月イチツアー「山間の神社とダムに映え桜を訪ねる」報告

新年度になりました。私達の倶楽部でも、平成27年度のパンフレットも出来
新年度のツアーが始まりました。パンフレットは、館山市役所のロビー・館山市内の公民館
や渚の駅・博物館・安房の道の駅に置いてあります。

せっかく桜が満開なのに、なんだかはっきりしない天気が続いて桜が・・・
そんな中、月イチツアー「山間の神社とダムに映える桜を訪ねる」を開催しました。
やっぱり・・・天気が微妙で・・・
集合場所は、館山市の豊房地区にある公民館。
豊房地区って?どんなところ?と思われる方に少し説明します。
豊房地区は、館山市の南東部にあります。山の多い所で、汐入川と巴川・長尾川が
流れる山あいの場所です。昔から稲作を中心に農業がさかんな地域です。
豊房という地名は、この地が安房で最もたくさんの作物が実る豊かな土地であるこ
とを意味するものとして、明治22年に豊房村ができた時に名づけられたそうです。
そんな農村地区を散策します。

体操して出発です。
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作名ダムを目指して、歩いていきますと、途中に馬頭観音や道標などがあったり、花が
咲いていたりと里山の風景が楽しめます。
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楽しみなが歩いていくと作名ダムに到着しました。
作名ダムは、着工は昭和46年、完成は昭和52年で、総工事費約30億円。
ダム建設は時間とお金がかかるのです
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ちょっと早かったのか・・・

ダムのところで、ちょっと桜の説明を・・・
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桜の種類は何種類?とか・・・

今回のお題になっています「山間の神社」へ。
山道を通り辿り着いたのが、諏訪神社です。
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鳥居の近くにある社号碑は伯爵万里小路道房の書で、明治44年の建立です。
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万里小路道房って?の方は
「天空の道と浜通り・ご利益巡り」報告をご覧ください。

諏訪神社は、昔、作名・大戸を含む南条郷の鎮守であったと伝えられています。
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祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)。
大国主神(おおくにぬしのかみ)の子で、国譲りの際、武甕槌神(たけみかづちのかみ)と力
くらべをして敗れ、信濃(しなの)の諏訪湖ににげ、その国をでないとちかってゆるされた
諏訪大社の祭神です。 ご神徳は、五穀豊穣、国土安穏、盛業繁栄、交通安全、開運長寿、
武運長久 軍神、狩猟神(山の神)、農耕神、風神、水神、海神。

帰りは、参道を通って下へ降りていき、豊前寺へ。
ここのお寺は、諏訪神社の別当寺でした。本尊は不動明王で真言宗のお寺です。
ここで、昼食だったので、写真を撮るのを忘れていました。すみません。

お腹がいっぱいになったので、出発し、作名の共同墓地を見学し、宝幢院へ。
真言宗のお寺で、本尊は不動明王です。
入口にあるお地蔵さんは、宝永5年(1708)のものです。
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青面金剛像は、天保4年(1821)に建てられた庚申塔です。
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青面金剛は、日本仏教の信仰対象の1つです。青面金剛明王とも呼ばれ、夜叉神です。
日本の民間信仰の庚申信仰の中で独自に発展した尊像で、庚申講の本尊として知られ、三尸
を押さえる神とされています。。
道教では、人間の体内には三尸という3種類の悪い虫が棲み、人の睡眠中にその人の悪事を
すべて天帝に報告に行くといいます。 そのため、三尸が活動するとされる庚申の日(60日
に一度)の夜は、眠ってはならないとされ、庚申の日の夜は人々が集まって、徹夜で過ごす
という「庚申待」の風習がありました。庚申待は平安貴族の間に始まり、近世に入っては、
近隣の庚申講の人々が集まって夜通し酒宴を行うという風習が民間にも広まったとされてい
ます。
写真をよく見ると、足元に邪鬼を踏みつけ、手には法具などを持っています。

本堂の中の天井や欄間には、龍や飛天などの絵が描かれています。
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この絵は、館山の狩野派絵師川名楽山と弟子木村雲山が、明治24年に描いた作品です。
だいぶ傷んできていました。

次に、以前も訪れた福楽寺と山荻神社を見学して、のどかな道を通り駐車場まで戻りました。
あっ!山荻神社の裏側は宮原遺跡があります。縄文土器片が出土するところですが、ニリンソウ
が咲いていました。
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次回は、今年度初の試みの「お散歩ツアー」です。このツアーは、長距離は歩けなくなったけど
でも歩かなくちゃいけなと思っている方のツアーです。距離はいつものツアーより短いですが、
ガイドと一緒に、和気あいあいと楽しくお散歩しよう!!というツアーです。
是非、ご参加下さい。

月イチツアー「天空の道と浜通り・ご利益巡り」報告

春らしくなってきました。昔の人が「暑さ、寒さも彼岸まで」と言っていましたが、
その通りですね。お彼岸もすぎ、路地栽培のお花はそろそろ違う作物を植える準備
に入ります。景色の色も香りも変わってきます。

さて、お彼岸の中、月イチツアー「天空の道と浜通り・ご利益巡り」を開催しました。
下見の時は、風も強く小雨が時折降る中でしたが、開催日は「ウォーキングに最高!!」
という天気に恵まれました。

出発は、南房総市和田町にある道の駅和田浦WA・O!!です。いやぁ~朝から駐車場が
満杯でビックリしました。凄いお客さんの数!!と思いきや、サーファーさん達がいっぱい。
近隣の場所の駐車場は有料だから、ここを利用してるんですね。

今回は、WA・Oさんで作ってもらったお弁当を持って出発します。
まずは、国道を避けて海岸から一本中道を歩いていくと、御堂(地蔵堂)が見えてきます。
御堂の脇に立派な石碑があります。
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この揮毫記念碑は、万里小路通房が書いたものだそうです。万里小路通房とはなに?と思う
方がいるかと・・・
万里小路家(までのこうじけ)は、名家の家格を有する公家です。参議吉田資経の四男資通を
家祖とし、鎌倉時代中期に始まります。通房は27代当主です。
嘉永元年(1848)5月27日生まれ。戊辰戦争では大総督府参謀として東北に従軍。イギリス
留学後、工部省、宮内省に努めました。明治23年(1890)に辞して、館山市に移住しました。
明治28年(1895)に近代農業技術の第一人者を招いて指導を受け、なす・きゅうりを作った
のを機に、安房の促成栽培を始めます。教育や文化の振興にも努め、昭和7年(1932)に死去し
ました。 そんな方です。

漁師町の町を歩いていると、都会では見られなくなった井戸を見る事ができます。
あっ!最近では、災害に備えて井戸が復活している所もあるみたいですが・・
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次に訪れたのは、熊野神社です。
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和田地区の鎮守で、祭神は伊邪那岐神(イザナギノカミ)・伊邪那美神(イザナミノカミ)です。

