月イチツアー「平舘古道(堰・滝&平舘浅間編)」報告

なんだか天気が良くないと体調もすぐれませんね。蒸し暑かったり、梅雨寒だったりと、体調管理が大変です。
新型コロナウィルスも感染力の強い変異ウィルスも出てきていますので、体調管理とコロナ対策をしっかりしていきたいものです。

さて、5月の終わりに月イチツアー「平舘古道(堰・滝&平舘浅間編)」を開催しました。今回は、千倉町平舘地区の区長さんたちにご協力いただきました。

出発場所は、千倉漁村センターから平舘稲荷神社へ向かいます。

祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)安永2年(1773)徳蔵院が京都の伏見稲荷より名戸川の地に勧請し、戦後平舘稲荷と改めました。また笠間稲荷の移しという石板があります。向拝の龍は初代後藤利兵衛橘義光83歳の作品です。
今年の始め記録的な少雨のため、南房総市の小向ダムで飲料水のピンチが続き、全国版のニュースになりました。平舘稲荷山は雨乞い塚であるため、区長の呼びかけで異例の雨乞い神事が行われました。効あって3日後に雨に恵まれたようです。
その稲荷山へは、神社の裏から登る事ができますが、狭い場所なので気を付けて登ります。

稲荷山からの景色はこんな感じです。

景色の良い場所です。

次は、名戸川原の奇石と呼ばれているつぶて石と神楽石を見て、いよいよ古道へと入ります。

名戸川原の奇石については、あとで話ます。

いよいよ古道に入っていきます。今回は写真でおおくりします。

滝へと進んでいきます。

下の滝・・第2の堰から直瀑で落差約3m

上の滝・・第1の堰からオーバーフローして落水。ナメ滝で落差約6m
滝は、堰がオーバーフロー、または水田用に落水した時に現れるそうです。なかなか見る事は難しいかな?

堰の周辺には、石切場が色々あります。

第1堰のところで、平舘区長さんが説明してくれました。

石切り場の痕跡は多く残されています。

次は天神社へと向かいます。

祭神は少名毘古那命とも、土地の人は藤原道真公と伝えられています。境内に馬の背の奇石があります。
ここで、南房総市の昔話より、「名戸川原の物語」お伝えします。

 大昔、名戸川原は雷神が雷を落とすなどして、我が物顔に暴れ廻っていたので、人の住めない状態でした。そこへ天王様(牛頭天王)という神が来て、雷神を鎮めようとしたのですが、雷神は天王様の言うことを聞かないで、出雲の国から八雲の神(素戔嗚尊)を招きました。八雲の神は力が強く政治力に富んだ神でしたが、雷神を鎮めようすると、反対に住まいを壊され、下の洞窟に逃げ込むとこを繰り返す有様でした。
 天王様は次に高天原から、お祭りに堪能な神明神(天照大神)を招いて、お祭りで雷神を鎮めようとしたが、それも効き目がないので、今の能蔵院の先祖の能楽に長けた人に獅子と大蝦蟇を連れてこさせ、能楽を名戸川原で演じさせたが、それも束の間で、忽ち獅子と大蝦蟇は石にさせられました。
 今も名戸川原の中に、その獅子と大蝦蟇が助けてと、能蔵院の方へ向かって大口を開けた姿の石が有ります。
 雷神の暴挙は鎮まることはなく、稲荷山を崩しにかかったので、次は稲荷(倉稲魂)を連れてきてその山を守らせ、狐を使っていろいろ宥めようとしたが、それもままならず、次は天神(高皇産霊尊)を呼びました。天神が名戸川原の中心にある小さな岡に、住み処の祠を作ろうと馬に乗って来ると、雷神は怒って、その馬の首を落としました。ところが、その馬の首が雷神の尾に食い付いて離れず、そこで困った雷神が天神に鳴いて謝罪したので、天神は雷神に名戸川原で二度と暴れ廻らないよう約束させて、尾に食い付いた馬の首を離してやりました。天神の乗っていた馬は、現在、馬の背と呼ばれ、鞍を付けた形の石になっています。
 雷神は天神に約束したとおり、名戸川原で暴れなくなり、雷を落とさなくなったので、人が住むようになりました。その時に、村へ男の子が生まれたので、天王・八雲・神明・稲荷・天神の五神の五を戴いて五平と名付けました。その子は成長するに従い人徳者になったので、村人から「五平どん」と呼ばれるようになり、今もその家の屋号になっています。
 当時、原の見廻り役をした人の家が、「名戸川原」。浜の見張りをした人の家が「浜」という屋号で残っています。村人たちは天王様の德を慕って、死後も守って貰いたいという願いを込めて、天王様の廻りに墓地やお籠り小屋を作りました。その小屋を、天王様の德を戴いて「德蔵院」と名付け、一方、お能に堪能だった住者の家は、能の字を戴いて「能蔵院」になったと言われ、村人に尊敬され現在に至っているのです。

こんなお話しです。
次は、平舘コミュニティーセンターへ。区長さんの計らいでお借りする事になりました。
ここで、昼食です。お昼休憩には、平舘の方による紙芝居が行われました。先にお話しした昔話です。

その後、平舘浅間山についてお話しがありました。

午後からは永﨑堂へ。

もと徳蔵院があったところです。「徳蔵院旧地に泉あり。その清水殊の外美味なるにより、福泉といい山号を福泉徳蔵院という。」本尊は不動明王。階段下に富士講の碑があり、中間に修験道の祖役小角の石造があります。

この脇の小道から浅間山へと登っていきます。

平舘浅間山は、富士山写しの遺構になっています。標高約15mの位置にある縄文時代の海食洞穴を利用した御人穴があります。

浅間大神の本地仏・金剛界大日如来坐像が祀られています。
※人穴は富士山西麓標高約700mにある溶岩洞穴。富士講創始者「角行藤仏(長谷川角行)」の修行の場で、富士講の聖地です。
少し富士信仰の話を・・・
富士信仰を具体的に起こした人は、戦国時代の行者角行でした。その後、江戸時代に行者食行身禄は角行の教えを元に富士信仰を広め、飢餓に苦しむ庶民を救うため富士山中で断食行をして入滅しました。そして富士信仰は弟子によって江戸を中心に関東一円に大流行しました。浅間神社は富士山を仰ぎ見る場所にあり、富士山そのものを拝むようになっています。漁をする人の目印になったり、雨乞いの山になったり地域の守り神としての役割を持っています。

富士山経ケ岳を模したものもあります。

本家は富士山の五合五勺目の天地の境といわれるお中道にあります。日蓮聖人は文永6年(1269)に富士山に登り、横穴「姥ケ懐」で国家安泰を祈念して百日間読経し、法華経8巻を埋納したといいます。日蓮宗の聖地でもあります。

結構険しい道になっています。

道中には、やぐらや・手水石・元祖室やその道標石などがあります。
山頂には富士山の神を祀った祠があります。

仙元大菩薩を祀った祠があります。仙元とは江戸時代後期に平舘の先達が祀ったと思われています。関東大震災で破損し昭和2年に修繕されました。近くには頭部が失われた大日如来石像が安坐しています。行者・修験者・山伏等の信仰大正として富士山には神様だけでなく、火口には大日如来がいるとされています。

後は、出発地点に戻ります。
結構大変な登山でしたが、無事に終了することができました。今回の写真もガイドの庄司が撮ったものです。私の写真よりいい感じです。次回は、復活できるように安静に過ごします。

お散歩ツアー「曽呂地区歴史探訪」報告

6月も後半です。館山・南房総も梅雨入りしています。雨が降ると嫌な気分になりますが、雨がないと困りますから我慢しないといけませんね。でも大雨だけは勘弁してほしいものです。

さて、5月のお散歩ツアー「曽呂地区歴史探訪」を予定していた日が雨でしたので1日ずらして開催しました。
「曽呂」は鴨川市にある地区です。「曽呂」という地名の由来は、昔、寺院が多く建てられ、僧侶も多く棲んでいたので、人々は僧侶を敬って僧侶の人偏をとって「曽呂」と名付けたと伝わっています。現在曽呂地区には、13軒のお寺があります。今回は、その一部を巡ってきました。

出発地点は、曽呂郵便局の隣にあるJA安房さんの倉庫の敷地をお借りして出発です。

最初は金光寺。

曹洞宗の寺院で本尊は十一面観世音菩薩。社寺明細帳には、天正元年(1573)12月の創建とあります。由緒は不明です。
本尊の十一面観世音菩薩は、衆生がその名を唱える声を聞き、慈悲の心をもって人々の願いを満足させる仏として広く信仰されています。こちらの現在の檀家数は30軒ほどだそうです。

次は宝昌院へ

曹洞宗の寺院で、本尊は十一面観世音菩薩。長狭郡南部における曹洞宗の地方小本寺としての寺格を持つ寺院でした。曽呂地区の東善寺・慈眼寺・神宮寺・林秀院・地済院・宝寿寺・東福寺・宝泉寺・宝寿院の曹洞宗九か寺を末寺としていました。宝昌院の本寺は三芳本織の延命寺です。創建は永禄元年(1558)と言われています。由緒については、不明な点が多くありますが、曽呂村役場が大正年間(1912~1926)に村内の寺社について、名所や本尊・祭神・由緒なろをまとめた「社寺明細帳」には、「創立は永禄元年(1558)」と書かれています。永禄元年は木下藤吉郎が織田信長に仕えたと伝えられる年で、信長が今川義元を撃ち破った桶狭間の戦いの2年前のことです。

