大人の学習旅行編

また旅倶楽部のメンバー&常連さんとで和気あいあいと大人の学習旅行へ行ってきました。
本当は、2016年8月に行く予定だったのですが、台風の直撃にあい断念し、やっと2月
20日に行く事ができましたが、その日もTVでは「台風並みの強い風」と言っているじゃ
ないですかぁ~。朝からドキドキものでしがた、なんとか出発する事ができました。

前おきが長くなりましたが、今回の大人の学習旅行は「川崎大師とANA機体工場見学」。
朝のアクアラインは、規制がありましたが通る事ができましたが、すごい風でバスのドライバー
さんは大変だったと思います。海ほたるにトイレ休憩で寄りましたが、作業している方の
雰囲気が通行止めになりそうな感じでした。

そんなこんなで、川崎大師の駐車場へ無事到着、歩いて参拝に行きます。

真言宗智山派大本山金剛山金乗院平間寺が正式名称です。本尊は厄除弘法大師。開創は大治3年(1128)。
崇徳天皇(在位1123~1142)の時代、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、無実の罪により
生国尾張を追われ、諸国を放浪し、この川崎の知に住みつき、漁猟をなりわいとして、貧しい暮ら
しを立てていました。ある夜、ひとりの高僧が兼乗の夢まくらに立ち、「我むかし唐に在りしころ、
わが像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁に人を得ず。いま、汝速やかに網し、これを
供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられ
ました。兼乗は海に出て、光輝いている場所に網を投げますと、一躰の木像が引き揚げられ、ささ
やかな草庵をむすんで、朝夕香花を捧げ、供養を怠りませんでした。その頃、高野山の尊賢上人が
諸国遊化の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄り、尊いお像と、これにまつわる霊験奇譚に感泣し、
力をあわせて大治3年(1128)に一寺を建立しました。兼乗の姓、平間を以て平間寺(へいけいじ)
と号し、ご本尊を厄除け弘法大師と称し奉りました。(川崎大師HPより)

うん~館山市の小塚大師の話だと・・・
弘仁6年(815)に弘法大師が東国行脚の際、静寂で霊験あらたかな山に立ち寄り、密教の道場として
一字の草案を建てたのが始まりです。ある日、布良崎に鎮座する太玉命が現れ大師に告げました。
「師がこの地に来たり給うは、土民の願い、師は今年42歳の厄年に当たる。一つには自分のため、
一つには衆生のためにどうか災難除け勝業を営むべし。師の住む庵の後峯に霊木がある。これを用い
て刻み祈誓したならば、あらゆる災難やわざわいはその像が身代わりとなって、師の心身は安らか
である。なお、あらゆる衆生を救うとの誓いを像にこめ、永くこの地にのこし結縁の者に厄難を除
かしめられよ。私もまた師の影に随って擁護しよう」と語り終えると、たちまち姿が見えなくなりま
した。お告げに従い霊木を探し、自ら二体刻み開眼供養をして、「願わくは有縁の衆生と共に福智円
満せしめん。当初鎮守を始め奉り、本朝の諸大神祗・三世十方の諸仏・諸菩薩証明加護し給えへ」と
誓い、その内の一体を布良崎の浜より流しました。その後、幾年かたって対岸の武州橘樹郡に流れ着
き、現在の川崎大師平間寺に祀られたと伝えられています。(小塚大師HPより)

両方の話を合わせると、弘仁6年(815)に弘法大師が、彫った2体のうち一体を布良崎から流したの
が、300年近くたって平間兼乗に引き揚げられて、川崎大師を作ったという事になるのだと私、
個人的に理解したのですが・・・でも、平間寺の方に唐で彫ったとなってるので、どうでしょう?

境内に着いたら、自由時間です。お参りしたり、お土産買ったり、昼食したりと皆さんご自由にお過ご
しいただきましたが、担当ガイドが言うには、「みちしるべ」があるので、それは見ておいてという事
だったので、見てきました。


川崎市の重要歴史記念物に指定されています。作られたのは江戸時代の寛文3年(1663)です。
大師への参詣路を表す標識で、もともとは川崎宿の万年屋の脇、東海道から大師道への分岐点に建てら
れていましたが、戦後、平間寺境内に移されました。高さ171cm、幅52cm、厚さ47cm。

あとは、私のおすすめは、西解脱門への道沿いにある「しょうづかの婆さん」と呼ばれる像が祀られ
ている場所です。

「しょうづか」とは「葬頭河(そうづか)が訛ったものだそうで、三途の川を渡る死者の衣服を剥ぎ取る
「奪衣婆」のことです。この「しょうづか婆さん」にお参りすれば、歯の痛みを止めたり、容貌を美しく
してくれたりといわれ、昔から信仰を集めたそうです。

皆さん思い思いに散策・食事などを楽しんだあとは、「ANA機体工場見学」に出発です。
まずは、講堂にて飛行機と整備についてのや整備のビデオなどを見ます。
いよいよ、3班に分かれて機体工場へと進んで行きます。
まずは、ビル3階分の位置からの見学です。

機体を見ただけで、なんだかワクワクしますねぇ~。皆さんも目の輝きが違ってました。

上から見たあとは、階段を下りて地上へ。

すごい迫力です。

最後は、参加者全員で写真を撮ってもらいました。

あと少しで機体工場の見学は終わりです。私の班を案内して下さった方は、元客室乗務員だった
方で、お話しも上手で面白かったです。最後に、整備士の方が工場内で使っている自転車を紹介
してくれました。

このNO1のピカチューは、見学時に見る事ができないらしく、これを見るといい事があるという
お話しでした。ラッキーアイテムらしいので、写真を撮ってみました。
他にの番号ごとに違うポケモンのキャラクターが描かれていました。

楽しい時間はあっという間に終わってしましたした。受付の所にあるコンビニに、ANAグッズが
売っていて、お土産を買って帰ります。
本当は、もう少し写真を撮ってあるのですが、ブログやSNSへの写真の掲載はANAの許可が必要
なのです。今回は、5枚しか許可の申請をだしていないので、掲載はできません。
ANA機体工場見学は、6ヶ月前から予約ができます。見学は平日のみです。

館山へと帰りますが、その日はあいにくの天気でアクアラインが通行止めになってしまいました。
岡回りで帰ってきたのですが、途中の高速道路も風が強く土煙が舞っていました。
かなり、ドライバーさんは大変だったと思いますが、無事に館山へと到着しました。

次年度の大人の学習旅行も計画しております。昨年度は防衛大学と横須賀港クルーズ、今年度は、
飛行機工場っときたので、次は○○なのでしょうか?皆さん近くなったらお知らせします。

今回の大人の学習旅行にご協力いただいた皆さまありがとうございましす。

特別編「木更津市公民館様ガイド」

花粉のシーズンに入ってきました。
房総の山を見れば杉だらけ。花粉症の人は大変なことになっております。
皆さんはいかがでしょうか?

