月イチツアー「海風の中、歴史と伝説の町天津・浜荻を歩く」報告

7月に入りました。九州・山陰地方では記録的な大雨が降って多大な被害に遭われている方々が
いて・・・TVで映像を見ますが早く元の生活に戻れればと願うばかりです。

館山・南房総は梅雨なのに、ここ数日晴れていて、蒸し暑い日が多くなってきました。
梅雨の晴れ間の蒸し暑い中、月ツアー「海風の中、歴史と伝説の町天津・浜荻を歩く」を開催し
てきました。今回は、先月の月イチツアーと反対側の天津地区の浜荻エリアを歩きました。

集合場所は、前回と同じ二タ間駐車場です。
ここから、今回のコースもスタートします。まず最初にむかったのは、浅間神社。
二タ間川の橋の上で、お山の説明を。

前に見えている、左側が引土浅間山です。別名、天津小富士と呼ばれ、標高88mです。
右側が、葛ヶ崎城跡です。築城時期は不明ですが、天正8年(1580)に起こった正木憲時と里見美頼の
抗争、天正の内乱により廃城となりました。という事は、その前からあったという事がわかります。

今回、登るのは引土浅間山です。ちょうど浅間神社の山開きの例祭が行われた後だったので、集会所に
は多くの地元の人達がいらっしゃり、のぼりも立っていました。

ここから、登っていきます。

少し登ると祠があります。

安波の神様を祀っていて、海の恵みをもたらし、海難から人々を守ってくれる神様です。

また少し登ると・・・

下浅間です。頂上まで行けない人の為に祀られています。

そこから4合目付近にも石宮がありますが、写真を撮り忘れてしまいました。すみません。
そこの石宮は、日当たり様と言われて、漁師が海の状況をみる場所に祀られています。

ゆっくり登っていきます。

頂上に着くとこんな景色が見えます。

もう少し天気が良ければよかったのですが、大平洋が遠くまで見渡せます。気象条件がよければ
富士山も見る事が出来るそうです。

頂上の浅間神社です。

祭神は、木花咲耶姫命(このはなのさくやひめ)。山の神の総元締である大山津見神(おおやまづみ
のかみ)の娘で、天照神の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と結婚して日継の御子を生む母神です。

この祠の下に、梶原景時が隠れたという伝説が残っている洞窟があります。

少し梶原景時について説明します。平安時代末期から鎌倉幕府初期の武将で、鎌倉幕府の御家人です。
石橋山の戦いで敗れた源頼朝が、山中のししどの岩屋(現湯河原町)の倒木の洞窟へ隠れました。
大庭景親が捜索に来て、倒木が怪しいといい、梶原景時が洞窟の中に入ってみると、源頼朝がいました。
頼朝はこれまでと思い自害しようとしましたが、景時はこれをおし止め「お助けしましょう。戦に勝った
ときは、公(きみ)お忘れ給わぬよう」と言うと、洞窟を出て「蝙蝠ばかりで誰もいない。向こうの山が
怪しい」とさけびました。大庭景親は怪しみ自ら洞窟に入ろうとすると、景時はたちふさがり、「私を
疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」と詰め寄り、大庭景親は諦めて立ち去り、頼朝は
九死に一生を得ました。その後、頼朝は安房に逃げ再起をはかり鎌倉に入りました。その後、景時は土肥
実平を通じて頼朝に降伏し、頼朝と対面し御家人に列しました。弁舌が立ち、教養がある景時は頼朝に
信任され鶴岡若宮の造営、囚人の監視、御台所・北条政子の出産の奉行など諸事に用いられました。
頼朝の死後、いろいろありまして、「梶原景時の変」がおこり失脚し滅亡してしまいました。

こんな感じの人ですが、なぜ?ここの洞窟に隠れたのか?、地元の人は、頼朝も一緒に隠れたという話
をしていたので、「????」が増えてきて、考えれば考えるほど、疑問が出て来てしまいますが、
伝説なので、そのままでいいのだと思う事にしました。

山を下り、次に向かうは弁天堂です。
お堂の写真はありませんが、お堂には弁財天、釈迦、観音、阿弥陀の各像があり、不動明王像もある
とことから真言系のお堂であったと考えられます。
お堂の前には、「亀龍神(キリュウジン)」の碑があります。

この碑には、慶応2年(1868)5月15日に、酒屋惣八が亀の拾ってきて祀った事が刻まれています。
海に関する漁民の信仰の様子を伝えるもので、近隣の漁師は、豊漁を願ってお参りしているそうです。
このような、海の生物に関する碑の調査をしている、東海大学海洋研究所によると、魚類供養碑は、
全国各地にあるそうで、上位10都道府県のうち、千葉県は第2位で86基あるそうです。
ちなみに1位は秋田県の88基です。1位になるには2基足りなかったですね。

海岸線を歩き、次はロシア人来航の地の碑へ。

あまり知られていないようですが、鎖国下にあった江戸時代の元文4年(1739)5月19日(ロシア暦
1739.6.19)、ロシアのオホーツク探検事業として、シュバンベルグが率いる船団のうち1隻、ヴェリ
トン大尉が指揮するガブリエル号の乗組員数名がボートで天津村布入の地に上陸しました。漁民たちから、
水や野菜などをもらい、ロシア側は、銀貨や数珠玉を渡したといいます。北海道を除く我が国で初めて
ロシア人の上陸した場所になります。

次に向かいますのが、日蓮聖人とゆかりのある創洗井戸へと向かいます。
途中、天津の消防団の詰所の前を通ると、封筒が落ちていました。ゴミが落ちてると思い拾ってみると
なんと!!お金が・・・福沢諭吉様がいらっしゃいまして・・・
この消防団の人の誰かが落としたんだろう?と思い、声をかけお金を置いてきました。
あとから、「違がったらどうする?」と言われ「げっ!!落として困ってる人が居たら」なんて考え
てしまいました。やっぱり交番に届けた方が良かったのかな?預けた人の名前聞いてくればよかったかな?

良い事をした後に着いたのが、創洗井戸です。

元々は井戸ではなく姥が池だったのですが、明応の大津波により姥が池は土砂にうもれてしまったので、
井戸に改修したそうです。
姥が池は、北浦忠吾・忠内という兄弟の邸内にありました。房総一帯で疫病(せきの病)が流行し、
北浦兄弟は、日蓮聖人に疫病平癒を嘆願しました。聖人は、姥が池のほとりに祀られている姥神を
せき止め守護神とし、疫病平癒を祈念し、姥が池に、せき止めのお経を記した経石を沈め、「せき
病に悩む人に池の水を与えよ」と。その後、病人がこの水を飲むと霊験あらたかに病は治ったそうです。
文永元年(1264)、小松原法難の際、地頭の東条景信から襲撃をうけ、眉間に3寸余りの刀傷を負い、
ここで疵の養生をしたと言われています。傍らにある石は、日蓮聖人が腰掛けたという伝説があります。

次は、多聞寺へ。

日蓮宗の寺院で、山号を光玉山と言います。本尊は十界本尊。
伝説によると、文永元年(1264)8月、日蓮聖人が鎌倉遊学より故郷小湊へ帰る途中の夕方、
浜荻の地にさしかかった時、美しい童子が聖人の御前にあらわれ「一夜の宿をご共養申し上げます。」
と聖人を寺に導き、住職に引き合わすと共に姿を消しました。不思議に思った聖人は、住職にご本尊
を聞くと「毘沙門天である」と答えたのです。聖人は「毘沙門天一童子に変じてのご供養」と報恩読誦
をしました。法華経の教えに感銘を受けた住職は、その夜、土地の郷士・北浦忠吾・忠内兄弟を招き、
聖人の教えを請い両人と共に改宗しました。毘沙門天の別名「多聞天」の名を賜り、寺号を「多聞寺」
と改称したそうです。

本堂の後ろには、北浦忠吾・忠内、両内室のお墓があります。

さっきから北浦兄弟の話がでていますが、この人は何ぞや??とお思いでしょう。少し少し説明します。
工藤吉隆の家臣で、小松原法難の際、日蓮聖人を救い、自邸に匿い、ともに岩高山に逃げ込んだとされる
人物です。

境内には、東条藩初代藩主西郷正員の母の墓があります。 写真を撮り忘れてしまいましたが、解説だけ
でも・・・西郷氏は下総生実(千葉市)で5千石を知行する旗本でしたが、里見氏所領没収後、元和6年
(1620)9月、安房東条1万石の大名となりました。藩主の西郷正員の祖母は徳川家康の側室となり、2代
将軍秀忠の生母、西郷の局です。 