ここは、三井ダイレクト損保のCMセカンドライフ編の撮影に使用されたそうです。なかなかの景色でした。

次は八雲神社へ

祭神は須佐之男命。享禄年間(1528~1531)に武州(武蔵国)から勧請したと言われています。
江戸時代から伝わる伝統行事「牛洗い」が6月の第一日曜日に行われています。
「牛洗い」は神社に安置されている白い陶製の「白牛」(全長44cm)を神社から約200m先の曽呂川へ、役員を先頭に歩き川のほとりで、ササの葉を使って丁寧に水で清めるという珍しい行事です。かつてこの地域に広がる幕府直轄の嶺岡牧には牛や馬が放牧されていて、酪農発祥の地でもあります。地元では白牛から徳川吉宗との関係があるのではないか?と言われていて、また6月7日まで牛の背中を汚すなとも言われていました。牛は農耕牛として農家にとって大切なもので、この神事は農耕牛に感謝しながら川で洗うことで、牛の無病息災や豊作、家内安全を祈るものです。

本殿脇には、庚申塔があり鴨川の石造物百選になります。

三猿と二鶏を大きく表現した庚申塔です。上部に瑞雲上の日月、中段に二鶏、下段には三猿が行儀よく正面を向いて並んでいます。貞享改元天拾月吉祥日となっています。銘文には「奉請山王供養成就者也」「願主江中講仲間敬白」と解読できます。
銘文から山王系の庚申塔と判断できます。

次は、林浄院へ

真言宗の寺院で、本尊は不動明王。創建・由緒不明です。南房総市千倉町の円蔵院の末寺です。現在は、寺守さんが住んでいます。

次は地済院へ。

曹洞宗の陣で、本尊は聖観世音菩薩。創建は延享2年(1745)です。
境内には、三嶋天神が祀られています。

こちらにも鴨川の石造物百選に選ばれている地蔵菩薩があります。

二体の地蔵尊が祀られていますが、一体は近世の地蔵尊で、もう一体が石造物百選に選ばれている地蔵尊(左)です。
石材は蛇紋岩、舟光背型に成形さらた正面に、地蔵菩薩坐像が浮彫りされています。面立ちは目をかるく閉じ、口元をややすぼめたユニークな表情をしています。記年銘は確認できませんが、15世紀前半(室町時代中期)の作と考えられます。

あとは、出発地点へと戻ります。最初に曽呂の名の由来をお話しましたが、お寺はまだまだあります。今回は、4カ所ですが、曽呂川を挟んだ場所にも多くあります。無住の所も多いのですが・・・・地元の方の話では、戦時中、お寺を借りて疎開していた人も居たそうです。新緑を楽しみながら、無事に終わりました。

月イチツアー「新・旧加茂坂」報告

新年度が始まりました。新年度一発目は4月14日のお散歩ツアーを予定しておりましたが大雨で中止となり、さい先の悪いスタートとなってしまいました(汗)新型コロナウィルス感染症の先行きがまだ不安ですが、安房地域でもワクチンの接種が始まりましたので、少し兆しが見えてきたような・・・でも油断は禁物です。ワクチン接種しても感染したという方もいたみたいで・・・マスク着用は必須なんでしょうね。

さて、4月24日に「新・旧加茂坂」を開催いたしました。当日は、天気が良くてよかったです。っと言ってもこれを書いている私は、腰痛&股関節痛で距離を歩く事が出来ない状態でして・・・写真はガイドの庄司さんに撮ってきてもらいました。

出発地点は、日運寺からです。

日蓮宗の寺院で、本尊は日蓮聖人。昔は勝栄坊という真言宗(天台宗の説も)の小堂でしたが、文永元年(1264)日蓮聖人が鎌倉から小湊に帰る途中、この堂に止宿したことが縁で、当時の住職が日蓮の門下に改宗したそうです。約300年後、里見の重臣正木時通と弟・頼忠は村の押本右京亮と図り、元亀2年(1571)に勝栄坊を再興、勝栄山日運寺としました。勝浦正木氏の菩提寺であり、頼忠は大旦那として主君里見義頼に願い出て寺領を寄進、その後徳川幕府からも寺領10石の御朱印を賜っています。
大正12年(1923)の大震災では本堂など倒壊焼失し、昭和12年(1937)に現本堂ぞ造営しました。昭和56年(1981)に日蓮聖人七百遠忌記念事業として、仁王門の屋根改修、七面堂再建などを行いました。昭和45年(1970)には2万株のあじさいが境内に植樹され、房州のあじさい寺と呼ばれるようになりました。

日運寺の境内に、正木時通・頼忠の墓があります。

勝浦城主正木時通は、元亀元年(1570)戦いに敗れて伊豆の寺に蟄居、数ヶ月後に出家帰房して日運寺を開き中興の祖になったといいます。天正3年(1575)没。墓は宝篋印塔で第7世日性が建てたものです。
頼忠は時通の弟で、時通死後の勝浦城主です。加茂村の所領から寺領を寄進しました。徳川家康の側室で水戸・紀州両徳川家の生母お万の方の父です。元和8年(1622)没。笠塔婆の墓が寛文2年に建てられました。南房総市指定文化財になっています。

少し上の方に行くと日艦上人入定窟があります。

第18世日鑑は、現在の館山市広瀬の出身で、住職として29年間在職していました。寛政3年(1791)に、光格天皇皇后の病気平癒の祈願のため上洛して導師をつとめ、その功で幕府から10万石の格式を与えられました。また、、天明5年(1785)夏の旱魃で村人が困り、上人は21日間の雨乞祈願をし、村人をすくいました。晩年には窟に断食入定し、文化5年(1808)入滅しました。
入定窟は、南房総市指定文化財です。中には石造武人像などが安置され、昔は清正公ヤグラと呼ばれていたといいます。

その後、ひょうたん淵地蔵の前を通り春光寺へ
ひょうたん淵地蔵

日本全国の廻国巡礼をしていた河内国蚊谷振郷(大阪府八尾市)の安蔵という人の廻国供養塔です。巡礼の途中、ここの瓢箪淵に落ちて死んでしまったと伝えられています。嘉永5年(1852)のものです。
この道は、加茂坂を越える旧道で、幕末の馬頭観音も並んでいます。岩肌には穴があり、昭和30年代ごろまで牛をつないでいたものだそうです。

春光寺です。

曹洞宗の寺院で、北条藩主の初代屋代忠正が室の昌泉院の供養のために承応3年(1654)に建てたと言われていますが、中世の宝篋印塔が数基分ありますので、それ以前からあった寺のようだと思われます。屋代家三代(忠正・忠興・忠位)の菩提を弔っています。

春光寺の裏山の明星山が戦国時代の城跡と伝えられ、鎌倉時代の多々良庄(富浦町)のご家人多々良氏の子孫である薦野氏の居城とされています。戦国時代、薦野神五郎時盛の娘が里見義弘の側室となって頼俊を生み、頼俊は薦野家を継いで、慶長年間は里見一門として、竹原を中心に2500石を知行しました。明星山城は内房と外房をつなぐ道を管理する役割があったと考えられています。

相賀地蔵堂前を通り、いよいよ旧加茂坂へとはいっていきます。
途中には、トーチカが残されています。

浅間山トーチカ


大峯山トーチカと横穴

この辺は加茂坂陣地といわれています。通称「旗立山」の三角点の下に昭和19年本土決戦にむけて、千倉白子海岸、館山鏡ケ浦よりの米軍上陸に備えて、陸軍東京湾兵団の地下陣地が始まりました。監視所や作戦室、垂直壕を備えた地下壕は、迷路のような通路で結ばれていて、入口も爆風除けの小山で隠されています。
トーチカはロシア語で、鉄筋コンクリート製の防御陣地を示す軍事用語です。

旧加茂坂を抜けて、日運寺まで戻ります。

お散歩ツアー「鋸南・吉浜・大六地区の歴史探訪」報告

ご無沙汰しちゃっています。もう更新しないまま新年度に入ってしまいました。
春から初夏な感じの陽気になってきました。緊急事態宣言が出てたりしていて、なかなか外に出る機会がなくなってしまって春の
楽しみのフキノトウの天ぷらも食べられなくなってしまいました。
新型コロナウィルスの影響で、昨年度は主催のウォーキングツアーの中止や、修学旅行・一般団体の受入も中止となってしまていて・・・継続するのも大変ですが、今年度のウォーキングツアーの予定が出来ましたので、今年度もよろしくお願いします。

本当に遅くなってしまいましたが、3月11日のお散歩ツアー「鋸南・吉浜・大六地区の歴史探訪」を開催しましたのでご報告いたします。

集合場所の道の駅きょなんから吉浜神社へ向かいます。

祭神は、天照大神と八幡神。妙本寺の守護神としてきた面を護る神社で、建武2年(1335)に第六天神社と共に創建されました。保田の合同例祭には、大杉の山車で出祭します。大杉様と呼ばれ航海の神、豊漁の神として漁民の信仰を集めて関東に広まりました。航海安全、大漁祈願、疱瘡除けを願い杉の木に飾りを付け曳きまわします。

次に妙本寺へ。
国道127号沿いにある大門跡を通り、少し行くと吉浜小学校跡があります。

昭和42年(1967)まで吉浜小学校がありました。開校は明治7年(1874)で、明治20年に跡地碑の建つ場所に校舎が新設されました。それまでは、妙本寺客殿続きの学寮が校舎として使われ、疎開児童の像か塔頭の久円坊、山本坊、西の坊の一部も校舎として使われました。昭和42年に保田小学校と統合され、吉浜小学校の93年の歴史は幕を閉じました。

少し行くと踏切と吉浜隧道があります。

木更津以南北条までの北条線が、明治45年(1912)に測量開始され、7年の歳月を経て、大正8年(1919)5月24日に全区間のかいつをしました。浜金谷~安房勝山間の開通は対象6年のこと。鉄路と延長131.770mの吉浜隧道が竣工しました。

妙本寺です。

日蓮宗富士門流の本山。本尊は十界曼荼羅。江戸時代には日向国(宮崎県)27か寺をはじめ40か寺の末寺があったといいます。日郷上人が元徳年間(1329~1330)に、宗祖日蓮聖人の誕生の地を慕って房州に下ると、房州保田の地頭佐々宇左衛門尉から寺地の寄進を受け、建武2年(1335)にここに開創したものです。背hン獄時代に小田原北条氏と対立した頃には、里見氏に城砦として寺地を提供し、対北条氏との戦いにおいて最前線基地になっていたと、里見氏の古文書などから明らかにされています。岸辺に突き出した山の上は、太鼓打ち場と呼ばれています。里見氏からは51石余の寺領を受け、その後徳川家から50石余の寺領を与えられ保護されてきました。

