月イチツアー「鴨川港町の歴史を訪ねる」報告

3月に入り、だんだんと春めいてきました。
っと同時に花粉が大変な事になっております。マスクして歩くと苦しいし・・・
マスク外して歩いていますが、室内等に入ると大変な事になっております。
そんな花粉にも負けずに、鴨川の港町を歩いてきましたので報告します。

当日は、天候が不安定でして・・・集合時間には、雨が降っていたのですが、歩きだす前には
雨もやみました。最近は、なんかウォーキングツアーの日には天候が良くなくて、困っていま
したが、今回は晴れ女の勝ちだったようです。

集合場所は、鴨川フィッシャリーナ鴨川駐車場。神社仏閣を回って、一戦場公園・魚見塚へ。
まずは、白幡神社の所にある観音堂へ。
観音堂の前には、石造の五智如来があります。
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五智如来を簡単に説明しますと、密教で5つの知恵を5体の如来にあてたものだそうです。
石造の五智如来を刻んだものとしては安房地方で唯一の例で、板碑型に五智如来(五仏)の尊像
が浮き彫りにされています。中央が金剛界の大日如来、左上が阿弥陀如来、左下が阿閦如来、右
上が釈迦如来、右下が薬師如来です。ちょっと本来の配置になっていないので、不思議です。

白幡神社です。
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祭神は日本武尊。平安時代初期の弘仁2年(811)正月の創建と伝えられています。創建当時は海に
近い場所に建てられていたといいます。源頼朝が平家打倒と源家再建を祈願し、源家の旗である白
幡を納めたことから白幡大明神と言われるようになったといいます。彫刻は向拝正面の龍は初代義
光の作です。

次に向かったのは、心巌寺です。
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本尊は阿弥陀如来で、浄土宗の寺院です。
文永2年(1265)記主禅師が安房国北風原に創立し、天文2年(1533)「里見氏の内乱」により焼失
してしまいました。天正5年(1577)里見氏の重臣、正木頼房が土地を寄進して再建したと伝えられ
ています。創立した記主禅師という人は、すごい人なんです。浄土宗第三祖。二祖の弁長の教えを
継いで専念念仏をひろめ、多くの書を著して浄土宗の教学を大成しました。主として関東に布教し、
多数の寺院を建立して門弟の育成に専念し、浄土宗教団の発展への礎を作った人だそうです。

本堂の中には、これまた最近はっきりしたという初代伊八の彫刻があります。
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幅290cmの龍の彫刻2点が取り付けてあり、この龍は阿吽の一対になっています。
彩色は、比較的近年のものと思われますが、当初から色が塗られていたかはわかりません。

本堂前には、釈迦如来坐像があります。
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寛文4年(1664)と年代も古いもので、お顔をみるとなんだか微笑んでしまうお釈迦さまです。

境内の入口付近には、頼房と妻の二人の供養塔があります。
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次に向かったのは、石子山磨崖仏です。
心巌寺の裏山を地元では石子山と呼んでいるそうです。この山の崖には文字磨崖仏が刻まれています。
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高さ8mあまりの垂壁の上部には梵字の「ユ」が大きく薬研彫りされています。この梵字は弥勒菩薩
を表現したものだそうです。奉納者の中には、長野や四国徳島の人名まで刻まれています。
享保元年(1716)の造立です。
弥勒菩薩ってなに?と思った方、弥勒菩薩は、遠い未来、慈しみにより生あるものすべてを救うという
菩薩様です。

次は、一戦場へと向かいますが、ここから坂道がきついのです。石子山磨崖仏から一気に登りになる
のです。という事で、なんとか一戦場公園へ辿りつきました。
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ここは、源頼朝が石橋山の戦いに敗れ、伊豆から安房に逃れてきて鴨川市の貝渚あたりに辿りつき、
加茂川近くの八兵衛という網元の家に泊まりました。ところが、金山に居城をかまえていた長狭六郎
常伴が、百騎余りを従えて夜襲をかけてきました。情報提供者により、家人の三浦義澄は、先手を取
って戦い常伴群を打ち破り、常伴は討死して源氏の大勝利でこの戦いは終わりました。この戦いが行
われたのが、ここの「一戦場」として市民の公園になっています。

公園の手間には、嶺岡牧一戦場野馬土手址・大浦木戸址があります。
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ここは嶺岡山系の東端に位置しています。戦国時代、安房の国主里見氏により軍馬育成の為の牧場が
開かれて場所です。その後、江戸幕府の直轄となり、八代将軍吉宗の時代に大きく展開し、軍馬だけ
でなくインドから乳牛を導入し、日本酪農発祥の地となりました。嶺岡町では、野馬が崖から落ちた
り、牧の外に出て農作物を荒らさないように、牧を土手や掘、柵で囲っていました。年に一度、放牧
した馬を捕獲する「馬捕り」の行事が行われ、その光景は非常に壮観で祭りのような賑わいを見せた
といわれています。ここは、捕えられて馬を外に搬出する数少ない出口の一つになります。

お昼まで残り1つの見学場所、馬頭観音へ。
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県下最大級の馬頭観音です。三面六臂の馬頭観音坐像で、髪型は典型的な怒髪、その表情も憤怒相で
全身に緊張感がみなぎっています。結跏趺坐する脚の下には、波間に身を躍らせる竜の姿が確認でき
ます。高さは1.2mで、地元の蛇紋岩に彫られていて、江戸時代後期の作とされています。

お昼の時間になりました、一戦公園で昼食です。

昼食後は、魚見塚展望台へ向かいます。
この展望台が位置しれいる丘は、古くより漁師たちが沖の魚を見張っていた場所として「魚見塚」と
名付けられました。海抜110m地点に女神像「暁風」が建っています。
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この「暁風」は鴨川出身の彫刻家・長谷川昂作です。この像の前で愛を誓い、その証として鍵をかける
と「幸せが未来へ続く」と言われ愛が成就すると伝えられている事から、「近いの丘」とも呼ばれてい
ます。

次に大浦浅間神社を目指します。途中、珍しい二尊板碑があります。
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地蔵尊と阿弥陀様を浮き彫りした板碑です。15世紀前半(室町時代)のものと言われています。
風蝕が進み鮮明とはいえませんが、向かって右が阿弥陀如来、左が地蔵菩薩です。

大浦浅間神社です。
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祭神は、木花開耶姫命(このはなさくやひめ)。御神徳は、安産子育、縁結び、海上安全です。

階段の上からは、港が見えます。この階段を下りていきます。
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参道には、富士講供養塔や庚申塔や手水鉢があります。寛政9年(1798)に磯村の地に生まれた松本
吉郎兵衛は26歳で信仰に目覚め、生涯で108度の富士登山を行ったそうです。明治15年まで
生きたそうで、石碑の多くはその吉郎兵衛を顕彰したものでもあります。石碑をよく見ると吉郎兵
衛の肖像が刻まれ、没後間もない時期に建立と考えられます。肖像は館山藩に出仕した狩野派の絵
師川名楽山の手なるものです。
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階段を下り少し歩くと、八雲神社になります。
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祭神は、天照大神・須佐之男命・事代主命。創建年歴の記録は残されていませんが、南北朝時代の
永和3年(1377)に出雲大社の分霊を移しました。八雲神社ははじめ、神仏習合の教えによりスサノオ
の化身である牛頭天王を祭神としたことから天王宮(天王さま)と呼ばれ、現在でも通称「天王様」
と呼ばれています。当初は別の所に鎮座していましたが、再三波浪のために損壊し、明治12年に現
在の地に遷りました。

