月イチツアー「東条歴史探訪」報告

朝晩寒くなってきた館山・南房総。陽だまりは暖かいのですが、吹いてくる風が冬の気配を
感じます。そんな中、先日、鴨川市の東条地区を散策してきましたので、報告します。

まずは、鴨川市役所に集合し、東条公民館へ車で移動します。
今日の出発地は東条公民館からです。

最初に訪ねた場所は、閻魔堂です。
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参道には大日様の石仏や、三界萬霊塔や六地蔵があります。

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こちらはひっそりとお堂があり、中には閻魔様が祀られているそうです。

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閻魔堂の墓地には、俳号「雲水堂椿山」のお墓があります。
本名は、久保七左衛門で、文政7年(1824)、長狭郡広場村上人塚(鴨川市)生まれ。
江戸で刊行される俳家番付にもしばしば顔を出すほどの人物です。明治31年(1898)
8月24日に没。75歳。「我の外旅人見えず秋のくれ」と辞世の句を残しています。

次に向かってのは上人塚です。
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文永元年(1264)11月11日、小松原法難の際に日蓮聖人を救おうと殉職した天津
城主・工藤吉隆の墓。日蓮聖人は吉隆公を弟子の一人に加え「妙隆院日玉上人」と
号し出家の礼を以て葬りました。法難後、工藤家によって碑が建立されています。

次は、ちょっと裏道に入り御嶽神社へ。
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こちらの御嶽神社は、ちょっと調査不足で詳しい事はわかりませんが、境内に亀井講の
大型石碑が多く残されています。
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次は、新田地蔵堂へ。
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こちらのお地蔵様はイケメンのお地蔵さんです。
ここで、お弁当到着時間の調整でしばし休憩。

調整が終わったところで、永明寺へ。
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曹洞宗の寺院で、山号は慧日山。弘化2年(1279)に東条景信により創建されました。
当所は別の場所にありましたが、元禄の大地震により津波の被害を受け、現在の場所
に移動しました。
本堂の向拝の彫刻は、五代伊八(高石伊八郎信月)です。この人のお父さん四代伊八郎
信明と一緒に柴又帝釈天の作品に従事したそうです。

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向唐門です。この門は鴨川市の文化財に指定されています。
切妻造り萱葺で、棟札から文化9年(1812)に改築されていることが判ります。
県内にこのような形式を持つ建築の残存率が少なく、山門建築の推移を知る上で重要な
ものです。

山門の手前には、可愛らしい六地蔵があります。
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こころがほっこりするお地蔵様です。
ご住職のご厚意により境内で、昼食をとらせていただきました。
ありがとうございます。

普段は通らない道を通ると色々な発見があります。
今回の発見は、国指定文化財の鈴木邸です。なにかの本で見たことがあったのですが、
住所もなく、どこにあるのかな?っと思っていたら、今回のコース上にありました。
とても、素晴らしい茅葺屋根の母屋。近くで見る事ができないので、門の所から見させて
いただきました。いつかここが見学できる日が来る時には、場所とかご紹介したいと
思いますので、今回は文章だけですみません。

さて、次は古墳があった場所を歩きます。現在は、宅地として家が建ってるのでどこに
あったかは想像するだけになってしまいます。
大正15年、後広場1号墳から古墳時代後期のくり抜式舟形石棺が発見されました。
凝灰質砂岩製で、千葉県唯一の資料です。石棺の内部には人骨1体と、金銅製大刀を含む
7振の直刀、刀子、鉄鍬が副葬されていました。
石棺は、鴨川郷土資料館の方にあります。

さて、次は鏡忍寺へ。
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日蓮宗本山。日蓮聖人四大法難の一つ、小松原法難の霊場です。
いつも法難とか普通に書いていましたが、今回は法難について説明したいと思います。
日蓮聖人は一生のうち生命にかかわる法難を4回、小さい法難は無数にありますが・・・
四大法難というのは、40歳のとき伊豆伊東の俎岩に置き去りされた「伊豆法難」
43歳のときに房州小松原で地頭東条景信の一軍に襲撃された「小松原法難」
50歳のとき片瀬の龍口刑場で処刑されそうになった「龍口法難」
同じ年、佐渡遠流の難にあったのが「佐渡法難」です。
今回の鏡忍寺は、小松原法難の舞台となった場所なんです。
伊豆法難後、許されて鎌倉に戻りました。文永元年(1264)秋、久ぶりに故郷小湊に帰って
きました。父のお墓詣りや母の病気見舞い、恩師道善坊を訪ねました。
しかし、かねてから日蓮聖人を恨んでいた地頭東条景信は、聖人の帰国を知り、聖人を亡き
者にしようと、機をうかがっていました。そして11月11日の夕刻、小松原で日蓮聖人の
一行を数百人で待ち伏せし襲撃しました。弟子の鏡忍房、天津領主工藤吉隆は討死し、九死
に一生を得た日蓮聖人も額に刀傷を負ったのでした。後に日蓮聖人は、2人の菩提を弔うた
めに日隆上人に命を下さい開創されたのが鏡忍寺の始まりです。

境内には「降神の槙」があります。
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この槙は、鴨川市天然記念物に指定されている槙で、樹齢千数百年と言われています。
日蓮聖人の法難の際、危ういところを鬼子母神が降臨されて救ったと伝わっています。

上の写真の左が祖師堂です。祖師堂の欄間には、「波の伊八」の作品、七福神の彫刻三面
があります。市の有形文化財に指定されています。

また、江戸時代初期から中期頃の建立と推定される切妻萱葺き屋根の向唐門も鴨川市の有形
文化財です。
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鏡忍寺を後にして、今回最後の見学場所八坂神社へ向かいます。
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祭神は須佐之男命。伝承によれば久保又右衛門という者が、自分の屋敷内に牛頭天王を祀って
いました。近隣の人たちも崇拝するようになったので、京都の八坂神社より分霊して社殿を
造営して氏神として祭祀したのが起源だと伝えられています。
本殿の向拝の龍は、三代伊八の作です。
本日の見学場所はここまでです。あとは、出発地点へ帰ります。

色々な事がありましたが、なんとか無事にたどり着きました。
いろいろな地域にいろいろな歴史があります。歩くことで新たな発見があります。
是非、ガイドウォーキングツアーにご参加下さい。

お散歩ツアー「館野・萱野・滝川の歴史散策」報告

2週連続でお散歩ツアーを開催しました。
今回は、「館野・萱野・滝川の歴史散策」という事で、館山市の館野地区を歩いて
きました。

出発は館野地区公民館。天気はというと、台風が来るとかいう話でしたが・・・
少し不安定な雲行きでしたが出発しました。
まずは、橋本地蔵尊へ。
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外房と内房を結ぶ街道の所にあり、滝川用水堀を渡る橋のたもとの地蔵尊です。
寛政10年(1798)に日本廻国行者が建てた道標や、明治24年(1891)の孝子塚への案内標、
大正14年(1925)に国分青年団が建てた三義民刑場跡への案内標があります。

次は、滝川用水の滝川分水堰へ。
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滝川用水の分水池、国分・高井・上野原・長須賀の水田への灌漑用水として使われていた
そうです。
この滝川用水というのが次に行く、三義民刑場跡のお話しに関わってくるんです。
では、その前に少し、この事件についてお話しします。

