を担う勧進僧に任命。745年には、日本初の大僧正の位を授けるのでした。大仏の完成をみることなく749年にお亡くなりになりました。ちなみに、師の道昭は、唐に渡って玄奘三蔵(西遊記のモデルといわれています)から教えを受けたことで有名な僧侶です。)

自由時間を満喫し、お弁当も食べ、午後からの行程へと進みます。
真野寺から手力雄神社へと向かいますが、これまた古道を通って行きます。今は、きちんと舗装した道が出来ていますが、あえて古道を通ります。こちらの道は、道上に大きな木が倒れていました。
途中に道標があります。

真野寺と大井を結ぶ旧街道の堀切に「まのじちか道」と彫られた道標。昔、往来の通行人に真野寺への近道を案内したものです。

道標から切通しを少し歩くと、お地蔵様が岩の所にあります。

往来する人々を見守ってくれていたと思われます。

何か所かの障害物を抜け、手力雄神社へ。

主祭神は、天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)で、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)・太田命(おおたのみこと)の三柱を祀っています。天手力雄命は、天岩戸神話で、天照大神が天岩屋に隠れていたのを天手力雄神が岩戸を開き天照大神をお出ししたという神話です。その神話から天手力雄命は大力の武勇の神として、武士の間で信仰が厚く、里見氏や徳川家から朱印地43石3斗を賜りました。

拝殿の右側に古事記天岩戸の場面が彫られた額があり、明治44年(1911)後藤義信の作です。

本殿は、三間社流れ造。天正12年(1584)、里見義頼が造営。元禄16年(1703)元禄大地震により破損、宝永6年(1709)に修理・改修されました。屋根は桧皮葺(ひわだぶき)(元は柿葺)、柱などの軸部は朱塗、彫刻は極彩色で彩りよく仕上げてあります。向拝の虹梁や蟇股、木鼻彫刻、脇障子や妻飾などは江戸時代中期の特色を示していますが、身舎の組物、蟇股、垂木の反り、手挟の先端や通肘木の地紋彫などは桃山時代の特色を示し、二の装飾技法が入りまじった独特の雰囲気を出しています。昭和55年に県の有形文化財に指定されています。

今回は、宮司さんがいらっしゃっていまして、お話しを聞く事ができました。ありがとうございます。

ここからは、舗装された道を歩いていきます。手力雄神社の近くの民家の敷地に止止山鼻(とどやまのはな)大岩屋跡という碑が建っています。

手力雄神社裏の止止山丘陵端(記念碑の場所)に、むかし岩穴があったといいます。この碑には、この碑を建てたタロベイ家は、かつて手力雄神社の別当を勤める円行寺という修験であったことなどが書かれています。

大井城跡の下を通り、出発地点へと戻りますが、途中六地蔵の道標があります。

この場所は、北西が府中(三芳)、西が北条・館山、東南が宇田坂を越えて千倉、東方区が加茂坂を越えて和田方面へ行く街道の交差点でした。正徳4年(1714)江戸中期の地元の念仏講と巡礼講の人々が建てたもので、ここから館山まで1里29町、松田(和田町)まで1里20町とあります。

ここが最後の見学場所です。出発地点へと戻ります。
今回は、天気に恵まれ、無事に戻って来れました。来年は、夜のうちに行ってみたいと思うのですが、寒さと眠気に負けてしまうでしょうね。昔の人は、電気もなく暗闇を進んで、山道でお参りに行っていたと思うとすごなぁ~と思います。今回の道を、夜中に行ったら、すご~く怖いだろうなぁ~。イノシシとご対面もしちゃうだろうし・・・昔の国道だけど、ちょっと無理でしょうね。
今回は真野の大黒さんに合わせて開催したので、出店が数多く出ていていろいろと誘惑があり、うずらの玉子入りのたこ焼きとベビーカステラをゲットしてきました。うずらの玉子入りのたこ焼き屋さんは、安房地域では、館山のまつり・館山の花火大会とここ真野の大黒さんだけの年3回しかこの地に来ないのです。たこ焼き屋さんは、男前でいつもはたこ焼き5個なんだけど、台風とかで大変だったからって今回は6個入っていました。お家に帰って、温めて美味しくいただきました。
最後は、たこ焼きの話でごめんなさい。

追伸:一月のお散歩ツアー「滝口下立つ松原神社と鹿倉山」ですが、3月5日(木)に再設定しましたので、是非、ご参加下さい。かなり足元が悪い場所もありますので、トレッキングシューズでお越し下さい。お待ちしております。

月イチツアー「沼蓮寺初薬師大祭「だるま薬師」」報告

遅ればせながら、明けましておめでとうございます。
昨年は、色々ありました。9月からは台風の被害でガイド依頼のお客様が激減してしまい、自主開催のウォーキングツアーも自粛。前澤さんが館山市に20憶円の寄付をして下さいましたが、ソフト面の観光業で吹けば飛ぶような団体には、到底廻って来るわけもなく・・・・年明け早々、グジグジ言ってしまいましたが、負けずに頑張っていきますので、本年もどうぞお付き合いください。よろしくお願いします。