こちらの向拝の龍の彫刻は、三代目武志伊八郎信美の作品です。
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扁額は後藤利兵衛橘義光の作品です。
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手水石は、「壽秀」の刻銘が刻まれていることから、武田石翁の作品です。
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向拝の龍が初代伊八だったら、安房の三大名工が揃ったのですが・・・

最後の見学場所は石見堂。
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本尊は真言宗の六観音のうちのひとつ、如意輪観音菩薩です。
正暦4年(993)、行基廻国の際、自作の観音像を安置し堂宇を建立したと伝えられています。
当初は、海面に浮かぶ岩山にありましたが、天保年間(1830~1844)に現在地へ移されました。
戦時中は、艦砲射撃を避けて、近所の女衆がリヤカーに乗せて10㎞先の山中にある白滝不動
まで疎開したそうです。

向拝の龍の彫刻は、2代目武志伊八郎信常のものです。
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こちらで、予定していました見学場所が終わりで、港の方に出て出発地点に戻ります。
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残念な事に、港の周辺はごみだらけ・・・
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残念な事です。

ここまで読んでいただいてありがとうございます。ここで、見学にあたり、お願いがあります。
1.神社仏閣は、信仰の場です。常識ある行動をお願いします。
  ・騒いだりしないでください。・物に触れないでください。・勝手に上がらないで下さい等々
2.ごみは持ち帰りましょう。

最近、神社仏閣の見学のマナーが悪い人が増えてきているそうです。今まで見せていただけたのに、
見れなくなるケースもありますので、皆さまのご協力をお願いしまう。

という事で、鴨川港町の歴史を訪ねるは無事に終了しました。終了と同時に雨が降り出しました。
日頃の行いが良かったのでしょうか?

お散歩ツアー「いにしえの安東郷探索」報告

今年度最後のお散歩ツアーを開催しました。今回は、館山市にあります九重地区。九重地区は、
館山市の東部に位置し、古代には既に大規模な土地開発が行われた地域です。安東を中心に水
岡・宝貝などには南北朝時代前後の「やぐら」や石仏・石塔・仏像などが残され、中世にも有
力な豪族が活動していた事が分かります。そんな九重地区を散策してきました。

出発は、九重小学校の近くの空き地。まずは、道沿いにある六地蔵へ。
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六地蔵は寛保3年(1743)の銘が入っていて江戸時代に造られた物です。他にも馬頭観音など
の石造物がいくつかあります。

次に向かったのは熊野神社。
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境内には、大正大地震の記念碑などがあり、裏山には、複数の横穴があります。

薬師堂を通り、小さなトンネルをくぐって蓮蔵寺へ向かいます。
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蓮蔵寺の少し手前には、六地蔵と石仏群があります。その中になんとも優しいお顔をした
如意輪観音様がいます。側には丸彫りのお地蔵さまが2体あり、なんともいえないほっこり
した感情になります。
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蓮蔵寺は、曹洞宗の寺院で、本尊は南北朝時代作の木造釈迦如来坐像です。お寺の背後の山
の中腹には10数奇基の横穴があるそうです。
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次は、お隣?にある天満神社へ。
こちらの狛犬は、天保11年(1839)に長須賀の石工鈴木伊三郎が作ったものです。
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のどかな道を通り、水岡やぐらへと向かいます。途中、ふきのとうやセリなどが顔のぞかせて
いました。
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水岡やぐらは、私有地なので許可なく見学する事ができませんが、今回は地主さんの許可をいた
だき見せていただきました。(少し足場も悪いので気を付けて見学しました)
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「やぐら」は、中世(鎌倉時代中頃から室町時代前期ごろ)の武士・僧侶階級のお墓や供養施設
です。古代の人のお墓で横穴式古墳があり、見た目は山肌に穴を切り抜いているということで同
じように見られますが、横穴式古墳とやぐらの違いは、やぐらが平安時代からの有力者の墳墓堂
である法華堂を岩窟の堂とした仏殿であるということです。房総のやぐらは、古墳時代の横穴式
古墳をを転用しているのが多いのが特徴です。「やぐら」は鎌倉市周辺に多く分布しております
が、房総半島南部にも数多く存在します。武士階級のつながりや鎌倉寺社領の広がりや、東京湾
海上交通などが考えられ、やぐらが密集する地域が、鎌倉寺社領と重なっていことが多いそうです。
鎌倉と房総半島南部は深い繋がりがあったという事です。
この水岡やぐらを見たい方は、館山市の博物館にレプリカがありますので、そちらで御覧下さい。

次に向かったのが、紫雲寺です。
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曹洞宗の寺院で、本堂裏手にやぐらがあります。また、墓地内には、万石騒動で追放処分になった、
名主・庄右衛門のお墓があります。万石騒動というのは・・来年度のお散歩ツアーでお話しします。

最後に向かったのが、千手院です。
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尾根の先端に掘られた「やぐら」を、お堂に改造したもので、内部には本尊の石造千手観音坐像と、
文和2年(1353)の石造地蔵菩薩坐像などがあります。
やぐらの真上に南北朝時代と思わる宝篋印塔があります。
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石造地蔵菩薩坐像と宝篋印塔は館山市指定文化財です。

あとは、駐車場に帰るだけです。この時期は、道沿いに河津桜などを楽しむ事ができました。
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シリーズツアー(花)「金盞花」報告

2月はウォーキングツアーが3回入っています。トップバッターはシリーズツアー(花)
の「金盞花」です。館山・南房総では四季折々の花が咲いています。この時期は、金盞花
やストックなどの路地花が咲いていたりと花を楽しむ事ができます。

今回のコースは、南房総市白浜町で散策してきました。じつは・・・・昔は、金盞花栽培
が盛んでしたが、ここの所、金盞花よりそら豆の畑が増えています。
なので、今回は、金盞花・菜の花・そら豆の花と周辺を散策しました。

出発場所は、野島崎公園駐車場。当日は、朝少しですが、あられが降ってくるくらい、冷え
込んでいましたが、時たま顔をのぞかせるお日様に暖かさを感じながら散策開始です。
まずは、シロウリガイ化石露頭の場所へ。ここは県指定天然記念物になっています。
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シロウリガイは、推進1000m前後の深海に生息する二枚貝で、プレート境界付近のメタン
が噴き出すところでコロニーを形成する事がわかっていて、海底から噴出硫化水素を、共生す
る細菌が有機物に変え栄養分としています。シロウリガイは、明治24年(1891)にアラスカ沖
で初めて発見されたものです。関東地方では、昭和32年(1957)に神奈川県城ヶ島沖の水深7
50mで貝殻が発見されています。この白浜のシロウリガイ化石は、300万~350年前、
千倉層白間津層と呼ばれる地層で3~4cmの白い破片が点在しています。この地層は、泥岩
と砂岩が混じっていて、直径数センチほども石がコンクリートで固められたように見えます。
これは、海底で異常な圧力により地層が泥のように混ざり合ってできたと考えられ、シロウリガ
イの化石はほとんどが破片となっています。この地層は太平洋から日本列島の下に潜り込んでい
る太平洋プレートの移動に伴い、その境界付近から押し上げられてものだと考えられています。

