月イチツアー「大人の遠足」報告

気が付けば4月、新年度に突入しました。今年は桜が速いようで、館山・南房総でも満開を
迎え、そろそろ散り始めてきました。花が終わると新緑の時期になりますね。
H30年度のパンフレットもお客(ウォーキングツアー参加者)様への発送も終わり、内房
エリアの道の駅や館山市の公民館へ配布は終わりました。外房エリアの道の駅は、もう少し
お待ち下さい。

さて、29年度最後の月イチツアー「大人の遠足」を開催しました。このタイトルは、館山
市の小中学校に通っていた人は、1度は学校行事の遠足で「砂山」を訪れた事がある事から、
大人になっても遠足気分で歩きましょう!!っという事で付けたそうです。
当初予定していた日は、大雨に見舞われ、数日の延期をし晴れの日に行いました。

出発は、布沼組合集会所。最初に行くのは、山側に入って行った薬師堂。
薬師堂に行くには、手作りの橋を渡って行きます。

橋を渡り、少し坂道を上がると、薬師堂が見えてきます。

この薬師堂は、戦国武将 里見義堯の流れをくむ布沼の郷土の家の薬師堂です。
本尊は、薬師如来。お堂の天井には龍の絵が描かれているそうです。今回は見る事が出来
ませんでした。
御詠歌には、「大石と重き病も我たのめ 人の布沼にもとの身と成」とあり、病気平癒の
祈願をする人々がこの薬師にお参りしていたそうです。


お堂の横には、寛文4年(1664)・延宝6年(1678)の宝篋印塔の墓石があります。

境内には、石造物が多くあり、信仰の深さが分かります。

次は、深田やぐらへと向かいます。

ここは、室町時代の「ヤグラ」で、中には15世紀から16世紀の五輪塔と宝篋印塔を組み合
わせた塔が3つありますが、もとは、宝篋印塔が少なくとも2基、五輪塔が4基あったと思わ
れます。布沼の有力の武士の墓と言われています。

次は、大久保墓地へ。墓地はあまり行きたくないのですが、珍しい墓石があるので紹介します。

明治36年(1903)の酒樽型の墓(酒翁盛呑信士)があります。戒名からしても、酒盛りが好き
な人だったのではないかと・・・ユーモアのあるお墓です。このような酒樽型のお墓は、館山
市内にあと3つ確認されています。また旅倶楽部では、すべて紹介してるかと・・・
あとお隣の南房総市の智蔵寺にもあります。30年度にウォーキングツアーで訪ねる予定です。

次は、東光寺へ。

曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来。釈迦如来像は、16世紀の室町時代後期の作です。
境内には、寺小屋師匠で慶応2年(1866)没の住職芳明東禅和尚の墓があり、また、裏参道には、
文化14年(1817)から農業が機械化させる直前の昭和35年にいたるまでの馬頭観音が16基
あります。

裏山の中腹に「やぐら」と思われる穴があり、周辺からは16世紀の常滑焼の破片が出土して
います。また、縄文土器・弥生土器・古墳時代の土師器や東海系の須恵器も出土しており、境
内周辺は大久保遺跡と呼ばれています。

次は、小原の集落にある薬師堂へ。

薬師堂の入口に念仏講による享保7年(1722)の地蔵像と嘉永4年(1851)の馬頭観音があります。
裏山の山頂近くに「やぐら」があり、五輪塔と宝篋印塔の石の一部があり、中世室町時代の有力
な武士層の墓と考えられています。今は、急登の藪こぎで近づけません。

次は、砂山の裏を見に行きます。

子供の頃は、ここから登っていきましたが、今回は表へと回ります。
ここで、ソリを持って滑って、川へなんて遊びをしていました。今は無理ですが・・・

さて表へとまわります。
砂山の手前に土地の人がジャジキと呼ぶ谷津があります。

昔は水を満々と蓄えた深い池だったそうです。その東側の崖に古墳時代の横穴墓が3つあると
いいます。そのうちの一つから人骨や刀、勾玉、管玉が出土しました。玉類は館山市立博物館
に展示されています。
この池は砂山のドラゴンが棲んでいて、行き交う旅人になぞなぞを出し、答えられないと食べら
れてしまったそうです。傍らの露出している岩は龍の足跡だそうです。ドラゴンがなぞなぞなんて
面白いお話しが残ってるんですね。

さて砂山です。

昔、佐野から坂井にかけての一帯は、平砂浦の防砂林が完成する前は、海から吹き荒れる風で、
一晩で山が動くと言われるほどの激しい砂嵐がありました。その砂嵐で運ばれた大量の砂で砂
山が出来ました。当時の砂山のスロープは見上げるほどの急斜面で山頂の岩がすっかり隠れて
いたといいます。
砂山が出来た頃は、藤原から布沼を通って西岬へ行く旧道は、砂山あたりが難所となっていま
した。そのころの佐野っ原はムジナがすむ寂しいところで、「ここで美しい女性や侍を見たら
気をつけろ」と言われたそうです。布沼方面からの旅人は、ここで一服してから砂山を越え、
西岬方面からの旅人は大変な思いで砂山を越えてから一息ついたといいます。
現在の砂山は、防砂林ができ砂が吹き上がる事がないので、だんだんと砂が少なくなり、岩が
見えるようにりましたが、小・中学生の遠足や都会の体験学習・サンドスキーなどのレジャー
や陸上・サッカーのトレーニングなどで、多くの人が訪れています。

ここで昼食です。今回は焼肉弁当。

たまには、焼肉なんていいかな?なんて思いまして・・・結構、ボリュームがありました。

お腹がいっぱいになったところで、翁作古墳跡へ。

現在は、館山カントリークラブ(ゴルフ場)になっていますが、昭和42年(1967)にホテル
の工事中に発見された古墳です。標高35mの砂丘の先端という位置で、当時は砂に埋もれて
いました。ホテルのオープンにあわせて、玄関前に3本のやしの木を植栽していたところ、
壷や刀の破片・さらに人骨などが見えたといいます。工事を急いでいたため出土品は段ボール
に納め、他の副葬品は埋め戻されました。出土品は市役所に持ち込まれましたが、後に安房水
産高等学校の對馬先生に届けられたといいます。古墳はすでに消滅し、規模等明らかではない
ですが、地表下2mから人骨や須恵器・剣・刀子・勾玉・管玉・圭頭大刀・環頭大刀が出土し
ました。大刀(市文化財)・玉類は館山市立博物館に展示されています。
葬られた人は6世紀終わり頃の人物で、中央大和王権に近い安房地域の豪族だったと考えられ、
東京湾の入口がこの頃から重要だったことが分かります。

ゴルフ場から平砂浦海岸へと向かいます。

西岬と富崎との間に広がる平砂浦は、元禄16年11月23日の大地震で大隆起があり、新しい
土地が出現しました。ところが、10m以上も一挙に隆起した海底は一面の砂浜となり、秋から
春先まで吹き荒れる西風によって、たちまちおおきな砂山が出来てしまいました。この砂山は、
1年間に数メートルも耕作地に迫り農民は飛砂を防ぐための努力が続けられましたが、大正12年
の大地震により2m以上も隆起してふたたび砂原になってしまいました。その後、戦時態勢が進み、
佐野に館山砲術学校が建設され軍事演習場となって再び荒涼とした砂原になってしまいました。
昭和22年9月のサハリン台風、23年9月のアイオン台風により一夜にして田畑が埋められてし
まいました。戦後の農地改革にあわせ、当時開拓組合の役員だった田辺昇は軍用地の払い下げに合
わせ砂防問題にも精力的な活動を始め、ついに昭和23年飛砂防備砂防林工事の着工に至りました。
「平砂浦砂防林造成記念碑」には着工 昭和24年7月・完了 昭和32年3月施・施工面積146
ha・事業費 2,783万円と記され、9年間の大事業でした。こうして、白砂青松といわれる風光
明媚な平砂浦海岸が作り上げられ、この松林の中に海岸道路フラワーラインが建設され、観光道路と
なり道路百選にも選ばれる名路となりました。
この当時の2,783万円は、今でいうと6億円位になるかと・・・大規模な工事だったんですね。
現在、松林は数年前から松くい虫の被害にあい、再生の努力が続けられています。