さて、新年一発目は、南房総市和田町にある沼蓮寺(じゅうれんじ)の初薬師大祭にお参りするウォーキングツアーを行いました。しかしながら、前日から大荒れの天気になるとテレビなど言っていまして・・朝4時には、防風警報が発表されたりしましたが、朝8時頃は、風もそれほどなく雨も降っていなかったので予定通り開催しようと思いましたが、集合場所に着くと風も強くなりお昼前後が暴風雨のピークと予想がでましたので、今回は、沼蓮寺へのお参りで終える事になりました。

出発は、南房ライスセンターの駐車場を安房農協さんにお借りしまして出発です。田んぼの中の道を通り、沼蓮寺を目指します。
当初予定している見学場所は見学せず、沼蓮寺の手前にある八幡神社へ。

祭神は品陀和気命(ほんだわけのみこと)。創立年は不明ですが、天文2年(1533)に再建されたと伝えられています。

本殿の爛漫にある竜・象鼻・獅子の彫刻は後藤利兵衛橘義光の作です。

八幡神社から坂道を登ると沼蓮寺に到着します。到着した途端、雨が降り出しました。これは薬師さんにお導きいただいたのでは?と思うタイミングです。

沼蓮寺は、真言宗智山派の寺院です。本尊は地蔵菩薩。延慶元年(1308 鎌倉時代)開山、寛正7年(1466 室町時代)に再建したと伝えられています。その後、江戸時代に修復され、平成9年にも材料はそのままで再度修復しました。本堂は、本尊の地蔵菩薩と脇侍の観音菩薩立像が安置されています。欄間には、明治5年(1872)奉納の「安房百八ケ所地蔵尊巡り」第65番の扁額があります。扁額の彫刻は初代後藤義光の作です。

薬師堂(医王殿)です。

昭和61年の寅年開帳に多くの人がお参りしたので、開運の縁起物としてダルマを授けました。毎年1月7・8日の大縁日です。ご開帳は60年毎の寅年におこなわれますので、次は2046年になります。あと26年後です。

こちらの薬師如来には、ありがたい霊験が語り継がれていますのでご紹介します。
昔、沓見郷に喜多郎という者がいました。25歳の時、盲目となり、この薬師如来に7日間断食祈願したところ、しばらくの間、目が見えるようになりましたが、宿業(前世の善悪の行為)のため、また見えなくなってしまいまいたが、75歳の長寿を保つことができたといい、また岩糸村長右衛門の末子が生れながらにして盲目でしたが、参詣祈願をすると目を開けることが出来たと言います。薬師如来の霊験は、眼病ばかりでなく、口が利けない、耳が聞こえない、手や足が悪い等々あらゆる人の病を癒して、安楽に導いてくれるといいます。
もう1つは、奥のお堂に千体仏が祀られていましたが、無信心な盗賊どもが次々に盗み、二百体に減った時、賊の一人が難病にかかり狂乱すると、沼蓮寺薬師如来のお告げにより、仏像を元の所に返さねば死ぬと言われ、盗賊どもが競って返納したため、仏像は元通りに揃ったといいます。

そうそうだるまさんといえば、高崎のだるまが有名で、だるま全国生産の80%を占めてるそうです。
日本三代だるま市は、少林山七草大祭(高崎だるま市)、厄除元三大師祭(深大寺だるま市)、毘沙門天祭(今井山妙法寺のだるま市)です。だるまのモデルとなったのが達磨大師でして、この達磨大師さんは150歳でお亡くなりになったそうです。すごく長生きです。私も、黄色のだるまさんを授かってきました。黄色は、金運・開運だそうです。

今日は、お寺さんからの御接待を受ける事ができました。
写真も撮らずにさっさと食べてしまって、奥様に無理言って写真を撮らせていただきました。

おしること言ったらあずき色と思っていましたが、こちらのおしるこは緑がかったおしるこで、粒も小粒でした。おいしいおしるこをいただく事ができました。っとくつろいでいる間に外はというと、大雨になっておりました。


去年の事もあるので、ここから出発地点へと戻る事にしました。途中、風も強くなり、辺り一面が田畑という事もあり、傘が風で飛ばされそうになったりで、「行はよいよい帰りはこわい」状況で、修行をしながら出発地へ戻って行きました。天気予報では、お昼前後がピークと言っていましたので、予報が的中です。

今回予定していたコースには、2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主要メンバーの一人和田義盛が戦場に挑む時、護身仏として体から離さなかった持仏であったと伝えられる観音様が祀られているお寺など見どころがありましたが、今回は、ここまでとなります。来年度(1月7日か8日)に再度リベンジしますので、是非、ご参加下さい。

最後に、帰りにコンビニに行ったのですが、買い物するとクジが引けたので、引いてみると500円相当の物が当たりました。その三日後にもクジを引いたら当たりがでて、これも、沼蓮寺へのお参りに行ったからなのか、だるまさんのおかげか・・今年はいい事が起こりそうな予感がします。宝くじでも買っちゃうかな~と思うのですが、欲を出すとダメなので、小さな当たりをコツコツ繋いでいこうと思います。

月イチツアー「国札観音巡礼参り」報告

師走ですね。なんだか師走という感じではないのですが・・・台風の被害から3か月がたちましたが、まだまだブルーの屋根が目立ちます。また旅倶楽部の事務所も、まだブルーのままなんですが・・・頑張って修理費を捻出しないとダメな状態です。なんせ、予約がキャンセルになってしまいましたからねぇ~。まだまだ、頭が痛い日々が続きます。
っと嘆いていては前に進まないので、新しい年に向けて、頑張って行こうと思います。