本堂を通り墓地の奥に行くと中世の石造宝塔2基があります。

開基檀那の佐々宇左衛門尉夫婦の墓と言われてる14世紀終わりから15世紀初めの室町時代初期の様式を持つ宝塔です。
仏崎で海中に沈んだ後に海から引き揚げられ、近くの万灯塚に安置後、現在の場所に移されたといいます。また、別の場所にあった開山日郷上人の供養塔との説もあるそうです。

客殿には、鋸南町指定文化財の向拝彫刻があります。

客殿は、江戸時代末の元治元年(1864)に造営されました。向拝の龍と蟇股の彫刻は、後藤利兵橘義光の作で、邪鬼・獅子鼻等の貯穀は伊丹喜内の作です。また天井画の孔雀は渡辺雲洋の作といわれています。

次は第六天神社へ

妙本寺の南面で仏教を守護する神社です。創建は吉浜神社と同じ建武2年(1335)の創建。第六天欲界の王「他外自在天」を祀っています。御神体は法華経八巻で、神道であっても南無妙法蓮華経と唱えます。
大六の地名は第六天から来ているそうです。ウォーキング当日は、おさるさんが木の上から見ていました。

次は二柱神社へ。

二柱御霊宮と呼び、イザナミ・イザナギを祀っています。鉄道建設の折、発破で社殿が破壊され現在地に還座しました。

次は竜島神明神社へ。

祭神は天照大御神。竜島の村社。源頼朝が上陸した後、神社で神主・村人から接待を受け、ここから安西景益に手紙をしたため上総広常の元へと出立します。多くの兵が左右から加勢に駆け付けるようにと祈願し神主に左右加(そうか)の名を与えました。

次は、源頼朝上陸地へ。

治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れた源頼朝は、現在の真鶴岬から小舟で安房国へ逃れてきました。安房国に逃れて来た時に頼朝が上陸した場所です。

後は、出発地点へと戻ります。
途中の海がとてもきれいでした。

飛び込みたくなりますね。

次回は、新年度になります。なるべく更新していきますので、どうぞよろしくお願いします。

月イチツアー「沼蓮寺初薬師大祭「だるま薬師」報告

寒かったり、暖かかったり、気温の差が大きくて体調を崩しそうな気候ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
新型コロナウィルスの感染状況により、色々と制限が出ていて困ったものです。

緊急事態宣言が出る前に、昨年予定していて、大風&雨で途中まで行ったコース「沼蓮寺初薬師大祭「だるま薬師」」を再度開催しました。本来ならば、1月にアップしているはずだったのですが・・・今見たら、アップされてなかったので、ビックリです。

昨年、報告した続きから今回は書いて行きます。
昨年の分は、↓をご覧ください。
月イチツアー「沼蓮寺初薬師大祭「だるま薬師」」報告

今年は、沼蓮寺さんも新型コロナウィルス感染対策としてご接待を中止されていましたが、その代わりにお札を頂けました。ありがとうございます。因みに、私は、今年も達磨を授かってきました。昨年は金運の黄色で、今年は万能の紫にしました。

沼蓮寺&八幡神社を後にして、次に向かったのは八雲神社です。

祭神は須佐之男命。創建年暦は不詳ですが、慶長19年(1614)に再建されたと伝えられています。社前には文化元年(1804)の石灯籠と文化5年(1822)の狛犬があります。厨子の象鼻・龍の彫物があり、龍の彫刻の裏には「彫工 長サ下打墨住 武志氏 信由作」の銘があります。明和7年(1770)頃の作です。

八雲神社から次の八幡神社に向かう途中、牛年だけに牛舎をみながら進んで行きますと、切割りの所に素敵な青面金剛があります。

安政7年の物です。

八幡神社です。

祭神は誉田別命。寛文元年(1661)、東条藩主西郷若狭守の時、神田として3畝歩免ぜられました。寛文3年(1663)に社殿を改築、正徳元年(1711)拝殿造営、享保2年(1717)本殿建立し、安永3年(1774)本殿内宮修築、慶応2年(1866)社殿改修、明治35年(1902)に修理、明治37年(1904)参籠殿改築と、修繕・改築などを繰り返し現在に至ります。
拝殿向拝の獅子の彫刻は後藤義光作で、左柱の獅子には「彫工後藤義光」、右柱の獅子には、「彫工後藤利兵衛橘義光」の銘があります。拝殿正面の社号額は、後藤喜三郎義信の作です。社殿内には、社宝として三番叟の面があり、かつて例祭日に三番叟の舞が奉納され、大勢の人でにぎわったといいます。

次は、和田氏屋敷跡へ

和田ヶ崎にある高台の畑をムカイヤシキといいます。和田一族の古い屋敷があったそうです。何十年か前に刀がでたことがあります。一画には通性の五輪塔があります。
豊田村誌には、大聖寺と和田氏の関係について書いてあります。「安政年間松平肥後守の代官石岡喜左衛門・赤塚常之助・三澤吉次郎等により永代護摩料を寄進す。抑々当山観音堂に安置せる胎中観音は和田義盛戦場に臨む毎に護身仏として身辺を離さざりしと云う二寸の金像なり。蓋し義盛戦利非ずして安房に来たり時齎す所ならん。且其常に愛用せしと云う盃及横笛を和田伊右衛門の家に伝ふ。外に和田を姓とするもの9戸あり。義盛後裔なりと称す。附近の和田﨑となづくる耕地より腐食せる太刀薙刀及古塔を発掘したることあり。今に和田一類にては畑にモロコシを植えず。植えれば必ず不祥ありとの口碑を信ずるによる。蓋し和田義盛北条氏と戦ひて一敗地に塗れ一族鎌倉諸越ヶ原に滅亡す。蜀沗(もろこし)、諸越両音相通ずるが故なるべし。」とあります。

次は大聖寺へ。

真言宗智山派の寺院で創建は明らかではないですが、和田助右衛門の開創と伝えられています。その後暦応3年(1340)悦翁誾和尚が再興し、享保6年(1721)四国の行者松岸道寿なる者が供養仏を勧請したと言われています。
年代は明らかではないのですが、境内地東方の山麓に本堂に相対して観音堂を新築し十一面観世音菩薩を祀りました。この本尊十一面観世音の胎中には、高さ5㎝ほどの小観音像が納められています。
和田一族は、かつて大聖寺の檀家であって、当山を護持してしていましたが、いかなる理由か今では全戸が離檀し、慈雲寺の檀家となっています。

少し和田義盛を紹介しますと・・・
相模の豪族、三浦義明の孫にあたり義宗の子です。三浦氏は、三浦半島和田に居住したことから和田の姓を名乗っていました。義盛は剛勇多力で弓の名人だったといいます。源頼朝が石橋山に兵をあげた時、頼朝に味方し畠山重忠と戦いましたが敗れ、夜陰に乗じて安房に逃れ岩糸に住んだといいます。頼朝の鎌倉幕府創設後は、数々の戦功により侍所別当の要職に就き権勢をふるっていました。頼朝の死後、建保元年(1213)陰謀があったとして一族が逮捕されたことから端を発し、同年5月蜂起し幕府にせまったが多勢に無勢、和田一族はついに敗北し、じりじり追い詰められ、鎌倉諸越が原にて全滅しました。(和田合戦)
現在、岩糸には和田姓を名乗る家が10軒ありますが、和田義盛の後裔であると称され、付近に小字「和田ヶ崎」の地名が現存しています。

観音堂跡地をみて、赤道?峠道?を通って次へ向かいます。

孝子高梨金右衛門碑です。
碑文は、恩田城山の撰によるものです。高さ275㎝ 幅64㎝。
簡単に説明しますと、金右衛門さんのお父さんは全身不随でした。金右衛門さんは農業と余暇の時に古銅鉄を行商していました。家業に出ている時にも父を思い途中より家に帰り安否を確認し再び家業に就くなど、お父さんに看病に尽くしていたそうです。時の領主から賞され、後に松平下総守からも夫婦の善行を賞されました。
孝子の碑は、安房地域に結構あるような気がします。

後は、出発地点へと戻ります。

緊急事態宣言により、1月の月イチツアーから2月までウォーキングツアーは中止しております。楽しみにしていただいた皆様には、申し訳ありません。倶楽部としても苦渋の選択でした。早く、良い方向になるといいです。

月イチツアー「鋸南保田を歩く」報告

新しい年になり、数日たってしましました。書いている私が、喪中の為、新年のご挨拶はご遠慮させていただきます。
昨年は、新型コロナウィルスで1年振り回され、昨年暮れから感染者数が大変な状況で、緊急事態宣言が出てしまいました。
安房地域も感染者が多く出てしまいましたので、仕事以外の不要不急の外出しないようにしたいと思います。

さて、昨年最後の月イチツアー「鋸南保田を歩く」を開催しましたので報告します。
出発場所は、道の駅「保田小学校」の第二駐車場からです。
最初に訪れたのは、鶴ケ浜八幡神社。

祭神は誉田別尊(応神天皇)創建は延元4年(1339)以前と推測されています。
棟札は、江戸時代初期の慶長11年(1606)、杉板製墨書で、頂部は山形、中世後期の特徴を備えています。町有形文化財に指定されています。

次に向かうのは、信福寺。

安房国札所第9番の寺院です。保田川から約400mのコンクリートの坂道をあがり、39段の階段を上るとお堂があります。結構キツイ坂道ですが、途中、木の間から見える富士山は素晴らしいです。
曹洞宗の寺院で、本尊は如意輪観世音。平安時代の天安年間(857~859)に、慈覚大師が草創したと言われています。戦国時代の弘治元年(1555)に野火の災いに遭い、寛文9年(1699)から同13年にかけて、観音堂を再興したといわれています。如意輪観音菩薩挫創は、延宝元年(1673)、京仏師を招いて再興したとのことです。御詠歌は「しんぷく寺、のぼりて岸を ながむれば ほたのかわせに たつは白波」です。
本尊の如意輪観音は、別名「子授け観音」と呼ばれ、かつては京浜地方からも参拝者がありました。また、約30km内の酪農家が競って参拝していたそうです。

