月イチツアー「鴨川港町の歴史を訪ねる」報告

3月に入り、だんだんと春めいてきました。
っと同時に花粉が大変な事になっております。マスクして歩くと苦しいし・・・
マスク外して歩いていますが、室内等に入ると大変な事になっております。
そんな花粉にも負けずに、鴨川の港町を歩いてきましたので報告します。

当日は、天候が不安定でして・・・集合時間には、雨が降っていたのですが、歩きだす前には
雨もやみました。最近は、なんかウォーキングツアーの日には天候が良くなくて、困っていま
したが、今回は晴れ女の勝ちだったようです。

集合場所は、鴨川フィッシャリーナ鴨川駐車場。神社仏閣を回って、一戦場公園・魚見塚へ。
まずは、白幡神社の所にある観音堂へ。
観音堂の前には、石造の五智如来があります。
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五智如来を簡単に説明しますと、密教で5つの知恵を5体の如来にあてたものだそうです。
石造の五智如来を刻んだものとしては安房地方で唯一の例で、板碑型に五智如来(五仏)の尊像
が浮き彫りにされています。中央が金剛界の大日如来、左上が阿弥陀如来、左下が阿閦如来、右
上が釈迦如来、右下が薬師如来です。ちょっと本来の配置になっていないので、不思議です。

白幡神社です。
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祭神は日本武尊。平安時代初期の弘仁2年(811)正月の創建と伝えられています。創建当時は海に
近い場所に建てられていたといいます。源頼朝が平家打倒と源家再建を祈願し、源家の旗である白
幡を納めたことから白幡大明神と言われるようになったといいます。彫刻は向拝正面の龍は初代義
光の作です。

次に向かったのは、心巌寺です。
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本尊は阿弥陀如来で、浄土宗の寺院です。
文永2年(1265)記主禅師が安房国北風原に創立し、天文2年(1533)「里見氏の内乱」により焼失
してしまいました。天正5年(1577)里見氏の重臣、正木頼房が土地を寄進して再建したと伝えられ
ています。創立した記主禅師という人は、すごい人なんです。浄土宗第三祖。二祖の弁長の教えを
継いで専念念仏をひろめ、多くの書を著して浄土宗の教学を大成しました。主として関東に布教し、
多数の寺院を建立して門弟の育成に専念し、浄土宗教団の発展への礎を作った人だそうです。

本堂の中には、これまた最近はっきりしたという初代伊八の彫刻があります。
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幅290cmの龍の彫刻2点が取り付けてあり、この龍は阿吽の一対になっています。
彩色は、比較的近年のものと思われますが、当初から色が塗られていたかはわかりません。

本堂前には、釈迦如来坐像があります。
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寛文4年(1664)と年代も古いもので、お顔をみるとなんだか微笑んでしまうお釈迦さまです。

境内の入口付近には、頼房と妻の二人の供養塔があります。
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次に向かったのは、石子山磨崖仏です。
心巌寺の裏山を地元では石子山と呼んでいるそうです。この山の崖には文字磨崖仏が刻まれています。
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高さ8mあまりの垂壁の上部には梵字の「ユ」が大きく薬研彫りされています。この梵字は弥勒菩薩
を表現したものだそうです。奉納者の中には、長野や四国徳島の人名まで刻まれています。
享保元年(1716)の造立です。
弥勒菩薩ってなに?と思った方、弥勒菩薩は、遠い未来、慈しみにより生あるものすべてを救うという
菩薩様です。

次は、一戦場へと向かいますが、ここから坂道がきついのです。石子山磨崖仏から一気に登りになる
のです。という事で、なんとか一戦場公園へ辿りつきました。
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ここは、源頼朝が石橋山の戦いに敗れ、伊豆から安房に逃れてきて鴨川市の貝渚あたりに辿りつき、
加茂川近くの八兵衛という網元の家に泊まりました。ところが、金山に居城をかまえていた長狭六郎
常伴が、百騎余りを従えて夜襲をかけてきました。情報提供者により、家人の三浦義澄は、先手を取
って戦い常伴群を打ち破り、常伴は討死して源氏の大勝利でこの戦いは終わりました。この戦いが行
われたのが、ここの「一戦場」として市民の公園になっています。

公園の手間には、嶺岡牧一戦場野馬土手址・大浦木戸址があります。
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ここは嶺岡山系の東端に位置しています。戦国時代、安房の国主里見氏により軍馬育成の為の牧場が
開かれて場所です。その後、江戸幕府の直轄となり、八代将軍吉宗の時代に大きく展開し、軍馬だけ
でなくインドから乳牛を導入し、日本酪農発祥の地となりました。嶺岡町では、野馬が崖から落ちた
り、牧の外に出て農作物を荒らさないように、牧を土手や掘、柵で囲っていました。年に一度、放牧
した馬を捕獲する「馬捕り」の行事が行われ、その光景は非常に壮観で祭りのような賑わいを見せた
といわれています。ここは、捕えられて馬を外に搬出する数少ない出口の一つになります。