さて、今回は月イチツアーの報告ではなくて、木更津市某公民館様からご依頼いただきま
した、ガイドの報告します。
なぜ?って、木更津市さんに同行したので、月イチツアーのネタが残念ながらないのです。
月イチツアーの報告を楽しみにしたいた方には、申し訳ありません。

某公民館様は今回で3回目のお申込みで、前2回は後藤義光の彫刻などをご案内したので、
今回は伊八の作品のご案内です。

待ち合せ場所は、道の駅三芳・鄙の里です。最初に向かったのは、南房総市山名にある
曹洞宗の智蔵寺へ。山名の大寺とも呼ばれています。

寺伝によると、開基の武田信勝は天目山で敗死した武田勝頼(父・武田信玄)の嫡男で、天目山
を逃れて房州に落ち延び、智蔵寺を開基したと伝えられています。開山の太巌存高和尚は信勝の
舎弟英丸といわれています。また、中興の開基は里見の奉行、印東采女平忠康とされています。
徳川時代初期の寛永十五年(1638)、旗本三枝守昌は安房ノ国で一万石を賜って大名に列し、陣屋
を山名の本郷に置き、智蔵寺を菩提所とした。次の守全は再び旗本となりましたが、その後、天保
13年(1842)まで204年の間、山名は三枝氏(その傍系諏訪氏)の知行所でした。(寺伝より)

本堂の欄間には「波と竜」の彫刻三面は、武志伊八郎信由と弟子森久八の作です。(文化5年)

墓地のエリアには、武田石翁が手掛けた石仏があります。

今回はバスが上まで登れたのですが、本当ならば苔むした階段を上がってお参りします。

とても雰囲気の良いお寺さんで、今回は、ご住職が本堂内をご案内していただきました。
貴重なお時間をありがとうございます。

次に向かったのは、石堂寺です。

天台宗の寺院で、長安山東光院石堂寺です。和銅元年(708)、奈良の僧・恵命、恵照がインドの
阿育王(あしょかおう)の仏舎利を携えてこの地に草庵を結んだことに始まり、神亀3年(726)
に行基菩薩がこの地に訪れて大塚山に堂宇を建立し、十一面観世音菩薩を刻んで本尊にしたと伝え
られています。阿育王の仏舎利宝塔を祀っているので、日本三石塔寺と呼ばれています。
仁寿元年(851)には、慈覚大師が七堂伽藍を整備して、天台宗比叡山延暦寺の末になったそうです。
文明19年(1487)に夜盗による火災に遭い、当地の豪族丸氏や里見氏によって永正10年(1513)に
堂宇を現在地に移して最高されました。国指定の文化財建造物が4棟、仏像が1躰あり、県・市の
文化財も数多く残されています。

今回も、石堂寺のご住職に客殿に保存してある初代伊八の彫刻をご案内していただきました。
こちらは、写真撮影禁止なので写真はありません。(伊八の彫刻を見る場合は拝観料がかかります)
作品は、寛政3年(1791)、伊八39歳頃のものだと言われています。もとは、多宝塔につけられて
いたのですが、平成の大修理の時に元に戻されたので(多宝塔建立時には彫刻が無かったので)、
現在は屋内に保存・展示してあります。

当日は、ご住職はインドから帰ってきたばっかりだったんですが、いろいろ楽しくお話しが聞けました。
イノシシとの争いなど、ありがとうございます。

少し時間があったので、本堂の裏にある旧尾形家も見学に。

尾形家は珠師ケ谷村(旧丸山町)の旧家で、昭和46年・47年度に解体され移築されました。
江戸時代中期の享保13年(1728)の建築、居間と土間を別棟にした南方系の特色をもつ分棟型
の代表的な民家です。普段は中を見る事ができませんが、初縁日の日に見学する事ができます。
季節によって色々な花を見る事ができます。

次に向かったのは、捕鯨の町和田へ。せっかく南房総に来たので、クジラ料理なんかを食べて
いただこうか?とご紹介したのが、道の駅和田浦WA・O!!。こちらで昼食をとっていただき
ました。この時期は、お花が盛んな地域もありストックなどお安く購入する事ができます。

お腹いっぱいになったところで、真野寺へと向かいます。

真野寺は、真言宗智山派の寺院で、正式には「高倉山実相院真野寺」といいます。地元では、
「真野の大黒」と通称で親しまれています。
お寺の歴史は、神亀2年(725)に、行基菩薩によって開山されました。建永元年(1206)には野火
により焼失してしまいましたが、翌年に大黒天の信仰厚い北条義時が私財を投じて七堂伽籃を再
建し、覆面千手観音と大黒天像を安置しました。
本尊の覆面千手観音は行基の御霊作といわれ、霊験がとても高く、参拝者に少しでも疾しい心が
あると重い仏罰を下しました。それがあまりに厳しかったため参拝者も絶えていってしまいました。
貞観2年(860)、遊行中の慈覚大師(円仁)が立ち寄り、行堂面を彫ってかぶせたところ、以降、
優しく慈悲深い仏様になったといいます。
大黒天像は、貞観2年(860)慈覚大師(円仁)が、参籠中の旧正月六日、朝日昇天の中に大黒天が
出現し、大師はこの大黒天を直ちに一刀三礼により彫り上げたといわれています。朝日開運大黒天と
称され、毎年2月6日には、大黒様の出現を記念して大黒天福祭りが行われています。
現在の本堂は、元禄の大地震・大正の関東大震災と二度の被害をうけましたが再建し、昭和35年に
落成しました。

では、伊八の作品を。

大黒天祈祷所にあります。作品です。

「松に鶴」です。阿吽になってるのがわかりますか?

次は観音堂の作品です。

「波に宝珠と火焔龍」です。大黒天祈祷所と同じ時期の伊八57歳ごろと言われています。

こちらもお寺の方が説明していだきました。ありがとうございます。
覆面千手観音様のお話しは、ビックリです。覆面はしていますが、ちゃんと目の所に穴が
空いているので、しっかり参拝者を見る事ができるんです。

今回ご紹介いたしました寺院は、事前に見学のお願いをしてあります。ガイドの独り言を
見て行かれる場合は、お参りをしてからマナーを守って見学させてもらって下さい。
最近、勝手に本堂の中に入ったりする方がいらっしゃるようです。また法事中に中を見せて
とかいう方や、鍵をあけて見せろとか・・・自分勝手の人が多いと聞いています。
また、仏像が盗まれたり彫り物が盗まれたりという話も聞きます。
皆さま、地域資源でもあります神社仏閣に訪れる際は、マナーを守って参拝して下さい。

月イチツアー「観音巡礼道」報告

気が付けば2月。館山・南房総では、陽だまりは暖かいのですが、房州名物の大西が吹く日数
が多くなってきています。この大西が吹くと、海岸線なんかは歩くのが大変です。車も潮でシオ
シオになってしまいます。ご興味のある方は、体験しに来てください。

さて、1月の月イチツアー「巡礼観音道」を開催いたしましたので報告します。
出発は、南房総市和田町にある正文寺さんの駐車場からです。
まず最初に向かったのが、お塚と呼ばれる場所です。

このお塚には、正木氏の子孫で江戸御三家・紀州藩家老になった正木為春は三浦姓に戻し、
その子孫が文化5年(1808)に建てた、正木家遠祖の三浦義同(道寸)の供養塔や、正木時忠・
時通の供養塔があります。
ここで少し解説を・・・正木為春は、徳川家康の側室になったお万様のお兄さんです。お万様は、
徳川御三家の紀州徳川の頼宣、水戸徳川の頼房の生母なのです。そんなこんながあり、徳川家康
から正木姓を改め三浦姓に復することを許されたそうです。
三浦義同(道寸)は三浦半島で活躍した武士で永正13年(1516)北条早雲に攻められ自害しまし
た。その義同(道寸)の子・時綱が房総に逃れ正木姓を名乗ったとされています。