写真を撮れなかったのは、これがあったからで・・・・

今回のお弁当のです。この受け取りがあったので、写真が取れませんでした。

多聞寺さんにお願いをしてお弁当を境内で食べさせていただきました。ありがとうございます。
多聞寺さんの境内には、大きなちょっと変わった木があるんです。

松の木のようななんの木なのか???海外の木らしいです。教えてもらったのですが、覚えられ
なかったです。

さぁ~お腹もいっぱいになったので、次の貴船神社へと向かいます。

祭神は高龗神(たかおかみのかみ)。譽田別命(ほんだわけのかみ)・猿田彦命(さるたひこのかみ)
の三神です。弘安5年(1282)北浦忠吾・忠内が発願して、村中の協力で創建した神社と伝えられてい
ます。昔は、多聞寺境内にありましたが、現在の場所に移したといいます。明治6年郷社に列しました。
昭和16年1月11日失火の為、社殿・社務所等が焼失してしまい、手水舎のみ残りました。

次に向かったのは、薬師堂です。

堂内には、本尊と思われる薬師如来ほか、観音菩薩と勢至菩薩を脇侍とした三尊形式の阿弥陀如来、
多聞天、如意輪観音とともに弘法大師像などが安置されていることから、真言系のお堂であったと
考えられます。

次は、角田丹後守の墓へ。
この墓の場所が、下見の時になかなかわからなくて、民家の庭先にあるとは思いもしなかったです。

葛ヶ崎城は角田丹後守一明の居城でした。天正8年(1580)に起こった正木憲時と里見義頼の抗争、
天正の内乱(正木憲時の乱)。城主の角田丹後守一明が岡本城に出仕している隙を衝いて正木憲時
が攻めてきました。城主の代理を任されていた弟の角田丹波守一元は熱病にかかっていて病に伏せ
ていました。敵の兵数は700、味方の兵数は100と圧倒的に不利な状況で、丹波守一元は奮戦
の末討死し葛ヶ崎は落城したといいます。しかし、里見義頼軍が岡本城から出撃したとの報に,憲
時は軍を退いて大多喜城へ退去したといいます。里見義頼による葛ヶ崎の奪還後、正木憲時は天正
9年(1581)9月、大多喜城内で家臣の寝返りにより殺害され、乱は平定されました。
そんな事があった人の墓ですが、私的ないは、病で床に伏していた弟の墓を建ててあげればよかった
なんで思っちゃいました。やっぱり家督を継いだ人が偉いんですね。

さて、最後の見学場所大師堂へ。

弘法大師を祀った堂で、この大師像の胎内には、多くの写経が納められているそうです。
弘法大師像を祀られていることから、この堂は真言系のお堂であったと思われます。

あとは、駐車場に戻ります。蒸し暑い中、無事にウォーキングツアーを終了する事ができました。
8月の月イチツアーは、暑さでガイドが倒れちゃうと困るのでお休みします。
お散歩ツアーは7月19日(水)に開催します。是非、暑い中歩いて、いっぱい汗をかき、体の
ダルさを吹き飛ばしましょう!!

お散歩ツアー「佐久間ダム」報告

梅雨真っ只中の館山・南房総。晴れ間が出ると洗濯!!と思ってしまうのですが・・・
現実は・・・残念。

梅雨なので雨が降りますが、また旅倶楽部は注意報や警報が出ないとウォーキングツアーは
開催する方向なんです。山道とかは別ですが、雨は雨で良い景色を見る事が出来るので・・
カッパなど着て歩きます。今回のお散歩ツアー「佐久間ダム」は、雨の中を歩いてきました。

今回の報告の写真は、下見の時に撮ったものを多く使います。雨に濡れてしまいカメラが壊れて
しまうと、自腹で直さないといけないので・・・前回、壊れて18000円かかり、かなりダメージ
だったのです。

出発は、湖畔の休憩処から出発し、マラソンメダリスト記念碑へと向かいます。

「夢」と題された碑には、マラソンの小出義雄監督と高橋尚子選手の短歌が刻まれています。
オリンピックメダリストの高橋尚子さん・有森裕子さん、世界陸上メダリストの鈴木博美さんの
足型も彫られています。「なぜ?ここに?」と思うかと思いますが、リクルート陸上部が鋸南町
で合宿したことで、小出監督と懇意になり記念碑が建てられたそうです。

今回は「佐久間三滝を眺める」という裏テーマがありまして、1つ目の滝を見に行きます。
途中、アヒル・カモ?達が歓迎してくれました。

ガイドの説明まで聞いていて・・・

かわいいやつらです。

乙井沢の滝です。

佐久間ダムの上流にある滝です。乙井沢の近くの家の屋号で「ホトシザワ(仏沢)」でしたが、
「オトイザワ」に転じたそうです。

次は越の下の滝へ。

林道のような道を登り、分かれ道を下っていくと、田跡の脇に樋のような細い流れがあります。
「越の下の滝」といい、かつては水車が据えられ精米などに活用されていたそうです。
この名前も、「越」という屋号の家の下にあることから「越の下の滝」と呼ばれているそうです。

次に向かうのは、最後の滝・宮田の滝です。
川のほとりを歩いて行くと宮田の滝に辿りつきます。

なかなか良い道で、天気がよければ・・・

宮田の滝です。

もみじの葉や雑草に邪魔されてこの時期、見づらくなっていました。
下見の時は、こんな感じです。

川の源流部近く、山からの水がここに集中しています。コンクリートの構造物は、かつて簡易
水道の奥山水道組合の水源として活用されていた時のものです。
この滝の名前は、滝のある場所の小字が宮田なので、宮田の滝です。

こちらの場所は、ホタルの里としても活動されています。

自然豊かな場所なので、行かれる方は生態系を壊さないようにして下さい。

ここで、雨も強くなってきましたので、本当ならば山を登る予定でしたが、通常の舗装された道
で戻ります。最後は、三山供養塔(大日塚)へと向かいます。
駐車したスペースの前の階段を上っていくと見えてきます。

月山・湯殿山・羽黒山と書かれています。月山は阿弥陀如来、湯殿山は金剛界大日如来、羽黒山
は、聖観音菩薩になります。

こちらは、宝永元年(1704)の大日如来です。

願懸大日如来石佛尊です。

大日様は雨風にさらされていますが、宝銭受処は立派な小屋になっていました。
小屋の右側に写っているのが大日様です。

最初登った時、この小屋の中に大日様がいるかと思ってしまいました(笑)

雨足が強くなってきましたので、今日のウォーキングはここで終わりです。
鋸南町にある佐久間ダムは、四季折々の植物を楽しむ事ができます。今の時期は、あじさいや
蓮の花も見る事ができます。自然豊かな場所ですので、訪れてみてはいかがでしょうか?
道が狭い場所がありますので、気を付けて下さい。
次回は、7月の月イチツアーの報告です。
最近は、「ツアー報告だけ?」と小耳にはさみますが、なかなか出る機会がありません。なるべく
月1回は、違う記事を書くように努力したいと思います。

月イチツアー「潮騒を聞きながら漁師町天津を歩く」報告

梅雨入りしましたねぇ~。なんだか、梅雨だと心がブルーになってきて、腰の調子も良くなくなり
ます。事務所に閉じこもってると・・・やっぱり梅雨は嫌ですね。
そんな梅雨入りした館山・南房総ですが、ウォーキングツアーを開催しました。なんとか雨も降らず
楽しいウォーキングになったかと思います。

今回は、鴨川市にあります天津エリアを散策してきましたので、報告します。
出発は、二タ間駐車場。鴨川市の駐車場になるんですが、ここがまた説明するのが大変でして・・・
また旅倶楽部が企画するとコースの都合上なんかで、駐車場が難しくなっちゃうんでですよ・・・
すみません。

さて、本題に戻りまして、二タ間駐車場から出発し、最初に行くのは閻魔堂です。

通称「芝堂」と呼ばれています。堂内には阿弥陀如来、閻魔王、奪衣婆の三体の像が祀られています。
奪衣婆(だつえば)ですが、三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る
老婆の鬼です。奪衣婆が剥ぎ取った衣服は、懸衣翁(けんえおう)という老爺によって衣領樹にかけら
れます。剥ぎ取った衣の重さによって死後の処遇が決められるとされています。
江戸時代末期には、奪衣婆を祀ったお堂などが建立され、民間信仰では奪衣婆は、疫病除け・咳止め、
特に子供の百日咳に効き目があると言われていました。(諸説あります)
こちらのお堂には、奪衣婆からはじまって、閻魔王に裁きを受け、最終的に阿弥陀如来によって極楽
浄土へと導いてもらうという、像の構成になっているんですね。