時は、正徳元年(1711)、徳川6代将軍家宣の時、安房国北条藩で起こった農民一揆。
北条藩1万石の所領27ケ村全体の農民が参加したことから、万石騒動という名前が付いた
のです。この万石騒動は、北条藩は1万石の小藩でしたが、藩主の屋代忠位は幕府の百人組
大番頭などを歴任していました。このことは財政難に繋がり、忠位は職を辞して財政再建を
図らざるを得なくなりました。そこで、新規に召抱えた家臣に、川井藤左衛門という人物に、
忠位は、御用人・上席家老として財政再建のために全権を与えました。川井は宝永6年(1709)
に北条陣屋に派遣され、元禄地震で隆起した北条海岸に新田を開発、灌漑用水路(滝川用水)
の開削して増産を図りました。また、鶴ケ谷の保護林の伐採・売却した他、酒屋・糀屋の運
上金の取立てを行い増収を図りましたが、農繁期の労役や、苛酷な増徴策の強行は、領民に
とって負担の大きいものでした。川井が各村に割り当てた年貢量は、従来の2倍近いものでし
た。これに対して、農民600名が北条陣屋に押し寄せて減免を求めましたが、川井の部下は
取り合わず、川井は江戸屋敷に名主を呼び出し圧力を加え、首謀者を探りました。
600名の農民は江戸に出て、江戸屋敷にいる藩主への門訴をおこないました。川井は、いったん
農民の要求を呑んだように装い、年貢減免の墨を与え農民たちを国許に帰しましたが、農民たち
を追う形で、川井は北条屋敷に赴き、名主を陣屋に呼び出し墨付の奪還を図り、6名を投獄、
6名のうち3名を国分村萱野の刑場で処刑、その妻子を追放し家財は没収するという弾圧をし
ました。また、農民に協力した代官行貝弥五兵衛国定及び息子を処刑しました。行貝は国分村
出身で地代官でした。
名主の投獄を受け、農民側は再び江戸で訴えを起こすことを決め、代表者が江戸に上り、老中
秋元喬知に駕籠訴を行いましたが、却下されてしまいました。今度は老中阿部正喬への駕籠訴
を行い結果、幕府は訴えを取り上げて審議が行われることになりました。評定所は、農民の訴え
をほぼ認め、川井は投獄されました。正徳2年(1712)、幕府の裁断が下され、川井は息子と共に
死罪、北条藩屋代家は改易になり、農民側も、捕えられたままであった3名が追放に処せられま
した。

という事で、三義民刑場跡へ。
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大正14年(1925)に三人が処刑された場所に三義民殉難之跡という石碑が建てられました。

その後、平成22年には義の伝承碑が建てられました。
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今でも、名主3名の命日(11月26日)には供養が行われ、語り継がれています。

次に行ったのは、稲荷神社。
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神社のある周辺は、明治元年から4年まで、館山周辺を支配した大名、長尾藩本多氏の
家臣たちの屋敷地として開発されました。その一画に本多氏の氏神であった稲荷神社が
祀られています。手水石は旧藩士たちが、明治9年に奉納しています。

次は孝子塚です。
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平安時代の初め、承和元年(836)に、安房郡の伴直家主(とものあたい やかぬし)と
いう人が居まして、朝廷から親孝行を表彰されました。(「続日本後記」巻五の承和三
年十二月七日の条にその徳行が記されています)
江戸時代になり、石工の武田石翁が、「家主」の事を調べ、その墓を探して、この塚が
孝子塚と推考し、嘉永3年(1850)、自らここに孝子「家主」に碑を刻み、その遺徳を顕
彰しました。さらに翌年、孝子に関係ある国分寺境内にも同様の碑を建てて顕彰し、そ
の後、地元有志者の尽力で整備が進められ、大正3年(1914)頃、現在のような形となり
ました。市指定史跡になっています。

伴直家主は、優しい心をもった真面目な人でした。両親が生きているうちに大切にし、親
孝行をつくしました。その両親がなくなると、今度は自分の食事や生活をきりつめて、親
のために立派なお墓を建ててあげ、両親の像までもつくり、生きていた時と同じように食
事を供え、供養を怠ったことはなく、いつまでも続いたので、人々に知れ渡り、やげて都
にいる朝廷の耳にまで届きました。感激した朝廷は、「この者を孝子と呼んで、生涯その
税を免状してあげるように」といい、身分も三階という位を授け、その家の入口には朝廷
から下された「孝子の門」という大きな旗があったといいます。そんなお話しです。

次に滝川のびゃくしんへ。
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館山市天然記念物に指定されているびゃくしんです。
このビャクシンは、後から行く木幡神社の北方の河岸段丘上にあり、一帯は木幡神社創建
の地とされ、御神木としての言い伝えがあります。
びゃくしんは雄木で、目通り樹周4m30cm・樹高10m35cm・枝下2m70cm
(指定当時)、東西約11m、南北約12mの巨樹です。

びゃくしんの側にある三善寺へ。
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浄土宗の寺院です。鎌倉時代の木造如来座像と南北朝時代の銅造観音・勢至菩薩立像が
ありますが、ともに市立博物館で保管されています。
この日は、安房国四十八ヶ所薬師如来霊場申歳中開帳の初日でしたので、薬師如来像を
拝見する事ができました。

次は、石橋供養塔のある場所へ。
かつて石橋が架かっていたようで、道の端に文政5年(1822)の石橋供養塔があります。
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その脇の大きなお地蔵さんがありますが、顔がなくなってしまっています。

次は、木幡神社へ。
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滝川地区の鎮守で、主祭神は天照大神の子とされる天忍穂耳尊(あめのおしほみみ)
で、その妻と子も祀られています。神社の縁起によると、大化改新(645)以前、中央
政権によって地方官として任命された大伴氏一族が安房に着任した際、現在の館山平
野の中央に館を建て、そこを館野原といい、支配の中心としたとされています。当時
着任地に氏神をまつる風習があり、それが木幡神社の起こりだといいます。

次は、伝説の石を見に。
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この石は、立石と呼ばれ、鎌倉時代の武将、朝夷郡に育った朝比奈三郎義秀が投げた
ものだという伝承があります。以前、千倉を訪れた際も、朝比奈三郎が投げた石があ
りました。

次は、地蔵堂です。
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本尊は木造地蔵菩薩。地蔵菩薩像は文明13年(1481)に造られたものです。
境内には江戸時代に建てられた鉄丸石の大きな出羽三山碑があります。
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今日の見学場所はここまでで、出発地点へと戻ります。
半日コースですが、見る場所が満載でした。いやぁ~三義民も地域の人たちが、ずっと
言伝えて言ってほしいお話しです。まだまだ知らないことが多くあります。
みなさまも、是非、お住まいの地域を散策してみてはいかがでしょうか?
あっ!また旅倶楽部のウォーキングに参加して一緒に探しましょう。

お散歩ツアー「巴川流域の伝説を訪ねる」報告

皆さまご無沙汰しております。ガイドの独事を更新するのは、久しぶりです。
今年の8月は、ウォーキングツアーの計画はなくて、企画ツアーだけでしたが、
のそ企画ツアーが、台風上陸という最悪な状況になり、企画ツアーが延期と
なってしまいました。
夏にまた旅倶楽部は何してたの?とお思いだと思いますが、館山市主催の「ウミ
ホタル観察会」の講師やらサポートやらで、活動をしていました。

久々のお散歩ツアー「巴川流域の伝説を訪ねる」として館山市の神戸地区を散策
してきました。最近は、天気が悪い日が続いていましたが、開催した9月28日
は天気もよく暑い一日でした。

まずは、出発の館山野鳥の森から、千祥寺へ。
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こちらは、天和2年(1682)に領主の非法を訴えて処刑された7人の農民を供養した
という七人様供養碑があります。

次は、笠登墓地へ。
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ここには、天田やぐらから出た室町時代の五輪塔や宝篋印塔が祀られています。
これは、大正14年に村人の夢枕に、「裏山に埋もれているので、供養してほしい」と
言われ、山を掘ってみるとおびたただしい五輪塔や宝篋印塔が発見さ、この場所に
供養され、記念の供養塔が建てられました。