観音堂の格天井には、県内で稀な「算木」の絵があります。

境内には、正和5年(1316)建立の、武蔵式板石塔婆が建てられています。(町有形文化財指定)

典型的な武蔵式(関東型)の梵字板碑で、頭部は山形、その下に二条線を刻み、身部の枠線内に大きく薬研彫によるキリーク(弥陀)、一段低く右にサ(観音)、左にサク(勢至)の両脇侍を配するもので、この弥陀3尊を蓮台上に刻んでいます。安房地方では珍しいものとされ、秩父産の緑泥片岩を加工して作られているため、青い色をしているのが特徴です。紀年は諸説に分かれますが、昭和43年夏、再鑑定の結果、碑の刑場から見て、鎌倉末期のもので、一応、正和5年(1316)丙辰と推定されました。鎌倉武士の信仰と深い関わりがあるとされています。残念ながら身部は二つに割れていますが、昭和53年にブロック製の鞘に納めて建て直しました。

また、境内には子を抱く高さ43cmの石仏もあります。

お堂下の木の間から富士山を見る事ができます。

山を下り、次は、存林寺へ向かいますが、途中、紫花山荘の説明を。(撮影中だったので、近くまで行けませんでした。)
(赤い屋根です。)
この地はかつて、相対性理論のアインシュタインの弟子であり、アララギ派の歌人であった石原純と美貌の女流歌人原阿佐緒が駆け落ちし、ここに新居を建てて暮らしたところです。
大正10年(1921)10月、保田神社前にあった旅館「松音楼」で半年自炊、大正11年5月に保田小学校裏山に新居「愛日荘(紫花山房=原が名付けた)」を建設しました。この二人の関係は、当時「恋愛事件」としてセンセーショナル的に新聞紙上をに賑わせました。しかし二人の生活は、日に日にギクシャクしたといわれ、昭和3年(1928)に原は、石原に無断で保田を去り、実感の宮床村(宮城県大和町宮床)に帰っていきました。7年間続いた石原と原の保田での生活は終わり、再び顔を合わすことはありませんでした。
現在は、別の片が土地を購入し、建物は昭和44年(1969)に取り壊され、新たに貸山荘を建て、その屋根には愛日荘の屋根瓦を使用しています。

次は、存林寺へ。

曹洞宗の寺院で本尊は釈迦牟尼仏。
元和7年(1621)4月、日本寺に属する院坊で修行した鶴庵存林上座が創立したと伝わっています。もとは鋸山西麓の寺坂にあり、天福寺と称しましたが、江戸初期の慶長15年(1610)現在地に移り亀福山存林寺に改称しました。寛政6年(1794)に火災に遭いましたが、同9年に本堂が再建するも、大正12年の大震災で崩壊、昭和42年、内陣を鉄筋コンクリート、屋根を銅板葺その他大改修しました。
法堂の格天井の墨絵「十六羅漢図」は往時のもので狩野派の筆法で、法堂須弥壇の彫刻は武志伊八郎信由作で、正面が「波と兎図」、両側面が「波と宝珠図」です。火災除けに験ありとされた波と兎の取り合わせで、本堂再建時のものだとすると、寛政9年、信由46歳の時の作です。

境内には、武田石翁の墓があります。

武田石翁は、江戸時代中期から後期の石仏・狛犬・根付の石工で、旧本織村に生まれ、元名村の石工の小瀧勘蔵に弟子入りし、見込まれて婿養子となりました。この墓も自ら彫ったものです。

次は、汐止橋へ。

汐止橋は、明治28年(1895)3月竣工、元名川に架設された橋長13.4m、橋幅3.7mで、地元保田石を使ったアーチ橋です。アーチの外壁石(スパンドレル部)は、方形に成形した大きな石を、目が横に通るように四重に積み上げており、スパンドレル部は布積みになっています。布積みは、水面に対して兵工に積まれますが、この橋は各切石がアーチリングに向かって斜めに積まれる珍しい方法で造られ、アーチリングの石は、直方体のように横長の石が用いられ、これらは非常に特徴的です。
平成21年(2009)11月1日、アーチを形成する切り石の積み方や形状が特徴で、技術・意匠の面も高いレベルであることや、使用されている石が地元産(房州石)など、地域性に優れているとして、土木学会から土木遺産に認定されました。

次は、鶴ヶ崎神社へ。

祭神は、譽田別命(応神天皇)。通称八幡神で、源氏の氏神でもあります。江戸時代初期に、元名村名主岩崎家が屋敷内に祀り、のちに村持ちになったと伝わっています。
御神体は、天明年間(1781~1788)大野英令が、伊豆石を用い、刀を帯び右手に弓を持った高さ60cmの彩色坐像です。

拝殿には、大絵馬源義経弓流し図があります。

桐板製、屋根形作り、縦137.5㎝、横166.5㎝。源平合戦中、屋島の戦いで、海中に乗り入れた馬上の源義経が、合戦中に落とした弓を鞭でかき寄せている義経弓流しの場面を描いた大絵馬です。義経の姿を見た家来が、「そんな弓は捨て置いて下さい」と言うと、義経は「私は弓が惜しくて拾っているのではない。この弓が敵方に渡り、こんなひ弱な弓が、源氏の総大将の弓か、と嘲笑されるのがいやで、かき集めているのだ」と言ったそうです。
この図は石仏師 大野英令の画です。大野英令は、上総桜井(木更津市)の名匠で、江戸後期の安永9年(1780)日本寺曹洞第9世の高雅愚伝禅師の発願によって、寛政10年(1798)の死に至るまで、門下と共に鋸山の羅漢像の造立に携わりました。
この大絵馬は英令最晩年の作であり、また現存する唯一の絵馬と考えられます。

海岸に出て昼食をとり、次は房州海水浴場発祥の碑へ。

夏目漱石が明治22年(1889)8月7日、満22歳の時に学友ら4人と房州を旅した際、保田に10日間滞在し水泳を楽しんだことを記念して昭和61年(1986)に建立しました。詩人西条八十も早稲田中学校時代に保田にたびたび避暑に訪れ、海水浴を楽しんだ浜であり、保田でお幸という少女に出会い、童謡「かなりや」を創作、大正7年(1981)に児童雑誌「赤い鳥」に発表。26歳の八十が世に出るきっかけになった名作、「唄をわすれたかなりや」は彼女がモデルといいます。

次は、別願院へ。

浄土宗の寺院で本尊は来迎院を結ぶ阿弥陀如来立像。通称浜の寺と言い、元和5年(1619)本郷村保田町の住人が霊巌上人に願って造立したと伝わっています。

境内には、菱川師宣の墓があります。

この地域では半檀家制があり、檀那寺は他寺であっても、墓はここに置く風習があり、菱川家もその例です。
菱川師宣の忌日は長い間不明でしたが、妹オカマの嫁ぎ先である勝善寺(南房総市二部)、江戸で葬儀が行われた浅草誓願寺の支院徳寿院、保田の菱川家の菩提寺である昌龍寺(鋸南保田)など関係寺院の過去帳の発見により、元禄7年(1694)6月4日、戒名「勝誉即友居士」と判明しました。江戸で没した師宣は、故郷保田の別願院に遺骨が移され、墓石が建てられたと思われますが、死後9年後に起こった元禄の大地震の大津波により房総沿岸は大打撃を受け、別願院も流失、当時の記録も墓石も失われてしまったそうです。現在の墓石は、白御影の墓碑は、昭和2年、東京の井上書店主らによって建てられ、中央の仏像型の墓碑は平成5年、師宣三百回忌に子孫の菱川岩吉氏らによって建てられました。
亡くなる直前の、元禄7年5月、親族の追善供養のため、別願院に梵鐘を寄進しました。残念ながらその梵鐘は、太平洋戦争の際、供出させられてしまいましたが、鐘楼跡の基壇は残っています。

また、元禄海嘯菩提地蔵尊があります。

元禄16年(1703)10月23日午前2時頃、房総半島沖を震源地とする大地震が発生しました。地震により発生した海嘯(津波)で、東京湾や九十九里海岸を始め、関東各地は甚大な被害を受けました。ここ保田地区でも、319人の方が亡くなられ、別願院に埋葬されました。この津波により、本堂が流失し、師宣を含む多くの墓石が海底に沈んだと伝えられています。津波罹災者追福の為、茅葺の地蔵堂が建てられましたが、これも流失や焼失が重なり、その後犠牲者を合祀した石仏地蔵となり、「元禄海嘯菩提地蔵尊」と名付けられました。現在のお地蔵様は、明治期に寄進されたものです。また、このお地蔵様は地元住民からは、霊験あらたかな「いぼとり地蔵さん」としても長い間親しまれています。

次にむかったのは、菱川師宣誕生地。

菱川師宣は、縫箔刺繍業の父吉左衛門と母オタマの間7人兄弟の第4子長男として誕生。正ねんは不詳ですが寛永中期(1630年頃)と推定されています。家業を手伝うかたわら、独学で画技を磨きました。その後、江戸に出て延宝~元禄初期(1673~1694)、版画絵師として活躍。当時は一部の人々しか鑑賞できなかった絵画を、木版画により広く庶民に普及させた事で評価されました。
また、庶民風俗を題材とした新しい絵画様式「浮世絵」を確立。師宣の描く美人画は、当時「菱川ようの吾妻おもかげ」と世にもてはやされました。
ちなみに、師宣の父は、京都から移住した縫箔師で、道茂入道光竹と号しました。師宣の長男諸房も浮世絵師です。