お堂の入口の両脇には六地蔵立像が建立されています。

このお地蔵様は天津小湊地域の中で最も大きな六地蔵様です。200年以上前から見守っています。

次は、萬福寺と須賀神社へ。

天台宗の寺院で蔵王山観音院と号します。本尊は聖観世音菩薩。厨子の中には、本尊と四天王が安置され
ており、脇立は、不動明王と毘沙門天が立ち、厨子前には聖観音が立っています。


御詠歌を刻む額は、初代後藤義光の作です。以前は外にあったそうですが、今は本堂内に掲げられています。
奥様に、中を見させていただきました。ありがとうございます。

すぐ隣には、須賀神社があります。

祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。後に行きます、天津神明宮の主祭神である天照皇大御神の弟にあたる
素戔嗚尊が祀られています。御神輿は、外房一帯でも大きく重い大神輿です。暴れ神輿とも有名で、7月の
最終金・土・日に祭礼が行われ、大神輿が町を練り歩きます。


鳥居は、天津神明宮と同じに式年鳥居の神事の際にあわせて建て替え神事が行われます。

次は、海福寺へ。

真言宗智山派の寺院で山号を宝蔵山と言います。本尊は阿弥陀如来三尊像です。
室町時代初期の応永4年(1397)の創建と伝えられている法蔵山海福寺が、昭和45年近隣にあった同宗
同派の久光山吉祥院・東光山宝泉寺・普光山持明院の三ヵ寺と合併し、山号を宝蔵山と改めて現在のお寺
になりました。旧海福寺は、江戸時代初期の正保4年(1647)に徳川家から清澄寺を賜った頼勢法印によっ
て中興され、旧天津村の正蓮坊・弁天堂・地蔵堂(現大師堂)を管理しましたが、文政7年(1824)の天津
村大火によって、御本尊こそ救い出したものの、吉祥院・宝泉寺と共に堂宇のほとんどを焼失してしてし
まったそうで、寺歴を語る史料がないそうです。江戸期の様子は、本寺にあたる勝福寺(鴨川市川代)の
史料などによって知るだけになってしまっています。
本堂には、本尊の阿弥陀如来三尊像のほか、厨子の右袖に長狭観音札所の本尊千手観世音菩薩、左袖に安房
国地蔵札所の本尊の地蔵菩薩があります。

境内には、いろいろな石造物があります。

宝篋印塔と大乗妙典塔。


筆子塚。

宝篋印塔。天津地域で最も高い宝篋印塔です。

庚申塔。天津地域で、最も古い延宝8年(1680)のものです。

あと境内にはお堂も建てられています。

真ん中のお堂が「大日堂」向かって右が「淡嶋堂」、左が「稲荷社」です。

大日堂

堂内には、真言宗密教の中心仏の「大日如来」、真言宗の宗祖「弘法大師空海」、防火防止の
守護神「愛宕明神」の三尊をお祀りしています。

淡嶋堂

江戸時代にこの地に進出してきた関西漁民が、紀州の淡嶋明神を歓請したのが始まりと伝えられ
ています。古来から、お飾りしなくなったお雛様や使われなくなった裁縫針を納める信仰があります。

稲荷社

旧吉祥院が京都の伏見稲荷から歓請した正一位稲荷と旧海福寺にあった福徳稲荷をお祀りして
います。
まだまだ、ありますがこの辺で次へと向かいます。

すぐお隣にある善覚寺へ。

浄土真宗の地震で本尊は阿弥陀如来。もとは、近江国高島郡(現滋賀県高島市)に慶安元年(1648)
4月3日の創立。慶安4年(1651)3月4日に現在地へ移転しました。鴨川市指定有形民俗文化財
「善覚寺の近世文書」は、関西漁民の関東出漁を伝える貴重な思慮としてのこっており、墓地には
紀州出身者の墓石が多く見られます。
先ほど行った海福寺には、淡嶋堂も関西漁民が勧請していたので関西漁民が信仰していたことが
わかります。


本堂向拝の彫刻は、武志伊八郎信常(二代伊八)によって1840年頃製作されました。
二代伊八は初代伊八の実子として、天明6年(1786)頃に生まれました。
二代伊八の詳細は不明ですが、初代伊八のそばで技術を磨いたと推測されています。
初代伊八の弟子・島村久八郎由勝らとともに重要なメンバーとして工房の活動を支えていたと考え
られます。二代伊八の確実な作例は以外と少ないため、彼の諡号の全体像を把握することは困難で
す。銘を記した作品も少ないため、こちらな信常の銘が記載された作品は、基準作にも位置づけ
られる貴重な作品なんだそうです。

次は日澄寺です。

日蓮宗の寺院で、本尊は十界勧請の大曼荼羅。開創は日蓮聖人。
文永元年(1264)11月11日、小松原法難の折に殉職した天津領主工藤左近将監吉隆公の居館
でしたが、その嫡子刑部阿闍梨長栄坊日隆上人が父の菩提を弔うために建立しました。吉隆公
は、鎌倉幕府出仕中に四条金吾公、池上宗仲公等とともに日蓮聖人に深く帰依しました。文永
元年秋、日蓮聖人は母の病気見舞いに小湊へ帰りましたが、花房の蓮華寺から天津の工藤吉隆
公の館を訪ねる道すがら、東条の小松原で地頭・東条景信の伏兵に襲撃されました。これが「
小松原法難」です。この法難で、日蓮聖人は頭部に三寸余りの刀傷をうける危難にあい、救援
に駆け付けた吉隆公は討死しました。聖人は、吉隆公の霊を弔うために出家の礼をとり、妙隆
院日玉上人の法号を与えました。

本堂の裏手には、吉隆公のお墓があります。

ご住職に少しお話ししていただきました。ありがとうございます。

そろそろお腹がすいてきました。お弁当までのひと踏ん張り天津神明宮へと向かいます。

祭神は天照皇大神・豊受大神・八重事代主神(えびす様)。大山祇大神ほか七柱の神を合祀して
います。神代の昔、天孫降臨(天照大神の御孫が地上を治めるために高天原から降臨したこと)
に当たり国譲りした事代主神が海路でこの地に移り、東方鎮護の神として鎮座し、これを「もう
け明神」と崇敬したことが始まりと伝えられています。
その後、治承4年(1180)石橋山の戦いに敗れ、安房に逃れた源頼朝が源氏の再興を伊勢神宮に祈
願し、みごと成就したことにより、天下平定ののち、寿永3年(1184)、伊勢より神霊を歓請し、
もうけ明神とともにお祀りされてのが「房州伊勢の宮」と仰がれるようになりました。


境内にある「まるばちしゃの木」です。安房以西、四国、九州、沖縄、相碗などの暖地に自生する
落葉小高木です。天津小湊地域の数箇所で自生していますが、この地域がまるばちしゃの木の北限
とされています。境内にはこの木が4本あり、まるばちしゃの木の中でも古木に属し、大きいもの
は、幹回り1.5mにもなります。千葉県の天然記念物に指定されています。

さぁ~昼食の時間になりました。今回は天津神明宮さんのご厚意により、椅子を使わせていただき
ました。宮司さんもいらっしゃいまして、昔の天津のお話しなど、楽しくお聞かせ下さいました。
ありがとうございます。

お腹もいっぱいになったところで、次の正蓮坊へと出発です。

本尊は閻魔王。堂内の中央の厨子には、閻魔王像が安置され、十王、奪衣婆像、弘法大師が祀られ
ています。正蓮という僧が建立したという伝承から「正蓮坊」と呼ばれています。

堂の入口には、正蓮法師の霊を祀った石碑があります。

あとは、海岸線を通り駐車場までの道を行きます。途中、明神の鯛へ寄り道。

この明神の鯛は、千葉県指定天然記念物です。天津漁港と二タ間海岸の間の沖合200m
ほどのところに明神礁と呼ばれる岩礁があります。この付近は水深5mほどと浅いのですが、
多くの魚類が生息しています。大正時代に、この海域に群れて生息するクロダイを保護し、
鑑賞するために地元から天然記念物の要請があり、県は昭和10年(1935)に指定しました。
昭和8年には禁漁区となり、タイ見物船も出て町の観光拠点として賑わったそうです。船べ
りを叩くと、いっせいに魚が集まる様子は壮観だったといいます。タイ見学船は、第二次世界
大戦で中断されましたが、昭和38年(1963)に復活し、その後10年間ほど行われていました。