次に向かったのは、普門寺から弁天様です。普門寺は日蓮宗の寺院です。
弁天様は、海抜15mの所にあります。
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次に向かうのが、小浦稲荷。ここも階段で登って行かないとお参りできません。
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ここからの景色は、こんな感じです。
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ここは、ちょっと高所恐怖症の人にはつらいところかもしれません。

次は、威徳院から天畑からの真浦神社です。

威徳院は、真言宗智山派の寺院です。本尊は不動明王。養老年間(718~)の建立と伝えられています。
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ぼけ封じ関東三十三観音五番霊場でもあります。
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おふくさんという方もいて、幸せになりたい人はおふくさんの頭を撫でて下さいとの事です。
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天畑は、山の斜面を切り開いて花の栽培が行われている場所です。真浦天畑と言われている場所
は、田宮虎彦の小説「花」の舞台にもなり、、1989年に「花物語」として映画化された時には、
ロケ地として使われたそうです。
しかし、花農家の高齢化や後継者不足もあり、放置される畑が増え、雑草や竹が茂って荒れてし
まいましたが、平成20年に「真浦天畑保存会」を結成し、以前の景勝を取り戻そうと、整備に
取組み、元の姿を取り戻しつつあります。
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下見の時の景色はこんな感じです。
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しばしここで景色を楽しみました。

次は真浦神社(もうらじんじゃ)です。
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貞応年間(1222~)鎌倉時代に創建と伝わっています。祭神は天照大神・須佐之男命、表筒男神です。
昔は中三原の仙光院と威徳院が別当で阿口神社と称しまいた。

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参道には、御神石があり、参道入り口には、七福神と二宮尊徳の石像があります。

ここからは、また漁師町の海岸線を歩いていきます。
まずは、和田捕鯨基地です。
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説明の看板だけにしておきます。

次に竜宮様へ。
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江戸末期には「竜ヶ岬」と言った岬に、竜宮様とよばれる石宮が祀られていま。祭神や創設
の年は不明です。地元では「深海の底にあって竜神が住む宮殿」といわれ、海上安全・大漁
祈願・商売繁盛・家内繁栄を祈願し、元旦には初参りは鎮守の熊野神社へ、初日の出は竜宮様
がにぎあうそうです。 縁結びの鐘があり、この鐘を鳴らすと縁が結ばれるとか・・

竜宮様を後にし、いよいよお待ちかねのお弁当タイムです。
これを楽しみにに午前中歩いていたんですよ~。
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お腹が減っていたので、絵図らは関係ない写真です。エビフライ・から揚げ・シャケ・野菜
鯨の竜田揚げ・おにぎり3つ・玉子焼き・おしんこ・ミニトマトです。
この写真は、少し偽装していまして・・本来はエビフライは1尾なんですが、私だけ2尾に。
食べない方から頂きました。

お弁当も食べてお腹いっぱいですが、海岸線を通り、西福院へ。
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真言宗智山派のお寺で、本尊は大日如来です。創建は建久2年(1911)とされています。
弘法大師作の地蔵菩薩像が祀られている事などから、開山は奈良時代初期頃と推定され
ます。御堂には、行基菩薩の作の薬師如来像があります。
この薬師如来像は、むかし「堂窪」から移されたと伝えられています。永禄のある年の
大風に山火事が起き、その火が燃え移り堂窪の薬師堂が焼けてしまったそうです。里人
が薬師像を助け出そうと御堂にいきましたが、すでに薬師像はなく、不審に思いながら
帰宅したそうです。ところが、薬師像は不思議な霊力によって「堀ノ内」と呼ぶところ
の椿の大木に飛んできて留まり、毎夜、黄金の光を放ったのです。訳を知らぬ里人が恐
れおののき、西福院の和尚に相談すると、それを調べた和尚が、堂窪の薬師如来像であ
ると解り、ひとまず西福院の観音堂に安置しました。その後、御堂をたて安置しました。
というお話しがあります。
もう一つは、西福院に行く前のお話しです。
小田原の北条氏直が、里見氏を滅ぼして安房を我が物にしようと、軍船数百隻をもって
洲の崎沖から安房に侵入してきました。里見軍は重臣の正木筑前守が総指揮をとり防戦
したのですが、入れ替わり立ち替り押し寄せる多勢の北条軍と、疲れ果てた寡勢の里見
軍では、勝敗は歴然となりました。越前守はこの時、信仰していた薬師如来に瞑目し、
戦勝祈願をしますと、不思議なことに、どこからともなく十二人の大将が多くの夜叉軍
を率いて里見軍の加勢に現れ、たちまち北条軍を撃退したのです。おかげで安房は、こ
となきを得ました。筑前守は、加勢してくれた軍が、堂窪の薬師如来十二神将であるこ
とを知り、主君の里見義弘公に言上し、立派な薬師堂を造営したそうです。
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次は、御霊神社へ。
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祭神は高御産巣日神(たかみむすひのかみ)です。
向拝の彫刻は、後藤三次郎恒俊の作です。
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あとは、出発地点へ戻ります。のんびり畑道を通り、四季彩や香りを楽しむ事ができま
した。あとは、WAOに戻ってソフトクリームを食べて帰りました。(自腹です)

イベントツアー「安馬谷八幡神社御的神事と周辺」報告

今の時期、里山を歩くといろいろな香りがします。梅の香や土の匂い・・・たまに、田舎
どくとくな牛さん達の匂いがしますが・・それも田舎ならではの匂いです。

今回は、南房総市の安馬谷の八幡神社の御的神事を見学するウォーキングツアーの報告です。
ツアー報告の前に、「安馬谷」の由来についてお話しします。
源頼朝が、千倉の下立松原神社に参詣し、源氏の再興を祈ったとき、安馬谷の地区から、頼朝
に鞍馬(あんば)を差し出したためにこのような地名が付いたといわれています。
もう1つは、下立松原神社の神事にこの地域の人々が中心となり、鞍馬を差し出したことに由
来するとも伝わっています。

さて、出発は、旧丸山町役場からスターとです。
門を出て少しのところに「道標」があります。
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前には、「距 千葉懸廳二十五里十五町十六間」「東京三十五里三十町八間四尺」「印旛郡佐倉
二十九里三十二町五十二間二尺」と彫られています。他の面にも安房の村までの距離が掘られて
います。

御的神事が行われす安馬谷八幡神社を目指します。
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御的神事まで時間があるので、福性院へ。
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真言宗智山派のお寺で、本尊は地蔵菩薩です。明治の神仏分離まで安馬谷八幡神社の別当寺でした。
本堂の向拝の彫刻は、刻銘は確認できませんが、木鼻獅子と象鼻の構図・作風から三代伊八・信美
と考えられているそうです。
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不動堂の向拝の彫刻は後藤義光63歳の作で、宝珠をつかんだ躍動感のある作品です。
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境内には、石造地蔵菩薩像があり、南房総市指定雄健文化財です。
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福性院より離れた墓地にあったのですが、現在地に移転しました。材質は、蛇紋岩で高さ52㎝・幅32㎝
と可愛らしいお地蔵さんです。