12月の月イチツアー「国札観音巡礼参り」を先日開催しましたので、報告します。
集合場所は、当初予定していた延命寺さんが台風被害の対応で檀家さんたちが集まるとの事でしたので、宝珠院のご住職さんのご厚意で駐車場を借りる事ができました。ご住職さんは、崖観音大福寺のご住職さんで私の恩師でもあります。

スタート地点の宝珠院です。

新義真言宗の寺院で、金剛山神明房神護寺宝珠院といいます。京都の智積院末寺で、本尊は地蔵菩薩。創建は応永11年(1404)です。江戸時代は安房国真言宗寺院の触頭としての地位にあり、安房国内223カ寺を統括していました。また談林所として安房国真言宗唯一の学問所でもありました。大正12年(1923)の関東大震災で山内諸堂が倒壊し、多くの寺宝を失ってしまいました。
昔の絵図を見ると、参道には仁王門や、林光院・徳蔵院・本覚院・西光院などの堂宇が立ち並んでいます。

観音堂は、今回の台風により大変な被害があり、向かって右側にある清瀧権現堂も傾いてしまっています。

観音堂は、安房国札観音巡礼23番札所で、十一面観音菩薩(鎌倉時代・徳治2年(1307))が本尊です。伝わっているのは、妙光尼(宥伝の母)は応永11年(1404)に行基菩薩作と伝えられる十一面観音を奉安する一寺を創建したと言われています。この観音様の管理は、林光院から西光院、宝珠院へと移っていきました。現在のお堂は、関東大震災で倒壊した仁王門の二階部分を用いて昭和8年に再建したものです。御詠歌は「あま寺へ 参るわがみも たのもしや はなのお寺を 見るにつけても」 このあま寺は、元の西光院が尼寺だったからです。

欄間の龍は、寛政2年(1790)「初代波の伊八」の作です。

お堂の中には、天正16年(1588)に里見義康が奉納した木造不動明王坐像もありましたが、現在は、本堂の方に仏様たちは避難しています。

観音堂の前にあった石造地蔵尊です。

台風被害で、折れてしまっていました。

壊れてしまった地蔵尊の隣には、岡本左京亮頼元の逆修塔があります。

岡本左京亮頼助は、里見義頼・義康に仕えた人物で、天正16,7(1588,9)年頃、岡本城で出火があった時の責任で出仕を停止させられたことがあります。逆修とは、生前にあらかじめ自分のために仏事を修して死後の冥福を祈ることで、慶長11年(1606)に建てたものです。

本堂の前には閼伽井があります。

お寺の名前の由来する伝承があります。永享年間に、開山宥伝が閼伽井の水を汲んだ際、水面に「宝珠」に二文字が現れたことから、実乗院と名乗っていましたが、宝珠院に改めたといいます。

参道入口の所に、石造地蔵尊があります。

明治11年(1878)に建立されたものです。半跏の地蔵尊で、台座には、賽の河原の様子が彫られていて、開眼導師は金剛宥性だそうです。金剛宥性は、房州長狭郡大山村の出身で、京都醍醐寺の三宝院住職。明治5年(1872)、安房に地蔵菩薩の札所霊場108か所を開き、すべての寺へ御詠歌の額を奉納しています。宝珠院は百八箇所地蔵の第一番になります。

宝珠院の参道を出てすぐの場所に、元八幡神社があります。

安房国府が府中周辺にあったころ、安房国の総社とされる鶴谷八幡宮がこの場所にあったと伝えられています。そのため元八幡神社と称しています。毎年「やわたのまち」のときには、ここの井戸で水を汲むことから祭りが始まっていて、八幡宮にとって由緒ある場所です。

次は、延命寺へ。

曹洞宗の寺院で、長谷山延命寺といいます。本尊は虚空蔵菩薩。里見実堯を開基として10代忠義までの後期里見氏の菩提寺です。慶長年間には里見氏から寺領を与えられ、その後徳川家からも保護されてきた安房曹洞宗の中心的なお寺です。観音堂の十一面観音像はもと平尾山大通寺の本尊で、裏山にあったといいます。安房国三十四観音巡礼の24番札所です。御詠歌は「平尾山 のぼりてみれば うどの原 出世はここに 七夕の」です。

次は、普門院へ。

真言宗の寺院で、日照山普門院といいます。本尊は不動明王。
境内の延命地蔵半跏像は「十方檀那法界萬霊塔」で文化11年に世話人光明講中によって建てられたものです。

石工は「當村 石巧 武田産 秀治」とあります。武田石翁が秀治と名乗っていたころのものです。

次の熊野神社に向かう途中には石仏があります。

民家の生垣の所に馬頭観音と如意輪観音がひっそりとあります。


曲がり角にも少し大きなお地蔵さんもいます。

熊野神社です。

祭神は須佐之男命。昭和39年に本織神社に合祀されました。
境内南東端に風化が激しい一面四臂の青面金剛像があります。

石工は「當村 石工 周治」とあり、普門院と同じ、石翁が周治と名乗っていた時のものです。武田石翁はいろいろと名前を使っています。周治・小瀧周治・秀治・壽秀・石翁と変え、多彩な趣味にいそしみ号を是房・壽秀・天然齋・天然道人・鯉石・石翁などと称しました。