そんなお塚を後にして、寺谷普門寺跡入口へとむかいます。

宝暦4年(1754)、鈴木氏(普門家)が建てた普門寺の参道入口の道標と普門家の鈴木正彦氏が
平成元年に建てた普門寺沿革です。

ここから普門寺跡へと向かいます。

途中、ちょっと険し登りがありますが、問題なく登って行くことができました。

普門寺跡です。岩屋になっていて、ここにお堂があったそうです。
ここで、普門寺の説明を・・・
安房国札観音札所普門寺は、天平19年(747)、行基の開基と伝えられています。本尊は聖観世音
菩薩で行基作と言われています。当初、普門家(鈴木)裏の伊豆山山頂付近の横穴に、聖観世音立
像を祀っていましたが、文化年間(1804~1817)、当主鈴木粂衛門は普門山の中腹に岩屋を設けて寺
を移転しました。その後、飛騨の国より一千カ寺参りをしていた仁兵衛は、普門家東側に居を定め、
岩屋を改修し、天保11年(1840)より弘化2年(1845)にかけて、下向道を開鑿しました。また弘化
2年より嘉永6年(1853)にかけて堂面隧道までに参道を拓き、名主角田勘右衛門が中心となって皇
極天皇碑を建立し参道供養を行ったそうです。
 皇極天皇碑
江戸時代末期には、無住になり、堂屋が赤忠を頭目とする夜盗たちの根城になり、被害は多々にお
よび当主鈴木安造は寺を正文寺に寄進し堂屋は取り壊されました。
赤忠?とお思いの方、説明します。
赤忠は村々の金持ちばかりを襲って金銭・衣類・米を盗み、日々の生活が苦しい人々に盗んだ金品を
恵んだことから「義賊」と評判になりました。役人たちの捜索にもかかわらずなかなか捕まえる事が
出来なく、正木(那古地区)のワラ小屋に潜んでいるところを発見され逮捕となりました。
明治の初めに打ち首となったそうです。赤忠は岩糸村(旧丸山町)出身で本名は忠蔵、酒を好みいつも
赤い顔をしていたといいます。

堂面隧道を通り次に向かったのは諏訪神社。

この堂面隧道は迅速図上で公道に隧道の記号があるのは、安房では館山市小原と荒川・平塚間3箇所だ
けのようです。

堂面隧道から少し行くと、石に彫られた祠を見る事ができます。

古道を通り、裏から諏訪神社へ。

祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)
貞応年間(1222~1224)、真田氏が社殿を創建。永禄年間(1558~1570)に里見氏が戦乱依頼の社殿を
修築し、慶長19年(1614)に村民によって再建されました。その後、社屋の造営・修造等があり、
現在の本殿・幣殿は昭和4年に新築されました。


狛犬と手水鉢は嘉永元年(1848)のものです。

諏訪神社の参道は、なんか清々しい気持ちになります。

諏訪神社を後にし、唐ケ作地区・神田地区を通って出発地点の正文寺へと行きます。
 仁王門
宝暦5年(1755)に建立され、その時仁王尊が誕生寺から贈られました。安政年間に現在の門
が再建されました。

 本堂
正文寺は、日蓮宗で小湊誕生寺の末寺。本尊は日蓮聖人奠定(てんてい)大曼荼羅です。
安元・治承(1175~1180)の頃、当地の豪族真田氏の菩提寺として創建された禅宗のお寺
でしたが、天正2年(1574)に勝浦城主であった正木頼忠(環斎)が父・正木時忠の菩提
のため日蓮宗として再建したと伝えられています。
大正6年(1917)の雷火で祖師堂以外は焼失し、昭和8年(1933)に本堂が再建されました。

 祖師堂
宗祖日蓮聖人を祀っています。正木環斎(頼忠)自刻と伝わる日蓮聖人像や、正木家累代の
位牌、お万の方寄進の科註箱(高座の説教の時に教本・道具を入れてお箱)などがあります。


外陣正面には明治21年(1888)、館山の川名楽翁によってかかれた絵馬「日蓮鎌倉帰着之図」
が掲げられています。

っという事で、今回のウォーキングツアーも無事に終わりました。
次回は2月12日の月イチツアー「頼朝伝説と民話のふるさと「大高尾」を訪ねよう」です。

お散歩ツアー「洞穴に大昔の生活に思いを馳せる」報告

遅ればせながら、新年あけませしておめでとうございます。本年も「ガイドの独り事」にお付き
合いいただきありがとうございます。本年もよろしくお願いします。

新年、第一弾を先日開催しましたので報告します。
今回のツアーは、お散歩ツアー「洞穴に大昔の生活に思いを馳せる」でした。
開催日は大寒波が来る前だったので、歩きやすい天候で、お正月でなまった体を動かすにはちょう
どいい感じでした。

出発は、豊房公民館からです。まずは、豊房の大戸という地域の鎮守、白幡神社へ。

祭神は譽田別命(ほんだわけのみこと)。創建した年は定かではありませんが、寛永元年(1624)
に大円寺が創建されたので、その頃村人によって奉納されたものではないかと言われています。
白幡神社というのは、鎌倉鶴岡八幡宮の末社で源頼朝を祀る白旗神社を勧請したもので、祭神は
本来ならば頼朝なのですが、鶴岡八幡宮の祭神である応神天皇(譽田別命)を白幡神社の祭神に
していることが多く、この地域も鎌倉御家人から分けてもらったものと思われます。
明治19年に、住民から向拝の龍、牡丹、唐獅子、千鳥の彫刻が奉納されました。向拝の龍は、
房州後藤流初代義光の弟子の、北条の後藤正三郎忠明の作です。

次に向かったのは、お隣にある大円寺。
浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。江戸時代初め頃の寛永元年(1624)の創建で、それ以前は
禅宗のお寺だったといいます。境内には、東長田無駄の善兵エさんと母親が文化11年(1814)に供
養した十三仏があります。

仏教では輪廻転生という考えがあり、命日から四十九日の間に、故人が次に生まれ変わる来世が決ま
るとされています。来世とは、天・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道の事です。
この間故人は七日ごとに、生前の行いに対して閻魔大王をはじめとする十王から裁きを受けるとされ
れていて、この六道の世界はどこへ行っても煩悩の苦しみがあり、それを超越した世界が極楽浄土と
されているので、残された家族は、故人が極楽浄土に行けるように、この裁きを受ける七日ごとに故
人に善を送る法要を営みます。十三仏は初七日から三十三回忌までの合わせて十三回の法要の守護仏
で、故人は十三仏に守られて極楽浄土に導かれ成仏するとされています。室町時代頃から始まった信
仰だと言われています。
通常は、掛け軸などに描かれていることが多いのですが、大円寺には石に彫られている珍しい物です。

次に向かったのは、福寿院です。

真言宗の寺院で本尊は不動明王です。詳細は不明。境内に元禄8年(1695)に建てられた如意輪観音像
があります。

さて次は、お題にもなっております熊野横穴群へと進んで行きます。
以前は、地元の小学生が見学に来ていたそうですが、最近は来なくなってしまって、簡単に歩いて行け
る道も無くなってしまったそうですが、地元の方にご協力をいただき歩く場所を作っていただきました。