御的神事が始まる時間になりましたので、八幡神社へ向かいます。
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祭神は誉田別命。創建については、元禄年間に別当寺であった福性院が火災にあってしまい古文書等一切を
焼失してしまったので分かりませんが、口碑によれば、宝永6年(1709)に社殿が再建されたと伝えられてい
ます。かつては、峯・安馬谷・加茂・沓見・西原・岩糸・沼を含めた大瀦(おおぬま)郷の郷社だったとい
います。

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御神的神事は、いつごろから行われていたかは明確ではないのですが、源頼朝が天下泰平を祈願して流鏑馬
を行ったことに由来し、頼朝に縁のあつ同神社でも流鏑馬を奉納したことが始まりとされています。
当時は、天下泰平・五穀豊穣を祈願し、八幡神社参道二の鳥居直道より、古式のとおり馬上より行っていま
したが、ある年、その矢があやまって見物人に当る事故をきっかけに歩射になったといいます。
奉射する矢は9本で、3本づつ早生・中生・晩生という順で射っていきます。的は、一辺が6尺の井桁に紙
をはったもので、中心の黒丸(一尺一寸)に当れば9分作、矢にウネリがあって大きく外れた場合は、台風
がある・・・などと判断し、その年の作況を占います。今回は、ギャラリーも多かったですが、バンバン決
まってましたので、良い年になるでしょう!!

御神的神事も終わり久保城跡へ。
久保城は、千倉・丸山にかけて築城され、2キロ四方にある下道・久手畠・高房の背戸山久保大口谷の部落
と最深部は千本谷・実成谷と展開しています。特徴は。各三系にわたり出城があり、独立して戦える砦とな
っています。
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現在は、安馬谷里山研究会のみなさんが、整備されていて、四季折々の花が楽しめたりします。
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展望台からの景色です。和田の海岸線が見えます。
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後は、来た道を帰ります。そういえば、八幡神社近くにこんな物が・・・
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綱つり(道切り)です。正月から2月にかけて行われる伝統行事です。
一般的に綱つり行事は、ムラの外から邪悪なものや疫病が、ムラの中に入ってくるのを
防ぐためのもので、災いを封じると豊作になるという考えから、五穀豊穣を願って綱つ
りを行っています。疫病神は道を通ってやってくると言われていましたので、ムラの出
入口にあたる道で行われました。地域によって綱につるす物が違いますが、ワラで作ら
れた草履・草鞋・桟俵・サイコロ・刀・タワシ・杉の葉・唐辛子等があります。
例えば、大きな履物だと、大きな履物を履く巨人がいるよと知らせ、外的を威嚇する意味
だったり、未完成の物だと、満足に作ることができない貧しいムラだから、入ってもしか
たないと、疫病神に諦めさせる。というような言われがあります。
最近は、少なくなってきていますが、鴨川や南房総市で見られます。

無事に出発地点に到着しました。次回もお楽しみに・・・

イベントツアー「茂名の里いも祭りと古道を歩く」報告

春の気配を感じる季節になってきました。温かい館山・南房総では、世間の冬を「早春」と
呼んでいるので、1月から春なのかもしれませんが・・・
田んぼの土手をみるとフキノトウが顔を出しています。

2月20日に行われたイベントツアーの報告をします。
今回は、館山市の茂名という地区にあります里芋祭を見学に行ってきました。
この「里芋祭」は、毎年2月19日から21日かけて行われる、国指定重要無形民俗文化財に指定
されてる行事です。約90個の里芋を山型に積み上げて、飾りを付け神への供え物とを一対作り、茂
名の鎮守の十二所神社に奉納して一年の五穀豊穣と無病息災を願う祭りです。

イベントツアーは、集合場所の洲宮神社から出発します。
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洲宮神社の祭神は、天比理乃咩命(あまのひりのめのみこと)。元は、魚尾山に鎮座していましたが、
文永10年(1273)の火災で焼失したため、現在地に移転しました。しかし、現在の境内から土製の鏡
や勾玉・高坏などの祭祀土器が出土しており、現在の地も古代祭祀遺跡であったことがわかります。

そんな洲宮神社を後にし、茂名地区へ向かいます。
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里芋祭の当番のお家の前に寄り、茂名区民館へ。
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区民館の前には、当番の家から運ばれてきた、里芋と鯛と餅が並べてあります。
この里芋は、氏子の家々を2軒1組とするツミバンナカマ(積み番仲間)と呼ばれる組織を単位に栽培、
供出されます。19日の夜に年番制で担当する当番の家で男衆が積む作業を始めるそうです。
作業をしている場所には、女性は入る事を禁じられています。

区民館から十二所神社へと区長・神職・総代・当番らが列をなして向かいます。
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十二所神社で祭典を行い祭典が終わると、氏子の各家に分配され、無病息災を願って食されます。
この芋を食べると風邪をひかない、子宝に恵まれるなとと言われているそうです。

ちなみに・・祭りで使われる里芋は、「茂名芋」と呼ばれていてアカメの一種だそうです。
茂名の各家で20~50株ほど栽培されていて、茂名の人々が代々栽培を受継いできたもの
です。大きな親芋の周りに子芋がたくさんつくことから、豊穣や子孫繁栄を象徴する縁起も
のであると言われています。

十二所神社を後にし、素敵な馬頭観音を見学しに
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六観音の一つ。馬頭観音は怒りの憤怒の形相で表されます。怒りの激しさによって苦悩や
諸悪を粉砕し、馬が草を食べるように煩悩を食べ尽くし災難を取り除くとされています。
また、畜生道に迷う人々を救済し、家畜の安全と健康を祈ったり、旅の道中を守る観音様
としても信仰され、道ばたに石の馬頭観音像が置かれたりしました。昔は馬は武家も農民
も生活の一部となっていて、馬を供養する仏としても信仰されていました。

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馬頭観音は、頭の上に馬の頭を冠のように乗せていて、三面や四面の顔に2本の腕や8本
の腕など様々な姿があります。また、手には煩悩を打ち砕く剣や斧、棒を持っている姿
が多いそうです。

小川が流れる道を通り、明神山へ向かいます。
洲宮神社が、始め明神山の洲の辺に鎮座していた場所です。山というから、高い場所かと
思っていましたが・・・こんな感じです。
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現在も御浜降神事が、この場所で行われているそうです。
まぁ~安房の地は、大きな地震とともに隆起しているので、当時の明神山は高かったのだと
思います。

お昼は明神山で・・・里芋祭の里いもを貰ってきたので皆さんと一緒に食べました。
お腹もいっぱいになり、お昼寝したいポカポカ陽射しの中で、布沼浅間神社へ。

少し登ると木で出来た鳥居が見えます。
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階段を昇って行くと、頂上に祠があります。浅間神社です。
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ここからの景色はこんな感じです。
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あとは、洲宮神社へ畑・田んぼを抜けて戻りました。
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天候にも恵まれ、楽しく終わったウォーキングでした。次回のイベントツアーは、
3月3日の安馬谷八幡神社御的神事です。こちらの神事は、南房総市の文化財に指定
されています。是非、一緒に見に行きましょう!!