次は、中里八坂神社です。
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祭神は、須佐之男命(スサノオノミコト)です。むかしは、牛頭天王と呼ばれていました。
社殿の裏には、青面金剛像を刻んだん庚申塔や牛頭天王の石宮、右には浅間様の小さな祠
があります。こちらのお神輿の彫刻は、初代後藤義光です。
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次に金蓮院。
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真言宗智山派の寺院で、金剛山慈眼寺金蓮院としいます。本尊は大日如来。
平安時代に造立された木造地蔵菩薩が安置されています。安房国札観音霊場
の第29番で、安房国88か所弘法霊場の第5番です。開創は不明で、江戸
初期に頼忠が中興しています。
本堂の裏には、飛錫塚とよばれる岩山があります。
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古文章によると、文治元年(1185)、頼智(らいち)という高僧が行基作の観音菩薩像を
携えて、伊豆から海を渡り犬尾崎(平砂浦)に着きました。東の方が明けて来た時、一匹
の白犬が現れ、僧の法衣を引いて東の方へ導くと、金剛山の麓まで来ました。犬が離れない
ので、錫杖う振ったところ、犬が消えたといいます。別のお話しでは、麓まで来て犬は動か
なくなり、頭をなでると犬ではなく石だったというお話しもあります。

飛錫塚の上には竜宮からあがったと伝えられる枕字石や、塚の端には、享保19年(1734)に
一石に一文字づつ経文を書いて19500個の石を埋めた経塚があります。

次は、犬石権現へ。
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ここにも民話が残されています。
昔、西岬地区の鉈切神社の洞穴からひとりの僧が犬を連れて入りましたが、僧は出てくる事
が出来ず、犬は青年館にある岩の裏の穴から、赤肌になって出てきてすぐに石になってしま
ったというお話しが残されています。犬石の地名からか、この周辺には犬や石にまつわる伝
説が多くあります。
これが、穴です。
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次は、犬石神社へ。
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祭神は倉稲魂神(うかのみたまのみこと)。稲の精霊が神格化したもので、五穀、食物をつか
さどる神様です。「日本書記」では、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみの
みこと)の子です。「古事記」では須佐之男命と神大市比姫の子で、宇迦之御魂神と書きます。

次に向かったのは、巴橋です。
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この巴橋は、明治39年(1906)の建築です。構造は石造アーチ形上路橋。規模は橋長11m、
幅員3m、1径間アスファルト路面です。地元、犬石の職人、島田岩𠮷が設計して築いた橋
だと伝えられています。大正12年(1923)の関東大震災で、巴川を逆流した津波は、すごい
勢いで巴橋を飲み込みましたが、石積みのこの橋は、津波の勢いに負けなかったそうです。
また、太平洋戦争中、近くの佐野にあった旧館山海軍砲術学校の戦車がこの橋を渡っても、
重さに耐えたと伝えられています。国登録有形文化財建造物です。

次には蓮寿院。
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浄土宗の寺院です。境内には、元禄地震(1703)で亡くなった地元の人たちを供養するために、
正徳5年(1715)に建てられた名号石塔があります。

蓮寿院から相浜神社の途中、玉杉稲荷があります。
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今はこんな感じですが、ここには、民話が残っていますので、ご紹介します。
ここはかつて白浜街道でした。明治の頃は新道山と呼ばれる昼も薄暗い山道でした。
ここにあるお稲荷さんには、お杉とお玉の2匹が棲んでいました。暗くなって村人が通りかか
ると、狐火で明るくして送ってくれたり、村を守り、浜の大漁を叶えてくれるお稲荷さんで、
お供えはいつも鯛が上がる位大切にされていました。富浦の正善院(現愛宕神社)の修験僧が、
相浜の波切不動の修験僧(感満寺、現相浜神社)に難題を持ちかけ追い出そうと企てていまし
た。それを知ったお杉とお玉は、巴川のほとりで、頭に葉っぱを乗せ老婆に変身しようと準備
していました。そこへ正善院の修験僧が現れ、「そんなものでは俺はだまされないぞ」と馬鹿
にしました。すると、「あなたを騙すつもりはありません。不動堂の修験に悪戯して馬の糞の
団子を食べさせに行くところです。一緒に行きますか?」っと誘われ、不動堂の節穴から中を
覗くと、老婆から勧められた馬の糞団子を修験僧がおいしそうに食べているではないですか。
「狐に騙される修験なぞ修行が足りない半端者め」っと笑っていると、突然後ろから「バカモ
ン!!蹴飛ばされて死ぬぞ!」と怒鳴られ気が付くと馬のお尻の穴を覗いている自分に気が付
き、大慌てで富浦に逃げ帰りました。狐が相浜の波切不動を守ったという地元に伝わるお話し
です。

そんな民話ののころ場所を後に、六地蔵がある場所へ。
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昔は、行場だったそうで、水路と井戸が残っています。岩山には六地蔵があり、行場の雰囲気が
わずかに残っています。
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こんな感じです。

次は、見学場所最後の大神宮観音堂へ。
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安房郡札22番観音堂です。かつては白浜古道に沿った霊場でした。
郡札観音霊場は国札霊場が遠くて回れない人のために沼の大寺(総持院)から始まる近場の
観音霊場です。

今回のウォーキングは、お散歩コースだったので、半日で終わりです。
天気にも恵まれ、楽しいウォーキングができました。やっと涼しくなってきましたので、
皆さんもウォーキングしてみてはいかがでしょうか?

お散歩ツアー「西岬の小道で江戸時代の遺産に触れよう」報告

暑くなってきた館山・南房総。でも・・・木陰の下では、海から吹く風が心地よい。
そんな中、お散歩ツアー「西岬の小道で江戸時代の遺産に触れよう」を開催してきました。
今回の、ウォーキングエリアは、花の栽培が盛んな地域で、この時期はひまわりの栽培が
行われていました。

出発は西岬地区公民館分館からです。
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まずは、坂足にある長江山照浪院へ。あっ!「坂足」と書いて「さかだる」って読むん
です。地名の読み方って難しいですよね。
入口には、前不動があります。
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ほんの少し歩くと本堂に辿り着きます。
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地元では「波切不動」と呼ばれているお堂です。大漁、海上安全のご利益があるということで、
多くの信仰を集めていました。
波切不動尊の縁起によると、「足利尊氏の時代(室町時代頃)、坂足村では七晩続いて海上から
山上の木の枝に竜灯(火の玉)が移動しました。ある夜の夢に竜王が自分の懐に入るのを見た
村人が翌日漁に出ると、夕方の海の中に輝くものを見つけました。網には不動明王の木造が掛
かっていました。これを山頂に安置して大漁と海上安全を祈ると、願いがかないました。波切
の尊像と言って今も皆が信心しています。」との事です。

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文化12年(1815)の六地蔵です。可愛らしいお地蔵さんです。

次に向かったのは、如意山宝安寺。
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曹洞宗の寺院で本尊は木造虚空蔵菩薩です。本尊は南北朝時代から室町時代にかけての作と
考えられています。

大正時代に住職をしていた岩永益禅(昭和27年没)は、西岬地区に花づくりを広めた人なん
です。安房地方に金盞花の種子が渡ってきたのは大正2年です。西岬坂井地区の和城家の次男
常吉さんが、横浜の港でヒヤシンスの球根と金盞花の種子を見つけ、花好きだった岩永益禅住
職のために入手しました。住職は早速栽培したところ、金盞花は大きく葉を広げて伸び、旺盛
に育ちました。暖かい気候にはぐくまれて、美しいオレンジ色の花を咲かせたので、切花とし
て東京の築地に持参したところ、それが米二斗分に当たる値段で売れたのです。そこで、住職
は種子を採ってお寺の畑に本格的に金盞花を作り、切花の生産を行うとともに、村人にもその
栽培をすすめました。大正9年に和田町の間宮七郎平氏らも住職を訪ね、金盞花の種子を譲り
受けて作り方を教わっていったそうです。その後、白浜町でも栽培されるようになりました。