海岸を後にし、向かったのは大石弁天。

元禄16年(1703)の大地震で隆起が起こるまでは、海岸の大岩だったと思われる場所にあります。
寛政5年(1793)の記録に、旧暦6月18日に祭礼があり、布沼・茂名など5か村で雨乞いの祭礼
を行い、弁天様にお神酒を上げて、一日遊んだといいます。享保7年(1722)に作った鞨鼓舞の獅子
頭がのこされています。

数年前までは小さな石の舟がたくさん奉納されていました。

少し名残がありました。

さて、残り1つの見学場所は、厳島神社です。

島状の高台に鎮座する布沼の鎮守です。境内には文化7年(1810)の手水石があります。
社殿の裏手に縄文時代の石棒が祀られ、周辺からは古墳時代の土師器が出土するといいます。

あとは、集合場所へと戻ります。

平成29年度も無事に終わる事ができました。いよいよ30年度がスターとします。
ウォーキングツアーは誰でもご参加できます。是非、一緒に住んでいる地域の歴史など
に触れてみませんか?お待ちしております。

追伸:一緒にガイドとして活動してくださる方も募集しています。地域の歴史を調べる事が
好きな方・人とのコミュニケーションが好きな方・歩くのが好きな方、是非、一緒に活動
しましょう!!同時に、ウミホタルの観察会のお手伝いして下さるボランティアも募集して
おります。ご興味のある方、是非ご連絡下さい。

お散歩ツアー「白間津・花と民話の里散歩」報告

3月ですね。館山・南房総では、河津桜が終わりに近づいてきています。もうしばらくすると、
ソメイヨシノが咲き始めると思いますが、去年の城山公園の開花は3月の終わりでした。今年
はいつ開花するのでしょうか?

さて、お散歩ツアー「白間津・花と民話の里散歩・花と民話の里散歩」を開催しましたので、
報告します。南房総市千倉町にある白間津エリアは、お花の露地栽培で有名な地域です。
たぶんみなさんも、早春のパンフレットとかで御覧になられている方もいらっしゃると思い
ます。お花畑に色とりどりのストックや金盞花が咲いている写真を・・・

この写真は、数年前に撮ったものです。今年は、少し少ないようですが、昨年10月の台風で
ダメージがあったそうです。自然には、勝てないですね。

さて、出発は南房千倉大橋公園の駐車場から出発です。
まず最初に向かったのは、長尾神社。

主祭神は大山祗命(おおやまずみのみこと)。元の社殿は山腹にあり神域が狭く、山の絶壁
の下にあったため、時々崖が崩れ社殿が損傷していました。当時の区長で名主の宇山氏が、
宇山氏の屋敷跡を譲り受け大正元年(1912)に式典をあげ、大正3年(1914)新築、翌年9月
に完成しました。


向拝の龍は、三代後藤義光の作です。

境内には、神輿庫があり中には2基のお神輿が納められています。

写真はうまく撮れていません。すみません。
ここに納められている大神輿は、100年以上前に作られたもので、欄干の刺繍には、留め金
がなく、爪と尾だけで固定されています。

手水石もなかなの仕事をしていますが、作者は不明です。

次は、東澵寺へ。

真言宗智山派の寺院で、山号を壽命山。鳥山確斉生家の菩提寺です。

鳥山確斎と言う人は、大川村・宇山孫兵衛の二男として文政2年(1819)に生まれ、兄と共に
大聖院の住職に師事しました。幼少より聡明だったのですが、8歳の時に落下してきた凧で
左目を傷つけてしまい、以後、家に籠る事が多くなり読書に明け暮れていましが、20歳の時
には江戸の東条一堂に入門し、儒学・漢学を学び、文武両道を志しました。31歳の時に京橋
に「蒼竜軒」と呼ぶ私塾を開き、兵学・漢学、儒学を教えます。33歳の頃、蒼竜軒で吉田松
陰・桂小五郎・梅田雲濱達と交流。吉田松陰は確斎を兄と慕っていたと言われています。志半
ばにして安政3年(1856)病により38歳で他界しました。

境内には、鳥山西鶴の百三十年祭記念碑が建てられています。

次は、民話にもあります黒星へ。

地元の人の話によりますと、昔は「黒星(くろぼし)」と呼んだそうですが、いつの頃かなま
って、今の名「黒星(ころぼし)」になったというのです。その岩は、二坪位の大きさで、一
見普通の岩と何ら異なるところのない岩ですが、大昔起きた大地震の時、高塚山から転げ落ち
たもののようです。黒星は西の方がえぐられ、空洞になっていますので、昔はその前に、よく
線香や飯や餅などを供える人がいました。でもその時、黒星に触ったり、黒星に寄りかかった
りする者は、一人もいませんでした。それは地元の人たちが、「黒星に触ってはならない。触
れば必ず祟りがある。」というタブーを信じていたからです。どうして黒星に触ってはいけな
いことになったのかは不明でうすが、恐らく、この岩が転落した時、多くの人が圧殺したため
ではないかと、想像されています。(南房総市の昔話より)

今では、岩の上になにか棒みたいなのが乗っかってますが・・・大丈夫なのでしょうか?

次の円正寺へと向かう途中の旧道に石仏群がありました。

ここにある子育て地蔵がチャーミングだったので、写真を撮ってきました。

ちょっとわかりづらいと思いますが、胸に抱きかかえている赤ちゃんが、暴れてのけぞっている
ように見えませんでしょうか?「元気な赤ちゃんに育ちますよに」という事なんでしょうかねぇ~
珍しいので紹介しておきました。

さて、細い路地を通り圓正寺へ。

真言宗智山派の寺院で、山号を岩戸山といいます。
もとは、次に行く日枝神社の別当寺で神社の祭典が行われていました。現在でもまず仏前に「ササ
ラ踊り」を奉納してから、神社の祭典が行われています。

境内には、三界万霊塔があります。

天保12年(1841)から明治19年(1886)にかけての溺水者を弔う為の塔です。昔は海岸の周り地蔵
の近くにありましたが、現在の場所に移設したと言われています。

次は、すぐ裏の日枝神社へ。

祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)。延喜元年(901)、第60代醍醐天皇の時代、岩戸大納言
義勝が京都より勧請して創建と伝わっています。4年ごとに開催される「白間津の大祭」が重要無形
民俗文化財「白間津のオオマチ行事」と指定されています。祭神は農業の神として昔より氏子の崇敬
が篤く、特に平安朝より伝承されたとする五穀豊穣の祈願、雨乞い「ささら祭」がササラ踊りとして
現在の「白間津の大祭」に繋がっています。

拝殿の高梁の親子龍の彫刻、拝殿柱の振返獅子、象鼻などの彫刻は、安房の名工・初代後藤義光の作
で、義光の作品でも稀に見る傑作として知られています。

写真は上手く撮れてないので、実際にお参りに行って見て下さい。

次は、三ツ山地蔵尊へ。

三ツ山とは、三つの小山を一緒して呼ぶ名です。三つの山は昔から信仰の山で、今回は国道の方
から入って行ったので、左側の階段を上ると愛宕大明神(愛宕様)、右側を登って行くと権現様
があります。この権現様は昔は稲荷様とつながっていたのですが、国道により分断されてしました。
国道を渡り旧道の所を入ると稲荷大明神(稲荷様)があります。