横峯堂の前を通り新御堂跡へ。

那古時を始めとした安房国札観音巡礼の2番で、那古寺より正木の諏訪神社の山を越え青木根の中腹にある墓地が新御堂の跡で、御詠歌では「にいみどう 見上げて見れば 峯の松 くびこい鶴(汲み超えつる)に亀井戸の水」と詠われています。
文化年間に起きた火災までは、お堂へかぶるように峯の松があったと伝えられています。跡地には、正徳4年(1714)の石造智蔵菩薩立像があります。また「人も見ぬ 春や鏡の 裏の梅」と鏡ケ浦を詠んだ芭蕉の句碑があります。宝暦11年(1761)のものがあったのですが、建て替えられてしまっています。

山裾には、亀井戸があります。

亀井戸が亀ヶ原の地名の由来と言われています。

亀ヶ原八幡神社へ向かうところの辻にある六地蔵です。

正徳4年(1714)に建て替えられたものだそうです。その前には宗春という人物が建てたものがあったと刻まれています。

次は亀ヶ原八幡神社へ。

祭神は誉田別命。創建は室町時代の文明年間(1469~1487)と伝えられ、江戸時代初期の元和6年(1620)に再建したときの棟札が残されています。境内には、四十八貫目(180㎏)と刻んだ力石や文化10年(1813)の手水石、文政11年(1828)の燈籠があります。

隣にある新御堂へ。

元々は、秀満院の境内でしたが、秀満が関東大震災で倒壊したため、青木根の中腹にあった新御堂が昭和42年(1967)に移転してきました。安房国札観音巡礼2番で、本尊は聖観音立像です。堂内には明治3年に作られた大黒天像が祀られています。

宝篋印塔は明和5年(1768)のものです。

次は六所神社です。

古代国府に付随しておかれたもので、国内の主要な神社の神を国府に集めて祀ったものをいいます。ここも安房国府に関連した六所神社と考えられているそうです。
本殿の向かって左脇には、クジラの骨を祀った祠があり???前回のウォーキングでお参りした際には祠があったのですが、台風被害で祠が倒壊してしまったようです。拝殿も被害があり、支えられています。
以前のクジラの祠の写真をどうぞ・・

祠に入っていたクジラの骨は、拝殿の中に入っていました。

拝殿も開いていて不用心だなぁ~なんて思いました。最近は、神社仏閣での泥棒被害があるので、気を付けて下さいね。

田んぼの片隅に石塔があります。

田の中の畔道に複数の中世の石塔の石がまとまって据えられています。五輪塔や宝篋印塔の一部で、地元では里見氏の姫を葬ったものと伝えられています。昔は一段低い田の中にあったそうです。

最後の見学場所、八坂神社へ。

古くは祇園社ともいい、祭神は祇園天神、牛頭天王であり、こと祇園精舎の守護神であるといわれ、また薬師如来の垂迹神ともいわれています。日本的には、素戔嗚尊が祭神であると言われています。祇園の御霊会は6月13日~15日頃、営まれますが、この季節は疫病流行の兆しの見える時でもあり、農村では病虫害に悩まされる時期で、疫病除の神として祇園祭が広く行われてきたそうです。
八坂神社の縁起によると、「往古、白髪の老翁がやってきて、「我は是出雲の国、大社の神官なり、当社の神躰を安房の国、東国府の郷へ安置いたすべすしと、神勅を蒙り、此の地へ来たり」として一つの御箱を里人に給り、「此の魂をこの里に勧請いたすにおいては、此の土あらんかぎりに国人を守護し永く疫癘悪病あるばからず」と申して、白い雉子となって飛び去ったと伝えられています。

拝殿の前にある狛犬です。

この狛犬は石翁作と伝えられています。天保13年(1842)の作で、総高150㎝程です。

今回のウォーキングはここまでになります。八坂神社と出発地点の宝珠院はお隣になります。八坂神社はむかしは宝珠院の子院だった徳蔵院が別当を勤めていました。

お参りさせていただいた神社仏閣ですが、やは台風の被害を受けている所も多くありました。自然の力には逆らえないなぁ~と
思いながら、この古い建物を修復して保存していって欲しいと思います。

今年も1年いろいろな方たちのご協力でなんとかやってこれました。ありがとうございます。
来年もがんばって書いていこうと思っておりますので、よろしくお願いします。
皆さま、良いお年を・・・・

お散歩ツアー「沢山不動もみじ狩り」報告

今年も残り少なくなってきました。朝晩はだいぶ冷え込んできました館山・南房総は、太陽さえ出てれば陽だまりはあったかです。
12月のお散歩ツアー「沢山不動もみじ狩り」を開催しましたので、報告します。