お昼まで残り1つの見学場所、馬頭観音へ。
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県下最大級の馬頭観音です。三面六臂の馬頭観音坐像で、髪型は典型的な怒髪、その表情も憤怒相で
全身に緊張感がみなぎっています。結跏趺坐する脚の下には、波間に身を躍らせる竜の姿が確認でき
ます。高さは1.2mで、地元の蛇紋岩に彫られていて、江戸時代後期の作とされています。

お昼の時間になりました、一戦公園で昼食です。

昼食後は、魚見塚展望台へ向かいます。
この展望台が位置しれいる丘は、古くより漁師たちが沖の魚を見張っていた場所として「魚見塚」と
名付けられました。海抜110m地点に女神像「暁風」が建っています。
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この「暁風」は鴨川出身の彫刻家・長谷川昂作です。この像の前で愛を誓い、その証として鍵をかける
と「幸せが未来へ続く」と言われ愛が成就すると伝えられている事から、「近いの丘」とも呼ばれてい
ます。

次に大浦浅間神社を目指します。途中、珍しい二尊板碑があります。
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地蔵尊と阿弥陀様を浮き彫りした板碑です。15世紀前半(室町時代)のものと言われています。
風蝕が進み鮮明とはいえませんが、向かって右が阿弥陀如来、左が地蔵菩薩です。

大浦浅間神社です。
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祭神は、木花開耶姫命(このはなさくやひめ)。御神徳は、安産子育、縁結び、海上安全です。

階段の上からは、港が見えます。この階段を下りていきます。
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参道には、富士講供養塔や庚申塔や手水鉢があります。寛政9年(1798)に磯村の地に生まれた松本
吉郎兵衛は26歳で信仰に目覚め、生涯で108度の富士登山を行ったそうです。明治15年まで
生きたそうで、石碑の多くはその吉郎兵衛を顕彰したものでもあります。石碑をよく見ると吉郎兵
衛の肖像が刻まれ、没後間もない時期に建立と考えられます。肖像は館山藩に出仕した狩野派の絵
師川名楽山の手なるものです。
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階段を下り少し歩くと、八雲神社になります。
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祭神は、天照大神・須佐之男命・事代主命。創建年歴の記録は残されていませんが、南北朝時代の
永和3年(1377)に出雲大社の分霊を移しました。八雲神社ははじめ、神仏習合の教えによりスサノオ
の化身である牛頭天王を祭神としたことから天王宮(天王さま)と呼ばれ、現在でも通称「天王様」
と呼ばれています。当初は別の所に鎮座していましたが、再三波浪のために損壊し、明治12年に現
在の地に遷りました。

こちらの向拝の龍の彫刻は、三代目武志伊八郎信美の作品です。
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扁額は後藤利兵衛橘義光の作品です。
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手水石は、「壽秀」の刻銘が刻まれていることから、武田石翁の作品です。
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向拝の龍が初代伊八だったら、安房の三大名工が揃ったのですが・・・

最後の見学場所は石見堂。
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本尊は真言宗の六観音のうちのひとつ、如意輪観音菩薩です。
正暦4年(993)、行基廻国の際、自作の観音像を安置し堂宇を建立したと伝えられています。
当初は、海面に浮かぶ岩山にありましたが、天保年間(1830~1844)に現在地へ移されました。
戦時中は、艦砲射撃を避けて、近所の女衆がリヤカーに乗せて10㎞先の山中にある白滝不動
まで疎開したそうです。

向拝の龍の彫刻は、2代目武志伊八郎信常のものです。
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こちらで、予定していました見学場所が終わりで、港の方に出て出発地点に戻ります。
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残念な事に、港の周辺はごみだらけ・・・
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残念な事です。

ここまで読んでいただいてありがとうございます。ここで、見学にあたり、お願いがあります。
1.神社仏閣は、信仰の場です。常識ある行動をお願いします。
  ・騒いだりしないでください。・物に触れないでください。・勝手に上がらないで下さい等々
2.ごみは持ち帰りましょう。

最近、神社仏閣の見学のマナーが悪い人が増えてきているそうです。今まで見せていただけたのに、
見れなくなるケースもありますので、皆さまのご協力をお願いしまう。

という事で、鴨川港町の歴史を訪ねるは無事に終了しました。終了と同時に雨が降り出しました。
日頃の行いが良かったのでしょうか?

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