左:愛宕大明神  右:権現様

海岸線から見る地蔵大菩薩を祀るお堂。

三ツ山地蔵尊のお話しを・・・
約1200年前の寒い冬のある日、白間津村の孝行息子が盲目の父親にアワビを食べさせたいと、
母が止めたのにも関わらず、磯に出て行きました。なかなか帰って来ないので、探しに行く
と両手にアワビを握ったまま海に沈んでいました。安房国を巡錫していた弘法大師が、この
海難事故を哀れんで、冥福を祈り、この様な惨事が二度と起こらないように、海上守護の地
蔵菩薩像を三ツ山の岩に彫刻し護摩修行をしました。三ツ山地蔵の霊験はあらたかで、今も
近隣の漁民や農民の厚い信仰を集めています。(南房総市の昔話より)

今回は、中を見る事ができませんでした。残念です。

もう1つこの三ツ山に昔話が伝わっているので紹介します。
昔、この三ツ山周辺は真間の原といい、昔から悪い古狐が住んでいたといいます。なにしろ
十九町ほどの間、家が一軒もない淋しい原だったからです。その古狐は夜になると、人里ま
で現れて人を化かしたり、脅かしたりしたので、困った里人たちは、これは古狐が棲むのに、
ふさわしい家がないからだと考え、三ツ山へ稲荷さまを建てることにしました。
やがて、稲荷様は立派に出来上がりましたが、それでも暫くは、古狐の悪さは止みませんで
した。ところが、三ツ山の稲荷様のお蔭かどうか分かりませんが、ある時から古狐の悪さが、
ぱったり無くなり、自然と古狐の噂も里人の口から消えようとしたときでした。ある夜、あ
る家の老婆の夢枕に真間の古狐が立ち、「ながいこと悪戯をしましたが、私は今、三ツ山地
蔵のかたわらの草むらに埋まっています。可哀想だと思ったら、どうかわたしの骨を掘り起
こし、三ツ山稲荷に祀って下さい。」と告げたのです。老婆から夢のお告げを聞いた里人た
ちは、死んだ古狐を可哀想に思い、三ツ山地蔵のかたわらの草むらを掘ってみると、老婆の
夢枕に古狐が告げたとおり、狐の骨が出ましたので、その骨を拾い上げ、三ツ山の稲荷様に
納め、厚く供養してやりました。その後には、真間の原に悪い狐は棲まなくなったどうです。
(南房総市の昔話より)

さて、ここらか海岸線を通り駐車場まで戻ります。曇り空、強風でしたが、なかなか見どころ
満載のウォーキングでした。題名にもありますが、この地域は昔のお話しが多く残っています。
あともう1つだけ民話を紹介します。
手長婆(てながばば)というお話しです。
千倉町白間津地区の氏神に近い山腹に、「手長婆の洞(ほら)」と呼ばれる2つの洞穴があり
ます。 昔むかし、その洞穴に手の長い一人の婆が住んでいました。里人たちは、その婆を手
長婆と呼んでいましたが、婆あどこの生まれか、どんな気性な者なのか誰も知りませんでした。
なぜかと言えば、婆の手がたいそう長くて気味が悪い上に、顔が鬼婆のように怖いので、誰も
恐れて付き合わなかったからです。そのため、婆はまったく一人ぼっちでした。話相手は一人
もなく、朝夕暗い洞穴に棲んでいるのでした。その婆の唯一の慰みは磯物を捕ることでした。
捕るといっても浜へ出てではなく、洞穴に座ったまま、里越しに長い手を伸ばして磯物を捕ま
えるのです。大川と白間津の境辺りの浜はいつも婆が手を伸ばすところでした。手長婆は随分
長生きをしたようですが、しかしいつ死んだのか、またどうして死んだのか、少しも分かり
ません。今、その婆が住んでいた洞穴を訪ねて、その内部を掘りますと、アワビやサザエなど
の貝殻がたくさんでてくすようですよ。(南房総市の昔話より)

民話にお付き合いいただきありがとうございます。最近では、民話を聞く事が少なくなってきて
いますので、ちょこちょこガイドの独り言で、民話を紹介していきます。

次回は、月イチウォーキング「大人の遠足」です。お待ちしております。

月イチツアー「子の姫伝説と向西坊ゆかりの地を巡る」報告

花粉の季節が本格的にやって来ました。房総半島の南部にいると、私の場合1月位から
花粉症の症状が出始めるんですよねぇ~。風邪も流行ってくるので、1月からマスクは
必需品なのですが、歩いているとどうもマスクが嫌で・・・外してしまうと、帰ってか
らが大変なことになります。杉山が多いので、早く、花粉の飛ばない時期になって欲し
いものです。

そんな中、2月月イチツアー「子の姫伝説と向西坊ゆかりの地巡り」を開催しました。
当日は、朝寒かったのですが、天候にも恵まれて丁度良い気温になりました。

出発地点は、南房総市花園にある駐車場から。
まず最初に向かったのは、鴨川市江見にあります真門観音堂。

真門観音堂は、十一面観音菩薩を祀る小さなお堂です。向拝には肉厚な龍の彫刻があり、
獅子は、火炎に振り向いた姿をしています。

この彫刻には、「安房国彫工 後藤利兵衛橘義光」と刻銘がします。年代は刻まれてい
ないので不明です。

次は、鴨川市から南房総市に戻り諏訪神社へ。
諏訪神社の鳥居の手前に今回の題目に入っている子(ね)の姫を祀った社があります。

子(ね)の姫の民話をお話します。
遠い鎌倉時代のある日、今の和田の浜辺に一隻の舟が打ち上げられました。村人たちが駆け
寄ってみますと、たいそう驚きました。その舟には、一枝の黄色い花の花木を握りしめた、
美しい姫が倒れていたのです。村人たちは姫を村に連れて帰り、小さな庵を用意して手厚く
看護し、黄色い花の花木は、庵の庭に挿しておきました。その姫は誰だったかといいますと、
実は花園天皇の皇女・子の姫だったのです。そのころ、都では天皇の位をめぐり、よく争い
が起きましたので、花園天皇が子の姫を守るため、舟で淡路島に逃れさせたのですが、舟は
激しい風と潮で大平洋に押し出され、幾日も東東へ流され、安房の和田の浜辺へ打ち上げら
れたのです。助けられた子の姫は村人たちと仲良しになり、文字や歌を教えましたので、皆
に慕われましたが、佳人薄命です。間もなく心労のためか病にかかり、静かに息を引き取り
ました。村人はたいそう悲しみ、子の姫の住んでいた庵の跡に社を建てて子の姫の霊をお祀
りすると、庵の庭で大きく育った黄色の花の花木を分けあって植え、春になると、村全体が
黄色く染まるほどにしました。やがて村人たていは、子の姫が舟で打ち上げられた浜の地を、
子の姫の持っていた黄色い花の花木に因み「木花(ぼっけ)」。そして、助けた子の姫が花
園天皇の皇女であったことから、自分たちの住む村を、「花園」と呼ぶようになりました。
(南房総市の昔話より)

この木が黄色い花の花木と言われているものです。

まだまだ咲いていませんが、6月~7月に黄色い花を咲くそうです。

次は、諏訪神社へ。

祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)・八坂刀売命(やさかとめのみこと)。
詳細等は不明です。

次は、抱湖園へと向かいます。
途中、面白い置き物や元朝桜があります。

抱湖園周辺は、元朝桜多くあり見頃が少し遅かったのですが、まだ多くは咲いていて、
桜を見ながら歩く事ができました。

階段を上がって抱湖園へ。

本来は農業用水のために自然貯水されたいた堰です。小高い山の中腹のため眺望に恵まれ、
地主の間宮七郎平が堰の周りに緋寒桜を植えました。その後区民が手入れをし美しい花を
咲かせています。元日の朝咲くので元朝桜と言われ今では桜の名所になっています。