境内には、寛政5年(1793)に安心房という人が奉納したお地蔵さまがあります。
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次は、道路から少し階段を上がったところにある大きな地蔵尊へ。
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少し赤っぽい石のお地蔵さまです。この石は安山岩でできているそうです。
地蔵尊の隣には、青面金剛の庚申塔と二十三夜塔があります。
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二十三夜塔とは、二十三夜の月が出るのを待って、お念仏をして飲んだり食べたりする月待行事
に関連して建てられた碑です。

すぐ下にある日露戦役戦没者碑です。
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明治39年(1906)に日露戦争で戦死した陸軍近衛工作上等兵の碑です。
このころは、戦死してしまうと碑を作れる状態だったんですね。その後、戦況が悪化して
行くと戦死した人の個人の碑はまったくと言っていいほど見られなくなります。

次は、諏訪神社へ。
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祭神は建御名方命(たけみなかたのかみ)と八坂刀咩命(やさかとめのかみ)。
こちらの諏訪神社は山の中腹にあり、もう一つは平坦地にあります。長野県の諏訪大社を
意識して上諏訪、下諏訪として祀ったのかな?と想像できます。

次は、地蔵堂です。
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松寿山地蔵堂。かつては安房108箇所地蔵巡礼の97番目の札所でした。
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天明4年(1784)、寛政10年(1798)、文化元年(1804)、文政元年(1818)の出羽三山碑や、
嘉永から明治の馬頭観音が並んでいます。

次に向かったのは、日光大権現です。
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日光の二荒山神社の日光権現を勧請したものです。
境内には、文政4年(1821)に奉納した手水鉢や文政11年(1828)に奉納した狛犬があります。
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なかなかの狛犬ですが、作者がわかりません。

次に向かったのは、居原台墓地です。
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宝暦6年(1756)の廻国塔、大日如来像が祀られています。

次は、諏訪神社へ。
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元々は、先ほど行った諏訪神社と一体と考えられます。

最後の見学場所・富士登山碑へは、畑の道を通っていき、出発地点の公民館の側に
あります。
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「富士一山二十八度大願成就」と書かれた山包講の富士登山碑があります。この碑には、
清行参伸という先達が、28度の富士登山を達成したということが書かれています。

ここに来る入口付近には、大日如来坐像や享保2年(1717)の銘記のある台座、中世の五輪塔・
宝篋印塔の一部などが積み重なっています。
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ここの大日如来さんは、よだれかけや赤い帽子を付けられてしまってます。
お地蔵さまではないのですが・・・

今回の見学場所はこれで終わりです。集合場所に戻り解散しました。
また旅倶楽部のウォーキングツアーは、8月はお休みになります。いやぁ~暑さには勝てません
からねぇ~。次回のウォーキングツアーは、9月11日の月イチツアー「幻の「皆倉」の滝と日本
最古の「柱木牧」を訪ねる」です。かつての和田地区と丸山地区を結んだ古道を歩きます。
是非、ご参加下さい。

月イチツアー「加賀名・波左間の陣屋跡と戦跡探訪」報告

7月に入りました。1年の半分が終わって後半戦へ突入ですが、7月に入りすごく暑く
なってきました。熱中症に気を付けないといけませんね。
さて、7月に入り第一日曜日に、月イチツアー「加賀名・波左間の陣屋跡と戦跡探訪」
を開催しました。当日は、暑さに加え風も強い1日でしたが、こんだけ暑いと風があって
良かったです。

出発場所は、休暇村たてやま前駐車場から、洲崎第一砲台を目指します。
最初に、洲崎第一砲台跡についてお話ししておきます。
洲崎第一砲台は、旧陸軍と旧海軍の協働により、昭和3年(1928)起工、昭和7年(1932)に
完成しました。軍艦生駒に搭載されていたイギリスビッカース社製の45口径30cm砲
(前部砲塔2門1基)を陸上に供え付けた砲台です。この砲塔は、横須賀海軍工廠で改造
され、分解され、見物海岸から陸揚げされ、標高約40mの高台まで、組立式の門型クレ
ーンやウインチなどにより、引き上げられました。
敵の艦船をみつけるための観測所は、坊の大山(房の大山)などに設けられました。
砲塔砲台は射程約26㎞で、約1tの砲弾が発射されるので、その時に受ける反動だけで
なく、敵の大型砲弾から防護することを考え、施設の外壁は暑さ3.5mの鉄筋コンクリ
ート構造になっていました。砲塔は分厚い鉄鋼で覆われた射撃室と、鉄筋コンクリート製
の地下施設から成り立っていて、地下部分の深さは13.5mで、施設内部も厚さ3.5m
の厚い鉄筋コンクリート構造といいます。

まずは、地下施設跡。現在小学校になっていますので、普段は見る事ができませんが、今
回は許可をいただき見せていただきました。
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入口は、安全の為にふさがっています。

坂道を上り砲台跡へ。現在は、私有地ですの勝手に入る事はできません。
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砲台のあった場所は、上手に花壇を作られています。

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ワンちゃんも一緒にガイドの話を聞いています。

次は、裏下の雑林の中にある地下入口です。
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地下入口の前に祠があります。

次は、山を下り、加賀名の鎮守、熊野神社へ。
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境内には、ヤグラがあり、中に一石で作られた五輪塔があるそうですが・・・・
ごみが溜まっていて、わからない状態になっています。

阿弥陀堂から波左間陣屋跡へ。
波左間陣屋跡は、今は畑だったりと家が建ってたりと「あったの?」と思うくらいになって
いるので、写真も撮っていませんが、少し解説だけしておきます。
文化7年(1811)に奥州白河藩に東京湾西側の房総沿岸警備が命じられました。藩主松平定信
は、洲崎に台場、波左間に陣屋を置き、江戸の防衛にあたりました。波左間の陣屋は、松ケ岡
陣屋と呼ばれ、砲台のある洲崎とともに、白河から500人もの人がやってきて警備にあたっ
たといいます。松ケ岡陣屋が使用されたのは、文政6年(1823)までの14年間でした。今でも
陣屋に近い光明院・西方寺・東伝寺には、白河藩関係者の墓が残されています。

さて、次は、稲荷神社へ。
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その奥には、熊野神社があります。
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熊野神社は紀州から移り住んだ人たちが建てたもので、現在もその子孫が守っているそうです。
稲荷神社の前には、明治6年(1873)に開校した波左間学校があったところだそうです。

本当は、海岸で昼食だったのですが、大風で食事が砂でジャリジャリになってしまうと大変なの
で、ここで昼食です。

昼食の後は、光明院と諏訪神社へ。
行く途中に、珍しいお墓があります。
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何の形に見えますか? 酒樽型のお墓です。なかなかないですよね。

光明院は、真言宗の寺院で、山号は青龍山。本尊は不動明王。本堂向拝正面には、後藤義光の彫刻
が施されています。本堂裏手の墓地には、波左間陣屋に配置された白河藩士たちの墓が数基残され
ています。
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お寺さんの上にあります諏訪神社へ。
こちらは、波左間地区の鎮守で建御名方命(たけみなかたのみこと)を祀っています。
毎年7月1日に行われる祭礼では、国の選択記録無形文化財の「ミノコオドリ」が奉納されます。
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(「ミノコオドリ」の写真は数年前に撮影しました。)