東長田横穴古墳は、白幡神社から東の方に入った地域が東長田の熊野・角口の両地区で、標高52mほど
の丘陵の西麓にあります。この丘陵の南斜面に約37個の横穴が開口しています。
古墳時代に作られた横穴墓群は、長田保(東長田・西長田)が14世紀から15世紀(鎌倉時代~室町時
代頃)にかけて円覚寺(鎌倉)の寺領になり、横穴墓をやぐらとして再利用し、近世祠として再利用した
ものと思われます。
なかなか、横穴墓とヤグラの区別は難しそうです。横穴墓からやぐらにリフォームしているケースがある
そうです。

横穴墓を作れる人は、権力者が多く、作られる場所も眺めが良い場所に造られています。

長田保の見渡せる場所です。回りの樹々が大きくなってしまったので、少し邪魔をしていますが、当時は、
田畑を見渡せる景色だったんだなと想像できます。

さて、次に向かったのは千田城跡です。
千田城は長田城とも呼ばれ、里見義実によって築かれた城と言われています。
義実は白浜城を居城としまし、安房国を統一しましたが、白浜城では南に偏りすぎていて、
治世の上に不便でしたので、白浜城より10㎞ほど北のこの長田の地に居城を移したとい
います。城山は南方からきた山脈の突端で高さ70m、山上には平坦な畑地があり、これ
が本丸の地で今ジョウ山とよんでいます。本丸からは、東京湾も一望でき見晴らしが良い
場所です。

本丸から堀切を隔たて場所に、諏訪神社があります。

祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。創建は江戸時代初期の元和4年(1618)の創
建と伝えられています。


明治14年(1881)、区民の有志により後藤義信作の龍神の彫刻が奉納されました。

諏訪神社から下ってくると、一つの石で作られた宝篋印塔があります。

左側の地蔵菩薩は、江戸時代中期と後期のものと考えられ、右側2つの宝篋印塔は、16世紀
以前のものと思われます。2基とも相輪部(上部)を欠失していて、違う物がのっています。

千田般若寺跡へ。
以前は尼寺の般若寺がありました。門前を白浜へ通じる道があったといわれています。

街道沿いに建てられたお地蔵さんはイボ取り地蔵と伝えられています。他にも不動明王石像
が祀られています。

次は、最後の見学先の千田やぐらへ。

千田城跡の西側民家の裏には、室町時代のヤグラがあり、五輪塔が4基並ぶものと、宝篋印塔
と五輪塔が混在して5基並ぶものと2カ所ありますが、今回は宝篋印塔と五輪塔が混在している
場所見学しました。通常は、民家の裏にありますので、見れない場所ですが特別に見学させて
いただきました。

あとは、出発地点へと戻り終了です。今回の、横穴墓群と千田やぐらは通常は見学できない場所
です。地域の方々によって見学させていただきました。これからも大事に保存してほしい場所です。
ご協力ありがとうございました。

月イチツアー「文人・漱石や子規の歩いた道」報告

年の瀬になりました。なにかと忙しくなってきます。
最近では、車の運転のマナー?が悪かったりとか慌てて運転してる人が居ますので、交通事故に
合わないように、ゆとりある運転を心掛けていこうと思っています。
皆さんも気を付けて下さいね。

さて、今年最後の月イチツアー「文人・漱石や子規の歩いた道を辿ってみよう」を開催しました。
夏目漱石と正岡子規は親友でした。学生時代にそれぞれが房総を旅していて、その時の事を書いた
のが「木屑録」(漱石)・「かくれ蓑」(子規)の作品です。
なので、今回、二人が通ったであろう道を歩いてきました。

出発地は妙音院(館山市)です。

高野山金剛峰寺直末の古義真言宗の寺院。本尊は如意輪観音。里見義康発願により、天生17年
(1589)紀州高野山の直轄別院として、この地へと里見家の祈願寺として開山しました。
里見氏から白浜・真倉などに161石の寺領を与えられ保護されました。その後、徳川の時代に
なりますが、徳川からも同様に保護されました。境内には、安房高野山八十八ヶ所霊場があります。
妙音院さんで旅の安全をお願いして、出発です。

まずは、長光寺へ。

曹洞宗の寺院です。天文元年(1532)の開山で富士山津梁院といって里見氏から10石の寺領を与え
られていました。この寺には里見義康と忠義親子の供養塔があります。

ここから、豊房の岡田地区に入り風早不動尊へと向かいます。
途中には、馬頭観音やお地蔵様などの石仏があります。

風早不動尊まであと少しの所の不動明王像があります。

風早不動尊です。(今回の写真は、開催日のより3週間前に撮った写真を使います。イチョウの落葉で黄色く
染められていて綺麗だったので・・・)

天正18年(1590)2月創建されたと伝えられている不動尊です。特に、子宝・安産・良縁祈願の
ご利益がるお不動様です。子宝・安産をお願いしたい場合は、本堂にある犬のぬいぐるみをお借り
して家に持ち帰り、願いがかなった時には新しい犬のぬいぐるみと2体一緒に納めるそうです。
隠れた子宝のお不動様です。
向拝の龍の彫刻は、後藤義光78歳の作です。

本堂に向かって左手を流れる小さな滝の近くに、不動明王の利剣にかみつき飲み込もうとする俱利伽羅
竜王の石塔と出羽三山碑があります。

本堂の左手にある小さな滝です。

大正時代まで2階建ての行屋があり、修行の場となる5m程の不動ノ滝が流れおちていたそうです。
関東大震災で地下水の流れが変わり水が枯れてしまったといいます。
現在流れている滝は、近年復興されたものです。

いよいよ、漱石や子規が通ったと思われる道へと入っていきます。

もう道は、こんな感じになっています。。
道の途中には、当時、お茶屋があったそうです。

ちょっと写真ではわかりにくいかと・・・・

途中には、昔の穴?があります。たぶん白土を採った穴だと思われます。

大きなつるもあります。時を感じさせる道です。

ちょっとスタッフにぶら下がってもらいました。

この道の最後は、どこに出るかといいますと、国道410号線沿いの昔ホテルがあった
場所にでます。

あとは、出発地点に帰るだけだったのですが・・・せっかくなので、真倉地区にある浅間様
へと登ってきました。あまり地区の人にも知られていないそうです。
今回は、残念ながら写真を撮る事ができませんでした。

浅間様を後にし、出発地点の妙音院へ。
今年最後のウォーキングツアーは無事に終わる事ができました。

次は、1月12日のお散歩ツアー「洞穴に大昔の生活に思いを馳せる」です。
いやぁ~、ここは、是非来てほしいと思います。古墳時代から7世紀に造られた、東長田横穴
古墳群を見ることができます。今回、地主さんや地元の方に荒れてしまった山を整備していた
だき、見せていただけることになりました。昔は、豊房小学校の生徒さんとかも見学していた
そうですが・・・月日が経ってしまうと・・・大事な資源ですので、是非、この機会にツアー
に参加してください。

今年も、また旅倶楽部にお付き合いいただきありがとうございます。来年も、益々精進し、楽しい
ウォーキングガイドツアーを開催していきますので、よろしくお願いします。
皆さま、良いお年を・・・・・