今回の集合場所は、増間コミュニティーセンター。増間地区のご協力を得てお借りすることができました。ありがとうございます。

増間コミュニティーセンターは、増間小学校があった場所です。増間小学校は、明治7年(1874)に善通寺にて生徒20名にて開校しました。先生は、川名元岱。増間村の代々医者殿といわれる川名家に産まれました。学校開校するお時、増間山間はへき地でなかなか先生を頼むのに困難な為、自分たちの村から先生をとの村民の強い希望により、資格取得のため戸長名儀により師範学校へ「入学嘆願書」なるものを提出し、入学を許可され、修学が終わって増間小学校に就任したといいます。
明治22年に町村制施行により滝田村が誕生し、明治23年に滝田尋常小学校が本校となり、増間尋常小学校は分校となりましたが、法令改正により10月には、増間尋常小学校として独立しました。明治32年9月に、校名を済美小学校と改めましたが、明治40年学校令改正により、済美小学校は廃止され、二葉分校となり、尋常4年までの児童を収容し、5年以上は本校の滝田小学校へと通学するようになりました。昭和47年に、旧三芳村の国府・滝田・稲都の三小学校が統合して三芳村立三芳小学校となり、二葉分校は廃校となりました。
敷地には、二葉分校の碑があります。

出発地から、沢山不動へと進んでいきますが、出発と同時に目に入って来たのが土砂崩れの後です。

9月からの台風の影響で地盤が緩んでいる所に、10月の大雨で山が崩れてしまったそうです。

この山の麓に、馬頭観音があります。

この馬頭観音さんは、地元の方に大切にされているようで、いつもきれいになっていて、カッパも着ていました。
観音様というと女性的な美しい表情であることが多いのですが、馬頭観音は憤怒の形相で表されています。怒りの激しさによって苦悩や諸悪を粉砕し、馬が草を食べるように煩悩を食べ災難を取り除くとされています。また、家畜の安全と健康を祈ったり、旅の道中を守る観音様として信仰されています。昔は、武家や農民にとって、馬は生活の一部となっていたので、馬を供養する仏としても信仰されました。

湯の沢口というところに、お地蔵様と常夜燈があります。

お地蔵様はわかりませんでしたが、常夜燈は、天保5(1834)年12月のものです。
お地蔵様の地蔵とは大地からあらゆる命を蔵するよに、苦悩の人々を無限の慈悲の心でつつみ、救うがゆえについた名といわれています。インドの方では、次のような伝承が残されているそうです。
昔々、インドに大変慈悲深い2人の王様がいました。一人は自ら神になることで人を救おうと考え、一切智威如来という仏となりました。もう一人の王様は、神になる力を持ちながら、あえて仏となることをやめ、自らの意思で人の身のまま地獄に落ち、すべての苦悩と、さまよい続ける魂を救おうとしました。それが地蔵菩薩です。地蔵菩薩の霊験は大変多く、人々の罪業を滅し成仏させるとか、苦悩する人々の身代りになって救済するという説話があります。

沢山不動入口の近くには、集乳所の跡があります。

沢山不動入口から沢山不動へと緩やかな坂を約40分上っていきます。途中には、炭焼き小屋などがあり、下をみると栗が落ちてたり、どんぐりが落ちてたりと山を楽しむ事ができます。

やっとお堂が見えました。

左奥が沢山不動尊で手前はお手洗いです。歩きながら撮ったので、ブレてしまいました。

お堂の少し手前の山側 には、馬頭観音があります。

文化7年(1810)のもので、文字で彫られています。

沢山不動です。

密教の寺院で、本尊は不動明王。創立縁起は不明ですが、昔から「沢山の不動さま」と呼ばれ、安産・商売繁盛・学業成就などのご利益があるとされています。縁日は、毎月28日に行われ、特別に2月と8月に護摩行事があります。
里見公が守本尊にしたとの話がり「里見公守り給ひし 不動尊 残す宝は ここに勝つ勝つ」という古歌が残っています。

不動堂は、普段は開いていませんが、お堂を開けて頂いていました。縁日ではない限り、見る事が出来ないのですが、地元紙に載ったおかげで、堂守さんが開けてくださったみたいで、感動です。ありがとうございます。

本堂向拝の龍の彫刻は、後藤義孝の作です。

後藤義孝は、三代目後藤義光の弟です。大正12年(1922)関東大震災後に建てられた歌舞伎座や明治座の装飾彫刻に腕を振るい、昭和11年(1936)に完成した国会議事堂参議院の玉座を飾る大鳳凰も義孝の作です。

不動堂の下の長沢川には「七つ滝」と呼ばれる滝があります。不動滝・棒滝などがありますが、全景を見通すことが出来ません。
最上段の滝横には不動尊の石像が安置されていて、行者の水行をした場所です。

お堂の正面には、かじか橋があります。平成10年に千葉県が建設したもので、房州では1番のつり橋です。

この吊り橋と、不動堂は、TBSのドラマ「ナポレオンの村」の撮影地にもなりました。

吊り橋の上から下を覗くとこんな感じです。

三段になった滝が見えます。渓谷になっているので、結構な高さがあります。冬場は、橋が凍結していると滑りやすくなるので、注意が必要です。

お堂の反対側は、Zワンダー公園という名になっていて、川の方へ下って行く階段があり、川へ近づく事ができます。

川底に降りたという事は、ここから、階段を上って行かなくてはなりせんが、ゆっくり上れば大丈夫です。
整備されていますが、この階段が擬木なので、擬木の上に乗ると滑りやすいので、注意が必要です。なるべく乗らずに歩いて下さい。因みに棒滝ですが、現在は道が荒れてしまって見る事ができません。あっ、増間地域には、増間七滝というのが増間川上流にありまして、坊滝・やげんの滝・狩人の滝・乙女の滝・乙坊の滝・前蔵引の滝・後蔵引の滝の7つ滝があります。増間ダムの脇にある林道を行くとあるんです。なので、沢山不動にある棒滝と間違えないでください。

