お散歩ツアー「江見エリアの歴史と伝統を訪ねる」報告

12月に入ってしまいました。先日、テレビで「今年は、新型コロナウィルスが流行していますが、インフルエンザの流行はまだないようです」という話をしていました。マスクを着用しているからなんでしょうかねぇ~とにかく、新型コロナウィルスの感染者が多くなっているので、体調管理には気を付けたいですね。

さて、11月のお散歩ツアーは、5月に予定していた「江見エリアの歴史と伝統を訪ねる」を開催しました。本当は「稲村城跡を一周しよう」でしたが、諸事情がありまして・・・

集合場所は、江見漁港です。ここから出発します。
江見漁港は、結構、漁船にのって釣りを楽しむ人が多いので駐車スペースがいっぱいの時があるのですが、コロナの影響なのか潮の影響なのか、駐車している車が少なかったようです。

まずは、鴨川の石造物百選に選ばれた如意輪観音へ。

ガソリンスタンドの脇に稲荷社の前にあり、如意輪観音は、享保19年(1734)に建立されたものです。石材には、地元嶺岡産の蛇紋岩を使っています。右脇には、紀年銘、左脇には「女順禮講中/十三人」と刻まれているので、この地の女性達が巡礼講の組織作っていたのではないかと考えられます。

海岸線から路地を抜けてかじや天満宮へ。

詳細は不詳ですが、祭神は藤原道真。藤原道真は、学問の神、詩文の神、書道の神として崇敬されました。この「かじや」は、この周辺の字名が「かじや」なので、祀られている場所の地名がついて、かじや天満宮と呼ばれているそうです。

次は、中屋のこぎり店へ。
日本で唯一の房州鋸職人のお店です。房州鋸の歴史は、今から450年以上前の事です。上総の国の一部を治めた里見家の鍛冶が貿易などで使う和船を造るため船鋸として生み出されました。和船を造るには、ケヤキや樫などの堅くて丈夫な木材を使うので、切れ味と耐久性が求められ、船鋸の素材には、日本刀とほぼ同じ鋼が用いられました。里見家発祥の船鋸は独自の発展を遂げ、刃の反り具合や鋸目の立て方など一般的な船鋸とは違うものになったそうです。徳川家康が全国を平定してから戦がなくなると貿易が活発になり、江戸時代には和船が増え、上総の里見家の鍛冶が造る船鋸の需要も増して、次第に千葉県南部の安房の沿岸にまで製造技術が伝わってきました。薄くてしなやで切れ味抜群の里見家の船鋸は思わぬところに使われてしまいました。江戸時代、土蔵に侵入して盗み出す「土蔵破り」の犯人が捕まった時、里見家発祥の船鋸を使って土蔵の閂の鉄棒を切り落としていたことがわかったのです。幕府は、一時時期製造を禁止しましたが、この船鋸が「閂の鉄棒すら切れる鋸」として有名になりました。
中屋のこぎり店は、初代の粕谷雄吉さんが「中屋雄造正直」という屋号を揚げ1942年に開催された日本鋸品質審査展覧会で、全国1位に輝きました。里見家八書の船鋸に改良を加え「房州船鋸」と名付けたそうです。第二次世界大戦中も注文が殺到していたそうです。日本は鉄不足だったので、木造漁船ベースにした軍用の船を建造していたので、質のよい船鋸が必要だったそうです。
1970年頃から高度成長期に入り、木造家屋の建設にも房州鋸が使用されるようになって忙しかったそうです。
1980年代に入ると、繊維強化プラスチックを使用した船が登場し、木造船を造る人も乗る人も居なくなってしまいました。家屋もツーバイフォー住宅やプレハブ住宅に変わり、高価な鋸を必要としなくなってしまい、仕事が激減してしまいましたが、名のあるデパートで伝統工芸品に焦点を当てた催しが開かれるようになり、修理も受け付けることで想像以上に鋸に関心を示す人たちがいたそうです。今では、華道道具として、房州うちわの竹を裂く道具として利用されています。また、オーダーメイド品も受け付けているそうです。

次に薬王院へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は薬師如来。昔は不動尊でした。開基は不詳ですが、「村鑑」によれば、元和元年(1615)の造立と言われ、村内の薬師堂と大日堂を支配していたそうです。しかし、明治30年の火災で、本堂・薬師堂ともに焼失してしまいました。昭和63年(1988)に本堂が再建されました。

次は鴨川の石造物百選の道祖神へ。

こちらは、民家の敷地内にあるので、少し遠くから見学
嘉永4年(1851)の神道系道祖神です。集落の境や村の中心、村内と村外の境界の道の辻、三叉路などに石碑や石像の形態で祀られているかみで、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されいます。
道祖神が多く造られるようになったのは、18世紀・江戸中期から19世紀・明治です。

次に、浄照寺へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は大日如来。由緒は不詳ですが、「村鑑」によると、文保2年(1318)の造立で、慶長11年(1606)11世永秀和尚が中興開山したと言われています。かつて阿弥陀堂がありましたが、現在はありません。
享和元年(1801)7月8日には、伊能忠敬が観測の途中、宿泊し観測をしています。7月8日、北朝夷村(南房総市)を六ツ半後(午前7時頃)出立し、千倉・丸山・和田の村々から真門村・内遠野村の海岸を観測し、江見村に九ツ半(午後1時頃)に着いたそうです。浄照寺に泊まり、夜は晴天だったので緯度の測量をしています。翌9日六ツ後(午前6時頃)出立し、この日の七ツころ(午後4時頃)天津村へ到着しているそうです。