南房総市和田町は花作りが盛んな地域ですが、どうして花作りが始まったというと、間宮七
朗平によるものです。間宮七郎平は、明治26年(1893)の生まれで、当時、このあたりは貧
しく、冬場は男が出稼ぎに行くのが普通でした。七郎平は勉強が好きで、24歳の時、薬剤
師になる勉強に取り組み、薬草の研究や栽培をしているうちに、鑑賞用の花の需要がある事
に気付いたのです。そして大正9年(1920)から花園で花作りを始めました。農家の人たち
から、花が生活の糧になるかと笑われ、中傷もありましたが、それでも自分を理解し支えて
くれた、妻の死の悲しみも乗り越え、熱心に花作りを続けました。やがて、七郎平の熱心さ
は、農業を営む多くの人たちの心を動かし、花作りが広まり、大正12年(1923)には、和田
地区に花組合ができました。初代組合長になった七郎平は、花の共同出荷を始め、東北地方
の市場開拓や、また鉄道省に働きかけ、花列車を出して貰うなど、南房総の花組合のために
尽力を尽くしました間宮七郎平によるものです。

抱湖園から山に登り、はなぞの広場を目指します。

今日は、はなぞの広場で昼食です。

今回は、道の駅和田浦のWA・O!にあるお食事処の南美舎(みなみや)さんにお願いしたお弁当
です。いつもは、直ぐに食べ始めるのですが、今回はちゃんと写真を撮ってみました。
その後、美味しくいただきました。

お腹がいっぱいになったところで、黒滝へと向かいます。

黒滝です。

長者川の中流にあり、高さ15m、幅は約2m、正面岩肌から垂直落下する滝です。 
少し水量がすくないのですが・・・・

この滝つぼ右上の所に、向西坊が入定した岩窟があります。

享保17年(1732)に「予を念ずれば火難諸災難を除き、家内安全五福寿を増長せしむと遺言し、
岩穴に自ら入定しました。入定して21日間最後の祈念を唱え生涯をおえました。53歳でした。

もう1つ滝側に似不動明王が祀られているほこらがあります。

次に向かいます。先ほど来た道を戻ります。

はなぞの広場から舗装された道をあるいて長香寺へとむかいます。l
途中には少し新しい双体道祖神や、虫供養塔がありました。

長香寺へ。

曹洞宗の寺院で、山号は花園山です。境内には、円玉石の向西坊供養塔が建てられて
います。

向西坊の事をお話しします。
向西坊は、名を元助といい、上州下秋間字館(現、群馬県安中市秋間)の百姓三右衛門の長男
に生まれました。幼くして母を失い、三右衛門は後妻をもらい、元助は養母に育てられました
が折り合いが悪く、14歳の時、家を飛び出してしまいました。少しのお金で、伊勢参宮を目
指しましたが、途中でお金が無くなり、道行く人の情けにすがっていたので、縄張りを荒らす
と付近の乞食共にいじめられていたところへ通りがかった、浅野内匠頭の代参で伊勢神宮に来
た片岡源五右衛門に助けられ、その下僕となって赤穂に連れられ、片岡の屋敷の下僕として下
働きをさせられました。元助は主人にその恩に報いたいと懸命に働き、その忠義は大石内蔵助
をも関心させられるほどでした。赤穂城明け渡し後、浪人となった片岡に仕え、片岡は元助を
伴って江戸へ下り、吉良への復讐の期を狙っていました。元禄15年(1702)12月13日討入
の前夜、突然片岡から解雇を申渡された元助は悲しさのあまり自殺しようとしました。片岡は
その忠心を認めて討入のことを話てくれましたが、そのお伴は許してくれませんでした。
四十七士は吉良邸に討ち入りして、本懐を遂げて切腹しました。元助は泉岳寺の墓前で泣きな
がら四十七士を手厚く弔い、生まれ故郷の秋間村へ帰り、出家して仏門に帰依し、名を「音外
坊」と名乗り四十七士と主君の浅野内匠頭夫婦の石像及び供養塔を造り始めました。近くの久
保観音堂にこもりながら、各地で托鉢・布施で石像建立の資金を集め、秋間の石工に彫らせた
石像を一体づつ岩戸山の岩壁まで担ぎ上げ、すべての石像が完成するまで20数年もの歳月を
要しました。その後「向西坊」と名を変えて全国を行脚しました。やがて房州和田浦長香寺に
足を止め、村人を済度し、その天命を知って、黒滝不動の側に岩を掘ってその中に入り、自ら
石蓋をし、「予念ずれば火難諸災難を除け、家内安全、五福寿を増長せしむべし」と遺言し、
念仏鉦声裡に三七、二十一日間にて入定しました。享保17年9月30日享年53歳でした。

長文になってしまいました。まだお話しが続きますが・・・今回はこの辺にしておきます。

長香寺を後にして、スタート地点へと戻ります。
せっかく菜の花が綺麗に咲いていたので、集合写真を1枚撮ってみました。

無事に駐車場に到着です。天候にも恵まれ無事に帰ってきました。
館山・南房総は、もう春です。(寒い日もありますが・・・)是非、冬眠していた体を動かし
にきませんか?

お散歩ツアー「釈迦涅槃図と街中散策」報告

寒かったり暖かったりと気温差がある今日この頃です。
館山・南房総市では、フキノトウが顔をだし春の気配を感じられるようになってきましたが、
寒い日も続いています。

さて、今回のお散歩ツアー「釈迦涅槃図と街中散策(鴨川市)」を開催しましたので、報告です。
集合場所は、鴨川市民会館前の駐車場。ここから駅周辺のエリアを散策します。

最初に訪れたのは、諏訪神社。

祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)。南北朝時代(1336~1392)の頃、信州(現長野県)
高梨郷より、ここに移り住んだ人たちが、天授3年(1377)に社殿を建て諏訪大社の分霊を迎えました。
安永8年(1779)に社殿が再建され、享和元年(1801)に大造営を行いました。明治2年(1869)、花房
藩庁の布令により社格を定めて本社に列し、諏訪神社というようになりました。

こちらの神社には、初代伊八・武志伊八郎信由の作品、本殿内の「本殿の龍」と南北側面の「波と雲」
があります。本殿は見る事ができませんが、南北の側面の「波と雲」は外から見る事ができます。

神社を修繕した時に、彫刻が壁に半分埋められてしまっています。

わかりますか?きっと逃げ出さないように半分埋めてしまったのかと・・・(想像です(笑))

諏訪神社が所有する山車と人形(神功皇后)は、もともと神田鍋町が所有していた(江戸時代、
神田祭りに参加していた5番山車)山車一揃えを、明治43年(1910)に横渚地区の関係者が東京
で購入したものです。山車と人形は霊岸島より東京湾汽船に船積みし、海路運ばれました。大正
時代中頃、神田松田町が所有していた(神田祭り36番)の人形源頼義を購入しました。
現在も、9月の鴨川合同祭に曳きまわされています。

ここでなぜ?神田・山王祭りで江戸型山車が衰退してしまったの?なんて思って調べてみました。
江戸時代、山車を曳くのは牛だったそうで、その牛を雇うのには費用が必要、山車を組み立てその
山車を置く山車小屋を建て、曳き回す時にはその警護にあたる鳶職の手間賃、山車練り物に付き添
う町役人等の衣服なども用意しなければならなかったそうです。山車が傷んだら修理、傷みが激し
い場合はすべて作り直しとなり、火事によって山車を失う事も度々あったそうです。当時、1台作
るのは、およそ400両から500両の費用がかかったそうで、現在で言うと、4000万~5000万位
だそうです。町役人はつねに資金の工面に頭を悩ませてたそうです。
幕末から明治となり、江戸が東京に代わっていくと、東京の各市街に電線がはられるようになり、
背の高い江戸型山車は電線に阻まれて道を通りづらくなってしまい、各町では次第に山車の曳行を
とりやめ、山車の人形だけを各町のお神酒所に飾るようになっていきました。
関東大震災や戦災により、山王・神田の山車にかかわるもののほとんどが消滅していき、ごく一部の
例外を除いてはその後再び造られることはなかったそうです。ですが、ここ鴨川の山車のように売ら
れ、今も大事に使われている山車もあります。