海を後にして、法界寺へ。
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真言宗智山派の寺院です。もともとは野島﨑灯台の方に建っていましたが、元禄16年(1703)
の地震で崩壊し、寺領の墓地であった高台に移転しました。
境内に「忠魂碑」があります。(写真を撮り忘れました)この碑は、1945年7月18日、終戦
1ヶ月前の夜、米軍機動部隊による艦砲射撃の犠牲者になった人のものです。
その日の野島埼灯台沖は好天で海穏やか、視界良好だったそうです。その悲劇は夜11時52分に
始まりました。「米国戦略爆撃調査団最終報告書」によると、米海軍巡洋艦4隻と駆逐艦9隻が、
野島崎沖から城山レーダー基地に向け、6インチ砲240発を撃ち込んだそうです。砲撃開始から
約5分間の出来事です。建築中のレーダー基地には命中しなかったのですが、島崎地区には37発
が着弾し、住民6人が死亡し、17人が負傷し、住宅180軒のうち22軒に被害が出ました。
隣町の千倉、館山市布良でも自分たちが攻撃を受けていると感じたそうです。

法界寺をあとに、漁師町を歩いていると、なんやら庭先で作業をしている人達にあいました。
その作業というのが・・・
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ウツボをひらきにする作業です。房州地方では、「なまだ」と呼んでいます。
作り方は、まず、ぬめりを取る作業を行います。ウツボに塩をふり、足で踏んでぬめりをとります。
その後開きます。
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開いた後は、一枚一枚丁寧にぬめりを取ります。
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それを天日干しにして完成です。
初めて見た作業にお客様もびっくりです。
うつぼは、ゼラチン質を多く含み旨味があるのですが、小骨が多いことから捌くのが難しいそうです。
日本では、高知県や長崎県五島列島の郷土料理、和歌山県の正月料理向けなどで、日本ではごく一部
の地域で食材として流通しています。この房総では、干物を作り、干物をぶつ切りにして天ぷらや煮
物など再加工して食べられる事が多いそうです。書いている私も、食べた事がないので、味に関しては
お話しできませんが、漁師さんに聞くと「うんめぇよ(おいしいよ)」との事です。
試してみたい方はこちらのお店まで・・・(サザエ・アワビ・イセエビもあります)
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珍しい光景をみた後は、畑の中の道を歩きます。
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そんな中、サプライズが・・・
農家の方から、金盞花を取っていいよなんてお言葉をいただきました。
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その後、菜花もいただきました。ありがとうございます。

ウキウキ気分で次に向かったのは、西春法師の入定塚です。
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西春法師は、白浜青木の生まれで本名は武田長治と言います。16歳で漁師となり、少年の頃から
空中を飛んだり、海上を歩いて、人々を驚かせました。19歳の時に仏門に入り、清澄山阿闍梨勢
誉に師事して「照哲」と称しました。さらに「西春」と号して回国行脚、数年間高野山・奥州等で
修行ののち29歳で白浜に帰り、村人達に仏道を諭し教えました。寛文7年(1667)、世間では疫病
が流行し始め、白浜でも猛威を振るうようになり、これを救おうと31歳のとき木食行300日のの
ち、土中の室に籠りました。西春っは「土中から私の打つ鉦の音が聞こえなくなったら、3年後に掘
り出して堂内に安置してほしい」と村人に言い残しました。やがて鉦の音が聞こえなくなり、疫病も
なくなり、3年が過ぎましたが、村人たちはこの石塚に触れることはありませんでした。
また西春は「私が入定した後、私の魂は化身して天空に昇り、布良(めら)の沖に輝く星になるだろう。
そして、この星が輝く時は海が時化るので、決して漁にでていはいけない」と話したといいます。
今でも漁師たちは、南の水平線近くに現れるこの星のことを「メラ星」と呼び、輝きがいつもよりあや
しく光る時は、注意しているといいます。「メラ星」は天文学では、リュウコツ座のα星「カノープス」
です。

次に向かったのは、浅間山&めがね橋。
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めがね橋は県の有形文化財、土木学会推奨土木遺産に指定されています。
橋は、明治21年(1888)に、村民の寄付399円40銭で、地元石工と大工がダイコンで模型を作り、
試行錯誤のすえ精巧な石組で完成しました。橋長は、28.34m、幅員3.94mで本体に使用され
ている切石は「みずるめ石」と呼ばれていて、橋より南南東方向に「みずるめ」という石切場から採掘
されたものです。大洪水や関東大震災にも耐え、第二次世界大戦中には近隣に駐屯した日本軍の戦車の
通行にも耐えました。

ここで、昼食です。その後、観乗院・お地蔵様を通り、めがね橋に使われた石の石切場へ。
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その後、海岸線を歩いていると、下立松原神社の言われがかかれている場所があります。
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そこには、岩が置かれ、岩の上には足跡があります。下立松原神社に関係する由布津主命が
上陸した足跡だという感じです。ちょっと微妙な感じですが・・・
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そうそうここは、ウミウの置き物がある場所です。
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地元の方はお分かりになるかと思います。

後は、野島崎灯台に寄り道して、出発地へ戻りました。
サプライズなプレゼントもあり、みなさん楽しくウォーキングできました。
寒い日が続きますが、どんどん外にでて、体力アップしていきましょう!!

月イチツアー「平松城跡と周辺を訪ねる」報告

新しい年になってもう1ヶ月が過ぎてしまいました。
ここのところ、寒い日が続いています。雪がたくさん降ったりと、大変ご苦労されている地域
の方もいらっしゃるみたいですが、館山・南房総は、路地花が満開になっています。

今回の月イチツアー「平松城跡と周辺を訪ねる」を報告します。その日は、若潮マラソンという
イベントが館山市で行われていましたが、また旅倶楽部では古道を歩いてきました。

スタートは三芳農村環境改善センター(旧村役場)を出発。
ゆめ咲き通りを通って行きます。
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まずは、人丸神社へ。
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人丸神社の祭神は柿本人麻呂です。創立年月不詳ですが、「造立一宇」と書かれた江戸時代の元文6年
(1741)の古い棟札等が残されています。江戸時代には広く崇敬されていたらしく、和歌・俳句の奉納
が多く、歌舞伎役者の二代目団十郎を襲名した海老蔵(享保20年頃)、三代目の三升、四代目の松本
幸四郎(寛保2年頃)の俳句が奉納されています。
柿本人麻呂は、持統・文武朝の歌人で、万葉集の代表的な歌人です。名は「一麿」とも表記されます。
後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられています。
人丸神社は、全国的に見ても数少ない神社です。

次に向かうのは熊野神社ですが、古道(明石街道)を通って向かいます。
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昔、人々が行き来をしていたのが分かるものが街道沿いには残されています。

熊野神社にお参りし、平松城址へ向かいます。
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平松城は、池内平松の台地上にあります。標高約50m、約500㎡の広い半島状の台地で、その西北隅に
標高77.3mの小丘があり、主郭部(本丸)と考えられています。天保3年(1832)立野良道の著わした「房
総志料続篇巻之十二」に「安西は安房郡の内也。池之内といふ処に安西式部の城墟有り、此辺を安西といふ
なるべし。」と記しています。また、通説では治承4年(1180)、源頼朝の安房入国の時、最初に参向した
安西三郎景益の居館趾と考えられています。付近には木戸、御園、馬場畑などの地名が残っており、城井と
して姫ケ井、松葉ケ井などがあります。