あとは駐車場へと戻るだけです。今回のツアーも見どころ満載で、ガイドの独り言を書くのが
大変です。だけど、狭いエリアに多くの神社仏閣があり、それだけ信仰していたことが分かる
地域でした。7月の月イチツアーは、反対側の浜荻地区を歩きます。天津小富士と呼ばれる
引土浅間山も登っちゃいます。

お散歩ツアー「正木の里・村の鎮守と野仏めぐり」報告

だんだんと暑い日が多くなっています。田んぼの苗は、すくすく育って来て圃場一面が深緑に
なって綺麗です。

今回は、お散歩ツアー「正木の里・村の鎮守と野仏めぐり」の報告します。
出発地は、若夫婦でイチジク農園を経営しています「館山パイオニアファーム」さんの駐車場
をお借りして、出発です。

館山パイオニアファームさんは、いくつかの品種のイチジクを栽培していて、8月中旬ごろから
イチジク狩りを楽しむことができます。イチジク狩りのオフシーズンは、イチジクの苗作り体験
やイベントなども開催しています。建物の所では、いちじくのアイスクリームやパウンドケーキ
・ジャムなども販売しています。詳しくはHPで御覧ください。https://www.pioneer-farm.jp/

最初に向かうのは、姫塚です。

ちょっと塚が見えませんが、田んぼのあぜ道の脇にひっそりと石宮と五輪塔が祀られています。
地元では、里見の姫を葬ったものと伝えられています。昔は、一段低い田の中にあったといい、
農地改良により現在の場所に移されました。

次に向かうは、六所神社。

創建年代や由緒・祭神は不明です。安房国総社とされています。総社とされるのは、近辺の地名に
府中があり、府中の近くにある社号を持つ神社ということが根拠となっています。神社が所在する
西郷は、里見氏時代の府中を東国府と称したことに対する、国府の西側という意味ともされています。

境内には、明治18年(1885)に建てられた浅間祠があります。

本殿向かって左側には、クジラの骨を祀った祠があります。

クジラの骨わかりますか?
少し残念なのが、だれもお参りにきていないのでしょうか?草が茂っていて・・・・

次の場所に行く道の途中に祠があります。

祠は白山社で、祭神は白比咩大神(しらひめおおかみ)で五穀豊穣の神様です。地元では歯の神様
としても信仰を集めています。

次は、新御堂(にいみどう)へと向かいます。

現在の新御堂の場所は、元は、真言宗秀満院があった場所です。関東大震災で倒壊し廃寺となり、
昭和42年に青木根から新御堂が再建し移転してきました。本尊は、聖観音立像で、室町時代の
作と伝えられています。

隣には、八幡神社があります。

亀ヶ原の鎮守で、祭神は譽田別命(応神天皇)。
創建は、室町時代の文明年間(1469~1487)と伝えられています。戦国時代には、里見氏の信仰を
集め徳川幕府より社領2石が認めらられました。
江戸時代初期、元和6年(1620)に再建したときの棟札が残されています。

次は、亀ヶ原八幡神社の裏にある西郷堰を見に。

平久里川のにあります。ここは古代安房の水門の入江だった場所で堰を築き、この地域を潤し
ました。

亀ヶ原八幡神社と西郷堰の間には、アンゴ岩があります。

アンゴとは方言でカエルの事で、カエルににた形をしているからアンゴ岩と呼ばれてるいます。

県道296号線に出るところに六地蔵があります。

正徳4年(1714)江戸時代中期頃に建て替えられたもので、それ以前は、宗春という人物が建てた
ものがあったと刻まれています。元は、古観音巡礼道が横根峠を越えた街道沿いの村境に建てら
れておたと思われます。なので六地蔵の向きが残念なことになっています。

次は、新御堂跡地向かいます。が・・・その少し手前に亀井戸があります。

亀井戸は、亀ヶ原の地名の発祥と言われ新御堂の閼伽井でもあります。
亀ヶ原の名主であった飯沼家は享保16年(1731)、亀井の泉水で酒作りを始め、銘酒亀井は
130年も続く作り酒屋として栄えました。

新御堂跡地の階段です。

今回は雑草に覆われてしまっているので行きませんが、跡地には、江戸時代の石造地蔵菩薩立像
や句碑などもあります。御詠歌は「にいみどう 見上げてみれば 峯の松 くびこい鶴(汲み越え
つる)に亀井戸の水」です。

さあ~今回のお散歩ツアーは見どころ満載です。次は、外輪堂です。

亀ヶ原区下台集落の共同墓地で、木造阿弥陀如来座像を本尊とるすお堂です。
入口にビー玉などの数珠を首からかけた六地蔵があり、なんだか微笑ましいお堂です。

なんか子供のころに読んだ童話の挿絵に出てくるようなお地蔵さんたちです。
また道の際に三山碑があります。

天保2年両度登山とあるのは、二度三山詣でを行った三山行人の供養塔で、地獄・餓鬼・修羅の
三悪道に落ちないと言われ、供養塔が街道に面して建てられているのは、通行人も手を合わせれば
功徳があると言われているからだそうです。

次は、若宮神社へ。

正木向の鎮守です。古くは若宮八幡大権現と言っていました。社は正木向にあった中嶋弁天の社
を移築したもので、祭壇下に弁天の石宮も相殿で祀られています。

次は朝日山大泉寺へ。

浄土宗金台寺の末寺で、本尊は阿弥陀如来三尊です。

大泉寺の入口の地蔵尊です。

街道になっていて、那古清澄古道と呼ばれていました。

次は、正木下の熊野神社へ。

創建は不詳、江戸時代初期の元和元年(1615)に再建されたと伝えられています。

残す見学場所の西光寺へ。

曹洞宗の寺院で山号を正木山といいます。本尊は銅製十一面観音立像。江戸時代初期の
里見忠義のとき、本山を真倉慈恩院に寺領の一部として与えられていました。

見学箇所はすべて終わり、あとは駐車場へ向かいます。
お散歩ツアーですが、内容が盛りだくさんあって書くことがいっぱいになってしまいました。
ちょっと最後の方は、手抜きになっていますが・・・・ごめんなさい。

駐車場に向かうと、館山パイオニアファームさんが、お休みにも関わらず、お店をあけて
くれました。終了後、参加者のみなさんは、いちじくアイスクリームを食べたり、いちじくソーダ?
を飲んだり、お土産にパウンドケーキを買ったりとしてました。

次回は、鴨川市の天津エリアの月イチツアーです。こちらも面白いツアーになりそうです。

月イチツアー「里見八犬伝のふるさと「富山」を歩く」報告

空が高くなってきました。空だけみると夏の空のようですが・・・・
日差しは強くて暑いのですが、風が涼しいです。

今回は、南房総市にある富山(とみさん)に上ってきました。
富山は標高349.5mです。富山の名前は、古代神話に登場する安房開拓の祖「天富命」の逝去の
地であることにより名づけられたと言われています。この山は北の峰と南の峰の二の頂上があること
から動物の耳を形容した双耳峰という特徴があります。古くから航海の目標とされています。
題目にもあるように、江戸時代の作家・曲亭馬琴が28年の歳月をかけ刊行しました、南総里見氏の
史実等を参考に書かれた伝記小説「南総里見八犬伝」の舞台と言われています。簡単にお話しします
と・・・里見義実の娘「伏姫」と敵将の首を取ってきた妖犬「八房」が富山(物語ではトヤマと呼ば
れる)の中腹にある洞窟に籠り生活をし、義実と家臣・金碗大輔に見つけられ、八房は金碗大輔が放
った銃弾に倒れ、その流れ弾にあたって伏姫も倒れてしまいます。伏姫はこの時、八房の気によって
妊娠していましたが、犬畜生と交わったわけではないと身の潔白を示すため自害すると、白煙が立ち
上がるとともに、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の霊玉が飛び散り、その後、犬の姓や体の一部に
ぼたんのあざとその霊玉を持つ八犬士が登場します。功成り名を遂げた八犬士は、富山山頂の観音堂
の傍らに庵を建て、凡そ20年間風月を友として老後を楽しみ、里見の姫との子供たちに見守られな
がら仙人となり、頂上より雲の彼方に消えていったといいます。
そんな「南総里見八犬伝」のお話しの舞台となった場所へと行きます。

出発は、南房総市富山観光駐車場からです。
富山へは、何本か登って行くルートがありますが、今回は伏姫籠穴から登って行きます。
駐車場から20分程度で伏姫籠穴の登り口に到着します。