見学場所も残り少なくなってきました。次に向かったのは、震洋格納庫跡と震洋滑り台跡です。
震洋とは、太平洋戦争がしたいに苦戦に陥ってきた頃、昭和17年(1942)のミッドウェィ-海戦の
大敗、ガダルカナル島防衛戦の失敗で、日本は不利となりました。兵器や燃料は不足し、ついては
搭乗員の死を最初から計画に入れた特別攻撃が行われるようになりました。そして、体当たり攻撃
のみを目的とした兵器も開発され、旧海軍の海の特攻兵器のひとつが震洋です。
船首に約250㎏の爆薬を乗せた長さ5mほどのベニヤ板製のモーターボートで、ガソリンエンジ
ンを搭載し、約20ノットで走行しました。入り江の奥の洞窟などから出撃して、上陸してくる敵
艦に体当たりすることを目標としました。 
昭和20年(1945)3月下旬から、波左間海岸から約200mとやや離れた山すそに、格納壕7本と
燃料や食料などの地下壕が掘られ、海岸まで移動させるためのコンクリート道路がひかれ、海岸に
はコンクリート製の滑り台や係留施設などが建設されていきました。同様に、西方約3㎞の栄の浦
にも同様な震洋の基地の建設も進めました。7月14日に第59震洋隊・真鍋部隊長らが、波佐間
基地に到着しましたが、主力兵器の「震洋」はまだ配備されず、8月13日になって、 6隻が基
地に到着しましたが、出撃する事なく敗戦を迎えました。
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ここまでが、今回の見学場所になりす。後は、海岸線を歩いて出発地点へと戻ります。
暑い中のウォーキングは、普段より疲れました。
皆さんも、外にでて運動・お仕事する場合は、十分熱中症に気を付けて下さい。

お散歩ツアー「岩屏風に囲まれた隠れた漁村」報告

梅雨明けしていない館山・南房総ですが、夏の匂いがしてきました。
6月21日にまた旅倶楽部では、お散歩ツアーを開催しました。前日の午前中は、曇り予報だった
ので、安心していたのですが、時間が経つにつれだんだんと予報が悪い方へと・・・・
当日になると、弱雨ですが降りはじめていました。警報が出ていないので、お散歩ツアーは開催
しました。

集合場所は、富浦町南無谷にある豊受神社。
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祭神は豊受大神。和久産巣日神(わくむすびのかみ)と弥都波能売神(みつはのめのかみ)の子で
五穀をつかさどる女神です。

お昼前後に大雨になる予報が出ているので、早めに出発します。
旧道を通り国道127号線を横断して石小浦・小浜地区へと進みます。
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旧南無谷トンネルは、明治31年頃に完成していそうです。全長191m、幅3.9m、高さ3.4m
あります。旧国道で、今では電気がついていますが、昔は、電気がなく真っ暗だったそうです。

トンネルを出てからの景色は、とても素敵な景色です。
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雨が降ってなければよかったのですが・・・

少し歩くと右側に鷹八幡神社があります。
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ここには、お話しが残っています。
昔、石小浦のある漁師が不思議な夢をみました。白髪の老人が現れて、「私は、遠く西方より
海を渡って来た八幡神である。汝に社殿を建ててもらいたい。その場所は、明朝、私の使いの
鷹が空から羽を落として教える。願いを聞いてくれたなら、火伏せの神となって石小浦を守ろう」
と言ったので、夢が気になり、夜明けを待って空を眺めていると、夢のお告げの通り鷹が現れ、
羽を一本落としました。漁師はさっそく、その場所に社殿を建てて、鷹八幡と名付けました。
それ以来、石小浦では火災がなくなったそうです。

鷹八幡にお参りした後は、池田弥三兵衛のお墓(左側)へ。
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慶長年間(1596~1615)に、泉州堺から南無谷の石小浦へ池田弥三兵衛という漁師がやってきました。
石小浦では、「イシゴラヨソベエ」と呼ばれ、弥三兵衛は、大消費地の江戸市場に目を付け、地元漁民
を雇うと長縄漁(はえ縄漁)を使い鯛漁を開始し、海岸の岩礁を加工して、周囲20mもある円形の生簀
を作りました。漁場を房州ばかりでなく、寛永年間(1624~1644)には、相州真鶴までおよびました。
弥三兵衛に指導を受けて進歩した鯛漁のお蔭で、富浦の鯛の漁獲量は関東屈指となり、相場を左右するほど
に成長しました。寛政6年(1794)に、子孫は真鶴に移転してしまいました。弥三兵衛の存在した証拠となる
ものは、このお墓にある延享元年(1744)に没した墓石と海岸の生簀が残っているだけでした。ところが、
弥三兵衛の一族が進出して行った真鶴の貴船神社に、鯛漁の記録文書が残されていて、弥三兵衛の事が
わかったそうです。

これが生簀です。
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中はこんな感じです。
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中もちゃんとできています。昔の人の知恵は素晴らしいです。

次に向かったのは金毘羅様です。
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金毘羅様のご神体は鰐(クンピーラ)と言われていますが、房州では甲殻が一丈(3m)もある大きな蟹
だといい、信者が海難に遭いそうになると、助けてくれると信じられています。
石小浦の船主・石井家が、江戸時代、四国讃岐の金毘羅大権現を勧請し、海沿いに横穴を掘ってお祀りし
ました。大正12年(1922)の地震により隆起するまでは、金毘羅様の横穴はいつも波が打ち寄せ、まるで
大きな蟹の棲み処のようだったと語り継がれています。

天気が良ければ、旧小浜トンネルを通り小浜海岸へ行く予定でしたが、雨が強くなってきましたので、
ここから、戻ります。
行く予定だった場所ですが、下見の時の写真と合わせて、少し説明します。
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旧小浜トンネルは、旧南無谷トンネルと同じ時期に出来たと思われます。
小浜海岸まで降りる砂浜の端の岩礁を加工した壕があります。ドックのような作りで、壕より直接海面に
進水出来る構造になっています。証言によりますと、戦時中は浦賀水道の敵潜水艦を監視するソナーを備
えた監視船が格納されたといいます。

豊受神社にあと少しのところで、南房総市の防災無線から警報の知らせが出ました。なんとか無事に帰路
に付く事ができました。

また旅倶楽部では、8月は外での活動(ウォーキングツアー)はお休みです。
8月は、「大人の学習旅行・川崎大師と周辺散策」のバスツアー企画しています。ぜひ、ご興味のある方は、
お問合せ下さい。

月イチツアー「古代鷹の島湊を探す」報告

梅雨ですねぇ~。っと言っても、関東では水が不足するのではないかと、心配されていますが、
まだ、梅雨に入ったばっかりなのでどうなることか心配です。

そんな梅雨の晴れ間に、6月の月イチウォーキング「古代鷹の島湊を探す」を開催いたしました。
出発は、館山市城山公園芝生広場です。
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ここでは、準備体操をして出発です。

最初に向かったのは、黒島。お堀の跡をみながら、歩いて行きます。
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元禄地震前までは海に浮かぶ岩礁で、高の島・沖ノ島・黒島が鏡ケ浦三島と呼ばれていたそうです。
どこに島?っと思うかもしれませんが、稲荷の脇に少し岩礁が出てるのが、黒島の一番高い所だった
んだと思います。

次にむかったのは、北下台(ぼっけだい)。
城山の北側にある小高い丘一帯をさす呼び名です。
古くは北下崎と呼ばれ、鏡ケ浦に突き出た小岬だったそうです。元禄地震・大正地震の隆起や港湾
埋立工事を経て、北下台の海側は現在のような低地となりました。
新井浦から柏崎浦にかけての浜は、物産の積み出し港として江戸時代より栄え、ほぼその中央に位置
する北下台は、高の島・沖ノ島を眺望する景勝地として、明治初期に館山町で最初の公園となり、
「館山公園」という景勝地として知られていました。