城跡を後にして、里見氏ゆかりの寺、延命寺には旧道を通り向かいます。
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途中、馬頭観音の石仏などもあります。

延命寺に到着です。しばし、ここで昼食休憩になります。
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延命寺は、曹洞宗の寺院で、山号は長谷山。本尊は虚空蔵菩薩。開基の里見実堯以降忠義までの後期里見氏
の菩提寺です。慶長年間には里見氏から217石余の寺領が与えられ、その後、徳川家からも同様に与えら
れ保護されました。安房の曹洞宗の中心的なお寺です。観音堂には、十一面観音菩薩が安置され、安房国三
十四観音巡礼の24番札所として知られています。また、天明4年(1784)に江戸の絵師・江府宗庵が製作し
た地獄極楽絵図16幅は、南房総市の文化財に指定されています。この絵のモチーフは悪事を重ねることの
恐ろしさ、現世で善行を積むことの必要性、御仏の慈悲、死の恐怖、生命の尊さとなっており、往時の世相
を反映したものです。公開日は、毎年8月16日です。

本日は、魚鼓(梆)(ほう)なるものを見せていただきました。
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禅寺で「食事の報せ」を告げる合図として鳴らされていました。江戸期に現在の木魚が伝わるまでは、梆の
ことを「木魚」と呼んでいたといわれ、梆が木魚の原型とする説もあります。
魚は寝る時も目を閉じないことから、不眠不休で修行に励む姿の象徴とされ、梆を鳴らすことで、修行僧の
眠気や怠け心を戒める、という意味が込められています。禅宗独自の法具です。

本堂の裏山へ移動します。里見氏歴代の墓に行く手前に(階段下)に里見利輝供養塔があります。
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里見忠義が元和8年(1622)に倉吉で病没し、跡継ぎなしとされて里見家は滅亡しましたが、側室には何人の
男子がいたようで、その一人が利輝(1614年生~1644年没)です。安房の地で育ったといわれ、子孫によ
り供養塔が建立されました。

次に階段を上り里見氏歴代の墓へ。
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後期里見氏、義堯、その子義弘、天文の内覧で殺害された義堯の父・実堯の墓所とされています。
里見氏塋域と彫られた石垣の中に、五輪塔・宝篋印塔など8基が並んでいますが、大部分は積み替
えられていて本来何基あったのかはわからない状態です。また、真ん中にある板石塔婆は、里見と
は関係はなく、鎌倉時代の武士のものです。しかし、この板石塔婆は県指定有形文化財に指定され
ています。

その後、歴代住職墓域をお参りし、延命寺をあとにし集合場所へと戻っていきます。
延命寺には、まだまだ石碑・石仏などがありますので、ぜひお参りに行って下さい。

そんなこんなで、無事に1日が終わりました。今回は、神奈川の綾瀬市からや千葉市からのお客様
も来ていただきました。若潮マラソンが開催されていたので、帰りの渋滞とか大丈夫だったか心配
です。また、これに懲りずお越し下さい。

シリーズツアー(花)「江月の水仙の郷探訪」報告

明けましておめでとうございます。いつもガイドの独り言を読んでいただきありがとうござい
ます。本年も、頑張ってご報告いたしますので、よろしくお願いします。

さて、昨年末に開催いたしました、シリーズツアー(花)「江月の水仙の郷探訪」の報告です。
今シーズンは暖かい日が多く、水仙の花も早く咲くはじめました。ウォーキングするにも、良い
気候です。
スタートは、鋸南町の道の駅。隣接する場所に、菱川師宣記念館もあります。
菱川師宣は、江戸初期に活動した浮世絵師です。「見返り美人図」の作者であり、浮世絵の祖と
も呼ばれています。なぜ?ここに記念館があるかといいますと、菱川師宣は、安房国保田(千葉
県鋸南町保田)で縫箔刺繍業を営む父菱川吉左衛門と母オタマの間に、7人兄弟の第4子長男と
して誕生しました。とういう事で、鋸南町に記念館があるのです。

前置きは長くなりましたが、道の駅をスターとし、水仙ロードを歩きますが、また旅倶楽部は、
普通に水仙ロードに行くわけではありません。ガイドツアーですので、途中・途中の神社仏閣
や石仏・植物などの話をしながら、ウォーキングしていきます。
まずは、吉浜神社です。
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ここは、吉浜地区の鎮守です。祭神は天照大御神です。
同じ吉浜地区にある中谷山妙本寺の守護神として北に天照大御神と、南に仏教を守る第六天欲界の
王「他外自在天」を祀ったといわれています。保田の合同祭礼には大杉山車を出祭します。

小道を通り、次に向かったのは古峰神社・秋葉社です。
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どちらも火伏せの神様です。古峯神社の祭神は大和武尊です。草薙の剣で火難を逃れた焼津の故事
から火難除けの御神徳ありと祀られています。秋葉社の祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちおお
かみ)です。

水仙ロード入口付近に石仏があります。
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水仙にこまれ、これからのウォーキングの安全を見守ってくれるかと思います。

ここ江月の水仙のお話しを少しします。
保田地区の水仙は、江戸時代から有名で、船で江戸に出荷され、江戸の正月を飾る花として、江戸の
町屋や武家屋敷に呼び売りされ、とても人気がありました。その昔、近くのお寺の和尚さんが中国か
ら持って帰り、植えて広まったのが保田の水仙のはじまりと伝えられています。和水仙は別名「雪中
花」とも呼ばれています。スイセンの学名は「Narcissus(ナルシサス)」。ギリシャ神話に登場す
る美少年ナルキッソスに由来します。「水仙」という漢名は、中国の古典の「仙人は、天にあるを天
仙、地にあるを地仙、水にあるを水仙という」に由来し、水辺で咲く姿を仙人にたとえたものと考え
られます。花言葉は、色別・種類別でもありますが、全般では、「うぬぼれ」「自己愛」です。
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水仙ロードを入っていきますと、源頼朝の伝説にも遭遇します。
まずは、馬の住です。頼朝が長狭に向かう途中、江月の山間で一頭の馬を献上されました。この馬が
のちに、佐々木高綱と梶原景李の宇治川の先陣争いで活躍する名馬「池月」と言われています。江月
の地名は「池月」が訛ったと言われ、馬が居た場所が「馬の住(まのすみ)」という字名が残ってい
ます。名馬「池月」の話は、日本各地に点在しています。

そこから少し上に行ったところに、武台があります。頼朝が名馬を貰ったお礼に「武士舞」を踊った
場所です。名馬を献上した方にその徳を讃え「馬賀(まが)」の姓を与えたそうです。

ここまでが、水仙ロードの中間地点あたりだと思います。さらに上へ登って行き、水仙畑を通り鶴ケ峰
八幡神社へ向かいます。江月の最奥にある鎮守です。
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祭神は大山祗命(おおやまづみのみこと)。創立不詳。神社下の馬賀家は屋号を「禰宜どん」と言い、
神主を務めていたようです。社殿建築は安房国の総社、鶴ケ谷八幡宮造営の初代棟梁を務めた名工・
中沢久五郎正友です。一流の宮大工として仕事をし、彫刻も宮彫師を超える腕前であったと言います。

神社にお参りしたあとは、昼食休憩し下山していきます。途中にいぼ神様がおります。
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昔、江月村にいぼが流行した時に、このいぼ神様にお供えした線香の灰を「いぼ」に塗ると「いぼ」が
消えたという言い伝えがあります。

次に向かうは地蔵堂です。
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延命山地蔵院。本尊は三躰地蔵尊。創始不詳ですが、文化13年(1816)に被災、慶長2年(1597)の検地
帳に定楽(人名)が記されており、現在は部落の字名として残っています。この時代にはお堂があったと
思われます。

地蔵堂の前の場所からは、天気が良い日には富士山を見る事ができます。今回の写真は、以前行った時の
写真です。
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帰りにもう1つ頼朝伝説をご紹介します。
馬つなぎ石です。献上された名馬「池月」がつながれていた石です。
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大きさが分かりづらいので、本日はガイドさんに登場してもらいました。
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大きさわかりましたでしょうか?