伏姫籠穴への入口です。入口の近くには、八房が眠るという「犬塚」があります。

ここから、10分程度登って行くと、伏姫が籠っていた洞窟があります。
伏姫籠穴の写真がどうしても見つからないので、どうしちゃったのか・・・すみません。

さて、気を取り直して、山道へと進んでいきます。
途中、滝を見る事ができました。この滝は、あまり見る事ができないのですが、時期によって見る事
ができます。

この滝は、合戸の滝と呼ばれていて、季節限定の滝です。合戸地区のため池(合戸堰)から、田植え
の時期に放水されるだけらしいので、タイミングよく見る事ができました。
結構、迫力がある滝でした。

さて、いよいよ山らしい道に入っていきます。

ここの場所に、頂上まで45分と書かれていましたが、ゆっくり登って行くのでもう少し時間がかか
りました。登っていくと、頂上付近にY字路があり、最初に北峰の方へ行くので左へと進みます。
少し進むと杉の巨木と鐘を見る事ができます。

樹齢300年以上と推定され、普通よりも葉が丸みを帯びていることから「ボタンスギ」と呼ばれて
います。地元では、古くから縁結びにご利益があるとして親しまれていますので、別名「縁結びの杉
の木」とも呼ばれています。樹高28m、幹周り3.43m。(ちょっと写真では、見えないですが・・)
ボタンスギの近くには「愛の鐘」が設置されています。平成11年(1999)皇太子ご夫婦が登山された
後、富山は「愛の山」と広く知られるようになり、ここを目指して登るカップルが多くいるそうです。
地元では、登山者に「愛の音」が広がるように、この富山に「愛の鐘」を設けたそうです。
一応鳴らしてみましたけど・・・(笑)

少し歩いて行くと、金毘羅宮があります。

創建年月不明で、文久年間(1860年代前半)地元の房州屋栄吉が先達となり、江戸講仲間が参詣寄進
します。堂の大修理の際、普賢菩薩白象台座が発見されました。

いよいよ頂上へ。

三角点とは違うところに、展望台がありますが、今回は撮り忘れてしまいましたが、展望台広場には
皇太子両殿下の散策記念碑が建てられています。

展望台に上って写真を撮ってみました。

天気が良ければ富士山をはっきりと見る事ができます。
江戸警備のために訪れた会津藩主松平容保は、富山登山記においてこの景色を「嘉永6年4月8日
当日快晴11州余眼下に迫り絶景、言語につくしがたし」と詠んでいます。
11州は、安房、下総、上総、常陸(ひたち)、上野(群馬)、下野(栃木)、武蔵(東京・埼玉
神奈川の一部)、相模(神奈川)、伊豆(静岡)、駿河(静岡)、甲斐(長野)。
昔は、山の樹々が燃料(まき)として使われていたので、樹々が今みたいに高くなかったのかな?
なんて思ってしまいます。だから先まで見えていたのかな?なんて・・・

ここで、昼食休憩して南峰へと向かいます。 
途中、ニリンソウや樹々の木漏れ日の中を歩いていきます。

しばらく歩くと階段が見えてきます。

この階段を上ると観音堂があります。

奈良時代、聖武天皇の祈願により天平3年(703)行基菩薩の創建。昭和30年(1955)8月17日
原因不明の失火により全焼してしまいました。その3~4年後、仮堂が建てられ現在に至ります。

境内には、いろいろな石仏等が残されています。

ちょっと寂しい感じです。

もう一つ、大正時代の童話作家・巌谷小波が馬琴を讃えて作った詩の石碑があります。

ちょっと文字はわかりづらくなっていますが、「山高きゆえに貴からず 曲亭翁の霊筆によりて
この山の名長しへに高く尊し」「水茎の香に山も笑いけり」と書かれています。

この石碑の裏側を少し上ると、南峰の頂上になります。ここにはあずまやらしき物があったみたい
ですが、樹々が伸び景色はまったく良くなかったです。

さて、いよいよ下山していきます。登った分下らなければいけないのが山です。
段差のある階段を下りていきます。途中、こんな石仏があります。なんか和ましてくれる石仏です。

階段が終わると坂道になるのですが、これがまた・・・スクワットしているかのように
降りて行くんです。転ぶと大変なので慎重に下って行くと、福満寺にで着きます。

福満寺は真言宗智山派の寺院で、本尊は十一面観音。
天平3年(731)に行基により開創されました、はじめは1合目の大房(おおぼう)というところに、
地蔵堂・子安社・蔵王権現等が祀られていましたが、焼失、再建を繰り返し、元治元年(1864)、
現在地に本堂が再建されました。観音堂は富山山頂にあり(先ほど見てきた場所です)、享保14年
(1729)に再建され、寛政元年(1789)に仁王門と仁王像も建立されましたが、昭和30年(1955)の失火
により全焼し、観音像も焼失してしまいました。現在の福満寺本尊十一面観音お札が観音巡礼にご開帳
されます。山頂にあった仁王像は、平成10年福満寺山門に移されました。

福満寺の入口には大正元年の登山道標があります。

「ふもとに伏姫籠穴あり」と八犬伝の案内があります。
あとは県道を通り、駐車場へ。

今回は天気にも恵まれて、楽しいハイキングができました。いつも流れていない滝も見れたし・・・
次回の月イチツアーは、鴨川市の天津地区を歩きます。是非ご参加下さい。

お散歩ツアー「伊戸で懸崖滝の不思議発見」報告

新緑の季節になりました。フジの花やツツジが綺麗咲いていて外に出るのが良い季節
となりました。今回は、お散歩ツアー「伊戸で懸崖滝の不思議発見」の報告です。

今回のお散歩ツアーは、地震で隆起した地形を確認しながら歩いて行くコースです。
房総半島南部では、6000年~7000年前は、現在の標高23~26m位のところに
海水面がありました。幾度にもおよぶ地震で隆起が繰り返され現在の地形になりました。
隆起した所を確認しながら歩いていきます。
出発地点は、館山市西岬地区にあります西岬地区公民館分館からのスタートです。
まずは平砂海岸を目指し畑の道を抜ける途中に珍しいお墓を発見。

長方形の墓石の下に盃のような形のものがあります。飲んべえの方のお墓かと思いきや、
女性の方のお墓でした。この盃の様な形はなんだろう?と思いながら平砂浦を目指します。


平砂浦海岸の端です。
平砂浦海岸には、いろいろな植物があります。

海岸線の民家の下には、ハマダイコンの薄紫色の花が咲いています。

平砂海岸から国道に出る手前は坂になっていて、元禄地震の際に隆起した場所を見る事
ができます。写真ではわかりづらいですが、小さな滝になっています。

漁師町の細い道を抜け、次に向かったのは伊戸台場跡。
残念なことにここでトイレ休憩してぼーっとしてたら写真を撮るのを忘れてしまいましたが、
現在の台場跡は、伊戸だいぼの駐車場になっています。

次も、花畑だった?脇の小道を通り、子育て地蔵へ。

古くは磯浜の小高い所に賽の神として祀られていた場所に、石宮・墓石と共に子育て地蔵が
祀られています。お地蔵さんの肩に乗った子供が宝珠を撫でていたり、衣の裾に絡みつく子
供の仕草が微笑ましいお地蔵様です。

次は、圓光寺へ。

真言宗智山派の寺院で医王山と号します。このお寺には、明治の洋画家・青木繁と縁があります。
明治38年(1905)、代表作「海の幸」製作の翌年、圓光寺に恋人の福田たねと滞在し、本堂の板戸
4枚に焼いた釘で、伊戸からみたと景色と思われる作品を残しました。残念なことにこちらには残っ
ていなくブリヂストン美術館が所蔵しているそうです。

圓光寺の墓地には、地蔵板碑があります。

次は、道路上から伊戸の滝を見学

以前は、滝近くまで行けたそうですが、現在は草に覆われ道がわからなくなっています。
地元では「お滝」と呼ばれているそうです。40年近く前に滝の上に灌漑用の貯水池を
造ったため、大雨が降って貯水池の水があふれないかぎり豊かな落下水は見る事ができ
ないそうです。

次はもう1つの滝があります御嶽神社へ。

祭神は日本武尊。文化3年(1806)の手水鉢や天保9年(1838)の石燈篭があります。

本殿左側に滝があります。

懸崖滝ですが水量が少ないため、滝面の浸食はほとんど進んでいません。昔は滝行の行場
があったらしく滝の中段には不動明王の石像が祀られています。

あとは、出発地点へと帰ります。今回のお散歩ツアーは伊戸の地域を散策しました。
こんな所に滝があるんだぁ~と思ったり・・・・まだまだ面白いところがあるんです。
次回は、5月の月イチツアーで「富山(とみさん)」に登ります。