ここで、もう1つ疑問点が・・・江戸城の門をくぐる時はどうしたのかです。
江戸城の門の高さは4.4m。山車は、人形を出したままだと(カラクリ伸長時)約7.5mです。
そこで通過する時には、木枠を綱や滑車を使った仕掛けで上下にスライドさせ、門を通ったそうです。

次に向かったのは、観音寺。安房鴨川駅を通り反対側へいきますと、途中珍しい物を発見しました。

綱つりです。場所によっては道切りともいうそうです。
災いを封じる行事として、正月から2月にかけて行われる昔からの行事です。疫病神は道を通って
やってくると考えられていたので、むらの出入り口にあたる道に吊るされています。
大きなわらじは、わざと編まない部分があり未完成のわらじで、それに杉の葉を編み込んで、「う
ちの村では、悪病除けは済みました。疫病神は過ぎ(杉)ました。大わらじを履く巨人がいます」
という印で、外から来る悪疫が集落の入口で引き返すように願ったものです。下の方にあるのは、
藁で作った酒樽は、疫病神を追い払うにも村人たちの思いやりだそうで、「酒でも一杯やって気持
ちよく帰って下さい」という事だそうです。
 
綱つりから少し行くと観音寺です。観音寺の本堂に行く途中に「畠山勇子の墓」があります。

畠山勇子は、慶応元年(1865)安房国長狭郡鴨川町横渚の生まれ。畠山家は鴨川の農家で、かつては
資産家でしたが、明治維新のおり私財を投じたため、生活は貧困だったといいます。
17歳で隣の千歳村(現南房総市)に嫁ぎましたが、うまくいかず、23歳で離婚、その後東京に
出て華族の邸宅などで女中として働いた後、伯父の世話で日本橋室町の魚問屋にお針子として住み
込みで奉公します。父や伯父の影響で政治や歴史に興味を持ち、政治色の強い新聞などを熱心に読
み、店の主人や同僚たちから変人と見られていたそうです。大津事件(明治24年(1891)日本を訪
問中のロシア帝国皇太子ニコライが滋賀県滋賀郡大津町で警備にあたっていた警察官に斬りつけら
れ負傷した暗殺未遂事件)が起こると「国家の有事」と嘆いていましたが、ニコライ皇太子が急遽
神戸港から帰国の途につくことになり、それを知った勇子は、魚問屋を辞め、汽車で京都に旅立ち
ました。勇子は、3通の嘆願書を京都府庁に投じ、府庁前で死後見苦しくならないように両足を手
ぬぐい縛って、剃刀で咽喉と胸部を切って自殺を謀りました。すぐに病院に運ばれましたが、傷が
深く出血多量で亡くなりました。享年27歳でした。
その壮絶な死は、「烈女勇子」とメディアが宣伝して世間に広まりました。彼女の死は、ニコライ
皇太子に宛てた遺書や新聞の報道などによって国際社会からの同情をかい、ロシア側の寛容な態度
につながったと評価もあるそうです。
「勇子」とかいて「ゆうこ」。名は体を表すというのは彼女にふさわしいのではないでしょうか?

次は、山門脇にある旗本北条三代の供養塔があります。

山門の左側の供養塔です。今回は、担当ガイドだったのでなんだか写真を撮り忘れてしまいました。
旗本北条氏は、長狭五ヵ村を統治してきました。横渚村は知行地で、石だかを上げるため色々な
努力をしたそうです。この供養塔は村の人によって享保9年(1724)に建てられたものです。

本堂へ。

真言宗智山派の寺院で、山号を普門山といい、本尊は聖観世音菩薩です。伝承によると、慈覚大師円仁
(793~864)の開基で、永徳年間(1381~1384)に中興開山とありますが詳細は不明です。

ご住職がいらっしゃいましたので、中を見させていただく事ができました。

欄間の彫刻は、伊八の師匠の作品ではないかと言われています。
また、曼荼羅は前住職さんが手書きで書かれたものです。すごく細かく書かれていて、感動します。

観音寺では、2月の終わりから3月4日まで、ひな祭りが開かれます。畠山勇子のお雛様や吊るし
雛など見る事ができます。

次に線路を渡り、米倉稲荷神社へ。
写真が撮れてないので、ここは失礼します。

次は、善能院・日枝神社までマリンロードを歩いていきます。マリンロードはかつて、鴨川銀座と
呼ばれていた道です。今は、各地方にもあるように商店街が寂しくなってしまっています。
商店街の趣が残っている建物がありました。

善能院です。

真言宗の寺院で山号は観音山。本尊は聖観世音菩薩で長狭観音霊場第10番です。
金剛院の受持ちで、正暦発巳(しょうりゃくきし)年(993)、行基菩薩が回国の際、自作の尊像を
安置し堂宇を創立されたと言われています。本尊の左右に三体ずつ六観音が安置されています。

なかなか良い仏様たちです。

お堂の脇の階段を上り日枝神社へ。

祭神は大山祗命(オヤマツミノミコト)。創建年代は不明。
日枝神社は、少し高くなっている場所にあります。(写真が撮れてなくてすみません)
高さでいいますと二階建ての家の屋根の高さ位です。
ここだけ、ぽっこり高くなっているかといいますと、慶長地震(慶長9年(1605))で大きな津波
被害を受け、次の津波に備え前原の住民が避難場所として築いたもので、元禄地震(1703)の時、
この丘に逃げ込んだ人は助かったと言伝えられています。
境内には、元禄津波犠牲者の供養塔が多く残っています。元禄地震では、「前原一村ことごとく
流れ、溺死千三百人、流失千軒」と言われています。この丘は、江戸時代は土、明治時代は石垣、
昭和ではコンクリートというように変えています。

日枝神社・山王講が所有する山車と恵毘須の人形も、もともとは神田新石町が所有する江戸時代
の神田祭りに参加していた25番山車と、神田白壁町が所有し、神田祭り35番の人形を明治42
年(1909)に東京で別々に購入したものです。諏訪神社と同様に、海路でここまで運ばれてきました。
諏訪神社の山車よりも日枝神社の山車の方が1年早く江戸から運ばれています。

次は、熊野神社へと。

祭神は伊弉那岐命(いざなぎのみこと)、速玉男命(はやたまおのみこと)、泉津事解男命(よも
つことさかおのみこと)。南北朝時代の貞和4年(1348)に紀伊国(現・和歌山県)の熊野大社の
分霊を迎えて奉祀されました。永禄年間(1558~1569)に里見義弘夫人の祈願所となり、神領30石
が寄進され、徳川幕府により里見忠義が改易されると、元和元年(1615)本社の神領も没収されたと
いいます。寛永19年(1642)以来、明治維新に至るまで熊野三社大権現と称しました。大正12年
(1923)関東大震災で拝殿が倒壊し、昭和2年(1927)頃に改築しました。


拝殿向拝の龍は、初代後藤義光の作です。顔を左に向け牙をむき出しています。
向拝の懸魚には三代後藤義光による鳳凰が大きく大きく羽根を広げ龍と同じ左を向き同じ敵を鋭く
見つめているようです。本殿にも見事な彫刻がありますが、銘はなく作者不明です。

次は、熊野神社の別当寺院だった神蔵寺へ。

真言宗智山派の寺院で山号を明光山と言います。本尊は大日如来。
南北朝時代の貞和元年(1345)法印 源祐によって創建されました。
鴨川小学校の前身である前原小学校は、明治7年(1874)にここ神蔵寺で開校、大正11年(1922)
に創立された組合長狭中学校(現県立長狭高等学校)は、ここを仮校舎として開校しました。