お散歩ツアー「旧真倉切割と大神宮街道」報告

もう師走ですねぇ~。1年がたつのが速く感じる今日この頃です。
また旅倶楽部では、29年度のコースを企画中です。まだまだ安房地域には、面白い
ところがありますので、コースのパンフレットが出来るまでお待ち下さい。

今回は、お散歩ツアー「旧真倉切割と大神宮街道」の報告です。
出発場所は、館山市の藤原地区にある館山運動公園です。
今日は、珍しいお客様?っと思いましたが、こちらの公園にお住まいの恐竜さんでした(笑)

まずは、ツアータイトルになっています「旧真倉切割」へと向かいます。途中国道を
通って行きますが、白線の内側を通ろうとしても、内側が狭すぎで少し自動車の道に
出てしまうので危険ですが、がんばって歩いて行きます。
少し歩くと、国道からそれる道があります、そこを入っていくと民家があり、ちょっと
ひとのお家にお邪魔しちゃったような感がありますが・・・進んでいくと

木が生い茂ってる道。なんかワクワクしてきました。

この緩やかなカーブを抜けると・・・

おぉ~すごい!!
切割の最後まで行って、切割について説明を。

房総半島は低い丘陵地がとはいえ、比高差があり半島内を移動するには、苦労していました。
尾根上を移動する道が造られますが、山道は狭く曲がりくねっていて、川には橋がなく、海岸
では砂浜や磯を歩くことになったりで、牛馬や荷車では荷物を運ぶこともできない道ばかりで
した。江戸時代は治安維持のため、あえて道の改良をしませんでしたが、明治時代になると情
報伝達や迅速化と流通の発展のため、県をあげて道路改良が進められ、明治20年前後から、
館山市から周辺町村へ向かう幹線に隧道(トンネル)や切割が造られ始められました。館山か
ら神戸への切割が完成し、真倉側の谷と神戸側の谷を直線で結ぶ平坦なルートとして開削した
ものです。現在の切割は明治16年の海軍砲術学校開設に合わせて新しく拓いたものです。
新しい道が出来たことで、この道は使われなくなりました。

来た道を振り返ってみると、やっぱり素敵な景色です。

本当はまっすぐ抜けられる道なのですが、約70年も使われていない道なので、藪やら木やら
で今は通り抜けられません。まして、落葉の堆積の量が半端ないので、同じ道へと戻ります。

次は、岡田口前不動へ。

石造りの不動尊と文化3年(1806)馬頭観音像と文化5年(1808)の地蔵尊が祀られています。
地蔵尊には往来安全を願う文字があります。
ここはかつての館山と神余・白浜や、館山と神戸佐野・安房神社を結ぶ街道がありました。
安房神社のお神輿が八幡の祭り(やわたんまち)に通った道でもあり、安房神社往還と呼ばれ
ました。元はもう少し北側に残る旧道から不動は下がる分かれ道にあったのですが、道の付
け替えによって移動されました。

いよいよ旧道に入っていきます。
この旧道は、別荘地になっていて、旧道なの?と思う道ですが・・・旧道なのです。
途中の景色はこんな感じです。

平砂の海が見えています。ずっと奥には、大島がうっすらと・・・
景色最高です。

旧道という痕跡は、辻のお地蔵さんです。

谷藤原からお神輿を担いで山道にさしかかる辻󠄀にある道しるべのお地蔵さまです。
お神輿を担いで通った道と考えると、山あり谷ありで、八幡神社に行くまで大変な道のり
を通ってたんだなぁ~と感心させられます。いまでは、車に乗せてシューっと行くんですが、
当時の人達の脚力の強さに驚かされます。

谷藤原へと進んで行くと、またしてもお地蔵様。

村境を守るお地蔵様で、いぼとり地蔵と呼ばれています。村の境目には道祖神やお地蔵様
が安置されていて、往来の人々や村人を見守っています。

次は谷藤原・荒神社へ向かいます。

火伏の荒神様を祀る神社です。古くは谷藤原が地区の中心でした。地震隆起で耕地
が広がると、藤原・佐野方面に村民が移動し、荒神社も藤原神社に合祀されました。

この苔むした階段を上がって行こうかと思いましたが・・・今回はやめました。

出発地へと戻りますが、国道を通るのも危険ですので、旧道へともどり、出発地点を目指し
ますが、やはり、お地蔵様がいらっしゃいました。

無事に出発地点に戻ってまいりました。今回のツアーのみどころ「旧真倉の切割」は、
足元が大変な事になるかもしれませんので、もし行かれる際は気を付けて下さい。
また、静かな場所ですので、大声をだしたり、ごみを捨てたり、落書きしたりしない
で下さい。(当たり前の事ですが・・・)

次回は、12月17日(土)月イチツアー「文人・漱石や子規の歩いた道を辿ってみよう」
です。房総半島に来た時に歩いたと言われる、道の一部を歩きます。
是非、ご興味のあるかたはご参加下さい。

お散歩ツアー「水軍末裔の湊まち」報告

めっきり寒くなってきたと思ったら、もう11月です。
朝、布団から出るのが嫌な季節になってきました。

今回のウォーキングは、お散歩ツアー「水軍末裔の湊まち」の報告です。
スタートは、安房一之宮洲崎神社からです。
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お参りは戻って来てからという事で、階段の下から無事をお願いして出発します。

フラワーラインを通り持明院へ向かいます。なんだか人の家に行ってしまうような道を
通っていくと見えてきます。
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持明院は、真言宗智山派で、安房郡札三十三観音(辰歳観音)の二十六番目になる寺院です。
本尊は、聖観世音菩薩です。

次は、すぐそばにある福蔵寺へ。
こちらの寺院も真言宗智山派です。残念なことに写真を撮るのを忘れてしまいました。

この西川名地区には、二つの寺院があります。

さて、次に向かうのは、吾妻神社です。
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吾妻神社までの途中は、かつて花造りが盛んだったと思われる畑の道を歩いていきます。
花の栽培する人もすくなり、だんだんと畑も荒れてしまっています。

畑を抜け、いったん民家のある場所を通り、坂を上がっていきます。
途中に祠があります。
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これな、吾妻神社の本殿まで参拝に行けない人々がこちらで参拝できるようにという事で
設けられています。

またまた、畑の道を通り、本殿へ。
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祭神は、弟橘媛(おとたちばなひめ)。弟橘媛は、日本武尊の妃。日本武尊が東国征伐の折、
相模湾から上総に渡ろうとしたとき、海上で嵐に襲われ、弟橘媛が海に身を投じつことで嵐
を鎮めたという伝説があります。
本殿前で少し休憩をとり、階段をおりて行きます。
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結構、急な階段ですが、途中の景色は最高なんです。
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雲ってはいたのですが、大島・利島・新島が見えていました。

次に向かったのは、厳島神社。
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祭神は市杵島姫(いちきしまひめ)。毎年1月の第二日曜日に湯立神事が行われます。
海上安全・大量祈願の神事で、「ツオマツリ」とも呼ばれています。
湯立神事は、神前での祭典の後、境内にある直径約60cmの大釜に煮立ったお湯を、白装束
の神官役が笹で周囲の人たちにふりかけます。この湯を浴びると厄払いになるといいます。
終了後は、各自持ってきたタオルなどを釜の湯に浸し、持ち帰って家族の体を拭いて無病息災
を祈るそうです。