次は保田神社へ。

祭神は大和武尊。天文4年(1535)創始。
保田の海中から上がった神鏡を日本武尊の御霊として、桜の馬場と言われていたこの地に祀ったのが始まりと言われています。
古くは八所御霊宮としょうしましたが、明治になり保田神社と改称されました。

境内には、自衛隊空挺レンジャー部隊発祥の地碑があります。

昭和33年、この地で空挺レンジャー教育が開始されました。ここが、教育適地の中心地であったことや、当時の神社氏子が快く境内を提供したことによるそうです。碑は、平成5年に鋸南町・中道台区・レンジャー終了者有志によって建てられたものです。

道路は挟んで反対側の観音寺へ。

本尊は聖観世音菩薩です。
里見義実が安房一円を巡回の折、鋸山を展望し、霊山なるを知り、麓に一宇を建立した記念願を起こされ、文明3年(1471)6月17日義実結縁の為の祈願所として、ここに本尊として聖観世音菩薩を安置させました。この仏像は、新田義貞より譲り受けたもので、弘法大師の作と伝えれれています。その当時は真言宗の寺院でしたが、現在は曹洞宗昌竜寺の境外仏堂となりました。
第二次大戦のときは本堂が茅葺だったため、空襲の被害を避ける目的で解体、現在のお堂は昭和30年に新築され、令和元年の台風により甚大hな被害を受け、令和2年大規模修理が行われました。
堂内の象鼻と獅子鼻の彫刻は初代武志伊八郎の作品です。
観音寺は、安房国札観音霊場の番外札所になっていて、番外になった理由として、観音霊場決定の集まりに遅れたからという「朝寝の観音」伝説が伝えられています。

境内には、力士・雲ノ戸重右衛門という力士の墓があります。

享保年間の頃、この地で相撲の興業があったとき、力士・雲ノ戸が開いての滝見山に逆手で投げ殺されてしまいました。のちに雲ノ戸の息子・桂川力蔵が、苦心惨憺の末に滝見山を土俵の上で討ち果たし、仇討を遂げたといわれています。

崇徳院へ。

曹洞宗の寺院で本尊は聖観世音菩薩坐像。寛文元年(1661)に開創。昭和26年豊山和尚が郡内に先駆けて、魚供養の行事をし、以来、朝夕これに用いたアワビをたたいて供養したので、一時は「アワビの寺」と親しまれたといいます。
保田小学の始めでもあります。

西門は、房州石で造られたアーチ門があります。

なかなか風情のある門です。

次は、大行寺へ。

日蓮宗の寺院で、本尊は十界勧清の曼荼羅。応永16年(1409)11月に開基。
現在の本殿は、文政5年(1822)再建、昭和12年(1937)に庫裡を新築。同37年本堂を瓦葺に改修しました。
本堂の欄間の「波と龍」は天明13年(1783)武志伊八郎信由32歳の作です。

大行寺には、江戸時代後期の俳人小林一茶が訪れた寺でもあります。一茶はたびたび房総を訪れています。保田では、同門の元名村名主、岩崎善右衛門(俳号児石)のもとへ泊りましたが、文化9年(1811)児石が亡くなってからは、保田での宿は大行寺でした。文化12年11月29日と文化14年4月27日の2回、大行寺に泊まっています。この時、一茶は住職の願いで、直筆の短冊を大行寺に残しました。「身の上の鐘としりつつ夕涼み 一茶」これば故郷の信州で詠んだ句です。当時、一茶の句としてしられていた名句なので、この寺に残したものかもしれません。

小林一茶は、房総の門下の葛飾派の人たちをたずねて、鋸南にも多く訪ねてきています。元名の名主、岩崎児石や勝山の名主、醍醐新兵衛の家を訪ね、句会を開いたりしていました。日記によると、一茶はかなり好奇心が強かったようで、珍しい樹木が実をつけたという噂で見にでかけたり、鯨漁の見学をしたりしています。
存林寺には、文化11年(1814)10月8日に児石のお墓参りをしています。

最後は、日枝神社へ寄り、出発地点へともどります。

鋸南町保田地域は、道の駅保田小学校がお客詮でいっぱいですが、そこだけでなく、少し歩いてみると色々な歴史があります。是非、歩いてみて下さい。(緊急事態宣言が解除になったらですけど・・・)

お散歩ツアー「江見エリアの歴史と伝統を訪ねる」報告

12月に入ってしまいました。先日、テレビで「今年は、新型コロナウィルスが流行していますが、インフルエンザの流行はまだないようです」という話をしていました。マスクを着用しているからなんでしょうかねぇ~とにかく、新型コロナウィルスの感染者が多くなっているので、体調管理には気を付けたいですね。

さて、11月のお散歩ツアーは、5月に予定していた「江見エリアの歴史と伝統を訪ねる」を開催しました。本当は「稲村城跡を一周しよう」でしたが、諸事情がありまして・・・

集合場所は、江見漁港です。ここから出発します。
江見漁港は、結構、漁船にのって釣りを楽しむ人が多いので駐車スペースがいっぱいの時があるのですが、コロナの影響なのか潮の影響なのか、駐車している車が少なかったようです。

まずは、鴨川の石造物百選に選ばれた如意輪観音へ。

ガソリンスタンドの脇に稲荷社の前にあり、如意輪観音は、享保19年(1734)に建立されたものです。石材には、地元嶺岡産の蛇紋岩を使っています。右脇には、紀年銘、左脇には「女順禮講中/十三人」と刻まれているので、この地の女性達が巡礼講の組織作っていたのではないかと考えられます。

海岸線から路地を抜けてかじや天満宮へ。

詳細は不詳ですが、祭神は藤原道真。藤原道真は、学問の神、詩文の神、書道の神として崇敬されました。この「かじや」は、この周辺の字名が「かじや」なので、祀られている場所の地名がついて、かじや天満宮と呼ばれているそうです。

次は、中屋のこぎり店へ。
日本で唯一の房州鋸職人のお店です。房州鋸の歴史は、今から450年以上前の事です。上総の国の一部を治めた里見家の鍛冶が貿易などで使う和船を造るため船鋸として生み出されました。和船を造るには、ケヤキや樫などの堅くて丈夫な木材を使うので、切れ味と耐久性が求められ、船鋸の素材には、日本刀とほぼ同じ鋼が用いられました。里見家発祥の船鋸は独自の発展を遂げ、刃の反り具合や鋸目の立て方など一般的な船鋸とは違うものになったそうです。徳川家康が全国を平定してから戦がなくなると貿易が活発になり、江戸時代には和船が増え、上総の里見家の鍛冶が造る船鋸の需要も増して、次第に千葉県南部の安房の沿岸にまで製造技術が伝わってきました。薄くてしなやで切れ味抜群の里見家の船鋸は思わぬところに使われてしまいました。江戸時代、土蔵に侵入して盗み出す「土蔵破り」の犯人が捕まった時、里見家発祥の船鋸を使って土蔵の閂の鉄棒を切り落としていたことがわかったのです。幕府は、一時時期製造を禁止しましたが、この船鋸が「閂の鉄棒すら切れる鋸」として有名になりました。
中屋のこぎり店は、初代の粕谷雄吉さんが「中屋雄造正直」という屋号を揚げ1942年に開催された日本鋸品質審査展覧会で、全国1位に輝きました。里見家八書の船鋸に改良を加え「房州船鋸」と名付けたそうです。第二次世界大戦中も注文が殺到していたそうです。日本は鉄不足だったので、木造漁船ベースにした軍用の船を建造していたので、質のよい船鋸が必要だったそうです。
1970年頃から高度成長期に入り、木造家屋の建設にも房州鋸が使用されるようになって忙しかったそうです。
1980年代に入ると、繊維強化プラスチックを使用した船が登場し、木造船を造る人も乗る人も居なくなってしまいました。家屋もツーバイフォー住宅やプレハブ住宅に変わり、高価な鋸を必要としなくなってしまい、仕事が激減してしまいましたが、名のあるデパートで伝統工芸品に焦点を当てた催しが開かれるようになり、修理も受け付けることで想像以上に鋸に関心を示す人たちがいたそうです。今では、華道道具として、房州うちわの竹を裂く道具として利用されています。また、オーダーメイド品も受け付けているそうです。

次に薬王院へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は薬師如来。昔は不動尊でした。開基は不詳ですが、「村鑑」によれば、元和元年(1615)の造立と言われ、村内の薬師堂と大日堂を支配していたそうです。しかし、明治30年の火災で、本堂・薬師堂ともに焼失してしまいました。昭和63年(1988)に本堂が再建されました。

次は鴨川の石造物百選の道祖神へ。

こちらは、民家の敷地内にあるので、少し遠くから見学
嘉永4年(1851)の神道系道祖神です。集落の境や村の中心、村内と村外の境界の道の辻、三叉路などに石碑や石像の形態で祀られているかみで、村の守り神、子孫繁栄、近世では旅や交通安全の神として信仰されいます。
道祖神が多く造られるようになったのは、18世紀・江戸中期から19世紀・明治です。

次に、浄照寺へ。

真言宗智山派の寺院で、本尊は大日如来。由緒は不詳ですが、「村鑑」によると、文保2年(1318)の造立で、慶長11年(1606)11世永秀和尚が中興開山したと言われています。かつて阿弥陀堂がありましたが、現在はありません。
享和元年(1801)7月8日には、伊能忠敬が観測の途中、宿泊し観測をしています。7月8日、北朝夷村(南房総市)を六ツ半後(午前7時頃)出立し、千倉・丸山・和田の村々から真門村・内遠野村の海岸を観測し、江見村に九ツ半(午後1時頃)に着いたそうです。浄照寺に泊まり、夜は晴天だったので緯度の測量をしています。翌9日六ツ後(午前6時頃)出立し、この日の七ツころ(午後4時頃)天津村へ到着しているそうです。