月イチツアー「高塚不動尊」報告

久々のガイドの独り事です。最近、ネタを見つけに行けてなくて・・・
ウォーキングツアーの報告も当日行けなかった日とかあって・・・・
っと言い訳させていただきましたが、新年1発目は、おめでたいウォーキングツアー
から報告させていただきます。

1月28日は初不動の日としてかくお寺さんで護摩を焚いたりと新年初めてのお不動さん
の縁日です。館山・南房総の地域でも各お寺さんで初不動の行事が行われましたが、今回は、
南房総市千倉町にある「高塚不動尊」へ行ってきました。
高塚不動尊は、南房総市千倉町大川というところにあり、真言宗智山派の妙高山大聖院といい
ます。不動尊の開基は奈良時代に東大寺の創建などに尽くした、華厳宗の良弁僧正と言われい
ます。良弁は、母の菩提を弔うため諸国修行の旅にでかけ、途中この地にお堂を設け、修行の
日々を過ごしました。ある時、大海龍王の擁護で魔障から逃れる事ができたため、不動明王の
尊像を彫刻し堂内にまつりました。この像が本尊の「大聖不動明王」です。この像は一時行方
不明になりましたが、近くの浜で発見され地元民の協力で高塚山山頂にお堂を建立し安置する
ことができました。昭和初期、高塚山山頂の火災で不動堂は焼失してしまい、その後仮堂を建
てましたが、昭和36年に麓に遷されました。

そんな高塚不動と高塚山へ。出発は、潮風王国からスターとです。
お花畑を抜けてまず最初に向かったところは、早川雪洲の生家へ。
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早川雪洲って誰?と思う方は、お若い方で・・・ちなみに私も誰か知りませんでしたが・・
早川雪洲(本名:早川金太郎)は、千倉町出身で、1907年に21歳で単身渡米し、1910年代に
ハリウッドで映画デビューをしました。「戦場にかける橋」(1958)でアカデミー助演男優賞に
ノミネートされるなど半世紀以上にわたって活躍した国際的映画俳優です。
おもしろい話があります。撮影現場で、「セッシュする」という言葉があります。これは、
映画やテレビドラマにおいて身長差のある俳優同士の2ショットや顔のアップを撮影する際、
構図上のバランスを整えるために背の低い俳優を踏み台に立たせることを指す撮影用語なん
ですが、この「せっしゅ」の語源が、早川雪洲からきているそうです。
アメリカの女優と並ぶために、足下をかさ上げしたからと言われているそうです。

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次に向かうのは、前不動。
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高さ1.5mの祠のなかに不動明王が祀られています。昔、山頂の不動尊にお参り出来ない人の
為に地元の有志が、ここに不動明王を安置したそうです。

本日は、初不動なので露店が出ていました。
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露店には、焼きそばやお好み焼き・大判焼きと・・・後ろ髪を引かれる思いでしたが、先を
めざします。

大聖院本堂
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本堂の内陣欄間には安永4年(1775)作の初代武志伊八郎信由の彫刻があります。

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この階段を登り高塚不動堂へ。
不動堂の内部には、元大蔵大臣水田三喜男の賽銭箱、高木省童画伯が高塚不動明王霊現の由来を
描いた18枚の額があります。

お参りをし、高塚山の山頂をめざします。
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高塚山は標高216mの山です。結構、急な階段を登っていきます。
途中には、富士登山記念碑があります。
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少しあるくと鳥居が見えてきます。
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あと少しで頂上です。前日雨が降ったので、足場が滑るので注意が必要です。

頂上へ到着しますと風神さま雷神さまが迎えてくれます。
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文政13年(1830)、長狭郡平塚村(鴨川市)の石工がノミを振るってこの石像を刻み、若者中が
高塚不動尊に奉納したそうです。なかなか味のある顔をしてます。

風神雷神門を抜けると元不動堂(奥の院)です。
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嘉応元年(1169)頃からこの地に不動尊が祀られていましたが、昭和初期の高塚山山頂の火災で不動
堂が焼失してしまいました。その後、仮堂をたてましたが、昭和35年に麓に遷されました。

御堂の前には、狛犬があります。
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彫刻は、北朝夷村(千倉)の初代後藤利兵衛橘義光の作で、「子獅子が親獅子に寄り添っている」
姿が掘られています。

頂上からの景色です。
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早川雪洲が渡米する際に、松明を焚いて見送った場所だと言われています。

下山をしお昼を取り長性寺へ。
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真言宗のお寺で不動明王を本尊としています。こちらで、ご住職や奥様・ご近所の方のはからいで
お茶やらお菓子やらを頂きました。感謝です。

長性寺の梵鐘です。
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この梵鐘は、お子さんを亡くしてしまった方からの御寄附だそうです。この梵鐘の音を聞こえると
お子さんの事を思うそうです。ご住職よりお話しをお聞きし、それならばとつかせていただきまし
た。

境内には、鯨塚があります。
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鯨塚の謂れは、古来からこの地方の住民は鯨は霊獣とされていて、明治29年(1896)鯨を捕獲した
時、鯨は神から授かった大切な恩恵であると住民は思い、鯨の肉部分については住民が食用として
分配しましたが、住民たちは鯨を丁重に扱わなければ重大な災いがあるのではと心配し、長性寺の
住職に相談し、この鯨を丁重に供養する事になり、心臓部を埋葬する為に、境内に鯨塚を建立し手
厚く供養したそうです。

鯨塚から階段を登ると観音堂があります。
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こちらにもお参りし、次の高皇産霊神社へ向かいます。
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高皇産霊神社の参道に岩があります。
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この岩は、参拝する時に邪魔になりますが、それを取り除く事ができません。
昔、千田村の人々が、この岩を取り除こうとしたところ、岩から大きな白い蛇が出てきたのです。
その蛇は、頭が幾つもある怪蛇だったので、村人達は恐ろしさのあまり逃げ出してしまいました。
少し時がたち、村人たちは岩から出てきた白い蛇を、高皇産霊神社を護る神蛇だと考えるようになり、
蛇の棲処だった岩は、永久に残そうと決めたそうです。

神社にお参りした後は、午後2時から始まる大般若会厳修を見学する為に、高塚不動尊へ。
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600余巻の教典を読経する大般若会が真言宗・天台宗等の密教系の宗派において行われていますが、
この膨大な教典を完全に読誦ことはなかなかなく、現在は、転読と呼ばれる教典をパラパラとめくって
は、般若心経末尾の真言などを読誦して一巻を読誦したことにした行が行われました。