あとは、出発地点に戻ります。
そうそう、出発地点の増間地区ですが、平家の隠れ里とか、豊臣家の落人の里とか言われ、落人が身を隠すため馬鹿をよそおい世間の目を逃れたという伝説があり、「増間のばか話」として伝えられています。
南房総市の昔話より、ご紹介します。

「馬がかわいそう」
 むかし、増間村の久兵衛という百姓が住んでいました。あるとき石臼が棚から落ち、割れてしまったので、薪を売って新しいものを買おうと、馬にいつもの倍の薪を積み、那古の街へ出かけました。そして、薪を売ったお金で石臼を買ったのですが、久兵衛は気の優しい男でしたから、街で薪を積んできた馬に、また重い目にあわせるのは、かわいそうだと思い、「けえり道は、おらが石臼をしょっていぐべぇかにゃー」と独り言を言いながら、自分が背負い歩きだしたのですが・・・。しかし、久兵衛は、いくらも歩かぬうちに、石臼が我慢できないほど重たくなりましたので、馬に向かって「おめえに、石臼持つのを交代して貰いてぇが、くたびれていてかわいそうだかんよ、やっぱおらが、家までしょって行ぐが、そのかわり、おらを乗っけて行ってくんにゃーか。」と言って、石臼を背負ったまま、馬に乗り、家にに帰りました。久兵衛は、帰り道の途中で人に会うたび、「石臼を直に馬に乗せて行けば、おめえさんも楽なのに。」と言われたそうですが、そのたびに、「馬がかわいそうだかんよ。」と返事そしたということです。

「土産の蝋燭」
 昔むかし、増間村の名主が江戸見物に行き、土産に蝋燭を買ってきました。そして、村中の家に配りました。 ところが蝋燭をもらった村人たちは、蝋燭を生まれて初めて見たので、てっきり江戸の食べ物と思い、皆が食べてしまったのです。それを知った名主は、驚いて村人たちを集めて言いました。「わしは江戸でみてきたが、蝋燭は頭から火を出して燃える物だ。火の元は注意が肝心だから、蝋燭を食べた者は早く向こうの川の中に入って水をかぶれ。」 名主の話に、村人はびっくり仰天。「体が火事になれば、家にも火が移る。」と大騒ぎになり、皆が川に行くと深みのところに飛び込んだのです。名主は、連れてきた村の火消し人夫といっしょに川を見下ろし、「早く知れてよかった。もう少し遅いと、村中が丸焼けになるところだった。」と言いました。

最後は、増間のばか話ではありませんが頼朝伝説が残されています。
 治承4年(1180)、伊豆の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房に逃れてきましたが、そのときのある日、頼朝とその従者たちが増間にさしかかると、夕方になったので、一軒の民家を訪ね、一夜の宿を乞いました。ところが、その家の主は、頼朝一行の風体を見て怪しみ、家に泊めることを断ったのです。困った頼朝は、幾たびも乞いながら奥の寝どころに数枚のむしろが重ねておいてあるのを見つけると、その一枚だけでも貸して欲しいといったのです。それでも家の主は、「これは普段使うむしろではなく、大切なお客のためか、正月でなければ使用しない。」と言って断りました。頼朝と従者たちは、やむなくその民家の軒下にごろ寝しました。不思議なことに、それ以来その一家は今に至るまで、むしろを敷くことができなくなったといい、またそれは一族一統にとどまらず、増間村全体が同じです。無理にむしろを使用すれば、必ずその家に災難が起こるというのです。

増間地区だけでも30話位の民話が残されて、これからも語り継がれていって欲しいですね。

今回は、ここまでになります。なんやかんやで、地域のみなさんたちに助けられ感謝のツアーとなりました。増間地区の皆さん、沢山不動の堂守さんありがとうございました。

月イチツアー「特攻・捕鯨・勝山藩等の歴史を探る」報告

今年も残すところ1ヶ月となりました。いつも、綺麗な紅葉を見せてくれるイチョウも、今年は度重なる台風の被害で見る事ができません。台風の爪跡がまだまだ残っている館山・南房総ですが、頑張っていきます。

今回は、台風15号で、甚大な被害を受けた鋸南町を歩いてきました。開催するかどうかは、色々葛藤がありましたが、下見の際に出会った人からの言葉があったので、開催する事にしました。
当日は、雨模様でした。雨雲レーダーを見ると、雨雲がかかっていないのに、ずっと雨が降っている状況で、雨雲レーダーまでも千葉南部を見捨ててるのかと思うほどでした。

出発地から、まず最初に尋ねたのは、大乗院です。

新義真言宗智山派の寺院で、本尊は、不動明王立像。残存する寺誌によれば「二浜邑(にばまむら)内宿東光山薬師王大乗院は、抑々醍醐ノ宮御門徒にて、鎌倉三代将軍実朝公治世の御時(1205~1219)二浜邑主台命ありて建立」と書かれています。
安房国百八箇所の、第16番札所になっています。

