今の時期、里山を歩くといろいろな香りがします。梅の香や土の匂い・・・たまに、田舎
どくとくな牛さん達の匂いがしますが・・それも田舎ならではの匂いです。
今回は、南房総市の安馬谷の八幡神社の御的神事を見学するウォーキングツアーの報告です。
ツアー報告の前に、「安馬谷」の由来についてお話しします。
源頼朝が、千倉の下立松原神社に参詣し、源氏の再興を祈ったとき、安馬谷の地区から、頼朝
に鞍馬(あんば)を差し出したためにこのような地名が付いたといわれています。
もう1つは、下立松原神社の神事にこの地域の人々が中心となり、鞍馬を差し出したことに由
来するとも伝わっています。
さて、出発は、旧丸山町役場からスターとです。
門を出て少しのところに「道標」があります。
前には、「距 千葉懸廳二十五里十五町十六間」「東京三十五里三十町八間四尺」「印旛郡佐倉
二十九里三十二町五十二間二尺」と彫られています。他の面にも安房の村までの距離が掘られて
います。
御的神事まで時間があるので、福性院へ。
真言宗智山派のお寺で、本尊は地蔵菩薩です。明治の神仏分離まで安馬谷八幡神社の別当寺でした。
本堂の向拝の彫刻は、刻銘は確認できませんが、木鼻獅子と象鼻の構図・作風から三代伊八・信美
と考えられているそうです。
不動堂の向拝の彫刻は後藤義光63歳の作で、宝珠をつかんだ躍動感のある作品です。
境内には、石造地蔵菩薩像があり、南房総市指定雄健文化財です。
福性院より離れた墓地にあったのですが、現在地に移転しました。材質は、蛇紋岩で高さ52㎝・幅32㎝
と可愛らしいお地蔵さんです。
御的神事が始まる時間になりましたので、八幡神社へ向かいます。
祭神は誉田別命。創建については、元禄年間に別当寺であった福性院が火災にあってしまい古文書等一切を
焼失してしまったので分かりませんが、口碑によれば、宝永6年(1709)に社殿が再建されたと伝えられてい
ます。かつては、峯・安馬谷・加茂・沓見・西原・岩糸・沼を含めた大瀦(おおぬま)郷の郷社だったとい
います。
御神的神事は、いつごろから行われていたかは明確ではないのですが、源頼朝が天下泰平を祈願して流鏑馬
を行ったことに由来し、頼朝に縁のあつ同神社でも流鏑馬を奉納したことが始まりとされています。
当時は、天下泰平・五穀豊穣を祈願し、八幡神社参道二の鳥居直道より、古式のとおり馬上より行っていま
したが、ある年、その矢があやまって見物人に当る事故をきっかけに歩射になったといいます。
奉射する矢は9本で、3本づつ早生・中生・晩生という順で射っていきます。的は、一辺が6尺の井桁に紙
をはったもので、中心の黒丸(一尺一寸)に当れば9分作、矢にウネリがあって大きく外れた場合は、台風
がある・・・などと判断し、その年の作況を占います。今回は、ギャラリーも多かったですが、バンバン決
まってましたので、良い年になるでしょう!!
御神的神事も終わり久保城跡へ。
久保城は、千倉・丸山にかけて築城され、2キロ四方にある下道・久手畠・高房の背戸山久保大口谷の部落
と最深部は千本谷・実成谷と展開しています。特徴は。各三系にわたり出城があり、独立して戦える砦とな
っています。
現在は、安馬谷里山研究会のみなさんが、整備されていて、四季折々の花が楽しめたりします。
(梅・桜・ミモザ)
後は、来た道を帰ります。そういえば、八幡神社近くにこんな物が・・・
綱つり(道切り)です。正月から2月にかけて行われる伝統行事です。
一般的に綱つり行事は、ムラの外から邪悪なものや疫病が、ムラの中に入ってくるのを
防ぐためのもので、災いを封じると豊作になるという考えから、五穀豊穣を願って綱つ
りを行っています。疫病神は道を通ってやってくると言われていましたので、ムラの出
入口にあたる道で行われました。地域によって綱につるす物が違いますが、ワラで作ら
れた草履・草鞋・桟俵・サイコロ・刀・タワシ・杉の葉・唐辛子等があります。
例えば、大きな履物だと、大きな履物を履く巨人がいるよと知らせ、外的を威嚇する意味
だったり、未完成の物だと、満足に作ることができない貧しいムラだから、入ってもしか
たないと、疫病神に諦めさせる。というような言われがあります。
最近は、少なくなってきていますが、鴨川や南房総市で見られます。
無事に出発地点に到着しました。次回もお楽しみに・・・