さらに来た道を下っり、出発地点へ戻ります。水仙まつりが開催して、すぐに行ったので、観光客の方は
少なかったようですが、2月7日までやっておりますので、1月の土日などは混んでくるのではないかな?
と思います。ルールを守ってお花を楽しんで下さい。

こんな感じで、本年もがんばりますので、よろしくお願いします。

月イチツアー「安房中央ダムと周辺散策」報告

12月に入りました。あっという間に1年が終わろうとしています。
今年の12月は、暖かかったり寒かったりで体調を崩されてる方もいるようで・・・
年末なにかと忙しくなると思いますので、体調には気を付けていきましょう。

さて、12月第一日曜日に月イチツアー「安房中央ダムと周辺散策」を開催しました。
天気はバッチリで少し風が冷たい位で山に登るのにはちょうど良い天気でした。
今回のコースは、小野次郎右衛門生誕の地公園の下の風車の前から、安房中央ダム、410号
とは違う道を通り犬切部落、経塚山と通り帰りは同じ道を通り集合場所へというコースです。

集合場所は小野次郎右衛門生誕の地公園の下の風車でしたが、この公園はなに?という
ことで・・・まずは、小野次郎右衛門の説明を。小野次郎右衛門忠明は、安房国朝夷郡御子神村
に生まれ、御子神典膳と言い、はじめ里見義康に仕えましたが、たまたま来遊した一刀流開祖伊
藤一刀斎景久に弟子入りし、兄弟子を打ち破り、一刀斎から一刀流の継承者に選ばれたとされて
います。文禄2年(1593)、一刀斎の推薦で、徳川家康に仕官し、徳川秀忠付となり、柳生新陰流
と並ぶ徳川将軍家剣術指南となりました。このとき、名を小野次郎右衛門忠明と改名しました。
忠明は生来高慢不遜であったといわれ、同僚との諍いが常に絶えず、一説では、手合わせを求め
られた大藩の家臣の両腕を木刀で回復不能にまで打ち砕いたと言われ、遂に秀忠の怒りをかって、
大阪の役の後、閉門処分に処されました。寛永5年(1628)60歳で死去しました。
そんな小野次郎右衛門の生誕の地としてつくられた公園です。

公園を出発して一つ目のトンネルです

ここを抜けると宮下という部落になります。今の時期は、ダムに水がないため、昔の村の感じが
わかります。
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山入集会所の近くには、勝軍地蔵と観音様の石仏があります。
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左側が観音様で、右側が勝軍地蔵です。
勝軍地蔵は、これに祈れば戦に勝つというお地蔵様です。鎌倉時代以後、武家の間で信仰されま
した。地蔵菩薩が甲冑を着け、右手に錫杖を持ち、左の掌に如意宝珠を載せ、軍馬にまたがった
姿をしたものです。この写真では、馬にまたがっている姿が見えます。

次は、赤く塗られた橋を渡ります。橋は2本。最初が二の滝橋、次が犬切橋といいます。橋と橋の間には、
トンネルがあります。

写真で見えてい橋が、犬切橋です。トンネルの手前には、不動明王の石仏が置かれていました。

犬切橋を渡ると犬切部落に入ります。入ったところには、お地蔵さまと牛頭観音が祀られています。
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お客様とガイドは、経塚山へとアタックを開始しますが、今回は体調不良という事で、ここから、
ガイドににお任せして引き換えしました。なので、経塚山のレポートが書けなくてすみません。

少しですが、紅葉の写真を撮りました。
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なかなか良い景色で、房総ならではの遅い紅葉を楽しむ事ができました。

そうそう、犬切という地区ですが、伝説が残っているので紹介します。
「犬切考」と「房州犬切縁起」と二つありますが、今回は、「犬切考」のお話しを書きます。
室町初期の頃、或る冬の日暮れ近い大沢に旅に疲れたの女性が大きな犬に支えられながらこの地に
やってきました。村人は気の毒なあまり、声をかけ休ませてあげましたが、女性は起き上がる事が
できなくなってしまいました。犬はというと立派な忠犬で、昼も夜も主人の側から離れず、食事も
主人以外の人からは一食も食べませんでした。しばらくして主人の女性は亡くなってしまいました。
亡くなってから身元を調べてみましたが、持ち物とて何一つ無くまったく素性は分からなのでした
が、気品の高い面容、上品な言葉、動作は優雅、何一つ卑野な処はなく、都の貴族か一国一城の貴族
の未亡人か、到底田舎の者とは思われない気品のある方でした。この頃は戦乱の続いた時代でしたの
で、都の辺りでは一日として安寧な日はなく、その女性もなんらかの事情で、当てもなく地方に流浪
に出た者ではなかったのでようか。いくら介抱され惜しまれても弱り果てて亡くなった女性は、詮術
もなく集落の人々の厚意で形計りの野辺の送りが営まれました。墓標として楓の木を植え傍らに葬ら
れました。残された犬は、元来主人に忠犬な犬だったので、悲歎の様は見るに忍びない有様でした。
主人の埋められた辺りに行っては涙も声も枯れ果てる程悲しみ鳴いていましたが、日数が経つにつれ、
犬は狂態し、墓を堀り起こしたり、犬や猫・馬・牛・人間まで飛びかかってくるようになりました。
村人達は困り、思えば可哀想だが、殺してしまうほか手段がないという事になりました。弓・竹槍・
殴り棒・網などを使い犬を殺してしまい、刀を持っている人々に一太刀づつ切られ、藤蔓で足を縛られ
たまま山の中を引摺られて、最後に「犬抛り崎」から本川に投げ落とされてしましたした。
なんだか悲しいお話しですが、この地域には、犬射り場や犬鳴かせ、太刀洗井戸などの場所が語り継が
れています。

今回は、旧丸山町を散策してきました。次回は、鋸南町を散策してきます。

お散歩ツアー「安房自然村と洞窟壁画」ツアー報告

約一ヶ月ぶりの更新です。11月15日に予定しておりました月イチツアーが、雨天の為
中止となり、報告ができなかったので、少し間が空いてしまいました。

最近、ウォーキングツアーの日になると雨の心配をしています。今回のお散歩ツアーも雨
が心配されていましたが、出発する頃には雨もあがり、なんとかツアーをする事ができま
した。今回のお散歩ツアーは「安房自然村と洞窟壁画」のツアーです。