まずは、正木灯へ。
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船形町長を務めた正木清一郎が、水産業の発展につくした父貞蔵の実績を祈念して、晩年の隠居所
があった北下台に建てた照明塔です。残っているのはその基台の部分で、かつては木の柱が立ち
アーク灯が灯っていました。大正5年(1916)に建てられ昭和26年(1951)にその役目を終えました。

次は琴平神社へ。
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江戸時代からこの場所にあり、地域の人々の信仰を集めていました。

次は、関沢明清顕彰碑へ。
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捕鯨や遠洋漁業などの水産業に功績を残した関沢明清の顕彰碑です。
かつてはここに、関沢が捕まえたというクジラの頭骨が置かれていたそうです。
この関沢明清さんって???関沢さんは、幕末から明治期の水産業の指導者です。加賀金沢藩の出身
で、蘭学を修め、藩命で英国に留学しました。帰国後、新政府に入り水産技師、水産伝習所長などと
なります。サケ、マスなど魚類の人工孵化、巾着網、米国式捕鯨法の導入などに功あり、退官後、館
山を拠点とし、みずから遠洋漁業を起業しました。晩年は館山に住んでいました。
北下台には、坂東丸船員殉難碑や順天丸遭難記念碑などの碑もあります。
北下台を後にし、地震で隆起した場所などを見ながら鷹の島を目指します。
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鷹の島の側には、水産伝習所高島実験所跡が残されています。
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白浜海岸の網小屋を借りて実験を行っていましたが、明治42年4月の高の島に、農商務省により
魚の孵化やプランクトンの研究の為に開設されたそうです。昭和5年海軍飛行場建築で移転が決まり、
残された建物は海軍に移管され、観測所などの用途に使用されていました。

鷹之島弁財天で昼食です。今日は市内にあるお弁当屋さんに注文しましたが、写真を撮る前に食べて
しまいました。

昼食が終わり、弁財天の解説です。
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平安時代、安房の国司・源親元がお告げにより勧請した厳島神社で、永長2年(1097)、沼の総持院
と同時期の創建と推測されます。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。海上交通の平安
を守護する神として、漁師や船乗りたちの信仰を集めています。
市杵島姫命は、、神仏習合によって弁財天と同視され、「弁天様」としても広く信仰されています。
七福神としても弁財天は、本来ヒンズー教の神ブラフマン(梵天)の妻とも娘ともいわれ、財宝の
神、美の神、音楽芸能の神とされています。
明治時代の神仏分離で宗像三神を復活させた神社もありますが、弁財天のまま今日に至る神社が多い
そうです。

昭和5年に鷹の島を含む海上部分を埋立て、海軍館山航空隊が開隊され、弾薬庫・燃料庫が建設され
ると、管理上、海軍が買収し、館空神社に変わりました。厳島神社は、北下台へと移されましたが、
終戦後元の場所へと鎮座しました。館空神社の時に奉納された、飛行機印の手水石が残っています。
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この石には由来がありまして、江戸初期、江戸城外堀の石垣用とし海路24個の大石を積んで江戸に
運ぶ途中の千石船が暴風に遭い、高の島の島影に逃れたが、不幸にも大波に呑まれて沈没してしまい
ました。昭和5年に海軍創設の際、海中から引き揚げられたそうです。

波切不動尊があります。
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航海の安全を祈る不動明王で、この不動様は、戦前に洞窟の中に倒れているのを発見され、見つけた人
が毎日お参りしたところ、戦争で命が助かったというお話しがあります。昭和26年に現在の場所に移
動されたそうです。

鷹の島を後にして、スタート地点の城山へ向かいます。今回は、諸事情があり、鷹の島でコースアウト
してしまったので、ガイドの独り事はここまでですが、後から他のガイドに聞きましたが、赤道などを
通って無事に城山公園に着いたとの事でした。

歴史ツアー「三浦一族をたどる旅」報告

梅雨に入ったようで・・・ウォーキングツアーを企画している私たちにとっては、悩ましい
季節に入りました。

5月の最終日曜日に、歴史ツアー「三浦一族をたどる旅」のバスツアーを開催しました。
安房とゆかりの深い三浦一族の最後の地新井城へ。普段は入る事の出来ない新井城跡を見学
し、三浦一族のお家芸えでもある笠懸を見学してきました。

まずは、三浦一族の説明を・・・
平安末期、武士の台頭により東国に多くの氏族が誕生します。三浦氏の始まりは、平為通が
三浦郡衣笠城を築き、初めて、三浦姓を名乗ったとされています。その後、源頼朝につき鎌倉
幕府では「宿老」となり、三浦一族らは、鎌倉幕府で重要な地位につきました。頼朝死後、幕
府内で抗争が繰り返され、宝治元年(1247)の宝治合戦で北条氏と安達景盛らに滅亡され、三浦
氏宗家は滅亡しました。宗家滅亡後、三浦氏の名跡は一族で北条方に味方した佐原氏一族の盛
時によって再興され、執権北条氏の御内人として活動しました。時高の代になると、駿河国から
伊豆・相模へと力を伸ばしてきたのが伊勢盛時(のちの北条早雲)です。永正10年(1513)盛時
が義同を討つべく大軍を率いて攻撃を仕掛けました。三浦軍は防戦しますが、住吉城・岡崎城が
相次いで陥落し、徐々に新井城に落ち詰めらえていき、そして永正13年(1516)、三年間の長期
にわたつ籠城戦の末に義同は自刃、子の三浦義意は戦死しました。これによって三浦氏は滅亡し
ました。

そんな三浦氏が籠城した新井城跡(油壺)へ向かいました。
油壺の市営駐車場へ。道も空いていてスムーズに到着しました。
まずは、三浦道寸義同と三浦荒次郎義意のの墓へ向かいます。途中、甲冑を着た人たちにあいました。
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油壺マリンパークを正面に見て、右側に行き、海へと続く道を歩いていくと、三浦道寸義同の墓へ。
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三浦義同は、上杉高救の子。高救とともに、三浦時高の養子となりますが、時高の実子高教の誕生
で不仲となり、父子ともに追放され、足柄下郡の総世寺で出家して道寸と号し、そののち、大森氏
の支援を得て、時高を討ち新井城主となりますが、その後、北条早雲と対立し、戦いに敗れ自害し
てしまいました。義同辞世の歌と伝えられる、「うつものも、うたるるものもかわらけよ、くだけ
てのちは、もとのつちくれ」をの文字が記されています。
※道寸の実の墓は鎌倉円覚寺の塔頭寿徳庵にあります。

降りてきた道をもどり、三浦荒次郎義意のお墓へ。
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この三浦義意は大男だったといわれ、伝説も残っています。。
戦いのあった永正13年(1516)、義意は21歳でした。85人力で、身長7尺5寸、今でいうと、
約2m27cm位だったと伝えられています。7月11日、新井城は北条軍に攻められ最後の合戦が
繰り広げられ、三浦勢は力及ばず、道寸を含む残った75人は切腹して無惨な最期を遂げました。
残った義意は、雄叫びをあげながら、門外に躍り出し、白樫の丸太を八角に削った筋がね入りの棒を
振り回し、一払いに5人から10人と敵をなぎ倒し、棒の威力で、五百余人が重なるように倒れてい
ましたが、北条軍の攻め続き、これまでと悟った義意は、自らの首をかき落とし壮烈な最期を遂げま
した。ところが、首は高く舞い上がり、恨み深き北条軍の拠点である小田原城へ飛んで行き、近くの
松の枝に引掛りました。松に引っかかった首は、三年間「眼はさかさまに割け、鬼ひげは針をすった
ようにとがり、歯をくいしばり、下を睨み付ける眼の光は百錬の鏡に血をそそいだよう」だったそう
です。困り果てていると、小田原の久野にある総世寺の禅師が来て、「うつつとも、夢ともしらねひ
とねぶり、浮世のひまをあけぼのの空」と、一首の歌を手向けたところ、それまでどんなに高名な僧
侶が来ても効き目がなかった首が、不思議なことに、眼を閉じ、たちまちのうちに肉が朽ちて白こう
べになったといいます。
二人の墓(供養塔)は、天明2年7月11日(1782)に、美作国勝山城主・正木志摩守誠次、紀伊藩家
老・三浦長門守等が施主となり建立したものだそうです。