本殿右手にある一石六地蔵は、文化3年(1806)に造立されたものです。

隣にあるのが、白幡神社です。

祭神は、誉田別命。創建等は不詳。

境内には、町有形文化財山王系庚申石祠があります。

石祠は、寄棟造で、瓦棒を克明に表現し塔身を四区割、正面上部二区画に窓を開け背面に銘文が刻まれています。材質が地元の凝灰石なので、風蝕に弱いので、銘文が読めないところがあるそうですが、寛永19年(1642)の物だそうです。
内部には、天保7年(1836)銘で、山王三神の文字と三猿を彫像した石造物が納められています。

ちょっと中をのぞいてみました。

少しお猿さんが見えるかと思います。

次に向かったのは、鯨塚。板井ヶ谷の弁財天と同じところにあります。

弁財天は、勝山藩酒井家のの分家で竜島の殿様(3000石)と言われた旗本酒井家の弁財天だったそうです。弁財天は水神であり、財産を司る副神だと言われています。

その隣に鯨塚はあります。

鯨塚は、房総捕鯨発祥の地ならではなのかもしれません。
鯨を解体するのが出刃組と呼ばれる専門部隊でした。彼らは漁期が終わるごとに、鯨への感謝と供養の為に小さな石宮を建てていきました。これが鯨塚と呼ばれる石宮です。100基ほどあったと言われていますが、現在は52基。供養碑のおおきさにより捕鯨数が分ると言われています。

次は、岩井袋へ。岩井袋は、岩井袋特攻基地があった場所になります。
昭和20年(1945)7月22日沖縄作戦が終了し、24日零時までに本土決戦体制を整える事が発せられました。予想される相模湾上陸に備え、東京湾入口には横須賀鎮守府直属の第一特攻戦隊・第18突撃隊(嵐部隊)が置かれ、勝山震洋基地の他に、岩井袋に特殊潜航艇に基地が構築され、海龍隊・咬龍隊・回天隊の兵員1700人規模の部隊が配備されました。岩井袋港を囲む形で、横穴式の特攻艇格納庫や発電所・燃料庫などが設置されました。現在は、網などで塞がれ入る事が出来ないようになっていたり、倉庫になっていたりします。


咬龍格納庫を覗いてみたら、咬龍の残骸かと思いきや、要らなくなったボート?が格納されていました。

次は、最誓寺へ。

浄土真宗本願寺派の寺院で、本尊は阿弥陀如来像。
江戸時代初期の寛永6年(1629)下野国(現栃木県)に創建され、寛永15年(1638)領主・佐倉藩主堀田氏がこの地へ引き移った時に、加知山村(現鋸南町)へ移転し慈光山最誓寺と称しました。
堀田氏は、旧地より持ってきた聖徳太子16歳の像である「孝養太子像(行基作)」を安置するため、太子堂を建立し、安房の国における「太子講」の礎を築きました。その後、明和年間の大火、明治34年の大火等による火災・天災に見舞われましたが、門信徒により再建改修されてきたそうです。明治に入って、現在地(板井ヶ谷)に土地を買い求め、仮本堂をおきました。かつて、板井ヶ谷には、勝山藩の陣屋の一部があり、現在も本堂裏には、茶の湯に用いるための水を汲んだ井戸が残されています。

勝山藩陣屋跡を通りながら、古峯神社へと向かいます。
古峯神社です。

北の大黒山に対し、南の小さな山は恵比須山と呼ばれています。天然の石段の上に小さな古峯神社が祀られ、石段の入口には恵比須様が祀られています。恵比須山は、標高25mで、子供の入山は出来ません。見るからに、大人が上るのも大変そうなのに、子供では、危ないですね。今回は、上る事はしませんでした。

次は、いさな通りを歩き長谷寺へ。

臨済宗建長寺派の寺院で、本尊は十一面観世音。安房国札観音霊場第6番。
由緒によると、聖武天皇が病気平癒を祈願してなら長谷寺に十一面観音を祀り、鎌倉長谷寺にも行基菩薩が2体の観音像を彫り安置しました。そのうち一体は、足利尊氏が武運長久祈願のため帰依し、当地にお堂を建て安置しました。その後4代将軍足利利義持が僧の木鐸とともに応永13年(1406)に開創したと言われています。大黒山中腹には、初代醍醐新兵衛の墓があります。

次は、水月堂(大智庵)へ。

臨済宗建長寺派の寺院で、本尊は千手観世音。安房国札観音霊場の番外です。
お堂は、文和4年(1355)創建と言われています。元禄16年(1703)に起きた大津波で流出、大勢の死没者がでました。そこで立ち上がったのが、三代目醍醐新兵衛明定でした。元文5年(1740)死没者の冥福を祈るため、そして助かった父や祖父、自分たちに対する仏の加護に感謝するために、江戸の仏師に千手観音立像を依頼し、初代醍醐新兵衛の墓がある大黒山の麓に水月堂を建て、観音様を安置したとのことです。
水月堂下の祠は、やすらぎ地蔵の祠です。

浄蓮寺へ。

浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。開創は元和2年(1616)。元禄の大津波により本堂・古記等を流失してしまい、詳細は不明です。万延元年(1860)に本堂を再建しましたが、関東大震災で倒壊、庫裡のみ再建しました。本堂は昭和34年に改築、客殿は平成7年に改築されました。
俳人・小林一茶は、文化年間(1804~1818 第11代徳川家斉)にたびたび安房に足をのばしていて、その折りには浄蓮寺を宿としていたようです。一茶44歳の時には、8泊して何句か詠んだ記録が杉谷徳三蔵著書「小林一茶と房総の俳人たち」にあります。