集合場所は、安房自然村の駐車場。今回は、許可をいただき駐車させていただきました。
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まずは、能忍寺の地蔵堂へ。
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地蔵堂への階段の脇に面白い石造が立っています。
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能忍寺の説明を少しします。山号を不老山といいます。安房自然村の丘上にあるお寺で、
お薬師様を祀っています。口伝によりますと、古代、布良海岸に忌部一族が上陸した場所
で、この付近には古くから朝鮮半島からの人が住み着いていて館を構えて、お薬師様を祀っ
ていたといいます。そんな言われがあり、人物の石像や燈篭などから朝鮮半島の雰囲気が
漂っています。

地蔵堂は、茅葺屋根でだいぶ朽ちてしまって、修復中でした。
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次に達磨堂へ向かいますが、達磨堂の手前に家があります。ここには、「赤坂小梅」が住んで
いたとか・・・
「赤坂小梅」は昭和時代に活躍した日本の芸者歌手です。 1906年に福岡県で生まれました。
1920年16歳の時に芸者になり、その後、歌の才能を認められ、1931年上京し、ビクター
から新民謡を数曲吹き込んでいます。1933年にコロムビアに専属入社し、古賀政男が作曲した
「ほんとうにそうなら」でデビューしたちまちヒットしたそうです。翌1934年に江口夜詩作曲の
「そんなお方があったなら」がヒットし歌手として不動の地位を築きました。その後、民謡などを
吹き込み、「黒田節(筑前今様)」を初めてレコード化しました。「おてもやん(熊本甚句)」
「炭鉱節」なども代表曲です。NHK紅白歌合戦の初期に4回出場しました。
1981年、芸能生活60年、歌手生活50年という長い経歴に幕を下ろし、引退後、ここ自然村に
引っ越してきました。「小梅民謡教室」などを開くなどしていたそうです。1992年心不全のため
亡くなり、葬儀は、この能忍寺で行われたそうです。赤坂小梅さんの話はここまでとして、達磨堂へ。
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お堂の前には、虎の像が一対置かれています。達磨堂の守護獣とし置かれたものだそうです。
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虎の像は韓国からのものだとのことですが、奉納年など詳細は不明です。

能忍寺の本堂を目指し上っていきます。
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本堂の前にも虎と思われる置き物があります。
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ちば眺望100景にも選ばれていまる場所でもある能忍寺の本堂の側にある展望台からの
景色です。まだ雲が重い時でした。天気がよければ富士山も見えるのです。
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能忍寺をあとにして、壁画を見にいきます。この壁画が描かれてる場所は終戦後廃墟となった地下壕の中
に「捨身飼虎(しゃしんしこ)」釈迦の前世の王子は、飢えた母虎と七匹の子のために、自ら餌となり身
を投じた説話や、菩提樹の下で悟りを開いた「樹下成道(じゅかじょうどう)」など、生・老・病・死の
四締、それを滅する八正道を悟った仏画が描かれています。
修行道場として使われ、絵のまえで座禅をくんでいたそうです。
トンネル内はしっかりしていますが、出入口付近が、土砂崩れしています。

壁画を見たところで、出発地点に戻っていきます。
途中、南房総市白浜町の根本海岸が見えるところで、小休憩を。
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天気も良くなり、海がまぶしいです。

景色に癒されたあとは、山を下ります。コンクリートの道なんですが、滑りやすいので気を付けております。
次に向かったのは、小谷家住宅と布良崎神社。

小谷家は江戸時代から続く漁家で、明治19年に廃業するまで船主でした。当時の布良の集落は、ほとん
どが茅葺屋根をもつ家でした。明治9年、明治22年、大正12年に大火があり、多くの家が焼けてしまい
ました。小谷家住宅は、建てちの低い平屋建てで、内部の土間はなく、下手に差し掛けの土間・炊事棟を建
て、安房地方に多くみられる分棟型民家の系統をひいています。屋根を桟瓦葺き、一部を大壁造りとする
など、防火を考慮した造りとなってて、明治22年の大火後の再建と考えられています。
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また、洋画家青木繁が明治37年にこの住宅に、約2か月近く滞在していました。布良の海を題材に、数多く
の海の景色を書きました。その中でも有名な油彩画「海の幸」です。小谷家住宅は「海の幸」制作に係った
家としても広く知られています。

現在は、築約120年と老朽化した家を保存するために、修復中です。この保存活動に美術家グループ「NPO
法人青木繁『海の幸』会」や、地元住民団体「青木繁<海の幸>誕生の家と記念碑を保存する会」、小谷家、
館山市の四者が連携して保存活動しています。中でもノーベル賞受賞された大村さんは、「NPO法人青木繁
『海の幸』会」の理事長を務めていて、保存をするための事業として、多大な寄付もしています。
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来年の4月には一般公開できるようになるという事です。

小谷家を後にし、布良崎神社へ。
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祭神は天富命(あめのとみのみこと)。古くは蔵王権現を祀っていた神社でしたが、天富命の徳を偲んで、
祭神にしました。玉石垣は、伊豆七島より漁師が漁の度に運んで集めた玉石で積み上げてあります。

今日はここまでで終了です。お散歩コースで、少し時間が短いですが、充実した内容だったかと思います。
12月のウォーキングツアーは、12月22日シリーズツアー(花)です。鋸南町江月の水仙の郷探訪
です。水仙ロードを歩きますが、また旅倶楽部ならではのガイドを入れながら歩いて行きます。是非、ご
参加下さい。

特別企画歴史ツアー「後藤利兵衛橘義光」報告

11月に入り、また旅倶楽部でも文化・芸術を楽しむ歴史ツアーを開催しました。
今年は、「安房三名工」の一人「初代後藤利兵衛橘義光」の生誕200年を記念して安房に
残さた初代義光の作品を見学しに行きました。

集合場所は、いつもの館山市の城山公園から出発です。
見学場所を説明する前に、初代後藤義光の事を少しお話ししておきます。
初代は義光は安房の代表的な宮彫り師で、木彫彫刻の名手と言われ、現在も続く後藤彫りの
初代です。文化12年(1815)、千倉の大工山口弥兵衛の子として生まれました。幼少より、
彫り物の才能をあらわし、14歳の時に高さ4尺の大黒天を刻み、人々を驚かせました。
江戸京橋に住む宮彫り師、後藤三次郎橘恒俊が、文政年間に長狭の社寺造営に訪れた際、利
兵衛は三次郎に入門し、数年後、師に代わり「後藤利兵衛光定」の名で神奈川県横須賀市浦賀
の叶神社の社殿彫刻を彫り名声を上げました。30歳代頃に鎌倉で活躍をし、42歳になって
千倉へ帰郷し、多くの作品を手掛けました。80歳の初め頃に、館山市上真倉に移り住み、
明治35年(1902)に88歳で亡くなりましたが、多くの作品と多くの弟子を育てました。

今回のコースは、そんな初代義光の作品を見に、最初に目指したのは、西養寺へ。
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真言宗のお寺で本尊は不動明王です。義光の菩提寺で、初代義光(利兵衛)夫婦・二代義光
(紋次郎義政)夫婦・三代義光(山口滝治)夫婦・三代義光次男(光治)などの墓があります。

作品は、客殿向拝の玉取龍・象・獅子の彫刻です。
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天保15年(1844)、義光がまだ光定と称していた頃のもので30歳の頃の作品です。