次に九頭竜神社へ。

(崖崩れの恐れがあるので、立ち入り禁止となっています。)
詳細等は不詳ですが、近所の人の話では、漁師さんが港に入る時の目印としていたそうです。
また「やぐら」と呼ばれる岩穴があり、中世の墓所の一種となります。「九頭竜様やぐら群」として、現在も五輪塔や宝篋印塔の一部が残されています。
こちらには、民話も残されていますので、ご紹介します。
昔、安房の山々を七巻半巻く大きさで九つの頭を持った恐ろしい大蛇がいました。ある時、神様がこの大蛇を退治しました。その時、安房の海は血の海と化し、四辺はものすごい風が吹き荒れたとのことです。神様は、その九つの頭を切り落とし、大がめにいれてこの山麓に埋めました。それから何千年、何万年も後のことです。この山麓に一軒の農家がありました。その家に一人の息子がいましたが、その子は頭がすこし弱かったようです。色々とまじない等をしてみたのですが、どうしても治りません。とこらがある夜、その子の母親の夢枕に九頭竜が現れました。そして、「この山麓から九つの大がめを探して、それを祀れば汝の子を治してやる。」と言って姿を消しました。翌日、家族総出で、九つの大がめを探し出し、ねんごろに祀りました。不思議なことに、その息子はどんどん良くなり、一人前の若者になったということです。

次は、長泉寺へ。

曹洞宗の寺院で、本尊は虚空蔵菩薩。通称「鍛冶屋の寺」と呼ばれていうます。大正12年(1923)近隣の出火から焼失してしまいましたので、詳細は不明ですが、開山は延命寺15世鉄州武真大和尚だと言われています。

境内には、鴨川の石造物百選の出羽三山供養塔があります。

板状碑です。上の部分に三山名を大きく刻み、その下には、「神佛」の文言を筆頭に四国・西国・秩父・坂東と並べ、末尾に「當国」とあります。下の部分には、大川八兵衛という人の来歴と、四方の神仏に参詣してそのご利益を祈願したことなど建碑の由来が刻まれています。建碑は明治38年(1905)と新しいものです。

長泉寺から、すぐの場所に弘法大師の石造があります。

鴨川の石造物百選の弘法大師です。紀年銘は不詳ですが、像容や名前から江戸後期のものと思われています。尊像は丸彫の坐像で、右手に金剛杵、左手に数珠を持っています。基壇の残る銘文から、大師講の人たちが造立したという事がわかります。

次は江見駅郵便局へ。
江見駅は全国で初めて、郵便局と駅の窓口業務の一体運営しました。江見駅は、無人駅でしたので、駅近くの郵便局が駅の敷地に移転して新たに開業、建物は駅舎も兼ねて改札や待合スペースがあります。

外には、郵便局ですので、ポストがあります。

かつて郵便物を運送していた郵便・荷物電車をイメージしたラッピングポストです。
あと「友荷なより」というキャラクターが江見駅郵便局の応援特使に就任しているそうです。
このキャラクターは、「ステーションメモリーズ!」というスマホのゲームソフトに登場するキャラクターとの事です。
「ステーションメモリーズ!」は携帯電話のGPSを使い全国各地の鉄道駅を訪問しプレイヤーと競い合う位置情報ゲームだそうです。

次に神明神社へ。

祭神は、天照皇大神。村鑑によれば、「八幡宮は村鎮守にて、西江見関口に鎮座、霊験著しかりしも文安5年(1448)同村に、伊勢の移し神として天照皇大神を祀る神明神社を勧請せしにより、社格村社を神明神社に譲りて近くの山頂(現東江見根古屋、後に通称八幡山と称す)に遷す」とありますので、創建は文安5年(1448)と推定されますが、その辺りの記録は分明でない、と書かれています。昭和20年(1945)8月13日、アメリカ軍の艦載機の機銃掃射によって社殿が焼失しました。終戦2日前の事でした。

東江見の一部は旗本浅野家の知行地でした。浅野大学長広は、赤穂藩主・浅野長友の次男として江戸でうまれました。兄は浅野内匠守長矩。元禄14年、江戸城松の廊下で吉良上野介を斬りつけた事件で、切腹をさせられた人です。その後、赤穂藩士の大石内蔵助等が吉良邸に討ち入りする事件を起こした。長広は、元禄15年7月18日に広島浅野宗家にお預けとされ、宝永6年(1709)、将軍綱吉死去に伴う大赦で許され、宝永7年(1710)9月に新将軍家宣に拝謁して、改めて安房国朝夷・平郡に500石の所領を与えられ、旗本に復しました。これとは別に、浅野宗家からも300石を支給され続けました。赤穂浅野家は旗本ながら御家再興を果たしました。享保9年(1724)、家督を長純に譲って隠居しました。 
神明神社のある場所に、お屋敷があったと伝えられています。

この地域は、赤穂藩と関わりのあるお話しが残っているのもそういう事なんですねぇ。

次は、観音寺へ。

詳細等不明です。

海岸に向かって行く途中に龍宮神社があります。

詳細等は不詳です。一般的に祭神は、豊玉姫とされています。豊玉姫は、海神の娘で、竜宮に住んでいます。昔話の浦島太郎の乙姫は豊玉姫がモデルとされています。豊玉姫は、海の神・水の神・子育ての神です。いつも、綺麗になっているので、海上安全をなどを祈っているのですね。漁師さんも多いですし・・・
当日は、七五三のご家族がお参りに来てました。

あとは、海岸を通って集合場所へ向かいます。
いつも思う事があるんですが、調べていくと知らなかった事が沢山出てきます。赤穂浪士との関係だったり、房州鋸の事だったり、地元でも知らない事が多い事がわかります。時代が変わり、壊されてしまうものも出てきますが・・・地域の歴史を知る事の大切さがわかってきました。(今さらですが・・・)

月イチツアー「加茂坂から沓見の郷へ」報告

色々あった2020年もあと一ヶ月ちょっとで終わってしまいます。少し振り返ってみると・・・やはり新型コロナウィルスですかねぇ~感染者一日の数も増えたり減ったり・・・まもなく、インフルエンザもやってきます。どうなるのか心配です。少し体調が悪いなぁ~と思う時は、早めに休んでください。

10月の月イチツアーは「加茂坂から沓見の郷へ」を開催しましたので報告します。
集合は、南房総市の加茂神社。南房総市役所にお勤めの方にお願いしてお借りしました。ありがとうございます。
少し加茂坂についてお話ししておきます。
現在の国道128号線は、以前は館山から北条・府中(旧三芳村)を経て竹原を通り上加茂坂を越えて、古川から松田を経て鴨川方面に通じていましたが、加茂坂の坂道が悪路だったため、明治10年に最初の開鑿から13年に県道に認定されました。昭和28年には2級国道になり、昭和40年に道路法改正で国道に変更されました。
今回は、古い道を少し歩きに行きました。

まずは、弘法大師碑と水源分岐へ。
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弘法大師碑は、天保12年(1841)に念仏講中によって建てられたものです。
水源分岐は、大正12年(1923)の震災で溜池が決壊し、昭和17年~19年にかけて溜池改修・用水路の整備が行われました。昭和29年に暗渠排水、28年に灌漑排水の事業が行われ、32年に工事が終わりました。すぐそばに集乳所があり、あつめた牛乳はこの貯水池で冷やしていたそうです。

いよいよ加茂坂へむけて、長い登り坂を歩いて行きます。入口?には、地蔵尊や馬頭観音、題目塔があります。
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このお地蔵さんは、顔が岩に押しつぶされてしまっているみたいです。
題目塔は、近くに日運寺がある為、日蓮宗のお題目「南無妙法蓮華経」と書かれています。
※日運寺・・・昔、勝栄坊と称する真言宗の小堂でしたが、文永元年(1246)、日蓮聖人が鎌倉より小湊に帰る途中、この堂の止宿した際、当時の堂主を説得し、日蓮宗に改宗したお寺です。
ここを日蓮聖人が通ったのかなぁ~なんて想像してしまいます。

少し歩くと鎌田台分岐点があります。

ここは、昔、稲村城や館山湾の眺望がとてもよかったそうです。里見氏の時代「天文の内乱」のとき、ここで稲村城方の兵が守備をしてたという伝承がある場所です。

さて、古道に突入します。

途中、戦時中に掘られた穴があります。
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昭和20年になると米軍の本土上陸が予測され、丸山にも本土防衛のため日本軍部隊が配備駐留するようになりました。米軍の上陸は南三原から千歳の海岸、平砂浦当たりを想定し、豊田・丸山方面に野戦・銃砲を配備し、山腹に地下壕が掘られました。
この穴はなにに使用したのか?「刺突爆雷」だったのではないかという話があります。
刺突爆雷は、ドイツで開発された対戦車炸薬と思われるもので、兵隊が穴に隠れて走ってきた戦車のキャタピラなどを目掛け、竹竿などの先に刺突爆雷をつけ、戦車に当てて破壊させるようにしたものです。
道幅も狭いし、戦車が通れるほどでもないし・・・無理っぽいのですが・・・本当はなんだったのでしょう?