次に九頭竜神社へ。

(崖崩れの恐れがあるので、立ち入り禁止となっています。)
詳細等は不詳ですが、近所の人の話では、漁師さんが港に入る時の目印としていたそうです。
また「やぐら」と呼ばれる岩穴があり、中世の墓所の一種となります。「九頭竜様やぐら群」として、現在も五輪塔や宝篋印塔の一部が残されています。
こちらには、民話も残されていますので、ご紹介します。
昔、安房の山々を七巻半巻く大きさで九つの頭を持った恐ろしい大蛇がいました。ある時、神様がこの大蛇を退治しました。その時、安房の海は血の海と化し、四辺はものすごい風が吹き荒れたとのことです。神様は、その九つの頭を切り落とし、大がめにいれてこの山麓に埋めました。それから何千年、何万年も後のことです。この山麓に一軒の農家がありました。その家に一人の息子がいましたが、その子は頭がすこし弱かったようです。色々とまじない等をしてみたのですが、どうしても治りません。とこらがある夜、その子の母親の夢枕に九頭竜が現れました。そして、「この山麓から九つの大がめを探して、それを祀れば汝の子を治してやる。」と言って姿を消しました。翌日、家族総出で、九つの大がめを探し出し、ねんごろに祀りました。不思議なことに、その息子はどんどん良くなり、一人前の若者になったということです。

次は、長泉寺へ。

曹洞宗の寺院で、本尊は虚空蔵菩薩。通称「鍛冶屋の寺」と呼ばれていうます。大正12年(1923)近隣の出火から焼失してしまいましたので、詳細は不明ですが、開山は延命寺15世鉄州武真大和尚だと言われています。

境内には、鴨川の石造物百選の出羽三山供養塔があります。

板状碑です。上の部分に三山名を大きく刻み、その下には、「神佛」の文言を筆頭に四国・西国・秩父・坂東と並べ、末尾に「當国」とあります。下の部分には、大川八兵衛という人の来歴と、四方の神仏に参詣してそのご利益を祈願したことなど建碑の由来が刻まれています。建碑は明治38年(1905)と新しいものです。

長泉寺から、すぐの場所に弘法大師の石造があります。

鴨川の石造物百選の弘法大師です。紀年銘は不詳ですが、像容や名前から江戸後期のものと思われています。尊像は丸彫の坐像で、右手に金剛杵、左手に数珠を持っています。基壇の残る銘文から、大師講の人たちが造立したという事がわかります。

次は江見駅郵便局へ。
江見駅は全国で初めて、郵便局と駅の窓口業務の一体運営しました。江見駅は、無人駅でしたので、駅近くの郵便局が駅の敷地に移転して新たに開業、建物は駅舎も兼ねて改札や待合スペースがあります。

外には、郵便局ですので、ポストがあります。

かつて郵便物を運送していた郵便・荷物電車をイメージしたラッピングポストです。
あと「友荷なより」というキャラクターが江見駅郵便局の応援特使に就任しているそうです。
このキャラクターは、「ステーションメモリーズ!」というスマホのゲームソフトに登場するキャラクターとの事です。
「ステーションメモリーズ!」は携帯電話のGPSを使い全国各地の鉄道駅を訪問しプレイヤーと競い合う位置情報ゲームだそうです。

次に神明神社へ。

祭神は、天照皇大神。村鑑によれば、「八幡宮は村鎮守にて、西江見関口に鎮座、霊験著しかりしも文安5年(1448)同村に、伊勢の移し神として天照皇大神を祀る神明神社を勧請せしにより、社格村社を神明神社に譲りて近くの山頂(現東江見根古屋、後に通称八幡山と称す)に遷す」とありますので、創建は文安5年(1448)と推定されますが、その辺りの記録は分明でない、と書かれています。昭和20年(1945)8月13日、アメリカ軍の艦載機の機銃掃射によって社殿が焼失しました。終戦2日前の事でした。

東江見の一部は旗本浅野家の知行地でした。浅野大学長広は、赤穂藩主・浅野長友の次男として江戸でうまれました。兄は浅野内匠守長矩。元禄14年、江戸城松の廊下で吉良上野介を斬りつけた事件で、切腹をさせられた人です。その後、赤穂藩士の大石内蔵助等が吉良邸に討ち入りする事件を起こした。長広は、元禄15年7月18日に広島浅野宗家にお預けとされ、宝永6年(1709)、将軍綱吉死去に伴う大赦で許され、宝永7年(1710)9月に新将軍家宣に拝謁して、改めて安房国朝夷・平郡に500石の所領を与えられ、旗本に復しました。これとは別に、浅野宗家からも300石を支給され続けました。赤穂浅野家は旗本ながら御家再興を果たしました。享保9年(1724)、家督を長純に譲って隠居しました。 
神明神社のある場所に、お屋敷があったと伝えられています。

この地域は、赤穂藩と関わりのあるお話しが残っているのもそういう事なんですねぇ。

次は、観音寺へ。

詳細等不明です。

海岸に向かって行く途中に龍宮神社があります。

詳細等は不詳です。一般的に祭神は、豊玉姫とされています。豊玉姫は、海神の娘で、竜宮に住んでいます。昔話の浦島太郎の乙姫は豊玉姫がモデルとされています。豊玉姫は、海の神・水の神・子育ての神です。いつも、綺麗になっているので、海上安全をなどを祈っているのですね。漁師さんも多いですし・・・
当日は、七五三のご家族がお参りに来てました。

あとは、海岸を通って集合場所へ向かいます。
いつも思う事があるんですが、調べていくと知らなかった事が沢山出てきます。赤穂浪士との関係だったり、房州鋸の事だったり、地元でも知らない事が多い事がわかります。時代が変わり、壊されてしまうものも出てきますが・・・地域の歴史を知る事の大切さがわかってきました。(今さらですが・・・)

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