見学終了後は、各自露店を楽しむの人・お花を楽しむ人も居ますので、こちらで解散しました。

次回のまた旅倶楽部のウォーキングツアーは、2月8日(日)の「堂山と船形のまちを歩く」です。
みなさん、寒い時こそ体を動かしましょう!!お待ちしております。

月イチツアー「磯浜古道を歩く(江見・太海編)」報告

やぁ~もう12月に入ってしまいました。今年も残すところ、1ヶ月もありませんね。
また旅倶楽部のウォーキングも年内は12月7日(日)をもって終了してしまいました。

遅ればせながら、11月の月イチツアー「磯浜古道を歩く(江見・太海編)」の報告します。
10月の月イチツアーでは、千倉町を歩きました。今回は鴨川市の海沿いを歩いてきました。
集合場所は、道の駅鴨川オーシャンパーク。
先ずは、岩屋山波切不動へ向かいますが・・・途中、名馬橋へ。
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ここの橋の名前の由来は後ほど・・・

さて、岩屋山波切不動に行く途中に面白いものを発見しました。
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立派なかかしです。遠くから見るたら人が居るのかと思ってしまいました。

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波切不動の参道入り口の石柱を過ぎると右側に百番観音が現れます。
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丸彫りの観音様で、西国・坂東・秩父の百観音霊場を写したものだそうです。

御堂の前を通り少し階段を下りますと、左手の方からは滝の音が聞こえ、正面には、不動堂
が見えます。
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不動堂の前には石造の小さな狛犬と倶利伽羅竜王があります。
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これらは鴨川市の石造物百選に選ばれています。

不動堂の側に駒穴があります。この駒穴には、源頼朝の伝説があるので紹介します。
頼朝が、太海の太夫崎で休憩しました。頼朝は、付近に馬の蹄の跡が多いことに気づき、
家来に探させるると、洞窟の中で一頭の馬を見つけました。頼朝は滝から流出た川で馬
を洗ったといいます。その馬は「太夫黒(たゆうぐろ)」と名付けられ、頼朝の愛馬と
なり、のちに義経に与えられたそうです。この馬が、一の谷の戦いで有名な鵯越えの逆
落としを決行したときの義経の馬だそうです。
太夫馬は、いろいろな地域で諸説ありますが・・・今回は安房という事で・・・

最初に紹介した名馬橋は、下に流れる川で馬を洗った事で川の名は「名馬川」その上に
架かる橋を「名馬橋」となる訳です。

波切不動の境内には、穴の開いた石があり、これらを馬蹄石と呼ばれ、名馬の蹄のあと
と伝えられています。
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次に向かいましたのが、山生橋梁です。
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JR東日本が管理する「山生(やもめ)橋梁」は歴史的に貴重な建造物と認められ、「土木
学会選奨土木遺産」に認定されました。大正13年(1924)にJR内房線江見-太海駅間に完
成し、鉄道橋としては国内初の鉄筋コンクリート製の「T型梁」の橋梁で、長さは164.8
mです。

四社神社&西徳寺(天面善光寺)へ。
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西徳寺は、山号を龍光山。本尊は不動明王で真言宗智山派のお寺です。江戸時代に檀徒16軒
によって創始されました。慶長9年(1604)の大津波で建物は流出してしまいましたが、2年後
には、中興開山されました。安置される善行寺如来は、かつて明幢院に安置されていましたが、
慶長の津波で流され、西徳寺の井戸の底で釜を被った状態で発見されました。その後、善行寺
堂を建てて安置されました。仏像は、南北朝から室町時代に、長野善光寺の本尊を模して造ら
れた仏像で、天面善光寺とよばれています。

次は、西院の河原地蔵尊へ。
ここは、いつも館山から鴨川に車で向かう時に、気になっていた場所です。普段なら、車で
「ビュー」と通り過ぎてしまうところで、歩いてみるとわかる事が沢山あります。
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全国的に「賽の河原」は数多くありますが、「西院の河原」と呼ばれるのは千葉県でも唯一。
幕末期、この地を治めていた岩槻藩の藩士が天面にやってきて砲台を検分しました。その時
の日記に、「砲台の左方にサイノカワラの石積みがある」と記されています。
この西院の河原は、3回の移転を繰り返してきました。

次に太海エリアへ。
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先ずは、太海浜地蔵尊・太海六地蔵を・・・

次に香指神社へ。
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昔は、太海村の村社で祭神は弟橘媛(おとたちばなひめ)。荒海を鎮める神様です。
元禄地震の前までは浜辺にありました。

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狛犬は、武田石翁の作品です。ちょっとスタイルの良い狛犬さんです。

あとは、駐車場に戻るだけの予定でしたが、時間もあったので、寄り道を・・・
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画家ゆかりの宿江澤館さんの前を通り、ちょっと入口から覗き見。
江澤館さんは、大正2年創業。仁右衛門島を眼前に建つています。変化に富んだ海岸に魅せられ
多くの画家が訪れ、宿泊記念に残された作品が館内所狭しと飾られています。
見学したい方は、お座敷ギャラリーで食事がとれるそうですので、お食事にお出かけしてみて
下さい。

覗き見した後は、高台から景色を・・・
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仁右衛門島と太平洋がどーんと見る事ができます。

さて、バスを使って駐車場へと思ったのですが、お客さん達は元気だったので、バスを使わず
歩いて駐車場まで戻り、今回の月イチツアーは無事終了しました。

寒くなってきてなかなか外に出たくないところですが、健康を考えて少し歩いてみてはいかが
ですか?
また旅倶楽部のウォーキングツアーは、今年は終わってしまいましたが、1月25日には、戦跡
シリーズ三芳編が、28日には、月イチツアー高塚不動を予定しています。早春の日差しの中を
歩きにいきましょう!!

月イチツアー「磯浜古道を歩く(千倉編)」報告

10月の月イチツアーは、「磯浜古道を歩く(千倉編)」でした。
大地震と津波が大きく地形を変え、隆起した土地は人々を結ぶ古道になり、
豊かな実りをもたらす田畑に変わりました。今回のツアーは、大昔の海岸線
などを確認しながら歩いて行きました。

出発は、高家神社です。
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日本で唯一、料理の神様をまるつ神社です。祭神は、磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)
及び天照皇大神・稲荷大神です。「庖丁式」は、料理人が庖丁と箸を用いて手を触れずに調理
する、平安時代の宮中行事を再現した儀式です。庖丁式が開催される時には、多くの方が見学
に来られます。

次に、圓蔵院に。
真義真言宗智山派のお寺で、本尊は地蔵菩薩です。圓蔵院は安房三巨刹の一寺として、南房総
市三芳の宝珠院の次席に位置し、末寺53ケ寺を傘下におさていたそうです。

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圓蔵院本堂の手前に、約60基の歴代住職の墓碑と寄贈された弘法大師坐像などがあり、
年代毎の墓碑の造りや意匠に特徴があります。正面左の奥にある40世「智導」の墓碑は
宮彫師後藤義光が金剛杵をデザインしたもので、塔身中心を貫いているのが独鈷杵(祈る
人と仏が一体)で、上下に三鈷杵(祈人の行、言葉、心の三業が仏の三蜜に通じる)を形
取り、台座には羯磨(金剛杵をクロス)で飾っています。