妙典寺へ。

日蓮宗の寺院。本尊は、十界曼荼羅・日蓮坐像。醍醐新兵衛家の菩提寺です。元禄元年(1688)に初代醍醐新兵衛定明と2代明廣が、持地700坪を寄進し、荒廃してしまった田子の台妙典台にあった妙典寺を再建しました。田子の台妙典台は、日蓮説法の跡妙典寺の前身と伝えられています。

妙典寺入口入ってすぐの場所に、幕末の戊辰戦争で戦った勝山藩士の碑があります。

戊辰戦争は、薩摩藩・長州藩・土佐藩等を中心とする「新政府軍」と、徳川幕府や会津を始めとする奥羽越列藩同盟を含む「旧幕府軍」との間に起こった日本の内戦の事です。
慶応4年(1868)、江戸幕府が滅びましたが、それを不服とする旧幕府軍の一部が挙兵し、上総請西藩(木更津市)藩主・林忠崇は、義軍と称し、幕府遊撃隊の人見勝太郎、伊庭八郎らとともに、内房諸藩に援軍を求め南下し、勝山藩にも援軍を迫りました。抵抗すれば勝山は戦火に巻き込まれことになり、勝山藩は苦慮のすえ、福井小左衛門、楯石作之丞ら31名を半ば公認、半ば脱藩の形で義軍に参加させました。館山から海路伊豆へ渡り、小田原藩にも協力を要請しますが、あいまいな態度を繰り替えし続けました。林軍は、伊豆周辺を転々としていたが、箱根の関所を占拠、これを知った官軍は、小田原藩に林軍掃討を命じられ、箱根湯本の山崎で衝突しました。この時、勝山藩士は、人見勝太郎率いる第一軍の一番隊に組み込まれてしまいました。一番隊と言ったら、最前線に立たされるという事です。勝敗はすぐに決定し、勝山藩士は、戦死15名、戦傷10名、行方不明2名とほぼ全滅でした。生き残った林軍は、海路再び館山に戻り、内房諸藩の兵はここで下ろされ、戦える者のみで東北へ転戦します。勝山藩士で帰藩したのは19人と記録されています。新政府は、義軍に荷担した内房諸藩に責任追及し、各藩首謀者の切腹を命じました。勝山藩では帰藩していた福井・槍石が佐貫の三宝寺で切腹し同寺に葬れました。
明治23年(1890)に彼らの義を讃えて勝山藩ゆかりの人々の発起により義士の碑が建立されました。

ここまで書いておいて、なんなんですが・・・勝山藩について少し書いておきます。
勝山藩は、慶長19年(1614)に里見忠義が安房国を没収され、以後、安房国は小藩や旗本領など細分化かされました。勝山の地は、館山藩領の接収に従事した上総国佐貫藩主内藤政長に与えられ、4万5千石の所領の一部となりました。元和8年(1622)内藤政長が磐城平藩に移るとその所領は分割され、内藤清政が3万石を与えられ、勝山城の麓に陣屋を構えました。。元和9年(1623)清政が死去し、弟の正勝は16歳だったので、幼少であるとして安房勝山藩は一時的に除封されました。寛永3年(1626)、正勝が兄の遺領のうち2万石を継承し、再度勝山に入封しますが、寛永6年(1629)に死去してしまいます。嫡子の重頼はまだ2歳だったため。5000石に減封され、安房勝山藩は廃藩となりました。
内藤氏改易後、勝山一帯は若狭小浜藩主酒井忠勝の所領となりました。酒井忠勝は、江戸初期に幕府大老を務めました。
長男の忠朝は、若年寄まで務めましたが、廃嫡の身となり、酒井家所領の市部村(現・南房総市市部)で薄幸の障害を終えました。寛文8年(1668)、小浜藩主酒井忠直(忠朝の弟)は、父忠勝の遺言に従って、甥の忠国(忠朝の子)に対して1万石を分けて、忠国は大名に取り立てられました。こうして勝山藩は、小浜藩酒井家の支藩として誕生しました。以来、勝山に陣屋を置くとともに、越前国敦賀郡と上野国群馬郡の飛び領地に代官所を置き、明治維新まで9代200年間この地を治めました。

最後の訪問先は、加知山神社。

祭神は縦速須佐之男命。元禄大地震(1703)により仁浜天王塚牛頭天王が浪欠したものを、2代目醍醐新兵衛昭廣が自身の地所の日月に天王の社地を開き、社祠を再建し還座しました。旧称は牛頭天王で、慶応4年(1868)に八雲大神と改称、明治2年(1869)に加知山神社と改めました。社殿内には、加知山神社・浮島神社・八幡神社の3社の御神体が合祀されています。
勝山地区の祭礼の時には、浮島神社へ御霊を移す島渡しが行われています。

あとは、スタート地点へと戻りました。
今回は、雨模様でしたので、早めの切り上げでした。鋸南町も、9月の台風で甚大な被害がありました。まだまだ、ブルーシートが目立っていますが、是非、街を歩いてみて下さい。