次は、予定ではこの後昼食でしたが、道が順調だったので、予定を変更して、新井城跡の見学へ。
通常は、東京大学臨海実験所の構内にあるので、見学は出来ませんが、道寸まつりの時だけ、見学する
事ができます。

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構内に入ると、ボランティアの方に説明してもらいました。説明してくれた方は、三浦市の
市議会議員さんです。「三浦どうするん会」のメンバーなんだそうです。その他に地元の中学生
の子たちもお手伝いしていました。地元の歴史を子供のころから、勉強して、お話しできる
という事はいいことですね。市議会議員さんも素晴らしいです。

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空堀(左)と土塁(右)です。
構内には、戦国時代の城の一部が残されていて空堀(写真左)とよばれる土を掘って落とし穴の
ようにした場所や、土塁(写真右)と呼ばれる土盛りをした所が残されています。
元弘2年(1334)の時、三浦介を継ぐ三浦時継が将来に備えて海陸両用の作戦に至便の地としてこの
城を整備したようです。南は油壺湾、北は小網代湾、西は相模湾に面し、断崖にして自然の要害で、
引橋だけで城外と繋がっていました。自然を利用した比類ない堅城で、当時は三崎要害と呼ばれて
いました。落城後、油壺城と名前を変え、新井城と呼ばれるようになったのは、江戸時代になって
からだそうです。
新井城跡1
このマップは、会長が資料を元にして描きました。

三浦氏は、宝治合戦で鎌倉北条執権政治の確立の時に、第一の滅亡をし、後北条氏の相模平定の
しめくくりで2回目の滅亡をしました。北条氏と後北条には血縁関係はないといいますが、後北
条死が自負しているので、三浦市は、北条氏に2度倒されて事になります。
その因縁なのか・・後北条氏が小田原で滅びたのは、三浦氏が滅びてから85年後のしかも7月
11日。歴史の巡り合わせなのでしょうかねぇ~
それと、今でも、毎年のように7月11日は天候が悪く、黒雲が低くたれこみ、雷雨になる日が
多いといいます。

ここまで、三浦氏に触れてきましたが、なぜ?安房と関係があるのか?という声が聞こえてきた
ので、ここで少しお話しします。
義同の二子・時綱(通綱)が、祖父高救の居地であった安房正木郷へ逃れ、正木氏を称し、安房
里見家三代義通(1481生)の妹を娶り、国衛の奉行人として大膳亮(だいぜんのすけ)の官職を
得て、子らは上総国の小田喜城主(大多喜町)、勝浦城主となったそうです。(諸説あります)

昼食は、ホテル京急油壺観潮荘で、特選まぐろ丼を食べました。

三崎港が近いので、まぐろです。平日は、レストランの予約ができるのですが、今回は日曜日だ
ったので予約ができないという話だったのですが、下見の時に無理にお願いして、今回は、お座敷
で食べる事ができました。(食事代プラス部屋代がかかってますけど・・・)

部屋からの景色はこんな感じです。小網代湾が一望できます。
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食事を済ませた後は、笠懸を見学しに2グループに分かれて荒井浜海岸へ。
1グループは油壺湾が見える道を通って荒井浜海岸へ。もう1グループは胴網海岸を通って
荒井浜海岸へと行きました。

油壺湾の見えるコースを紹介します。油壺湾です。
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油壺湾の由来は、三浦義同の自害した後、残る武士たちはこの湾に投身し、湾一面が血汐で
染まり、まるで油を流した状態になってので、後に「油壺」と言われるようになったとされ
ています。

次は胴網海岸経由の紹介です。まずは、胴網海岸です。
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ここは、義意が首をはねた際に、胴ばここの浜に落ちたからとか、胴が網にかかったから
とかという事で、胴網海岸と名が付いたといわれています。

岩場を歩き、荒井浜海岸へ。
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会場の海岸では、神事が行われ笠懸が始まります。
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笠懸は平安末期から鎌倉、室町時代にかけて流行した流鏑馬、犬追物と並ぶ、わが国三大古弓
馬術の一つです。この中でも笠懸は標的が多彩なうえに障害物があり、実践的かつ難易度が高
いとされています。源頼朝が、三浦岬遊覧の際、笠懸が催され、三浦義澄、和田義盛ら、三浦
一族は弓上手として知られていました。以来、笠懸は三浦一族のお家芸として長く伝えられて
きています。

この白い馬は、競走馬メジロホマレの子孫だそうです。

写真がお尻ばかりですみません。

荒井浜海岸には、祭壇がありました。
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二人が死んでから、今年の7月11日で500年になります。

笠懸を堪能し、バスに乗って帰路につきます。三浦半島は、結構混むのではないかと予想して
いたのですが、結構スムーズに帰れました。

今回のガイドの独り事で書いた事は諸説あります。歴史には、いろいろなロマンがありますね。

月イチツアー「嶺岡浅間と天狗伝説」報告

ここの所日差しが強くなってきました。山は新緑で、天気が良い日は、心なしか
さわやかな気分です。もう夏が近いんのですね。

今月の月イチツアー「嶺岡浅間と天狗伝説」を開催しました。当日は、天気もよく、
ウォーキング日和でした。

出発は、鴨川市南小町区民センターです。
ここから、白滝山不動教会まで登っていきます。
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今日のコースはトイレがないので、途中のサテライト鴨川さんのお手洗いをお借りする
ことにしました。サテライトさんは、競輪の車券売り場なので、大きな画面にオッズが
映し出されていました。競輪については、まったくわからないので、初めての・・・と
いうパンフレットがあったので、貰ってきました。

まずは、昭和院へ。
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真言宗の寺院で山号を大森山といいます。本尊は不動仏(明王)。創立年代は不詳です
が、宝暦5根(1755)法印源雄が中興したといいます。いくつかの寺院が合併したり編入
したりで、今にいたります。

側には、鴨川市指定の天然記念物「白滝山の姉妹イチョウ」があります。
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樹高18メートルの巨木で、1本の幹がもう一本の幹を包み込むように合体している姿
から姉妹イチョウと呼ばれています。
その独特の姿と乳柱(気根)のでき方は県下でも非常に珍しいものだそうです。
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白滝不動教会へは、この階段が正式?なのでしょうが・・・
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今回は、途中の白絹の滝を見学するので、別のコースから向かいます。

白絹の滝です。
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左5/21日撮影           右1/20撮影
この白絹の滝は、嶺岡山の山頂付近の水をあつめて流れる加茂川の支流にかかる滝です。
この滝は30m以上の崖ですが、もともと山の斜面が急であるため、滝の削りとった崖
ではありません。滝は白滝不動の霊地とされています。
季節や水量によって、滝を見る景色が変わってきますね。

滝を後にして、白滝不動教会へ向かいます。
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真言宗の寺院で、本尊は不動明王。大同3年(808)、弘法大師が自刻の不動明王を安置
したと伝えられています。永正年間(1504~1521)に長狭郡山之城・城主正木大膳が白
滝山滝谷寺として創建しました。境内には、白絹の滝があることから、滝の不動と呼ばれ
一帯は霊場地として崇められました。
IMGP2166
本堂向拝の龍は、明治17年(1884)、後藤義光70歳の作です。本堂正面の懸魚の鳳凰
も義光作とされています。向拝の海老虹梁の龍は紋次郎、明治16年(1883)の作です。