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本堂には、本堂は100畳におよぶ広さで寄棟造り。屋根は創建当時は茅葺でした。寺伝によ
ると享和3年(1803)頃からの再建とされ、朝夷郡の壇林であったことから修行道場の造り
になっていて、禅宗らしい炎のデザインの火灯窓風の戸袋があります。天保14年(1843)~
安政時代かけて大玄関・客殿・回廊・庫裡が建立されました。本堂正面の欄間には、「王夫
人と竜」は後藤義光45歳(安政6年(1859))、釈迦如来像は70歳(明治17年(1884))、
扁額は71歳(明治18年(1886))の作品があります。また、市指定文化財の経蔵篋は板彫
りの木彫りで12天が見事な立体感で彫られています。これは2代目義光の作。
ツアー当日は、お寺の方のご厚意で本堂の中に入れていただき、お話しを聞かせていただき
ました。

次に、七浦稲荷神社と平舘稲荷神社へ。
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2社とも同じような場所に建っています。平舘稲荷神社は、京の伏見稲荷より名戸川の地に
勧請したものです。戦後、平舘稲荷と改名しました。向拝の珠取り龍は、初代後藤義光83歳
の作品です。
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農道を通って行くと、畑の所に大きな岩が見えてきます。
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少し回ってみてみますと、なんと!
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カエルのような形の岩が・・・これは、かぐら石と言われていて、大昔この地は雷神達が
暴れ回り人は住めませんでした。それを聞いた牛頭天王が、獅子とガマに能を演させて、
雷神を鎮めようとしましたが、雷神は聞き入れず大暴れしました。獅子とガマは能蔵院に
助けを求めて逃げようとしましたが、雷神達に石にされてしまったそうです。
隣りには、もう一つの岩のつぶて石。
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つぶて石には怪力伝説が残されています。鎌倉幕府で権力者だった和田義盛は、謀略に
あい和田一族は滅亡してしまいましたが、一人生き延びた三男の和田三郎義秀(朝比奈
三郎)は安房に逃走しました。この石は、朝比奈山から投げた物と伝えられています。

少し歩くとまた、田んぼの中に岩が見えてきます。
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この岩は、カエル岩と呼ばれています。微妙な感じですが・・・

徳蔵院前を通り能蔵院へ。
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能蔵院は、真言宗智山派のお寺で、本尊は飯縄権現です。自伝によれば、1㎞ほど西の
岱山にあった「蓮台寺能蔵院」を天文20年(1551)に宗栄法印が現在地に再建したのが
始まりとされています。花のお寺としても有名です。
こちらでもご住職にお話しをしていただきました。(残念ながら、お弁当の受取りで
私はお話しを聞けなかったので・・・写真もありません)

ここで、お昼の時間になりました。小高い場所で、千倉の海を見ながらお弁当タイムです。
本日のお弁当は、千倉のお弁当屋さんにお願いして、海苔巻やお稲荷さんと野菜の煮物・
から揚げのセットです。かなりのボリュームがあり、食べるのに大変でしたが、美味しく
頂きました。食べ終わって気づいたのですが・・・写真を撮り忘れていました。

お腹もいっぱいになったので、午後からは忽戸薬師堂へ。
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ここの薬師堂にも伝承が残っています。
昔、薬師如来像がぞうが浦(今の忽戸の境港のわき)に打ち上げられ、川づたいに上がって
永福寺のところまでやって来たところ、ご神体の入れた箱の扉がパッとあり、ご神体は大き
な松の木元で大きく光かがやき村を照らしたといいます。このご神体を祀ったのが今の薬師
堂です。ご利益あらたかで参拝人が多く、眼の神様としてあがめられたといいます。
なお忽戸という地名は、この時扉が忽ちあいたということから名づ けられたと忽戸区有古
文書にかかれています。

次に荒磯魚見根神社へ。
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祭神は、天児屋根命です。宝暦年間(1751~1764)春日神社として創建、寛政4年
(1792)現社号に改めます。隣接地の八雲神社・熊野三社・八幡神社を昭和初期に合併
し合祀。荒磯の忽戸の鼻を見渡す魚見根公園の中腹に海上安全・大漁・岡満作の氏神として、
社名に相応しく鎮座しています。
7月には、三番叟が奉納されます。千倉の三番叟は、当忽戸地区と平磯地区にあり、昭和45年
1月30日に県無形民俗文化財に指定されました。この三番叟は、天下泰平・五穀豊穣を願い、
選ばれた少年たちが歌舞伎芝居を演じます。少年たちは上演前の15日間は家庭にいながらも別
火で調理した食事で精進し、練習を重ねるという古風な伝統を守っています。
近くのおじちゃんに話を聞いたところ、大昔、ここは港だったそうです。そんな面影がある
場所です。

次は、虚空蔵ほこら堂へ。
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里見義堯の目代であった正木大膳高法が天文13年(1542)に大多喜城に向けて出陣する折に、
里見家から賜った「虚空蔵菩薩像」(文化年代作)を高徳院住職「源心」に預け、武運長久
を祈願するように依頼しました。その後、大勝を納め凱旋した大膳は、寺に虚空蔵菩薩像と
山号・院号を与えたと伝えられています。後に、夢のお告げにより虚空蔵をほこら堂に安置
したそうです。

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御堂の向拝の龍・懸魚の彫刻は後藤福太郎作です。ちょっと蛍光灯が邪魔なんですが・・

次は鹿島神社です。
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こちらには、要石があります。要石は、地震を鎮めているとされ、大部分が地中に埋まって
いる霊石です。

次に、高徳院へ。
真言宗智山派の寺院で、里見氏の六代里見義堯とゆかりのあるお寺さんです。。
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ご住職が少しお話しをして下さいました。
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高徳院を後にし、路線バスに乗り最後の見学場所、住吉寺へ。
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住吉寺は、真言宗智山派のお寺です。境内に入ると正面が本堂になり、観音堂は左手の階段を
登ったところにあります。その昔は海中の岩上に御堂があって船で参拝していましたが、元禄
の大地震で海中が隆起し陸続きになったそうです。
観音堂の向拝は初代後藤利兵衛橘義光の作品で、義光が70歳の時(明治17年=1884年)に作ら
れています。安房国札観音霊場の27番札所として参詣の多いお寺です。
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あとは、徒歩で駐車場へ戻りました。南房総市の千倉町もいろいろな場所があり、面白いところ
です。早春には、花が咲き誇ります。1月の月イチツアーは千倉町の高塚不動へ行きます。

特別企画「戦国大名里見氏飛躍の拠点上総を訪ねる」報告

年1回のバスツアーは、里見氏安房国替400年という区切りのいい年に、里見氏の
企画しました。里見氏は10代に渡り170年間、安房を治めてきました。
そんな里見氏の歴史を少し触れる旅に出発してきました。