月イチツアー「丸氏の郷へ」報告

新年度になりました。また旅倶楽部の活動も6年目に突入しました。
まだまだ頑張っていきたいと思っていますので、今年度もよろしくお願いします。

さて、今年度の1発目は月イチツアー「丸氏の郷へ」です。以前、雨で中止となったコース
の復活です。天気に恵まれましたが、風が強くて・・・・桜の花吹雪状態でスタートします。

出発地点は石堂寺です。

石堂寺について説明します。
天台宗の寺院です。寺伝によれば、奈良時代神亀3年(726)、行基菩薩が仏法弘通のため東国に下
りこの地に来られたとき、谷間の草庵の中から法華経を読誦する声が聞こえてきました。訪ねてみ
ると3人の僧侶が仏舎利を棒持し経を唱えていました。行基はそのいわれを聞き、この地こそを海
内無双の霊場であると確信し、自ら一刀三礼して十一面観音菩薩の御尊像を彫り本尊とし、大塚山
に石塔寺を建立して天下泰平・万民快楽を祈願したといいます。
仏舎利は宝塔に納められて、その昔インドにおいてマウルヤ王朝アシャカ王が釈迦入滅後、その骨
を八万四千の塔に納められ、全世界に配分されてものの一つだと伝えられています。日本では、こ
の宝塔が三基あり、滋賀県の阿育王山石塔寺と、群馬県の白雲山石塔寺(現・廃寺)とここ石堂寺
です。創建当時の寺名は石塔寺でした。


仁王様は「蛭取り仁王」と言われ、石堂地区の農民を悩ますヒルを退治して、その後この地区には
ヒルが居なくなったという民話が残されています。

本堂へと階段を上がっていきます。以前、聞いた話によると本堂までの階段の数は108段で、本
堂に着くまでに煩悩を取り除いてくれると聞いたので、煩悩のなくしながら上がっていきます。

境内には、文化財が多くあります。左側の本堂と右側の多宝塔は国指定重要文化財です。
本尊の十一面観世音菩薩立像・厨子も国指定文化財です。
多宝塔は、天文14年(1545)、住職宗海を大本願、丸珠師谷氏を大旦那とした丸一族が、里見義堯
・正木時茂等の協力をえて建立しました。中には鎌倉時代の千手観音像が安置されています。(県指定)


左側の鐘楼堂は市指定文化財です。真ん中の山王堂は県指定文化財です。
まだありますが、今回はこの辺で・・・・

次に向かうのは石堂城跡へ。遊歩道ができていて歩きやすい道になっています。
余り城跡という感じがしないのですが、頂上にたどり着くと丸氏の郷が一望できます。

次は、石堂寺の中にある旧尾形家へ。

江戸時代中期の享保13年(1728)の建築で、分棟型と呼ばれる形式で、居間・座敷・寝室等から
なる主屋と、かまや・作業場として利用される土間とがそれぞれ棟を別に建てられています。
尾形家は、旧丸山町珠師ヶ谷で江戸時代に中条流の医師をしていた尾形宮内を初代とし、その後この
地で名主をつとめたころもある家柄の旧家です。昭和46年・47年度に解体移築されました。
この場所は、以前小学校のあった場所だそうです。戦時中は軍が使っていたそうです。

次は、丸郷神社へ。

養老年間(717~724)の創建と伝えられて、元諏訪大明神と号しました。丸氏滅亡後、里見氏の領する
に至り、丸の郷の大社として祀られました。明治2年社号を改め丸郷神社と呼ばれています。
今回は一の鳥居の所で終わりですが、ここから約500m先の山に本殿があります。

次は、丸氏の菩提寺安楽寺へ。

天台宗の寺院で称号は吉祥山極楽院安楽寺。本尊は虚空蔵菩薩・阿弥陀如来です。寺伝によると、宝亀
年間(770~780)鴨川市の清澄寺の開基である不思議法師の創建であると伝えられ、本尊の虚空蔵菩薩は
法師が清澄寺で柏樹に彫られたものであると言われています。その後、慈覚大師がこの地を巡錫し堂塔
伽藍を修復しましたが、幾歳月かは草が茂り、伽藍は破壊され荒れ果てました。その後、この地の豪族
丸氏によって、現在地に移し開山し、丸一族の菩提寺としました。
中雀山門は、茅葺円柱の四脚門で享徳元年(1452)の建造と言われて、市指定文化財です。


本堂裏山の中腹には岩窟があり、中に墓石が残されていて、丸氏の墓だと伝えられています。

こちらで、昼食を取って善性寺へと向かいます。
途中、石仏群があり、地域の信仰を見る事が出来ます。

善性寺です。

天台宗の寺院で本尊は薬師如来です。昔は別の所にありましたが、元和2年(1617)に現在の場所に
移したといいます。この地は、丸一族の中でも最も有力であった咒師谷(しゅしがやつ)殿の屋敷
跡地とされ、境内のやぐらには、宝篋印塔や五輪塔が数奇あり、咒師谷殿の累代の墓だと伝えられ
ています。市指定文化財

境内には、大黒天が祀られていて、この大黒天の裏側に「後藤利兵衛橘義光作七拾ご翁」の銘が
あります。

次に向かったのは諏訪神社です。

祭神は健御名方命(たけみなかたのみこと)。長野県諏訪市の上諏訪神社と下諏訪神社の二社を歓
請した神社です。弘治3年(1557)里見義堯が津久井右馬允を代官として当社を再建しています。

最後の見学場所は、普賢寺跡へ。

現在は、石堂青年館になっていて、敷地内には普賢寺跡碑文が残されています。
普賢寺は、永興山多聞院普賢寺といい天台宗でした。昭和42年薬師如来ならびに不動明王を
石堂寺客殿に合祀して寺の歴史を閉じました。

出発地点へと戻り、今回のウォーキングツアーは終了しました。
この南房総市の丸山地域のエリアだけでも古いお寺が多く残されています。
平成29年度、まだまだ面白いコースがありますので、ご興味のある方、是非ご参加ください。

お散歩ツアー「三芳・中堰歴史と自然探訪」報告

新年度に入りました。桜の時期も終わり新緑の季節に入ってきました。
今年度のウォーキングの下見を開始していますが、新芽もでてきて歩くのにはいい季節になりました。

さて、3月の終わりに、28年度の最後のお散歩ツアー「三芳・中堰歴史と自然探訪」を開催しまし
たので、報告です。
中堰の駐車場から出発します。

まずは中堰の周囲を歩きます。

中堰は、旧三芳村の中地区にあります。昭和初期に農業用水源として造られました。その後、平
成9年度から10年度にかけて、ため池の保全と田んぼの用水の安定的な確保のため、県による
土地改良事業の一環として大々的な改修工事が行われました。周囲約1㎞の中堰周辺には、様々
の樹々が植えられ、色々な生き物が生息し、自然を感じられる貴重な場所になっていて、中堰親
水公園(游遊の里)と呼ばれています。地域の方が主体となり、月1回の里山わんぱく子供塾な
どが開催され、自然体験教育活動が実施されています。

3月の下旬という事もあって、桜を見れるかな?と期待していたのですが、今年は遅くまだ固い
つぼみの状態でした。

ゆったりのんびり堰の周辺を歩き次に向かうのは、九兵衛さんお墓碑。中堰から墓碑まで約1㎞
の間に、石仏が4カ所あります。

壊れてしまったものなどもありますが、お花も供えられ信仰されています。

九兵衛さんの墓碑です。(墓碑が見えませんが・・・)

吉田九兵衛さんって誰?という事で、この人は、正徳元年(1711)の万石騒動で、27カ村の一つ
でした中村の名主さんです。九兵衛さんは、一揆の頭取腰押の一人と見られて捕えられて入牢し
ました。斬罪は免れましたが、江戸10里四方と安房国追放の刑に処せられてしまいました。
墓碑の中央には吉田九兵衛と刻まれています。
万石騒動は、江戸時代中期の正徳元年(1711)に安房国北条藩1万石の所領27ケ村全体の農民が
起こした一揆です。

墓碑の脇には、急な階段があります。

この階段を登ると愛宕神社ですが、ちょっと足場が悪いので今回は登りませんでした。

次は、駒形神社へと向かいます。

祭神は、蒼稲魂命(あおいねのみたまのみこと)で食物の神と言われています。
「駒形」の名でよばれているのは、かつて神馬を差し出した競馬をおこなったことからと思われます。
天保14年(1843)の「仲村差出明細書」等によると、当時の江田村、御庄村、竹原村、山名村と仲村
の名前があり、毎年9月9日に竹原村山王神社の祭礼に参加し、競馬をおこなっていたことがわかり
ます。駒形神社の創立年月日等は不明です。
境内には、三山講碑や御嶽大神、「宗吾大神」の石碑があります。