いよいよ、嶺岡浅間山にむかってアタック開始です。
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結構、急な坂を上がっていくと、どれくらい上がったかは定かではないですが、不思議な
石の祠を見る事ができます。
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石尊神社といい、石祠にはめ込まれた石造りの天狗面が祀られています。
奉納碑を見ると、「奉納 宝暦九年七月(1759)」と刻まれています。
石尊神社は、雨乞い神事と関わりが深いので、これらの天狗面は雨を降らせる神通力の発揮
を祈願して奉納されたのではないかと思われています。この一帯が修験道との結びつきが深
いことから、修験者によって相模大山の阿夫利神社が勧請されたのかもしれないそうです。
天狗の面の中には、アニメの巨匠の作品に出てきたものに似ている顔があります。

さて、次に向かうのは、嶺岡浅間神社です。
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嶺岡東牧を代表する山で、360.8mの円錐形の雄峰として長狭平野に君臨していましたが、
昭和40年代後半より行われた山砂採取工事により、山頂をはじめ北面中腹を削り取られ現在
の姿となってしまいました。新しい山頂(334.8m)に遷された浅間神社の巨大な石宮に、かつ
ての風格が偲ばれます。

浅間神社で、昼食休憩をとり、三角点へ。
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すぐそばには、小御岳石尊の石碑もあります。
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2分も歩くと嶺岡林道にでます。すぐに、道があると少しがっかりしますが・・・
嶺岡林道・熊取林道を通って下山していきます。
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途中、いろいろの植物があります。

40分位下り、やっと平坦な道へと出ます。あとは奥野神社を目指します。
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裏からお邪魔しましたが、この奥野神社は、昔は別の場所にあったといい、江戸
時代初期に、現在の場所に移ったといいます。江戸幕府が開かれたとき天海僧正
が奥州より徳川家にゆかりのある奥野甚五郎という人の御霊を迎えお祀りしたと
いいます。
神社の言い伝えがあります。文亀元年、諸国で旱魃がおこり飢餓となったとき、
境内にある井戸で渇きをいやす者が多かったことで、霊験多い井戸といわれています。
また、旱魃が続いて浜が不漁になった時、神社の神輿をしほごりに浜に下向させたと
ころ、前原海岸に魚の大群が来て浜の人たちは大喜び、農民も豊作を迎えたと、戦前
まで言い伝えられてきました。

神社の参道を通り、スタート地点へ戻ります。戻ると言っても隣なので、すぐに着き
ました。
今回は、天気に恵まれて、歩くのにも良い気候でした。

お散歩ツアー「古地図を持って寺町散策」報告

アサイド

大型連休前に行いました、お散歩ツアー「古地図を持って寺町散策」の報告です。
更新したと思っていましたが、更新されていなく・・・だいぶ日にちが経ってしまい
ました(汗)

集合・出発は城山公園芝生広場。
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準備体操をして出発します。

まずは、城山の下にある館山神社へ。
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関東大震災で倒壊した館山町内の神社を合祀して、昭和5年(1930)に新しく建てられた神社
です。合祀されたのは、新井と下町の諏訪神社と、中町と上町の諏訪神社、上須賀にあった
稲荷神社と八坂神社、楠見の厳島神社、城山南麓の御屋敷にあった稲荷神社です。
こちらの狛犬は、石工・俵光石の作で大正6年(1917)の銘があります。
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館山神社を後にして、昔の浜通りを通って三福寺に向かいます。
向かう途中の辻には、お地蔵さんがあります。
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浄土宗のお寺で、観立山九品院三福寺(かんりゅうさんくほんいんさんぷく)といい、
本尊は阿弥陀如来です。文明3年(1471)、里見氏の家臣・岩崎与次衛門の帰依に基づき、
相蓮社順譽上人(そうれんしゃじゅんよしょうにん)を開山に浄土宗念佛道場として創建
されました。元禄16年(1703)の大津波の後、新井浜から現在地に移転したといわれて
います。境内には、館山ゆかりの偉人の碑や墓があり、その中に、幕末の房州の儒学者、
新井文山夫婦の墓碑があります。
IMGP2805(左側)
文山は、館山新井に生まれ、幼少時より三福寺住職や地元の鈴木直郷に学問の指導を受け
ました。14歳の時、住職の援助で江戸に遊学し、昌平坂学問所に入門し、儒学を学び、
28歳で帰郷して塾を開き地域の教育に力を注ぎました。天保7年(1836)、館山藩主稲葉公
に仕え、天保13年(1842)に目付兼郡奉行となり、藩士や領民の教育に尽力し、嘉永4年
(1851)73歳で亡くなりました。

境内に是非、見ていただきたいのが石造釈迦如来三尊坐像です。
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こちらは、館山神社の狛犬と同様、石工・俵光石によるものです。礎石を含めた高さは、
3.85m。伊豆の小松石を使い、螺髪(らほつ)や口髭を付けふっくらとしたお顔で、
脇侍(わきじ)を従えています。舟形の光背には菩提樹の葉を模った光輪、その両脇には
インド風な仏塔があります。釈迦像の下には獅子と上向きに手を合わせた人物が彫られて
います。ちょっと他とは違う石仏です。

次に向かうは、神明神社。
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新宿地区の鎮守で、祭神は天照大御神です。
祭礼の時には、「神明丸」とよばれる御舟が引き回されます。
かつて汐入川に海が大きく湾入していた頃、八幡神社に出祭する「安房神社」「洲宮神社」
「下立松原神社」の御三神を、この船で渡したと言われています。

次は、神明神社の脇に海蔵寺へ。
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こちらには、幸福地蔵があります。

さて、次に向かった熊野神社。
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長須賀地区の鎮守で、イザノアミノミコト・コトサカノミコト・ハヤタマノオミコトです。
創建は不明ですが、家内安全、五穀豊穣、商売繁盛・学業成就の神様として崇められています。

こちらの狛犬は、なんと!!砲弾を持っている狛犬なのです。
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かなり珍しい狛犬です。やはり、軍隊があった地域だからでしょうか?

さて、次は来福寺です。
真言宗智山派のお寺で、寺号は海富山医王院来福寺といい、本尊は薬師如来です。
室町時代の木造薬師如来立像が祀られています。神亀2年(725)創立とされ、元聖法印の開基。

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薬師堂左側に初代後藤義光の門人や友人が「米寿」を祝って建てた「後藤義光翁寿蔵碑」が
あります。功績をたたえた文は、元長尾藩教授の恩田城山、石碑上部の篆額は万里小路通房が
「後藤義光之碑」と篆書しています。

来福寺をあとにし、城下町のころの痕跡の残る菱沼や堀の後などを見ながら進み、長福寺へ。
真言宗智山派のお寺で、寺号は普門山長福寺といい、本尊は千手観世音です。もとは、北下
台(ぼっけだい)にあり、神亀2年(725)、行基菩薩が自ら刻んだ千手観音菩薩を安置した
のが始まりと言われています。いく度かの震災に耐えましたが、大正の地震で倒壊し、昭和
39年に観音像を現在地の長福寺に移したとの事です。観音堂があった場所には、「館山
観音堂旧址」の碑が残されています。

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境内の永代供養墓の中には、「寄子萬霊塔」があります。これは明治維新の戊辰戦争の際、
箱根山崎の戦いに加わり異郷の地で亡くなった農兵の慰霊碑です。塔の裏には、「鐘の音
の落葉さみしき夕べかな」の句が詠まれています。

今回の見学場所は、ここまでです。城下には「福」の付いたお寺を3つお参りしてきました。
「来る福」「長い福」「三つの福」ということで、寺町散策は終了です。