今回は、里見と言えば、館山の城山公園から出発します。
バスは、高速道路を使い竹岡ICを降り、百首城へ。
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造海城(つくろみじょう)ともいいます。築城時期は不明ですが、上総武田氏の三代で
真里谷初代当主にあたる真里谷武田信興のころ里見氏の北上を防ぐ目的でつくられたと
されています。天文6年(1537)に真里谷武田氏に内乱が起き、その後、里見氏の居城と
なりました。その後、里見氏と後北条氏との抗争が激化、天正年間には里見氏重臣:正
木淡路守の居城で、城下の百首湊は海関として機能しました。天正18年(1590)に廃城
となりましたが文化7年(1810)白河藩によって城址に砲台が築かれて幕末まで続いた。

百首城の次は、佐貫城へ。
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佐貫城は、真里谷武田氏によって築かれた平山城です。武田は鎌倉公方の内乱で里見
義堯に負け城を明け渡しました。その後、佐貫城は占領・争奪を繰り返し天文6年
(1537)以降、里見義弘が拠り、久留里城と共に真里谷氏及び後北条氏への最前線とし
て重要な役割をはたしました。

次は、三船山古戦場へ。
永禄10年(1567)に上総国君津郡三船台において、里見義弘と北条氏政の間で戦われ
た合戦です。ここは車窓から見学でした。

次は、四季の蔵でトイレタイム。お買い物終了後、久留里城へ。

久留里城に到着し、駐車場のとことにある、最近オープンしたての農家レストランで
食事を。お腹が減っていたので、料理の写真を撮らずに食べてしまいました。
メニューは、おにぎり小2個・天ぷら・煮しめ・ロールキャベツ・野菜少々。
天ぷら・煮しめの野菜が小さくて・・・男性には、物たりなかったかもです。

いよいよ久留里城へ登って行きます。
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二ノ丸まで登って行くと、久留里城址資料館の方に説明していただきました。
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久留里城は、16世紀中ごろに真里谷武田氏が上総を勢力下におき上の城を築城し
ました。その後、天文7年(1538)の第一次国府台合戦の敗北や内部抗争などで勢力
を弱めると、安房の里見義堯が上総へ進出し、現在の位置に新しく久留里城を築き、
後北条氏による関東支配が強まると、久留里城に本拠地を移しました。一度は、後北
条氏の手に落ちますが、再び里見氏を奪還します。天正5年(1577)に第7代里見義弘
は後北条氏と和睦、第8代義頼の時代には本拠地を安房岡本城へ移し、久留里城には
城番が置かれるようになりました。その後、第9代義康の時に、上総国の領土を没収
され、大須賀忠政や土屋忠直らが入城しました。一度廃城となり、寛保2年(1742)、
黒田直純が久留里城主となり、大規模な城の修築を行い、久留里藩は黒田氏の城下町
として栄え、幕末を迎えました。

学芸員さんのお話しを聞いたあと、資料館を見学し本丸へ。
本丸まで行く途中、男井戸・女井戸があります。
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伝説によると、この二つの溜め井戸は、奈良時代の僧良弁(ろうべん)によって掘られ、
「金剛水」「胎蔵水」と呼ばれたそうです。この場所に里見義堯が城を築くと、敵対す
る後北条氏が来襲しますが、この井戸により籠城にも耐えることが出来たそうです。
江戸時代になり、藩主の黒田直亨の頃から、藩士の結婚式の際に、新郎・新婦がこの水
を飲み、夫婦の誓いをかわしたと言われています。

本丸にある天守閣は、工事の人が入っていて足場を外す作業中でしたので、中には入れ
なかったので、手前で記念撮影をしてみました。
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その後、舗装した道を帰る人と尾根を帰る人とで分かれて駐車場へ。
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久留里城を後にし、正源寺へ。
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正源寺は、浄土宗のお寺です。鎌倉時代の徳治2年(1307)時宗の高僧他阿真教上人により、
上総の念仏根本道場として創建されました。
天文15年(1546)、里見義堯の母君の菩提寺となりました。聖観音立像は、別名を加勢観音
といい義堯の守護仏です。その由来は、義堯の夢の中に、全身を金色に輝かせた観音様が現れ
「義堯よ、油断するな。まもなく小田原より大敵が押し寄せる。兵糧の用意および要路を厳重
にしろ。心配するな。我も加勢する。」と告げました。その後、里見主力軍の留守をついた後
北条氏は大軍で久留里城へ攻めてきました。義堯は、夢に出てきた観音様のお告げに従い作戦
をとり、観音様を背負って戦を始めたところ、敵陣の矢は味方には一本も当らず、北条軍は負
走していったそうです。義堯が観音様に手を合わせると、観音様の背中に二本の矢が刺さって
いました。「おお、まさにこの観音様が加勢してくださったのだ」それ以来、この観音像を
「加勢観音」と呼ぶようになりました。義堯は再三、この観音様の瑞夢を受け、難なく数度の
戦いに勝利を得、帰依一層厚くなり、「このような霊験あらたかな観音像を、一人里見家だけ
が受けるのは仏の心に反する。」と母君の菩提寺であった正源寺境内に五間四面の堂を建て、
すべての人々に自由に参詣出来るように安置されたそうです。加勢観音の御開帳は、8月10日
です。

正源寺の後は、各自で久留里城下町を散策です。お酒を買う人や、最中を買う人など、短い
時間でしたが、城下町を楽しみました。
その後、館山へ帰りました。

天候は、雨がたまに降ったりしていました。久留里城は別名「雨城」ともいい、「久留里記」
によれば「城成就して、三日に一度づつ雨降る事二十一度なりしかば」とあるように築城の時
期に不思議に雨が続いたという伝説です。確かに、天守閣の修復が間もなく終わるので、その
伝説は本当なのだと・・・・また旅倶楽部のバスツアーは、伝説を体験したのかもしれません。

イベントツアー「吉保八幡神社流鏑馬神事」報告

ひと雨毎に秋が増してきています。
今回は、9月の終わりの日曜日に行われましたイベントツアー「吉保八幡神社流鏑馬神事」
の報告です。
吉保八幡神社は、鴨川市仲にある神社です。天長6年(829)に吉保郷の鎮守として宇佐八幡
を勧請し、文安年間(1444~1448)に里見氏の家臣緒方茂次が祈願所として再建したと伝え
られています。主祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)・素戔命嗚尊(すさのおのみこと)
・天忍日命(あめのおしひのみこと)が祀られています。
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当日は、長狭学園から出発しました。稲刈りの終わった田んぼを見ながら歩いて行きます。
まずは、神明神社へ。祭神は、天照大御神。その昔、神明の松という大樹があり、その根本
に村人が祀った小社がありました。その松もやがて枯れ、文明元年(1469)、松があった場所
に大神宮の本社を造営、霊験あらたかであったので、後に拝殿を建立したと伝えられています。
近くには、河童明神が祀られているとこの事で、下見で探してみましたが、分からず・・・
しかし、近くにカッパの石像があります。
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続いて、善能院へ。本尊は阿弥陀如来。真言宗で、吉峰山と称し吉保八幡神社の別当寺です。
文安年中(1444~1448)に里見氏の家臣が創建したといわれています。
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農道を歩き、賀茂川の近くでお弁当の時間です。
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お弁当は、みんなみの里さんのお弁当です。「ウォーキングなので・・」とお願いしたら、
コンパクトにしてくれました。
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やはり、米どころなのでお米が美味しいです。