墓地の入口に蛇紋岩で造られた260cm程の石造地蔵菩薩半跏像です。
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南房総市指定文化財で、嘉永年間~明治十年代で、反花座正面に「牡丹」・基礎正面に「獅子」
・左綿に「波に宝珠」・右面に「波に亀」が彫刻されています。

他にも義光作と言われている作品がありますが、他は秘密にしておきましょう。

彫刻では、ありませんが、魚籃観音堂もご紹介しておきます。
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屋根に銅製の大きな鯛が乗っています。外房・内房の漁師の信仰が厚く、地域産業の振興、家運繁盛
塔の祈願所として参拝者が多かったといいます。

お墓です。
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次に目指したのは、鴨川市にあります龍性院。
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真言宗のお寺で本尊は大日如来。創建年代は不明です。かつては福性院と言われていましたが、明治
3年(1870)、不動山龍性院に併合されて龍性院と改めました。山号の飛梅山は、源頼朝がここに立ち
寄り梅の枝を刺して吉報を待ったことに由来するそうです。

本堂向拝の龍です。
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二体の龍が、上下に置かれていますが、下段は平成12年の本堂新築時に作成されたものです。
上段の龍は、慶応4年(1868)、義光54歳の作品です。工事中に一部修復されました。

本堂には、同年代の作として、弟子の利三郎・庄三郎・勝次郎等と共に彫った鷹に松の欄間彫刻
があります。
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客殿には文久3年(1863)、義光49歳の作で木鼻の獅子や籠彫りによる鯉に波の肘木や三代義光
の蛙股などが保管されています。
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今回は特別に、本堂と客殿を見学させてもらいましたので、勝手に入ったりしないようにして下さい。

昼食は、鴨川市のみんなみの里で・・・・
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農村のレストランだけあって、野菜中心の昼食です。おにぎりのお米は長狭米。
おいしくいただきました。

昼食のあとに向かったのは、大徳院。
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真言宗智山派円蔵院末のお寺で、現在の本尊は不動明王です。寺伝によれば、境内の地蔵堂は天文年間
(1532~1555)、里見義堯により建立され、地蔵菩薩を本尊とし不動明王、毘沙門天を祀っていたと伝え
られています。地蔵堂には、今も不動明王、毘沙門天を脇に据えた木造の地蔵菩薩立像があります。

地蔵堂の中に、総高192cm、像高95cm、膝前76cmの石造地蔵菩薩坐像があります。
明治5年(1872)、義光58歳に作成したものです。
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本像は、嶺岡山系産出の蛇紋岩を用い、光背から地蔵像及び請花、敷茄子までを一石として、返り花を
配した六角形の台座をもう一つの石に彫っています。石造地蔵尊としては安房郡市内において、最大級
とされ、義光が最初に手掛けた石造物と思われます。

こちらも通常は、開けて見る事ができないのですが、1月24日の初地蔵の日に開けて見る事ができます。
今回は特別にご住職に許可をいただき、檀家さんに来てもらい開けてもらいました。

次に向かったのは、勝善寺です。
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浄土真宗(真宗大谷派)で本尊は阿弥陀如来です。開創は元仁元年(1224)とされています。
明治3年(1870)の火災後、現本堂は明治13年(1880)に、向拝は明治35年(1902)に再建されました。

総けやき造りで、向拝を四本にして向拝正面を三分割し、中央の龍の左右には、阿吽の虎が配されて
います。梁の先端(木鼻)には巻き毛に牙・足・火炎をもつ獏。向拝柱の四本に取り付けられた四態
の手ばさみは圧巻です。義光晩年の88歳の作品です。義光は、明治35年この仕事を終えて没して
います。
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本日は、ご住職の計らいで本堂でお話しを聞く事ができました。
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また、また旅倶楽部の語り部とコラボでお寺にまつわる飛び石の民話も披露いたしました。
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今回のツアー最後の見学場所、妙本寺へ。
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日蓮宗富士門流の本山で本尊は十界曼荼羅。日郷上人が保田の地頭佐々宇左衛門尉から寺地の
寄進をうけ、建武2年(1335)に開創しました。戦国時代に数々の兵火により堂宇の大半を焼失
しています。現在の客殿は、元治元年(1864)に造営しました。

客殿向拝の龍と蟇股の龍は義光50歳の作品です。
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他に力士像には「喜内伊丹敏英作」とあり、獅子鼻・しかみなどの彫刻は宮大工伊丹喜ないの作です。

5か所めぐってきましたが、素晴らしい彫刻でした。
最近では、なかなかお寺に行く事がなくなってきているようですが、仏さまに手を合わせるだけでは
なく、彫刻や歴史について少し調べてみると、お寺も近くなるような気がします。これから紅葉も良く
なってくる季節です。ぜひ、お寺さんにも足を運んでみてください。

お参りする際には、信仰の場ですので、マナーを守って下さい。以前、別のご住職からお聞きしたので
すが、「法事をやっているのにもかかわらず、本堂に入ってきて困った」とか「木魚をたたいた」とか
「急にこられて、本堂を開けて見せろ」とか自分勝手な方がいるそうです。あと、仏像が盗まれたり、
彫刻が盗まれたりという話も聞きます。勝手に物を持ってきては窃盗です。勝手に本堂に入るのは不法
侵入です。全て犯罪になりますので、節度のある行動をお願いします。

月イチツアー「稲村城から宝貝の里」報告

11月になってしまいました。 だんだんと寒くなってきて、なんとなく寂しい雰囲気に
なってくると「旅」に出たい気分になってきます。温泉でゆっくりとしたいなぁ~なんて
思ってしまいますが・・・・

今回は、10月25日に開催しました、月イチツアー「稲村城から宝貝の里」の報告をします。
天候にも恵まれ、気持ちのいいウォーキングになりました。

出発は、稲村城の下のお宅の空地をお借りしました。今回は、千葉市の方からもご参加いただき
ありがたい事です。
今回のコースは、稲村城跡から白浜城跡へ向かう古道なんかも通るコースです。

まずは、稲村城跡へ。
稲村城は、室町時代の15世紀後半から天文3年(1534)に里見家の内乱によって、里見義豊が
滅ぼされるまでの、前期里見氏の居城でした。城は東西500m、南北500mの丘陵で山頂は
広い主郭や土塁、3箇所の堀切などがあり、北側と西側は急斜面の要害で、東側と南側には複雑
な腰曲輪を重ねるなど、数多くの遺構が残されいます。2012年に国史跡指定になりました。
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今回は、富士山まで見えました。
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城下の景色は違いますが、当時も富士山がバッチリ見えてたんでしょうね。

ここからは、白浜古道を通っていきます。昔は、白浜までの道があったらしいのですが、新しい
道路を作っていしまったので、分断されたり埋もれたりしてしまったらしいので、今日は少しの
距離を歩きます。
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小一時間位歩いて行くと稲村堰が見えます。
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この日は日曜日という事で、習志野ナンバーの車が数台止まって、ブラックバスを釣りに来てい
ました。

稲村堰を後にし、舗装した道路をあるきます。途中、たくさんの牛がいたりして、田舎の臭いの
洗礼そうけながら、宝貝地域へ。
宝貝(ほうがい)の里は、応永30年(1423)の鎌倉公方足利持氏御教書に安東又三郎の旧領地と
して安房国安東郷内「朴谷村」とみられます。宝貝の地名は「ホウガヤツ」がなまったものでだと
言われ、今も「宝ケ谷」という小字が残っています。鎌倉の極楽寺子院宝塔院の所領があったこと
が確認されています。また、江戸時代には北条藩屋代氏が支配しましたが、以降領主が度々交代
しています。