本堂向拝の龍は、二代伊八(武志伊八郎信常)の作です。

いよいよ本日のツアーのメインイベント「釈迦涅槃図」を見させていただきます。

釈迦涅槃図は、182cm×200cmで200年前位のものです。作者は不明ですが、狩野派の
特徴が見られることから、格子天井絵を描いた白井休盛ではないかと推測されます。
2月15日は、お釈迦様の入滅の日です。最期の説法の旅に出られたお釈迦様は、クシナガラの郊
外でついに動けなくなり、沙羅双樹の間に床を敷かせ、北を枕に、右脇を下に、足と足を重ねて横
になられました。弟子のアーナンダは、クシナガラの町の人々に、お釈迦さまの入滅が近いことを
伝えました。すると、出家修行者や在家の信者、人間の目には見えない諸天神、鳥や獣たちが、嘆
き悲しみ、お釈迦さまのまわりを埋め尽くしたといいます。そしてついに、お釈迦さま最期の言葉
が発せられ「世はすべて無常である。比丘よ、怠ることなく努力するように・・・」
その光景が書かれたものです。2月15日には、お釈迦さまの業績を讃え、追慕、感謝を捧げる法
要の涅槃会に掲げられます。

格子天井絵です。地引村(現千葉県長南町)出身で狩野派の絵師、白井休盛の作です。茂原周辺の
古寺に仏画を残していて、天保2年(1831)70歳で没しました。

本当は、寝っこがりながら撮りたかったんですが・・・仏様の前なので出来ませんでした。

釈迦涅槃図で見えませんが、欄間の彫刻は、作者不明ですが、初代伊八・武志伊八郎信由の師匠、
島村系の作風に似ているそうです。

ご住職に色々とお話しをいただきました。ありがとうございます。
因みに、お客様がご住職の事を「歌舞伎俳優の海〇〇に似てる」と言っていました。

あとは、出発地点へと海岸へ出て帰ります。途中、牛頭天王の石宮や猿田彦神社などありました。
前原のエリアには、石宮などがあります。

最後に前原地区のお話しを・・・
元和元年(1615)横渚村は旗本北条氏領になりました。横渚無駄の前原は、海岸沿いの街で、伊南
房州通往還が通っていました。前原町は、寛永年間(1624~1644)までは家はなく、横渚村の前の
空地だから前原と呼ばれていたと言われています。延宝年間(1673~1683)に紀州漁民が「まかせ
網」というイワシ網を伝えたために漁業が発展し、元禄年間(1688~1704)はじめ頃には、他の地
域の商人たちが店を構え、近郷の農民が移り住み開拓を行いました。しかし、元禄16年の大津波
により壊滅状態となってしまいましたが、享保4年(1719)頃から次第に復興していったそうです。
最初は紀州の漁民たちは、出稼ぎできていたのですが、定住により漁法も沿岸漁業から沖合漁業へ
と発展しました。享保17年(1732)町明細帳控では、前原町の家数415・人数1862で多くの
家は漁業・干鰯(ほしか)業で働いていました。江戸後期より、横渚村から分離独立を求めていま
したが許されず、明治7年になって分離が認められました。

前原海岸です。

前原海岸は日本の渚百選に選ばれています。サーファーの方もいらっしゃいました。

お散歩ツアーではありましたが、盛りだくさんな内容になってしまいました。
今回は、私がガイド担当だったため、写真を撮り忘れる事が多々ありました。下見の時にも写真を
撮ってはいたのですが・・足りませんですみません。

お散歩ツアー「高鶴山と金杖の滝」報告

寒い日が続きますね。1月の大雪では、被害に遭われた方もいらっしゃるかと思います。
館山・南房総では、房総と言っても違いがあり、嶺岡山系より南では雨、北では雪が降りました。
まだまだ寒い日が続きそうですので、体調に気を付けて下さいね。

さて、寒さに負けず、1月のお散歩ツアー「高鶴山と金杖の滝」を開催しましたので報告です。
高鶴山は、鴨川市曽呂の畑地区にあります。千葉県では数少ない独立峰で標高は326mになり、
「高鶴」という名は、「湿った土地・美しい流水」を意味する古代語だそうです。
畑地区は昔、「星が畑」という地名だったそうです。

集合場所の東善寺から山道を登って行きます。こちらの山道は、地元の有志の方々で整備をしていて、
登りやすくなっていました。約1024mを登っていきます。距離的には、短いのですが、けっこう
な坂道です。写真も撮らず黙々と登って行くと、古峯ヶ原神社分岐に辿り着きます。ここで少し休憩
をして、まずは、高鶴山へと向かいます。


あと約500mです。この看板があると先が分かるのでがんばれます。

途中に、炭竃のあとがあります。

ここで、炭を作っていたんですね。私の横着な考え方だと、切り出した生の木を下まで運んで行くの
は重くて大変。伐り出した木を、中腹で、炭にすれば、少し軽くなって麓まで運びやすくなりるから・・
と考えてしまいます。本当はどうだったんでしょうね。

炭竃から少し行くと馬頭観音があります。

この山の道を馬が通っていたという事が分かります。

頂上近くは、少し急な登りになっています。

ここを登ると頂上になります。

山頂には、石尊様が祀られています。

石尊権現を安置したのは寛政5年のことです。神宮寺の檀家の彦兵衛という者が山で「異石奇木」
手に入れたところ、瑞祥が多く現れました。そこで、その石を石尊神、木を大天狗子天狗として
お祀りすることにしたそうです。

お参りして少しのぞかせていただくと、2体の天狗の面と笛等が祀られていました。

頂上からの景色は・・・

こんな感じです。地元の方は、ここから初日の出を見るそうです。

ここで、少し「星ケ池」というこの地域に残る民話のお話しを・・・

むかしむかし、高鶴山に若い神さまが住んでいました。神さまはとても心優しく、村の人々に慕わ
られていました。高鶴山の真上にはいつも夜になると、ひときわ綺麗な星がひとつ輝いていました。
神さまは毎晩、この星をいつまでもうっとりと眺めているのでした。1年・2年がたち、神さまは
とうとうこの星に恋をうちあけ、ふたりは結ばれました。星のお父さんはお日さま、お母さんはお
月さまでした。神さまとお星さまは毎日仲良く暮らしていましたが、ある年の夏、日照り続きで、
田んぼや畑がカラカラに乾き、稲も野菜も黄ばんでしまいました。村人は毎日毎晩太鼓を打ち鳴ら
し雨乞いをしたのですが、雲はひとかけらも出ませんでした。神さまとお星さまは心配していまし
た。ところが、いつもは谷川で水浴びをして美しく輝いているお星さまが、水がなくなってだんだん
と光が弱ってきてしまったのです。困ったお星さまは、お母さんであるお月さまに、「お願いです。
どうか天の川の水を高鶴山に降らせて下さい。」とお願いしました。天の川には、空の大切な水が
流れていました。かわいい娘の願いにお月さまは、天の川の水を高鶴山に降らせてあげました。
おかげで、稲も野菜も生き返り、村人たちは涙を流して喜びあいました。星ケ池は、その時にお月
さまからわけてもらった天の川の水をためてできた池だそうです。(鴨川のむかし話より)

とても素敵なお話しです。きっとここでは、夜は星が綺麗に見える場所なんですね。

来た道を下って、分岐点のところから古峯ヶ原神社へと向かいます。

鳥居をくぐり、少し上ると石宮があります。

何の神様かというと、1つが海難除けだそうです。昔は、漁師さんが高鶴山を目印にしていたそうで、
沖からは良く見えるそうです。今は、GPSがあるので山も目印にしなくなってるみたいです。
あとは、火災除けになります。昔は、地域の方が「古峯ヶ原詣り」っと言ってみんなお参りに来ていた
そうです。