落葉の道をずっと歩いていきますが、昨年の台風の影響や、人が入っていない事もあり、本来の道がわからなくなってしまっていて・・・山肌を斜めに降りて行きます。(第一回目の下見の際には、道がわからなくなってしまいましたが、2回目の下見の時に山のプロ案内してもらって道がわかりました)竹が茂っていて、道ではなくなっている場所もあります。あとは、猪に荒らされています。
少し歩くと舗装された道に出るとお地蔵さんがあります。
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地蔵尊は、寛政7年(1796)のものです。

次に、沓見大塚山へ。
標高約100m。山頂には沓見山三講の「浅間様」と左に「リョウゴ様」、右に「山神様」があります。
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「リョウゴ様」は竜宮様が訛ったもので、雨乞いの竜神を祀ったものと思われます。
入口右手に明治17年の手水鉢があり、水向けが瓢箪の形になっていて、珍しいものです。
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裏手には金毘羅宮もあります。
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山を下りて、迎接寺(こうしょうじ)へ向かいますが、途中、地蔵尊や牛頭観音、三山碑、大日様などがありますが、私有地の為今回は、見学をしませんでした。下に線香立てとかあるので、下で説明でした。
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迎接寺は、天台宗の寺院で、大光山蓮臺院迎接寺といいます。

本尊は、阿弥陀如来・勢至菩薩。寺伝によると、その昔、沓見村根方にあって、天沼山蓮光院光照寺と称し、仁寿2年(852)大阿闍梨顕秀法印の開基といいます。建保2年(1214)鎌倉幕府源実朝が軍用人夫を課してきましたが、応じることができなかったため、わずか5畝を残し、寺領を没収されていまいました。それから約450年間、廃寺同様荒れ果てた状態でしたが、享保17年(1732)、賢秀法印の時中興し現在に至ります。しかし、なぜか本尊が勧請されていなく、たまたま白子の浜辺に打ち上げられた仏像を本尊に迎え安置したと伝えられています。

その本尊は、寺領を没収された時、本尊と仁王は丸山川にすてられてしまいましたが、年月が経ち、本尊は白子浦に流れ着き、漁師に拾われ後、迎接寺の本尊として迎えらました。仁王は石堂寺に移されたという伝説があります。

境内に明治35年の孝女伊勢碑があります。
伊勢さんは、朝夷郡瀬戸村の渡辺五左衛門の次女としてうまれました。20歳の頃、沓見村吉野九右衛門に嫁ぎました。その後、凶作の年があり、たべるのに困る者も多かったそうです。夫の家はもともと貧しかったので生計は困難を極めました。そこで夫は江戸に出て家僕となり、伊勢は独り家を守り働きながら、しゅうととしゅうとめを介抱し天寿を終えさせることができました。夫は江戸に出たまま数年家に帰らず、素行修まらず、実兄等がその惨状を見るに忍びじ離縁して他に再婚しなさいといいましたが、伊勢は泣いて「かくまで私の身の上を思って下さる兄の真情は肝に銘じますが、私がこのような艱難辛苦に陥るのは定めで前世の宿縁でありましょう。今更、夫を見捨てて外に縁付くともこれに増され不孝を重ねるかも知れません。たとえ義絶されてもいったん嫁して縁付きたる家にて終えるころこそ本望です。」といいその志を動かさなかった。その後、夫は江戸において歩行も叶わなくなるほど梅毒を患し、家を出て十余年で家に帰ってきました。伊勢は甲斐甲斐しく看護に心を砕いていましたが、その効果はなく終わりになりました。相続する子が居なかったので、隣の加茂村六右衛門の次男九兵衛を養子に、丸本郷村彦右衛門の娘を嫁に迎え、一家心あわせ家運の挽回に努めましたが、その年の冬、養子の九衛門がかりそめの病につき、ついに不治の難病となってしまいました。一難去ってまた一難、しかし伊勢はこれにも屈せず嫁と共に看病しながら家業につとめました。安政2年秋、松平肥後守はこれを称して米五俵を賜うと伝えています。伊勢は、明治19年12月に亡くなりました、享年90歳でした。

伊勢さんは偉い人です。夫が梅毒にかかって帰って来ても看病できるなんて・・・調べた時にそう思ってしまいました。

こちらで、昼食休憩です。その後、迎接寺の境内にある秘密の場所へと向かいます。
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嘉永元年(1848)の三十三体供養塔・胎内巡りです。今回は、檀家さんに許可をもらい入らせていただきました。中は、天井が低く崩れている場所もあり懐中電灯を持っていないと入れませんが、めったにない場所です。外で待っている間、何匹ものコウモリが穴から飛び出してきました。コウモリさんお休みの所、失礼しました。

あとは、出発地点に戻ります。
途中には、吹代堰や地蔵尊があります。
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出発地点の賀茂神社へ。無事に帰ってきたので、お礼をしに・・・

賀茂神社。
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祭神は賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)。和銅5年(712)創建といいます。雨乞い祈願の霊験があり、村人乱舞して感謝したと伝えられています。本殿は、現存する銘札から天正2年(1574)の造営とみられ、蟇股や斗供、妻飾り・軒まわりなどの
構成の室町時代末期の特色をよく残しています。本殿は、千葉県の有形文化財です。8月1・2日の八朔祭りには、県無形民俗文化財に指定されている「加茂の三番叟」と「加茂の花踊り」が奉納されます。

拝殿の横には、神紋の二葉葵があります。
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この時期は、二葉葵の花を見る事ができます。少し地味な花です。
二葉葵は、徳川家のいわゆる『葵の御紋』のモデルになったことでも知られています。ミツバアオイと言う植物は存在しないのです。
今回は、二葉葵が枯れて?なかったので、以前行った時の写真を使っています。

とい事で、今回の「加茂坂から沓見の郷へ」は無事終了しました。古道とか行くのは楽しいですが、昨年の台風の影響で樹々が倒れたりしていて、難しくなっています。あとイノシシにかなりぐちゃぐちゃにされています。その日に着て行った洋服は、家に帰ったらすぐに洗濯しないと、イノシシの匂いが付いてしまっています。イノシシに遭遇しないだけ良しとしましょう。

お散歩ツアー「鶴谷八幡宮を中心に開けた土地を歩く」報告

急に秋めいてきました、館山・南房総です。9月10月はなんだかバタバタしていて、ガイドの独り事もなかなか更新できずにいました。9月10月のウォーキングツアーの報告が溜まってしまっているので、頑張って報告したいと思います。

暑い時期にお休みしていましたウォーキングツアーを9月10日に再開しました。今回は、「やわたんまち」として知られる鶴谷八幡宮の周辺を散策してきました。

集合場所は、当初予定していた場所が使えなくなってしまったので、鶴谷八幡宮の駐車場をお借りして出発です。

安房の総社とされ、例祭の9月14日・15日には安房国内から古社10社の神輿が渡御して「やわたんまち」が行われます。もとは安房国府が所在した旧三芳村府中に鎮座していたとされ、鎌倉時代に源頼朝が現在地に遷宮したという説と、室町時代の里見義実によって遷宮されたという説があります。
里見氏の篤い信仰によって保護され、政治的にも利用されました。江戸時代の社領は171石余りで、別当の那古寺が管理していました。八幡の祭りは府中にある元八幡神社でお水取をしてから始まることになっています。

本殿や向拝の天井の彫刻は市の指定文化財で、彫刻は百態の龍と呼ばれる後藤義光の作品です。

次は、神社の裏にある千灯院へ。

真言宗智山派の寺院。江戸時代には八幡宮の別当を務めていた那古寺の支配下で、八幡宮の領地から6石の配当を受け、社僧が住み、仏事で八幡宮を奉仕したお寺です。境内には、寛政5年(1793)の廻国供養塔や、天保12年(1841)の一億万遍念誦塔があります。

次は、阿弥陀堂へ。

現在は八幡地区の墓地のお堂になっていますが、明治になるまでは八幡神社の本来の姿である阿弥陀如来を祀る本地堂で、鶴谷やわた宮の附属施設として社殿の隣にありました。堂内には、かつて八幡宮一の鳥居と二の鳥居の間にあった弁天社に祀られていた弁財天像も祀られています。戦国末期の里見時代のものです。

次は、薬師堂へ。

詳細は不詳ですが、墓地には正徳元年(1711)の北条藩万石騒動の際に、刑死した三義民のひとり湊村名主秋山角左衛門の墓や、元文6年(1741)に明神丸乗船中に遭難したと思われる7人の供養碑があります。また寛永21年(1644)に薬師堂に奉納された鰐口があります。

次は、六地蔵の道標へ。

年号はありませんが、「右正木 左やわた」と刻んだ道標があります。むかしは道の中央に建っていたそうですが、開発等で現在の場所に移動しました。

次は、子安神社へ。

湊地区の鎮守。天正18年(1890)には子易大明神として記録されています。修験の徳蔵院が代々別当として神社の管理をしています。子安の名から安産の信仰があり、底の抜けた袋が奉納されています。境内周辺は古墳時代から平安時代の土師器が出土するところで、向原遺跡と名付けられています。

子安神社から稲荷遺跡に向かう途中にも、もう1つの道標があります。

北条と湊の境の十字路には「北まさき 東こくぶん寺 西やわた」と刻んだ道標があります。最初の道標と同じで、四角柱で子どもの戒名を刻んだ六地蔵になっています。流行り病で死んだ子どもの供養のために建てられたと伝えられています。

次は稲荷遺跡へ。

この周辺は古墳時代から奈良・平安時代の土師器などの土器が出土する遺跡です。北条村北町中で奉納した稲荷の石宮を祀っています。

安房高の裏を通り、稲荷神社へ。

長尾藩の陣屋が鶴ケ谷につくられた際、旧領地の駿河国田中の城内から移されてきました。稲荷は藩主本多氏の鎮守で、廃藩後も旧藩士が葵恩会を結成して神社を維持してきました。境内には、大砲の碑や明治3年に横須賀の大工が奉納した手水石があります。

次は、長尾藩共同墓地へ。
っとその前に長尾藩陣屋跡の説明を少し・・・
安房高周辺から六軒町の諏訪神社までの地域に、明治3年長尾藩4万石の陣屋が移転してました。その場所は、幕末に海岸警備の任にあたった武蔵忍藩や岡山藩が陣屋をおいた場所です。稲荷神社の向かいに藩主邸、その海よりのほぼ陣屋中央に藩庁が置かれていました。学校(日知館)・工作所・番屋がおかれ、藩士たちの屋敷が周辺に整えられていました。
では、共同墓地へ。
安房高の隣?に長尾藩士の共同墓地があります。家老の遠藤俊臣、日知館監察の雨宮信友、勘定奉行の熊澤董、剣術師範の小野成顕・成命ほか50家におよぶ藩士の墓があります。

あとは、神社に戻ります。

お散歩ツアー「天面磯浜古道を歩く」報告

ここの所、大雨の災害が多く発生しています。館山・南房総では、昨年9月に経験をしていますが、今回の九州地方の災害は、すごく大変な事になっています。特に熊本県は、震災でやっと復興してきたところ、新型コロナウィルス・大雨での災害・・心が痛みます。これから、夏に向けて台風の発生もあるかと思います。館山・南房総も備えておかなければなりません。
令和2年7月大雨災害に遭われた皆さまが、日常の生活に早く戻れる事を願っています。