海岸線を通り、洲崎神社の御神石へと向かいます。
途中、クコの実が沢山なっていました。
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洲崎神社の御神石です。
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この御神石は、竜宮から洲崎大明神に奉納された2つの石の一つだと言われ、もう1つは対岸
の三浦半島にある安房口神社に祀られています。安房口神社の石は口を開いていることから
「阿形」、洲崎神社の石は裂けめの形から「吽形」にたとえられ、この2つの石で東京湾の
入口を守っているのだと言われています。
もとは、もう少し海の方にあったのですが、整備され現在の所に祀られています。

あとは、スタート地点へと戻ります。
一応、洲崎神社へ戻って終わりなのですが、洲崎神社が初めてのお客様がいらっしゃいました
ので、厄払い坂を上り本殿へ向かい、養老寺の方にでて駐車場へと戻りました。

月イチツアー「東条歴史探訪」報告

朝晩寒くなってきた館山・南房総。陽だまりは暖かいのですが、吹いてくる風が冬の気配を
感じます。そんな中、先日、鴨川市の東条地区を散策してきましたので、報告します。

まずは、鴨川市役所に集合し、東条公民館へ車で移動します。
今日の出発地は東条公民館からです。

最初に訪ねた場所は、閻魔堂です。
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参道には大日様の石仏や、三界萬霊塔や六地蔵があります。

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こちらはひっそりとお堂があり、中には閻魔様が祀られているそうです。

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閻魔堂の墓地には、俳号「雲水堂椿山」のお墓があります。
本名は、久保七左衛門で、文政7年(1824)、長狭郡広場村上人塚(鴨川市)生まれ。
江戸で刊行される俳家番付にもしばしば顔を出すほどの人物です。明治31年(1898)
8月24日に没。75歳。「我の外旅人見えず秋のくれ」と辞世の句を残しています。

次に向かってのは上人塚です。
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文永元年(1264)11月11日、小松原法難の際に日蓮聖人を救おうと殉職した天津
城主・工藤吉隆の墓。日蓮聖人は吉隆公を弟子の一人に加え「妙隆院日玉上人」と
号し出家の礼を以て葬りました。法難後、工藤家によって碑が建立されています。

次は、ちょっと裏道に入り御嶽神社へ。
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こちらの御嶽神社は、ちょっと調査不足で詳しい事はわかりませんが、境内に亀井講の
大型石碑が多く残されています。
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次は、新田地蔵堂へ。
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こちらのお地蔵様はイケメンのお地蔵さんです。
ここで、お弁当到着時間の調整でしばし休憩。

調整が終わったところで、永明寺へ。
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曹洞宗の寺院で、山号は慧日山。弘化2年(1279)に東条景信により創建されました。
当所は別の場所にありましたが、元禄の大地震により津波の被害を受け、現在の場所
に移動しました。
本堂の向拝の彫刻は、五代伊八(高石伊八郎信月)です。この人のお父さん四代伊八郎
信明と一緒に柴又帝釈天の作品に従事したそうです。

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向唐門です。この門は鴨川市の文化財に指定されています。
切妻造り萱葺で、棟札から文化9年(1812)に改築されていることが判ります。
県内にこのような形式を持つ建築の残存率が少なく、山門建築の推移を知る上で重要な
ものです。

山門の手前には、可愛らしい六地蔵があります。
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こころがほっこりするお地蔵様です。
ご住職のご厚意により境内で、昼食をとらせていただきました。
ありがとうございます。

普段は通らない道を通ると色々な発見があります。
今回の発見は、国指定文化財の鈴木邸です。なにかの本で見たことがあったのですが、
住所もなく、どこにあるのかな?っと思っていたら、今回のコース上にありました。
とても、素晴らしい茅葺屋根の母屋。近くで見る事ができないので、門の所から見させて
いただきました。いつかここが見学できる日が来る時には、場所とかご紹介したいと
思いますので、今回は文章だけですみません。

さて、次は古墳があった場所を歩きます。現在は、宅地として家が建ってるのでどこに
あったかは想像するだけになってしまいます。
大正15年、後広場1号墳から古墳時代後期のくり抜式舟形石棺が発見されました。
凝灰質砂岩製で、千葉県唯一の資料です。石棺の内部には人骨1体と、金銅製大刀を含む
7振の直刀、刀子、鉄鍬が副葬されていました。
石棺は、鴨川郷土資料館の方にあります。

さて、次は鏡忍寺へ。
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日蓮宗本山。日蓮聖人四大法難の一つ、小松原法難の霊場です。
いつも法難とか普通に書いていましたが、今回は法難について説明したいと思います。
日蓮聖人は一生のうち生命にかかわる法難を4回、小さい法難は無数にありますが・・・
四大法難というのは、40歳のとき伊豆伊東の俎岩に置き去りされた「伊豆法難」
43歳のときに房州小松原で地頭東条景信の一軍に襲撃された「小松原法難」
50歳のとき片瀬の龍口刑場で処刑されそうになった「龍口法難」
同じ年、佐渡遠流の難にあったのが「佐渡法難」です。
今回の鏡忍寺は、小松原法難の舞台となった場所なんです。
伊豆法難後、許されて鎌倉に戻りました。文永元年(1264)秋、久ぶりに故郷小湊に帰って
きました。父のお墓詣りや母の病気見舞い、恩師道善坊を訪ねました。
しかし、かねてから日蓮聖人を恨んでいた地頭東条景信は、聖人の帰国を知り、聖人を亡き
者にしようと、機をうかがっていました。そして11月11日の夕刻、小松原で日蓮聖人の
一行を数百人で待ち伏せし襲撃しました。弟子の鏡忍房、天津領主工藤吉隆は討死し、九死
に一生を得た日蓮聖人も額に刀傷を負ったのでした。後に日蓮聖人は、2人の菩提を弔うた
めに日隆上人に命を下さい開創されたのが鏡忍寺の始まりです。

境内には「降神の槙」があります。
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この槙は、鴨川市天然記念物に指定されている槙で、樹齢千数百年と言われています。
日蓮聖人の法難の際、危ういところを鬼子母神が降臨されて救ったと伝わっています。

上の写真の左が祖師堂です。祖師堂の欄間には、「波の伊八」の作品、七福神の彫刻三面
があります。市の有形文化財に指定されています。

また、江戸時代初期から中期頃の建立と推定される切妻萱葺き屋根の向唐門も鴨川市の有形
文化財です。
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鏡忍寺を後にして、今回最後の見学場所八坂神社へ向かいます。
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祭神は須佐之男命。伝承によれば久保又右衛門という者が、自分の屋敷内に牛頭天王を祀って
いました。近隣の人たちも崇拝するようになったので、京都の八坂神社より分霊して社殿を
造営して氏神として祭祀したのが起源だと伝えられています。
本殿の向拝の龍は、三代伊八の作です。
本日の見学場所はここまでです。あとは、出発地点へ帰ります。

色々な事がありましたが、なんとか無事にたどり着きました。
いろいろな地域にいろいろな歴史があります。歩くことで新たな発見があります。
是非、ガイドウォーキングツアーにご参加下さい。