ちょっとこちらの狛犬さんは、マンガチックでかわいいので写真を載せておきます。

阿の狛犬さんの方が可愛いと思います。

今回は、お散歩ツアーという事もあり見学場所はここまでです。あとは中堰へと戻ります。
後になってしまいましたが、中地区の歴史について少し書いておきます。
「平久里川」の支流「山名川」の中流左岸、沖積平野に展開する集落で、仲村とも記され
ました。里見氏時代末、御隠居様(里見義康の母)の地行所で386石余でしたが、慶長
19年(1614)に里見氏の改易後は幕府の直轄領となりました。寛永年間(1614~1643)、
村は東組と西組に分郷し、その後、旗本大嶋氏と小笠原氏の相給、屋代越中守領、忍藩松
平氏領などを経て、明治元年(1868)長尾藩本多領となります。その後、周辺の村で連合村
を作り、自治行政をおこない、町村製施行令で「稲都村」の大字となります。
鎮守は「駒形神社」で、寺院は「正安寺」(大正6年に廃寺)のほかに地蔵堂、堅牢地神
があります。

平成28年度は、このお散歩ツアーが最後です。全部で23コースで2コース中止でした
が、怪我なく無事に終わる事ができました。ありがとうございます。
また、変な文章でお伝えしています、ガイドの独り言も読んでいただきありがとうございます。
平成29年度も23コース開催しますので、是非、ご興味のある方、運動不足の方等々、
一緒に楽しく歩きましょう。

月イチツアー「水田三喜男氏の生家と西の大黒様を訪ねる」報告

春らしい日が多くなってきました。しかしながら、花粉が多く飛びはじめ、ティッシュの
消費が多い季節ともなっています。薬もだんだんと効かなくなってるような・・・

花粉に負けずに今回は、「水田三喜男氏の生家と西の大黒様を訪ねる」のツアーを開催し
ました。花粉に負けずにと書きましたが、その日はあいにくの雨模様だったので、花粉の量
は少なかったので楽でしたが、雨だとちょっと歩くのにブルーな気持ちになります。今回は、
3月6日に西の大黒様を拝見できるという事で、雨にも負けずに歩いてきました。
(今回の写真は、下見の際に撮った写真を多く使わせていただきます。)

集合場所は、千葉県酪農のさと。この日は休館日だったのですが、申請書を書き貸していた
だく事ができました。

ここは、酪農の発祥の地です。戦国時代(1500年代)に国守里見氏の軍馬を育てる目的で嶺岡
牧場をつくりました。その後、江戸幕府が嶺岡牧場を直轄し、8代将軍徳川吉宗が馬の改良に
力を入れ外国産の馬を輸入し、その際、インドの白牛3頭が入ってきました。白牛は年々繁殖
し、1793年からは搾った牛乳から白牛酪が作られるようになり、生産量も増え寛政8年
(1796)に、日本橋「玉屋」から白牛酪が売りだされるようになりました。このことが日本の酪
農の始まりです。明治の初めは、政府の管理下にあり、その後、有志により設立した嶺岡牧社
は牛馬を購入し、繁殖、改良を進め、明治22年には嶺岡畜産(株)が発足し、アメリカより短
角種50頭及びホルスタイン種雌雄2頭を輸入し、安房におけるホルスタイン種輸入の発端に
なりました。その後、短角種からホルスタイン種へ移行され、ホルスタイン種の乳用化が進み
ました。明治20年安房種畜組合の設立、明治28年安房畜産会結成、明治39年には安房郡
産牛組合の発足と、畜産の普及と活況にあわせて組織も発展しました。

酪農のさとを後にし、国道410号線を少し歩き、嶺岡林道へと入り坂道を登っていき八丁陣
屋へと向かいます。坂道を登っている頃はまだ小雨でした。

八丁陣屋に着くころには、雨が多くなってきました。

嶺岡牧経営の管理は、嶺岡牧のほぼ中央部に享保20年(1735)に造られた八丁陣屋で行ってい
ました。番屋の他、牛舎、厩舎が建っており、馬を洗う池もあったそうです。明治時代には建
物は焼失し、池は戦後埋められてしまったそうですが、井戸跡や陣屋裏の山に祀られた稲荷な
どに八丁神社の名残をみることができます。


稲荷社です。

次は、水田氏の生家へと向かいます。
向かう道には、桜の木が植えられていて、途中には水田桜記念碑があります。

水田桜記念碑は、水田三喜男氏が地域の活性化と嶺岡林道を美しく整えるために、地元の方と
500本の桜を植えられました。そして水田氏が設立した城西国際大学が鴨川市に観光学部を
開設したことを機に、水田桜を守ろうと「嶺岡林道桜並木修復プロジェクト」を立ち上げ、毎
年多くの桜を植樹しました。創立20周年の時に、この記念碑を建てたそうです。

記念碑から下へと下っていくと、水田氏の生家があります。長屋門の所から、管理をされてい
る佐藤様にご説明いただきました。

長屋門です。

長屋門は桁行16.4m、梁間5.5m規模の寄棟造、桟瓦葺、出桁造の建物で、全体的に太い
材が使われています。正面右1室と左2室を牛小屋とする点に特徴があります。江戸時代以来の
酪農地である嶺岡牧場の歴史を伝える建物として貴重なものです。建設年代は、江戸後期か明治
初期と推測されます。(登録有形文化財)

母屋です。

母屋は、桁行15.8m、梁間11.1mの茅葺の寄棟造で、東側を土間とし、床上は囲炉裏を
切った15畳の座敷を中心に5室あります。西側に縁側、南面には瓦葺の下屋を差し掛けるなど
房総民かの特色を以ています。建設年代は江戸後期と推測されます。茅葺屋根の形がネコの背に
似ていることから、ねこぜと言われるそうです。(登録有形文化財)

母屋の中も見学させていただきました。

囲炉裏にも火を入れてもらいました。ありがとうございます。

ここで、今回サプライズな事が・・・水田氏の御親戚の方からおみやげをいただきました。倶楽
部のガイドと水田氏の御親戚の方が知り合いで、お伺いするお話しをしたのが、このサプライズ
になりました。みなさん喜んでいました。ありがとうございました。

ここまで書いてきましたが、水田氏って誰?と思う方もいらっしゃるかと・・・
まずは、水田家の由来を・・・
旧水田家が存する旧曽呂村(鴨川市)は、嶺岡山脈の南麓を東から西へ通じる道を中心とした五
百戸余りの山村です。江戸時代からこのあたりでは毎年5月、たいへんなにぎわいの中、馬捕り
の行事が行われており、そこに幕府の役人が来て牛馬を見定めする場所を陣屋と称したが、庄屋
のような役割を果たし、村の指導的立場にあった水田家は、この陣屋と地続きとなっていました。
水田家は、400年以上前に四国讃岐から移ってきたものといわれています。明治中頃の水田家
当主水田竹蔵は、英国から初めて輸入されたホルスタイン種牡牛を飼育したことによって、酪農
史にその名を残しています。塾で学んで帰った当時の新知識人でもあり、初代の戸長、村長とし
て信望を集めていました。その息子信太郎も村長をつとめ、その在任中、県下にさきがけて村内
の学校数校を一校に統合、近代校舎を建て、村の教育に貢献しました。信太郎には6男2女が生
まれましたが、男兄弟だけでなく姉妹2人を含む8人全員がその当時の高等教育を受け、この山
村から中央に出て、財界、政界、教育界で活躍したのです。そのなかの3男が、のちに通産大臣
や大蔵大臣を歴任し、城西大学を創立した水田三喜男氏です。ここで生まれ、安房中学校まで過
ごしました。(パンフレットより)

では、水田三喜男氏のことを・・・
日本の政治家で、城西大学創立者です。大蔵大臣を数度に亘り務め、戦後日本の代表的な財政家
です。生まれは、千葉県曽呂村(現鴨川市)。旧制安房中学校(現県立安房高等学校)、旧制水
戸高等学校(茨城大学の前身校)を経て、京都帝国大学法学部に入学。1931年卒業後、東京
市の職員、専修大学講師、北越石油監査役等を経て、1946年の第22回衆議院議員総選挙に
当選、以後13回連続当選を果たしました。1953年に経済審議庁長官として初入閣し、その
後、通産相や大蔵大臣を数回努め、第34回衆議院議員総選挙で13回目の当選を果たし直後
71歳で急逝しました。曽呂村尋常小学校卒業後、8里(32㎞)離れた名門安房中学校に進み
ました。安房中は軍港があった館山にあり、カッパ中学と言われるほど水泳が必須でしたが、水
田氏はカナヅチで、泳げないものだけが着ける赤ふんどしを義務づけられていたそうです。
水田氏の銅像が、館山市の鶴ケ谷八幡宮に建っています。