今回は、当初予定していたのは「頼朝伝説と洲崎を訪ねる」でしたが、訪問する地区の方に多くの張り紙がしてあり、「新型コロナウィルスが終息するまで観光客は立ち入り禁止」となっていて、下見で歩いてるときも、地域の方の目が厳しい状況でした。
たしかに、高齢者の多い地域ですので、警戒心が強くなっているんだろうなぁ~と思い、コースの変更した次第です。
今回のコースは、緊急事態宣言中に予定していた「天面磯浜古道を歩く」を開催しました。

出発場所は、道の駅鴨川オーシャンパーク。
最初に訪れたのは、名馬橋。

この付近には、頼朝伝説があります。
頼朝が安西氏のもとに向かう途中、太海の太夫崎で休憩をしている時に、一頭の名馬を得ます。この橋の下の川で、頼朝が馬を洗ったことから、川を名馬川、そこにかかる橋が名馬橋となりました。

次は、岩屋山波切不動堂へ。
参道には、鴨川の石造物百選に選ばれている「百番観音」があります。

雑草に覆われてしまっていますが、観音像が多くあります。百番観音ですので、百体あるかと思われますが、損壊などが進み百体ない状況です。年代でみると、寛政10年(1798)や享和2年(1802)などがみられますので、数年かけて建立したものと推察できます。観音信仰は、法華経の観世音菩薩普門品(観音教)に、観世音菩薩は三十三に姿を変えて衆生を教化し救う事が説かれていて、聖徳太子が法隆寺に救世観音を安置して以来、観音信仰が広まったそうです。

お堂へ。

本尊は11面観音。詳細等は不詳です。
お堂の前(脇)には、鴨川市の石造物百選に選ばれている倶利伽羅竜王と狛犬があります。
お堂に向いて左側に倶利伽羅竜王があります。

紀年銘は確認できませんが、江戸時代後期のものだと言われています。
倶利伽羅竜王は不動明王の変化身だと言われています。

本堂向かって右側には、狛犬があります。

普段ご紹介している狛犬と異なった狛犬です。嶺岡山系産出の蛇紋岩で造られていて、江戸時代後期に地元の石工によって製作されたものと考えられています。愛嬌のあって可愛い狛犬です。

ここにも、源頼朝の伝説があります。
不動堂の側に駒穴があります。先ほど名馬橋のところで少し話をしましたが、付け足しです。
頼朝は、付近に馬の蹄の跡が多いことに気付き、家来に探させると、洞窟の中で一頭の馬をみつけました。頼朝は滝から流出した川で馬を洗ったといいます。その馬は「太夫黒(たゆうぐろ)」と名付けられ、頼朝の愛馬となり、のちに義経に与えられたそうです。この馬が、一の谷の戦いで有名な鵯越えの逆落としを結構したときの義経の馬だそうです。太夫馬については、いろいろな地域でお話しが残っていますが、今回はここでの話という事にしておきます。

境内には、穴の開いた石があり、これらを馬蹄石と呼ばれ、名馬の蹄のあとと伝えられています。

今回は、雨が降ったあとだったので、不動滝の勢いが素晴らしかったです。

波切不動を後にし、大夫崎の方を通り出世不動前を通り四社神社へ。

祭神は瓊瓊杵尊・木花開耶姫・大山祗尊・誉田別尊の四神です。詳細等は不明です。

すぐ隣にある西徳寺(天面善光寺)へ。

真言宗智山派の陣で、山号は龍光山。本尊は不動明王です。創建の年は明らかではありませんが、明治後期にまとめられたと思われる寺院明細帳によれば、慶長9年(1604)の大津波によって建物や伝来の古文書類が流失してしまいました。慶長11年に長空という僧侶が中興開山したといいます。境内の阿弥陀堂には信濃国(現長野県)の善光寺の創建者と伝えられる本多(本田)善光が、善男善女の寄進した金銀財宝を基にして鋳造した48体の尊像の一つと言われている、善光寺式阿弥陀三尊が祀られています。三尊像は、もとは波太の宝幢院に安置されていましたが、慶長の津波で慶長年間(1569~1614)に西徳寺へ移されたと伝えられています。
西徳寺に伝来する「阿弥陀如来略縁起」によれば、当地を支配した有馬氏は、七堂伽籃を建て厚く信仰していましたが、有馬氏の没落後に来た領主は、全く信仰心のない人で伽籃を破却し、如来像は打ち壊そうとしました。その時、にわかに異変が起こり、領主寵愛の息女が急死し、家人の多くが狂気しました。阿弥陀如来の天罰の示現に愕然とした領主は、尊像を即時に本所に送り戻し、旧悪を改め仏法に深く帰依しました。寺主と里の民は力を合わせ、近隣・郷党に広く助成を求め堂を再興しました。慶長9年(1604)の冬、大津波が房州の沿岸を襲いました。民家を押し流し堂宇も流失してしまい尊像を失い、人々は悲しみました。ところが天面村の鎮守である四社神社の井戸が夜な夜な光を発していました。早速占ったところ、「尊像はこの井戸に在します」とのお告げがあり、井戸を掘ると井戸の底で釜を被った状態で三尊が輝き現れました。
阿弥陀如来三尊は、南北朝時代から室町時代の作品と考えられていて、千葉県の文化財に指定されています。

西徳寺の境内には、鴨川市の石造物百選の2つがあります。
まずは千手観音。

千手観音を石で造る例は少なく、安房の中でも単独で造られたものは少ないといいます。文化10年(1813)に建てられたものです。

千手観音の奥に十九夜塔(如意輪観音陽刻)があります。

享保2年(1717)に当地の十九夜講の人たちによって造立されたものです。十九夜講は、十九日に拝む女たちの念仏講です。如意輪観音は血の池地獄で苦しむ女性を救う仏と言われています。地の池地獄の苦を逃れるものであったり、安産や育児、婦人病の回避などの女性特有の祈願だったのだと思います。如意輪観音は、墓塔にも刻まれています。

次は、西院の河原地蔵尊へ。

全国に「賽の河原」は数多くありますが、「西院の河原」と呼ばれるのは千葉県でも唯一。幕末期、この地を治めていた岩槻藩の藩士が天面にやってきて砲台を検分した時の日記に、「砲台の左方にサイノカワラの石積みがある」と記してあります。
国道128号線が出来るまでは、海岸で石をひろってきて西院の河原に積んでいいたそうですが、国道ができてからは石を拾ってくることができなくなり、石積みは途絶えたそうです。
少し賽の河原の説明を・・・
三途川は、現世とあの世を分ける境目にあるとされています。三途川のほとりには「賽の河原」と呼ばれる河原があり、死んだ子供が逝く場所と言われています。そこで子供たちは、親よりも先に死んだという親不孝の罪の報いを受けるのです。
鬼は、「こんな土壇場にきて、早死した罪に報い、まだ善行を積んでいないというのでは、先ず三途の川を渡れないが、それに気付くのが遅かったのには目をつぶってやろう。しかし、日の出から日の入りまでの間に、大きな石を運んできて塚を築き、日の入りから日の出までの間に小さな石を拾って塔を築きなさい。そうすれば川を渡らせてやろう。
「ひとる積んでは父のため、ふたつ積んでは母のため・・・」子供たちは悲しげにうたい、父母恋しと泣きながら石を泥と血にまみれながら、一つ一つ積み上げて塔を作るのです。やっと出来上がった塔を、鬼が回ってきていいます。「お前たちが積む塔は、歪んでいてみっともない。これではご利益もないだろう。さっさとこれを積みなおして成仏を願え」と無情にも壊してしまい、また最初から作らなくてはなりません。何度も何度も作り直しても鬼がきて壊されてしまいます。泣き叫ぶ子供たちに、最後は地蔵菩薩が慈悲の手を差し伸べてくれるという話です。
ここの西院の河原には、水子や幼い子供たけでなく、未婚の若者がども供養されていて、多くの地蔵さんが祀られ、たくさんの玩具や人形が供えられています。考えさせられる場所です。

あとは、出発地点へと戻りますが、今回のメインイベント、JR東日本山生橋梁を下から見に行きます。

山生橋梁は、前兆1,647.8m、脚高11.5m、幅5.9m。国道128号線の房州大橋と並び、JR内房線江見~太海の海岸線をまたぐように、架けられた鉄道橋としては日本初の鉄筋コンクリートT型はり形式の橋梁です。大正13年(1924)の房州西線(現在の内房線)の延伸に合わせて、大正9年(1920)に、鉄道院総裁官房研究所・柴田直光の設計により建造されました。橋梁は、海岸線に沿って緩やかにカーブし、橋脚の一部は満潮時に浸水する厳しい自然環境下に作られました。特に塩害による鉄筋の腐食が心配されていましたが、昭和58年(1983)に行った調査では一部に鉄筋の発錆などがみられましたが、おおむね健全でした。入念な施工を行えば、このような環境下でも長期使用に十分耐えられる鉄筋コンクリート構造が実現できることを証明した橋梁でもあります。平成24年度(2012)に関東の土木遺産として認定されました。
いつもは国道を車で通ってしまって下から見るなんて考えもしなかったのですが、下から見ると迫力があります。この橋梁が約100年近くここに建ってると思うと、素晴らしい技術なんだなぁ~と思わせてくれます。下から見るには、干潮時でないと厳しいものがあります。

あとは、出発地点へと戻ります。
今回のコースは、普段車で通り過ぎてしまうような場所ですが、歩いてみると素敵な場所が多くあります。地元でも見過ごしてしまっている場所でした。

最後に、今回「賽の河原」の話を少し書きましたが、最近TVで置き去りにして3才の子どもが亡くなってしまった事件がありましたが、この世で苦しんだ分、早く地蔵菩薩が慈悲の手を差し伸べてくれる事を願っています。