お散歩ツアー「館野・萱野・滝川の歴史散策」報告

2週連続でお散歩ツアーを開催しました。
今回は、「館野・萱野・滝川の歴史散策」という事で、館山市の館野地区を歩いて
きました。

出発は館野地区公民館。天気はというと、台風が来るとかいう話でしたが・・・
少し不安定な雲行きでしたが出発しました。
まずは、橋本地蔵尊へ。
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外房と内房を結ぶ街道の所にあり、滝川用水堀を渡る橋のたもとの地蔵尊です。
寛政10年(1798)に日本廻国行者が建てた道標や、明治24年(1891)の孝子塚への案内標、
大正14年(1925)に国分青年団が建てた三義民刑場跡への案内標があります。

次は、滝川用水の滝川分水堰へ。
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滝川用水の分水池、国分・高井・上野原・長須賀の水田への灌漑用水として使われていた
そうです。
この滝川用水というのが次に行く、三義民刑場跡のお話しに関わってくるんです。
では、その前に少し、この事件についてお話しします。

時は、正徳元年(1711)、徳川6代将軍家宣の時、安房国北条藩で起こった農民一揆。
北条藩1万石の所領27ケ村全体の農民が参加したことから、万石騒動という名前が付いた
のです。この万石騒動は、北条藩は1万石の小藩でしたが、藩主の屋代忠位は幕府の百人組
大番頭などを歴任していました。このことは財政難に繋がり、忠位は職を辞して財政再建を
図らざるを得なくなりました。そこで、新規に召抱えた家臣に、川井藤左衛門という人物に、
忠位は、御用人・上席家老として財政再建のために全権を与えました。川井は宝永6年(1709)
に北条陣屋に派遣され、元禄地震で隆起した北条海岸に新田を開発、灌漑用水路(滝川用水)
の開削して増産を図りました。また、鶴ケ谷の保護林の伐採・売却した他、酒屋・糀屋の運
上金の取立てを行い増収を図りましたが、農繁期の労役や、苛酷な増徴策の強行は、領民に
とって負担の大きいものでした。川井が各村に割り当てた年貢量は、従来の2倍近いものでし
た。これに対して、農民600名が北条陣屋に押し寄せて減免を求めましたが、川井の部下は
取り合わず、川井は江戸屋敷に名主を呼び出し圧力を加え、首謀者を探りました。
600名の農民は江戸に出て、江戸屋敷にいる藩主への門訴をおこないました。川井は、いったん
農民の要求を呑んだように装い、年貢減免の墨を与え農民たちを国許に帰しましたが、農民たち
を追う形で、川井は北条屋敷に赴き、名主を陣屋に呼び出し墨付の奪還を図り、6名を投獄、
6名のうち3名を国分村萱野の刑場で処刑、その妻子を追放し家財は没収するという弾圧をし
ました。また、農民に協力した代官行貝弥五兵衛国定及び息子を処刑しました。行貝は国分村
出身で地代官でした。
名主の投獄を受け、農民側は再び江戸で訴えを起こすことを決め、代表者が江戸に上り、老中
秋元喬知に駕籠訴を行いましたが、却下されてしまいました。今度は老中阿部正喬への駕籠訴
を行い結果、幕府は訴えを取り上げて審議が行われることになりました。評定所は、農民の訴え
をほぼ認め、川井は投獄されました。正徳2年(1712)、幕府の裁断が下され、川井は息子と共に
死罪、北条藩屋代家は改易になり、農民側も、捕えられたままであった3名が追放に処せられま
した。

という事で、三義民刑場跡へ。
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大正14年(1925)に三人が処刑された場所に三義民殉難之跡という石碑が建てられました。

その後、平成22年には義の伝承碑が建てられました。
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今でも、名主3名の命日(11月26日)には供養が行われ、語り継がれています。

次に行ったのは、稲荷神社。
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神社のある周辺は、明治元年から4年まで、館山周辺を支配した大名、長尾藩本多氏の
家臣たちの屋敷地として開発されました。その一画に本多氏の氏神であった稲荷神社が
祀られています。手水石は旧藩士たちが、明治9年に奉納しています。

次は孝子塚です。
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平安時代の初め、承和元年(836)に、安房郡の伴直家主(とものあたい やかぬし)と
いう人が居まして、朝廷から親孝行を表彰されました。(「続日本後記」巻五の承和三
年十二月七日の条にその徳行が記されています)
江戸時代になり、石工の武田石翁が、「家主」の事を調べ、その墓を探して、この塚が
孝子塚と推考し、嘉永3年(1850)、自らここに孝子「家主」に碑を刻み、その遺徳を顕
彰しました。さらに翌年、孝子に関係ある国分寺境内にも同様の碑を建てて顕彰し、そ
の後、地元有志者の尽力で整備が進められ、大正3年(1914)頃、現在のような形となり
ました。市指定史跡になっています。

伴直家主は、優しい心をもった真面目な人でした。両親が生きているうちに大切にし、親
孝行をつくしました。その両親がなくなると、今度は自分の食事や生活をきりつめて、親
のために立派なお墓を建ててあげ、両親の像までもつくり、生きていた時と同じように食
事を供え、供養を怠ったことはなく、いつまでも続いたので、人々に知れ渡り、やげて都
にいる朝廷の耳にまで届きました。感激した朝廷は、「この者を孝子と呼んで、生涯その
税を免状してあげるように」といい、身分も三階という位を授け、その家の入口には朝廷
から下された「孝子の門」という大きな旗があったといいます。そんなお話しです。

次に滝川のびゃくしんへ。
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館山市天然記念物に指定されているびゃくしんです。
このビャクシンは、後から行く木幡神社の北方の河岸段丘上にあり、一帯は木幡神社創建
の地とされ、御神木としての言い伝えがあります。
びゃくしんは雄木で、目通り樹周4m30cm・樹高10m35cm・枝下2m70cm
(指定当時)、東西約11m、南北約12mの巨樹です。

びゃくしんの側にある三善寺へ。
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浄土宗の寺院です。鎌倉時代の木造如来座像と南北朝時代の銅造観音・勢至菩薩立像が
ありますが、ともに市立博物館で保管されています。
この日は、安房国四十八ヶ所薬師如来霊場申歳中開帳の初日でしたので、薬師如来像を
拝見する事ができました。

次は、石橋供養塔のある場所へ。
かつて石橋が架かっていたようで、道の端に文政5年(1822)の石橋供養塔があります。
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その脇の大きなお地蔵さんがありますが、顔がなくなってしまっています。

次は、木幡神社へ。
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滝川地区の鎮守で、主祭神は天照大神の子とされる天忍穂耳尊(あめのおしほみみ)
で、その妻と子も祀られています。神社の縁起によると、大化改新(645)以前、中央
政権によって地方官として任命された大伴氏一族が安房に着任した際、現在の館山平
野の中央に館を建て、そこを館野原といい、支配の中心としたとされています。当時
着任地に氏神をまつる風習があり、それが木幡神社の起こりだといいます。

次は、伝説の石を見に。
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この石は、立石と呼ばれ、鎌倉時代の武将、朝夷郡に育った朝比奈三郎義秀が投げた
ものだという伝承があります。以前、千倉を訪れた際も、朝比奈三郎が投げた石があ
りました。