水田氏の事を少し知っていただいたところで、次の西神社へと向かいます。
西神社は、水田氏が通っていました曽呂小学校分教場の隣にあります。

祭神は大山祗命(おおやまつみのみこと)。勧請年歴は不詳。社殿の横に鴨川市指定天然記念物
の大杉があります。樹高約25m、目渡り幹囲約6m、推定樹齢300年以上。

狛犬たちも立派です。

石工さんははっきりしませんが、曽呂村仲区鈴木磯吉さんが手がけたもとだと推測されます。

次は曽呂小学校分教場跡へ。

身次7年(1874)に西尋常小学校として建設。同時期にこの地域で4つの小学校が造られました。
明治42年(1909)、村内の4校を統合し曽呂尋常小学校が誕生しましたが、西尋常小学校だけ
曽呂尋常小学校分教場として残されました。通学バスのない当時、子供の足で片道6㎞通うのは
大変だということで、1年生から4年生まで分教場、5年生から本校に通う事になりました。
昭和42年(1967)に廃校となり役目をおえました。この尋常小学校には、水田三喜男氏も通って
いました。
昭和42年に廃校となって現在は、このような状態です。2枚目の写真は、廃校後、公民館とし
て利用していたので、くずれ方が違います。
ここで、食事休憩です。またお弁当の写真を撮り忘れてしまいましたが、今回のお弁当は南房総
市和田町の「くすの木」のお弁当です。旬な山菜の天ぷらなどが、入っていてとてもおいしかっ
たです。

お腹もいっぱいになったところで、最後の見学場所、蓮華院へとむかいます。っと言っても目と
鼻の先ほどの距離ですが・・・・


真言宗智山派の寺院で、山号を宮本山といいます。大黒弁財天(大黒尊天)は、大正9年(1920)、
真野寺の分体としてここ蓮華院に安置され、西の大黒様とよばれています。例祭の3月6日には、
家内安全、厄除、商売繁盛、開運を願って開尊されます。
写真は下見の時の本堂です。当日は、すべての扉が外され、大黒様もお顔が見れるよう、前の方
へと出してきてあります。
その大黒様がこちら。

ガラスの中に納められているので、写真を撮ると反射してしまって・・・難しいです。

雨でも御近所さんたちが来られて賑わっていて、甘酒や豚汁、お赤飯のおにぎりなど振るまわれ
ていました。13:30?~は落語が聞けたり、14:00~は福くじの当選発表、14:30
~は福もち投げがあります。毎年3月6日に行われますのでご興味のもった方は、是非来年行っ
てみてはいかがでしょうか?

さぁ~落語は聞かず、ここから、出発地点へと戻りますが、本来ならば約3キロ歩いて帰るので
すが、雨も強くなり冷えてきてしまったので、救護班の車に数名乗り込み、車をお寺に移動させ
て、みなさんを出発地点へと送迎し、終了となりました。
雨でもありましが、なんとか無事に終わる事ができました。

今年度は、お散歩ツアーを1本残しております。来年度のウォーキング予定表も印刷の段階に入
りました。出来上がりましたら、道の駅とかに置かしてもらいます。

お散歩ツアー「古道を歩き伝説の地をめぐる」報告

この所、寒かったり暖かかったりと気温の変化がありますが、皆さま体調の方は大丈夫ですか?
花粉の時期でもあり、山を見ると杉がいっぱいです。花粉に耐えながら、がんばってウォーキング
してます。

大人の学習旅行の二日後に、お散歩ツアー「古道を歩き伝説の地をめぐる」を開催しましたので
報告です。今回のツアーは、館山市神余地区に関係のある、金丸氏のゆかりのと地へと向かう
コースです。
出発前に、少し金丸氏についてお話しします。
房州初代金丸氏は、甲斐の国(現・山梨県)巨麻金麿(こまかなまろ)の住民で、天児屋命(あ
めのこやねのみこと)を祖神とする名門藤原一族で、東国鎮護の時に坂上田村麿将軍に仕え、活
躍したので神余の地をもらい、延暦23年(804)に甲斐より移転してきました。
名前は、金丸巨麻太藤原宗光(かなまるこまたふじわらのむねみつ)と名乗りました。9代目か
ら源親元の任期を除き、安房の国司を歴任し、16代昌孝は、源頼朝に従い鎌倉幕府設立に貢献
しました。26代景貞の時謀反が起こり山下定兼に国を奪われ、それ以降里見氏の家臣となりま
した。この景貞が山下に国を奪われた話が、南総里見八犬伝のモデルになったとも言われています。
(※諸説あります)

さぁ~出発します。出発地は、神余地区にありますキッチン&カフェマリヌスさんの裏からです。
この道はグリーンラインに抜ける道ですが、交通量が少なくついつい車が来ることを忘れてしまう
道です。途中、土手の土がえぐれている場所があります。昔の人?と思うと思いますが、「土どろ
ぼう」なんです。赤土は、稲の準備をする時に使うらしく、結構みなさん農協さんとかで買うん
ですが、ここに堀にきちゃってるんですね。

航空無線標識所跡の下を通っていきます。元々は、大きな塔があったのですが、このツアーの少し
前から解体が始まていて、塔が無くなってしまいました。
少し行くと民家・林道へと続く道を歩き、地蔵畑に到着します。

石のお地蔵様が2基あるので、地蔵畑といわれるようになりました。室町時代中期に、金丸景貞が
自害した時の介錯人の自性坊がこの岩屋に自性院を創建しました。元禄の大地震で崩れたあとは、
現在の場所に移ったとの事です。地蔵立像の裏面に「神余村地蔵畑往古ヨリ本尊ハ元禄十六癸末年
十一月廿二之夜大地震ニテ岩屋崩木像故別当自性院エ奉遷則」とあります。


お地蔵様の前の場所は平らになっていて、お堂があったのではないかな?と思われます。

次に向かうのは、御腹やぐらです。こちらは私有地の中にありますので、事前にお願いして見学
させてもらいました。

間口3m高さ2mのやぐらがあり、内部には宝篋印塔があります。
応永24年(1417)正月元旦、家臣山下定兼の一族が神余城に攻め込みました。正月3日、金丸景貞
は「もうここまで」と覚悟を決め、息子満孝(後、茂詮)に「里見家基をたよって逃げよ」と言い残
し、山深い地蔵畑の岩屋で自性坊に介錯を頼み切腹しました。
時はたち嘉𠮷元年(1441)5月安房の豪族安西・丸連合軍の加勢を得て山下城を攻撃、ついに山下定兼
の首をとり、父が切腹した場所に報告したと言われています。
のちに村人は、景貞が切腹した洞窟を御腹やぐらと呼ぶようになりました。(※諸説あります)

元来た道を通り、山道に入ると見晴らしのいい場所に到着します。個人の山ですが、許可をいただき
休憩タイム。ここで、少し皆さんに、金丸氏の紙芝居を・・・

天気が良ければ富士山が見えるのですが・・・大房岬やその後ろに三浦半島、城ヶ島もはっきりわかり
ます。天気が良ければもっとよかったのですが・・・

紙芝居を見て、一休みしたところで、最後の目的地、浅間神社へと向かいます。

社号碑から登り木でできた鳥居をくぐり登って行くと、祠が見えてきます。

神余地域は浅間信仰の盛んな土地柄で、浅間祠が何カ所もあります。こちらは京塚山の浅間神社です。
手水鉢には、安楽院が願主で安政6年(1859)に奉納されています。
京塚山は神余地区の最高峰で、海抜161mあり、戦時中、海軍の飛行機が墜落して山火事が発生した
そうです。
帰りは、古道を通り出発地へと戻ります。
今回のツアーを行う前に、同じコースで神余小学校の皆さんをご案内しました。自分の生まれた地区の
歴史を散策するという事でご案内しました。子供たちの記憶に少しでも残って、将来、自分たちの地区
はこんな歴史があるんだと思い出して語り継がれたらいいなぁ~と思います。
他の地区の皆さんも、是非、自分の生まれた場所の歴史に触れてみてはいかがでしょうか?
なぁ~んて宣伝してしまいましたが、今回も楽しくお散歩ツアーを開催する事ができました。
あと今年度は2回で終わりです。来年度も面白いツアーを計画しています。新しい案内は、3月下旬には
お目見えできると思います。