覚性院へ。
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真言宗のお寺で、千倉町の円蔵院の末寺、当国百八箇所地蔵尊の内六十九番札所です。
中世の石造阿弥陀像と宝筐印塔の残欠が見られます。
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入り後津の六地蔵はお盆の8月24日には地蔵参りとして昭和40年頃まで露天商が
並び賑わいを見せていました。
ちなみにこれが、入口の六地蔵です。
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こちらで、お昼休憩です。休憩の後は、伝説の場所へ。
覚性院の脇に小高い丘陵があります。ここはお墓の墓地となっています。この丘の頂上に
石造の小さな祠があります。村の人々は「レイジンサマ(伶人様)」と呼んで、大切に祀って
います。「伶人」は、一般的に雅楽を奏する人を指していますが、宝貝の伶人様は少々怨念
めいた言い伝えがあります。 昔、お寺にいたお坊さんは他人のものを盗む悪い人でした。
あまりに悪事を重ねるので、これに耐えかねた村の人は、このお坊さんを山奥へ連れていって、
生き埋めにしてしまいました。それ以来、村には悪い風邪が流行し、幾たびも疫病に悩まされ
るようになりました。「これはきっとお坊さんの祟りにちがいない・・・」と、人々は祠を
作り、手厚く供養すると、疫病もはやらなくなり、村は平和にたりました。
この伝説がいつ頃のことかはわかりませんが、以来宝貝では毎年8月20日えお伶人様の日と
決めて、オコモリをするようになりました。
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次に向かったのは、宝貝地区の氏神様の熊野神社。
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祭神はイザナギ・イザナミの命。1月20日には祭典が行われ、五穀豊穣、家内安全の祈願
されます。2月3日の節分の夜には境内を刈り清めた木々が積まれ、厄除けの大火が炊かれ
ます。

ここまで、きたらあとは帰路に向かいますが、途中、須藤牧場で休憩を・・・
ここでは、牧場の牛乳を使ったアイスクリームを楽しむ事ができます。
残念ながら、食べるのに夢中で写真を撮るのを忘れていました。

JR九重駅を通り、集合場所へ。途中に二子という地区があります。丘陵の北部の突き出た
二子上の小山につなんでつけられたといわれています。その山頂にはふたつの塚がみられ、
これはリョウシャ様といわれ里見の高田姫が生んだ双子を祀ったとの伝説があります。

こちらの地域は、古くから鎌倉幕府とのつながりがあった場所でもあります。2月には、
お散歩ツアーで安東郷を探索します。

天気もよく無事にウォーキングツアーは終了しました。次回の月イチツアーは11月15日、
「頼朝伝説と古道「木の根峠」を訪ねる」です。ご参加お待ちしております。

イベントツアー「男金神社の祭礼」報告

もう10月も中旬になってしまいました。だんだんと寒くなってきて、朝日が昇るのも
遅くなりました。

さて、10月の3連休の中日に行いました、イベントツアー「男金神社の祭礼」の報告
をします。「男金神社」は「おがなじんじゃ」といいます。ずっと「おかねじんじゃ」と
思っていて、お金がたまる神社なんだぁ~なんて思っていました。「男」に「金」ですから(笑)
そんなこんなで、誤解がとけ、ウォーキングツアーはスターとしました。

スタートは鴨川市役所。当日は、雨で雨具を着用しての出発です。
たぶん、雨ごいの神事なので、雨が降ったのではないかと・・・(でも神事の前なんですが・・・)
区画整理された田んぼを見ながら、まずは和泉公会堂を目指します。
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和泉公開堂は国登録有形文化財に指定されている建物です。明治42年(1909)着工された耕地
整理の完成を機に、和泉区の住民が一堂に会する施設が必要ということで、大正10年(1921)に
建設された、地区住民の共有建築物です。耕地整理の記念碑的な建物でもあります。瓦葺寄棟屋根
の主屋の外周に庇を差出し、正面にムクリ入母屋の車寄玄関を突出させた、和風公会堂建築に共通
した形態をとっています。

10時から祭典ということで、慌てて男金神社へ向かいます。
鳥居をくぐり参道を歩いて行きますと、階段が見えてきます。
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社殿は、まったく見えてきません。急な階段を338段のぼっていきますと、やっと社殿が見えて
きます。かなり、ハードな階段です。
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男金神社は、祭神が天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)。創立年代は不詳。
享保20年(1735)に本社を再建し、その後、明和5年(1768)と文久2年(1862)の2回改修しました。
古来社名を妙見山あるいは妙見社と称していましたが、明治維新の後、男金神社と改めたそうです。
向拝等の彫刻は、武志伊八朗由美作伊八三代目の龍です。
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なかなかの迫力があります。

と下に目を向けると、不思議な彫り物が・・・
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妖怪のような物が彫られています。(たぶん亀だと思われますが・・・)
かわいらしい彫り物です。

今回は雨のため、「和泉の三役」は社殿の中で行われていました。
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「和泉の三役」は五穀豊穣と無病息災を祈念し、棒術、鞨鼓舞、神楽獅子舞の3つが揃って奉納され
ます。和泉地区の三地区それぞれが行っていたものを三役として揃って奉納したのは江戸時代の文政
年間頃と伝えられています。この三つの組み合わせは県内でも珍しいものです。
棒術を見るのは間に合いませんでした。
不謹慎ですが、この獅子の顔がとてもチャーミングで、見ていると笑顔になってしまいました。
お昼には、和泉公会堂で、再度見ることができますが、今回は別の場所へ移動しました。

のどかな道を通り、薬王院へ。
IMGP1807写真は薬師堂です。
薬王院は真言宗の寺院で、山号を慈永山と言います。建立や沿革については明らかではありませんが、
奈良時代天平年間(729~749)に、行基菩薩の開基とされています。本堂は宝歴14年(1764)に上棟、
その後、安永9年(1780)に29歳の伊八が作成した龍虎の欄間が飾られました。薬師堂は、堂内の柱に
かかれた墨書から、天保5年(1648)に建立されたことがはっきりとしています。安房地域でも数少ない
江戸時代初期の建築物です。2012年に改修工事がされました。

今回は、本堂の中の伊八の作品を見せていただくことができました。
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薬師堂の前には、とても素敵な石仏群があります。
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お弁当もこちらで食べさせていただき、次へ出発します。
次に向かったのは、花蔵院。
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真言宗の寺院で、山号を慈眼山。本尊は観世音菩薩。創立年代は不詳ですが、寺伝によれば、
永禄元年(1558)に中興開山されたといいます。本堂の向拝の龍は、三代伊八の作品です。
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境内に道標の六地蔵があります。
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享保16年で、「是より清澄道 左 是より 西大山道」と読み取れます。

あと、微笑ましい石仏がありました。
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心が洗われる気がしませんか?

癒されながら、スタート地点鴨川市役所まで戻ります。雨は途中からやんでくれて、よかった
です。
次回は、10月25日の月イチツアー「稲村城から宝貝の里」で、稲村城と白浜城をつなぐ古道
を通り宝貝へと歩きます。最近はイノシシが通っているそうで・・・・そんな道を歩いて行きます。
ご参加お待ちしております。