次は、地蔵堂です。
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本尊は木造地蔵菩薩。地蔵菩薩像は文明13年(1481)に造られたものです。
境内には江戸時代に建てられた鉄丸石の大きな出羽三山碑があります。
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今日の見学場所はここまでで、出発地点へと戻ります。
半日コースですが、見る場所が満載でした。いやぁ~三義民も地域の人たちが、ずっと
言伝えて言ってほしいお話しです。まだまだ知らないことが多くあります。
みなさまも、是非、お住まいの地域を散策してみてはいかがでしょうか?
あっ!また旅倶楽部のウォーキングに参加して一緒に探しましょう。

お散歩ツアー「巴川流域の伝説を訪ねる」報告

皆さまご無沙汰しております。ガイドの独事を更新するのは、久しぶりです。
今年の8月は、ウォーキングツアーの計画はなくて、企画ツアーだけでしたが、
のそ企画ツアーが、台風上陸という最悪な状況になり、企画ツアーが延期と
なってしまいました。
夏にまた旅倶楽部は何してたの?とお思いだと思いますが、館山市主催の「ウミ
ホタル観察会」の講師やらサポートやらで、活動をしていました。

久々のお散歩ツアー「巴川流域の伝説を訪ねる」として館山市の神戸地区を散策
してきました。最近は、天気が悪い日が続いていましたが、開催した9月28日
は天気もよく暑い一日でした。

まずは、出発の館山野鳥の森から、千祥寺へ。
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こちらは、天和2年(1682)に領主の非法を訴えて処刑された7人の農民を供養した
という七人様供養碑があります。

次は、笠登墓地へ。
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ここには、天田やぐらから出た室町時代の五輪塔や宝篋印塔が祀られています。
これは、大正14年に村人の夢枕に、「裏山に埋もれているので、供養してほしい」と
言われ、山を掘ってみるとおびたただしい五輪塔や宝篋印塔が発見さ、この場所に
供養され、記念の供養塔が建てられました。

次は、中里八坂神社です。
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祭神は、須佐之男命(スサノオノミコト)です。むかしは、牛頭天王と呼ばれていました。
社殿の裏には、青面金剛像を刻んだん庚申塔や牛頭天王の石宮、右には浅間様の小さな祠
があります。こちらのお神輿の彫刻は、初代後藤義光です。
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次に金蓮院。
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真言宗智山派の寺院で、金剛山慈眼寺金蓮院としいます。本尊は大日如来。
平安時代に造立された木造地蔵菩薩が安置されています。安房国札観音霊場
の第29番で、安房国88か所弘法霊場の第5番です。開創は不明で、江戸
初期に頼忠が中興しています。
本堂の裏には、飛錫塚とよばれる岩山があります。
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古文章によると、文治元年(1185)、頼智(らいち)という高僧が行基作の観音菩薩像を
携えて、伊豆から海を渡り犬尾崎(平砂浦)に着きました。東の方が明けて来た時、一匹
の白犬が現れ、僧の法衣を引いて東の方へ導くと、金剛山の麓まで来ました。犬が離れない
ので、錫杖う振ったところ、犬が消えたといいます。別のお話しでは、麓まで来て犬は動か
なくなり、頭をなでると犬ではなく石だったというお話しもあります。

飛錫塚の上には竜宮からあがったと伝えられる枕字石や、塚の端には、享保19年(1734)に
一石に一文字づつ経文を書いて19500個の石を埋めた経塚があります。

次は、犬石権現へ。
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ここにも民話が残されています。
昔、西岬地区の鉈切神社の洞穴からひとりの僧が犬を連れて入りましたが、僧は出てくる事
が出来ず、犬は青年館にある岩の裏の穴から、赤肌になって出てきてすぐに石になってしま
ったというお話しが残されています。犬石の地名からか、この周辺には犬や石にまつわる伝
説が多くあります。
これが、穴です。
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次は、犬石神社へ。
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祭神は倉稲魂神(うかのみたまのみこと)。稲の精霊が神格化したもので、五穀、食物をつか
さどる神様です。「日本書記」では、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみの
みこと)の子です。「古事記」では須佐之男命と神大市比姫の子で、宇迦之御魂神と書きます。

次に向かったのは、巴橋です。
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この巴橋は、明治39年(1906)の建築です。構造は石造アーチ形上路橋。規模は橋長11m、
幅員3m、1径間アスファルト路面です。地元、犬石の職人、島田岩𠮷が設計して築いた橋
だと伝えられています。大正12年(1923)の関東大震災で、巴川を逆流した津波は、すごい
勢いで巴橋を飲み込みましたが、石積みのこの橋は、津波の勢いに負けなかったそうです。
また、太平洋戦争中、近くの佐野にあった旧館山海軍砲術学校の戦車がこの橋を渡っても、
重さに耐えたと伝えられています。国登録有形文化財建造物です。

次には蓮寿院。
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浄土宗の寺院です。境内には、元禄地震(1703)で亡くなった地元の人たちを供養するために、
正徳5年(1715)に建てられた名号石塔があります。

蓮寿院から相浜神社の途中、玉杉稲荷があります。
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今はこんな感じですが、ここには、民話が残っていますので、ご紹介します。
ここはかつて白浜街道でした。明治の頃は新道山と呼ばれる昼も薄暗い山道でした。
ここにあるお稲荷さんには、お杉とお玉の2匹が棲んでいました。暗くなって村人が通りかか
ると、狐火で明るくして送ってくれたり、村を守り、浜の大漁を叶えてくれるお稲荷さんで、
お供えはいつも鯛が上がる位大切にされていました。富浦の正善院(現愛宕神社)の修験僧が、
相浜の波切不動の修験僧(感満寺、現相浜神社)に難題を持ちかけ追い出そうと企てていまし
た。それを知ったお杉とお玉は、巴川のほとりで、頭に葉っぱを乗せ老婆に変身しようと準備
していました。そこへ正善院の修験僧が現れ、「そんなものでは俺はだまされないぞ」と馬鹿
にしました。すると、「あなたを騙すつもりはありません。不動堂の修験に悪戯して馬の糞の
団子を食べさせに行くところです。一緒に行きますか?」っと誘われ、不動堂の節穴から中を
覗くと、老婆から勧められた馬の糞団子を修験僧がおいしそうに食べているではないですか。
「狐に騙される修験なぞ修行が足りない半端者め」っと笑っていると、突然後ろから「バカモ
ン!!蹴飛ばされて死ぬぞ!」と怒鳴られ気が付くと馬のお尻の穴を覗いている自分に気が付
き、大慌てで富浦に逃げ帰りました。狐が相浜の波切不動を守ったという地元に伝わるお話し
です。

そんな民話ののころ場所を後に、六地蔵がある場所へ。
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昔は、行場だったそうで、水路と井戸が残っています。岩山には六地蔵があり、行場の雰囲気が
わずかに残っています。
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こんな感じです。

次は、見学場所最後の大神宮観音堂へ。
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安房郡札22番観音堂です。かつては白浜古道に沿った霊場でした。
郡札観音霊場は国札霊場が遠くて回れない人のために沼の大寺(総持院)から始まる近場の
観音霊場です。

今回のウォーキングは、お散歩コースだったので、半日で終わりです。
天気にも恵まれ、楽しいウォーキングができました。やっと涼しくなってきましたので、
皆さんもウォーキングしてみてはいかがでしょうか?