お腹もいっぱいになり、いよいよ神事に向かいます。まずは、禰宜殿へ。
禰宜殿は、「ねぎどん」と呼ばれています。初めて聞いた人は、「ねぎどんっておいしいの?」
なんて聞く人もいます。
この禰宜殿は、禰宜(騎射)が7日前から泊まり込み、潔斎に励みます。流鏑馬当日まで毎朝
4時に起床し、井戸水で水垢離、別火の生活をこの禰宜殿の送ります。流鏑馬当日は、出発前
に獅子舞が奉納されます。

獅子舞を見学後、亀田酒造の所へ。
ここには、屋台や山車・宮立ちが禰宜を待ちます。
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禰宜殿から神社に来る行列を見ずに、圓明院へ向かいます。
圓明院は、真言宗智山派のお寺です。天平勝宝5年(753)行基菩薩の開基と伝承されています。
境内のお地蔵様は、とてもいいお顔をしています。
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いよいよ吉保八幡神社へ到着です。今回は、本殿が見られるという事で、中に入らせても
らいました。中での解説は、鴨川ガイド協会さんです。
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解説が終わり、外へ。ここで解散し、流鏑馬神事を思い思いに見ていただくことに。
神事を待つ間、禰宜殿から到着しました。
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いよいよ流鏑馬神事が始まります。
この吉保八幡のやぶさめは、文永年間(1264~1275)に始まったといわれ、折り目正しい
典型的な流鏑馬でうす。120間の馬場を疾駆しながら、3つの的をめがけて矢を放ち、
それを3回繰り返し、五穀豊穣を祈願し稲作の豊凶を占うものです。
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今年も的に1本当たりました。よかったよかった。

月イチツアー「もののけの里・たたらを巡る」報告

10月に入り、秋らしくなってきました。大型台風が来て、各地では被害が出て
います。南房総でも停電があったり、農作物のハウスがやられたり、葉もの野菜
は塩害にあったり、被害もでております。

また旅倶楽部では、9月から月イチウォーキングツアーを復活しました。やはり
夏場のウォーキングは辛いので・・・
9月は「もののけの里・たたらを巡る」と題して、館山の船形エリアから小原エリア
富浦エリアを歩いてきましたので報告します。

9月の月イチツアーは天気にめぐまれ、暑い位でした。
館山市若潮ホールを出発し、川名金毘羅神社から千日堂を通り、海底地崩れ地層へ。
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こちらの道は、私道なので許可が必要です。今回は、お願いをして通らせてもらい
ました。推進1500~2000mの海底にあった地層が、200万年前の巨大地震
で、液状化した海底斜面が地すべり、分断、かき回された状態を残し、長い時間をか
けて隆起したものです。白浜グリーンラインで見れるものと同じ状態なので、見たい
方は、グリーンラインの方をご覧ください。

農道を通りながら、日枝神社へ。
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こちらの狛犬たちは、チャーミングな狛犬たちでした。
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次は、金気神社へ。
この神社は、養老2年(718)創建したと伝えられています。祭神は須佐之男命。
強風が吹き荒れて漁に出れなかった漁師が、祈願したところ翌日から海が凪いだそう
です。それ以来風の神様として知られるようになりました。
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木の間に、愛嬌のある石像があります。
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昼食を、金気神社ですませ、のどかな道を歩き、目の病にご利益があると評判の明眼
地蔵へ。ここの由来は不明ですが、近くに川が流れていて、昔処刑場に使われてた場所
だったので、供養塔が築かれていたらしいです。
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お地蔵さんの写真を撮ったところ、デジカメがお地蔵さんを顔認識し、目つぶり機能が
働いてしまって、ビックリしました。石仏を撮っていますが、今まで初めてです。

その後、御霊神社・船形用水跡を見学し、忍足佐内の碑へ
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佐内は、金尾谷村の名主です。江戸時代、徳川10大将軍家治の世であったの明和5年から
7年にかけて、旱害が日本を襲いました。毎年のように田植え前から日照りがつづき、稲が
実らず村人たちは大変苦しんでました。特に、金尾谷・白坂(共に現福澤)、小原(小原)
の村むらは、山田が多かったため被害がひどく、その上、奉行の稲葉重左衛門と代官の藤田
嘉内が悪い政治を行って重い税を課したので、村民たちの暮らしはどにもならないほど追い
つめられていました。金尾谷村の名主の佐内は正義感の強い人でしたので、村民を救うため
大和守の江戸屋敷に村民の困っている様子や、奉行たちの不正横暴を上訴したのです。
悪い政治を行っていたことがばれるのを恐れた奉行は、佐内を勝山(鋸南町)の牢獄へとじ
込められました。金尾谷村の万福寺の小僧祖淳は、以前佐内に情けをかけてもらい恩義を感
じていたので、なんとか佐内の命を助けようと、藩主酒井忠隣の菩提寺である芝の青松寺の
天徳和尚に嘆願書を出しました。この嘆願書が藩主の奥方の目に入り、奥方が寛大な処置を
とるよう伝えた為、佐内は無罪と決まりました。そして嘆願書が、藩主忠隣まで届き、自分
が大阪から戻るまで決して刑を行ってはならないと命じましたが、再び取り調べが行われれ
ば、自分達の悪事が露見すると考えた奉行らは、佐内を罪人を乗せる唐丸籠に乗せ、領内を
引き廻した後、白塚河原に連れていきました。無罪という言葉を信じて、村に返される佐内
を出迎えようとした村民たちが、様子が変だと騒ぎだすと、奉行は佐内を籠から引き出し、
「百姓たちを煽動し、徒党を組んだ罪で死罪」と書かれた書付を読み上げました。佐内は、
「徒党など組んでいない」と言いかけましたが、その時はもう奉行の刀が佐内の命を奪って
ました。奉行は、百姓達の報復を恐れて、逃げるように立ち去ったといいます。佐内44歳
でした。
近くに、地元では「砂かみ地蔵」と呼んでいる物があります。佐内の正義の訴えは凶刀によ
ってかき消され、佐内の首は川原で跳ね、無念さゆえに、胴体を離れた佐内の頭部は川原の
砂をかんだといいう言い伝えがあります。

佐内の碑を見学し、のどかな道を通り出発地点の若潮ホールへ。
天候にも恵まれ、久々のウォーキングでした。