古峯ヶ神社をあとにして、洲貝川の源流に沿って下っていきます。

川沿いを歩いて行くと丸太の橋があります。

そこから、少し行くと堀の沢三段の滝があります。

杉の木が邪魔してなかなかうまく撮れませんが、杉の奥に三段の滝があります。水量が少ない
ので迫力はありませんが・・・

少し行くと畑のせき(山口の堰)があります。

ここまでくるとあと少しで県道に出ます。この県道が道幅が狭いので、車に気を付けながら歩きます。
次は、金杖の滝へ向いますが、途中お不動様が祀られています。

金杖の滝です。

こちらも杉が邪魔して見え辛いのですが・・・
金杖滝は別名を金月の滝、字をとって山口の滝とも言われています。畑のせきから流れおちるのが
この滝で、滝の高さは20m、幅は5mほどです。滝は洲貝川になって鴨川市江見で大平洋へと注
ぎます。この時期は、水量があまりないので、やはり迫力がありません。

あとは、出発地点へ東善寺へ。

曹洞宗の寺院で、本尊は毘沙門天。寛文2年(1662)に観峯春悦和尚が建立したといいます。

お散歩ツアーは無事に終了しました。今回も地元の有志の方たちが整備をしていただいているので
安全に登れましたが、けっこう房総の山は、整備されていない所もあります。くれぐれも山へ登る
時には、気を付けて下さい。あと、きちんとマナーを守って下さい。この時期は、乾燥しています
ので、火気厳禁でお願いします。

月イチツアー「伊八のふるさとを散策」報告

お正月からもう3週間たとうとしています。
遅ればせながら、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。

お正月でなまった体にムチを打って、月イチツアー「伊八のふるさとを散策」を開催しました。
当日は、少し風がありましたが、お天気に恵まれたウォーキング日和でした。

出発は、鴨川市総合健康福祉会館(ふれあいセンター)からです。事前に鴨川市に許可もらい
駐車場をお借りしました。

最初に訪れたのは、西条公民館。見学場所ではないのですが、お手洗いを・・・管理人の方が
こころよくお貸しいただき助かりました。ありがとうございます。

今回のコースは、鴨川富士と呼ばれる(鹿野岡山)のすそのをぐるっと周るようなコースです。
最初の見学場所は、宝国寺へ。

真言宗智山派の寺院で天道山と号します。本尊は薬師如来。明治24年に竜蔵院を合併しました。

向拝の彫刻は、4代目伊八・信明の作です。

信明は、文久2年(1862)に生まれ、明治41年(1908)46歳で亡くなりました。

境内には、鴨川市石造物100選に選ばれている、宝篋印塔があります。

普通の宝篋印塔とは違う形をしています。身部に舟形の龕(がん)を作り、ここに仏像を浮彫
してあります。龕は、仏像を治めるための岩壁を堀りくぼめた事をいいます。
塔は2基あり、天正5年(1577)のもので、二字法名と「逆修」の文字が確認できます。
法名は、男女を示していているので夫婦なのかな?と想像できます。
逆修とは、生前供養を意味しています。
天正5年は、織田信長が右大臣になった年で、戦国時代になります。

次は、伊八屋敷跡へ。

案内板には、「波の伊八屋敷・工房跡」とあります。五代まで続いた武志家は、ここ大塚台周辺
一角の地主で、西条小学校西側の現墓地の辺りに屋敷を構えていました。
三代信美は明治初頭に下打墨村の戸長を務めていて、明治7年西条小学校設置の際、戸長として
敷地の一部を学校の敷地として提供したと言われています。現在の体育館の場所だそうです。

次に、大日交差点の所にある金乗院へ。

真言宗智山派の寺院で、山号を金剛山といい本尊は大日如来です。


大日堂は、平安時代に弘法大師ゆかりの大日如来像を安置するために建てられたと言われ、
現在の大日堂は昭和7年(1932)弘法大師一千百年遠忌にたてられたものだそうです。


向拝の竜は安永8年(1779)に初代伊八が28歳の時に作成したものです。

大日堂の中には、「酒仙の図」があります。中におじゃまさせていただきました。

この彫刻には、銘が確認できませんが、向拝の竜と同じ時期に製作されたものと推定できます。
7人の若い仙人たちが、おおきな壷の中にある酒を酌み交わし、陽気に歌い踊るめでたい図です。
大正時代には、彫刻家の高村光雲が大日堂を訪れ、彫刻の秀雅さは、関東では稀であると評したと
いいます。堂内の欄間と向拝は鴨川市指定文化財です。

堂内には五代伊八作の「大黒像」が安置されています。

金乗院の境内には、鴨川市石造物100選が3つありますのでご紹介します。
光明真言塔(子安地蔵刻)

安永7年(1778)の物で、駒形に成形され、上の部分には円形の内側に沿って光明真言が刻まれて
います。下部には子供を抱いた、子安地蔵が浮彫にされていて、光明真言塔ではあまり見かけない
石仏です。子安地蔵の赤ちゃんをよく見ると腕を広げて、お乳の確保をしてる姿が可愛らしです。

庚申塔

石祠型の庚申塔です。延宝2年(1674)のもので、3匹の猿が並んで彫られています。

妙見石祠

比較的新しいもので、明治33年(1900)のものです。安房では珍しい妙見信仰の石造物です。
妙見信仰とは、一般には仏教でいう北辰妙見菩薩に対する信仰をいいますが、その原姿は、道教
における星辰信仰、特に北極星・北斗七星に対する信仰です。
日蓮宗で守護神として妙見菩薩は尊崇されたことが知られ、また武家においては千葉氏及びその
一門の崇敬が有名です。「妙見」とは物事を広く見渡せるほどの優れた視力のことを意味しています。
妙見によって国を広く見渡せることで、危険から守ることが出来るということで、妙見菩薩は国土を
擁護してくれる守り神であるとして、戦国武将を中心に信仰されてきました。

金乗院さんでは、伊八の彫刻を見る事ができますが、大日堂に入るときは、常識ある行動をお願い
します。仏像とかには手を触れないようにお願いします。

さて、次は打墨神社へ。

祭神は大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)。
大日孁貴命は天照大神(あまてらすおおみかみ)の異称です。
大正10年(1921)10月に、字動山にあった宝光神社と字森の下にあった少彦神社を合併し、打墨
神社という名前になりました。
少彦名命は、海の彼方にある常世の国から光輝きながら渡ってきた小人神です。古事記では、天の
羅摩船(かがみぶね)というガガイモの殻の船に乗り、蛾の皮を着て大国主命の前に現れます。
その時、造化三神(そうかのさんしん)の一神カミムスビ神が、「私の手指の間から漏れこぼれ落ち
た子です」といい、わが子のスクナヒコナ命にオオクニヌシ命と義兄弟になって一緒に国づくりをす
すように命じたといいます。日本神話のなかの人気者で、中世の「日本霊異記」の道場法師や近世の
「御伽草子」の一寸法師といった「小さ子」のルーツとされています。ご利益は、国土安寧、
産業開発、漁業・航海守護、病難排除、縁結び、安産・育児守護です。

次は、長狭33観音霊場第1札所の立岩観音へ。
お堂は鴨川富士(鹿野岡山)の北側中腹にあり、旧参道を登って行くと石段が見えます。

けっこう急な階段で、昔の作りなので幅も狭いのでゆっくり登っていきます。


石段を登った先には、立岩観音のお堂があります。本尊は聖観世音菩薩。
堂内には、厨子が二あり、右側の厨子には聖観世音菩薩、左側は阿弥陀如来です。現在は、檀家さん
が保管しているそうで、実際には厨子だけになっています。当初、下見の際に厨子が半開きになって
いて、遠くからでも仏像がないのがわかる状態で、最近は、仏像や彫刻など盗んでしまう人がいるので
心配しましたが、鴨川市の方に確認してもらったらきちんと保管されていて安心しました。
境内には、子安地蔵・馬頭観音・地蔵尊の石仏があります。

江戸時代中期が信仰の最盛期のようで、今は、あまりお参りに来る方が少ないのでしょう。お堂はかなり
傷んでいました。

山を下り、立岩観音の裏側にある薬王堂へ向かいます。
この週末寒波が訪れていたという事もあって日陰の所は、凍ってました。

分かりづらいと思います。ごめんなさい。

薬王院に到着です。

真言宗智山派の寺院で山号は慈永山。本尊は不動明王です。創建や沿革は、資料がとぼしいため明らか
ではありませんが、奈良時代天平年間(729~749)に、行基菩薩の開基といわれています。
上の写真は、薬師堂です。
薬師堂は、安房地域でも数少ない江戸時代初期の建築物で県の有形文化財に指定されています。

本堂の中を少しのぞかせてもらいました。

安永9年(1780)、伊八29歳の時に作成した「竜虎の図」の欄間が飾られています。

次は、日蓮聖人ゆかりの場所、疵洗いの井戸へ。

日蓮聖人が、文永元年(1264)母の見舞いに故郷安房を訪ねた時に、日蓮聖人に恨みをもっていた
地頭の東条景信が率いる集団に小松原の地で襲われ(小松原法難)、九死に一生を得ました。
その時、逃げて疵を癒したとされたのが、蓮華寺と伝えられています。疵を洗ったという井戸は、
鴨川市にあと二つあります。浜荻地区の多聞寺と小湊地区の日蓮寺です。

疵洗いの井戸から少し行くと蓮華寺があります。

日蓮宗の宗門史跡の寺院で、山号を常経山といいます。真言宗智山派の寺院でしたが、廃寺となり、
のちに日蓮宗が寺院を建立しました。お寺を守っている方から縁由をいただいたので、そこから簡単
に説明します。
日蓮聖人が建長5年(1253)清澄山で始めて「南無妙法蓮華経」と唱え、南面堂で法華経の教えを
説きました。それを聞いていた地頭の東条景信は憤怒のあまり聖人を斬ろうとしましたが、幸い
師匠道善坊の取成しで危うきをのがれ、兄弟子浄顕、義浄の案内で裏山づたいにここ西条花房蓮華
寺内の青蓮房に難を避けられました。安房を離れ鎌倉にのぼり、松葉が谷に草庵をむすびました。
その後、伊豆に流罪されるなど諸難にあい、弘長3年(1263)2月流罪をゆるされ、鎌倉に帰り、
翌年文永元年の秋、小湊の母のお見舞をした後、師匠に会う為、山を越えて花房の蓮華寺に来ました。
師匠道善坊とあい、鎌倉での苦労など話しました。数日して、天津領主工藤吉隆の願いをうけて、
天津におもむく途中、東条小松の原で東条景信らの襲撃をうけ、弟子の鏡忍坊や工藤吉隆も死去し、
聖人も額に疵をうけましたが、不思議にも難をまぬがれ、再び蓮華寺に隠れました。
師匠道善坊は聖人を見舞い、聖人は、法華経を信仰するように強く申し上げ、これを聞かれた道善
坊は不快な様子でしたが、そののち、文永5・6年頃には法華経を信じ文永7年にはお釈迦様の
像を造立しました。その後、廃寺となったこの場所に、宗祖七百遠忌記念に蓮華寺を再興しました。

入口も開けてもらい、お参りさせていただきました。

日蓮聖人の像に綿帽子がかぶされています。綿帽子の言われを少しご説明しますと・・・
小松原法難の際、小湊の岩屋で疵の養生をしていた時にお市なる老婆が岩屋を通りかかり、自分の
かぶっていた真綿を差し出し「傷口に風を当てては痛みまする。どうぞこれで寒さをおしのぎ下さい。」
と差し上げました。その時、額にのせた綿は、血潮で赤くそなまったと言われています。
冬の間(11/11~4/22)祖師さまに綿帽子をかぶせる慣わしとなり、全国的に行われています。

日蓮宗のお話しが長くなりましたが、こちらの場所にも鴨川石造物100選に選ばれた日記念仏塔が
あります。

元禄9年(1696)の文字塔です。日記念仏についてよくわかっていませんが、女人講によって行われて
いたようです。月々の決められた日に女人たちが集い、現世安穏と極楽往生を願って念仏を唱えたそう
です。安房地域では数例しか確認されていないそうです。

さぁ~あとは出発地点へと帰るのみです。今回のコースは、伊八の作品は日蓮聖人のゆかりの地など、
鴨川富士の周りには多くの神社仏閣があります。是非、訪れてみてはいかがでしょうか?
あっ!神社仏閣は信仰の場です。くれぐれも、勝手にお堂に入ったり、仏像を触ったりしないように
お願いします。

お散歩ツアー「幻の波太富士に登ろう」報告

今年もあと数日になってしまいました。
また旅倶楽部の1年を振り返ってみると、雨の心配が多かった1年だったような・・・
そんな1年でした。

さて、今年最後のツアー お散歩ツアー「幻の波太富士に登ろう」を開催しましたので、
報告です。この日は、とても良い天気で、ウォーキング日和でした。
出発は、鴨川市の魚見塚一戦場公園。
この公園は、嶺岡牧の東端の位置にあり自然を活かしてつくられた公園です。その昔、
石橋山の戦いで敗れた源頼朝が安房に逃れて来た時に、この場所で地元の豪族長狭六郎
常伴との戦いに勝ち天下取りの足掛かりを作ったという暦の残る場所です。

高台にある一戦場公園から下って行きます。途中に、波太富士が見えます。

ちょっと逆光になってて分かりづらいですが、少し富士山の形に見えるかと・・・

もう少し下に降りて、採石場だった所へと。現在は採石は行っていませんが、私有地なの
で、お断わりして中に入らせてもらいました。
敷地に残されていた岩。これが枕状溶岩と呼ばれるものです。

この枕状溶岩は、太平洋の海底火山から噴出したものが、大平洋プレートに乗って房総半島まで
移動したものです。マグマが水中(海底)に放出される際に、急速に冷やされて枕状(俵状)
になった火成岩を言います。中心部から放射状に節理(割れ目)ができるのが特徴です。

因みに、鴨川の枕状溶岩は県指定天然記念物になっていて、鴨川青年の家敷地内にあります。
鴨川青年の家周辺はすべて枕状溶岩もしくはその類似した岩塊に覆われていて指定地位はその
一部で、鴨川青年の家の下方の海岸にありますが、解説板や碑は青年の家入り口に設置されています。

さて、いよいよ波太富士に登って行きます。

古い文章によると、「弁天島という弧島から見ると、前面に高い磯山がある。名前は「波太富士」
という。」という文書が残されています。また明治時代の迅速図をみると、大きな岩塊に覆われて
います。その様子は、安井曾太郎氏の描いた「外房風景」に残されています。
昭和7・8年頃から採石が行われ、「波太富士」が削られ昭和40年代に西尾根の大部分が切崩さ
れ、東側も「県立鴨川青年の家」の建築の際に崩されてしまいました。

登って行きますと、途中に石像物があります。

木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)の石像物です。
神話では、日向に降臨した天照大神の孫・ニニギノミコトと、笠沙の岬で出会い求婚されます。
父のオオヤマツミはそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出しましたが、ニニギノミコト
は醜いイワナガヒメを送り返し、美しいコノハナサクヤヒメとだけ結婚しました。オオヤマツミ
はこれを怒り「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子の
命は岩のように永遠のものとなり、コノハナサクヤヒメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄す
るだろうと誓約を立てたからである。コノハナサクヤヒメだけと結婚すれば、天津神の御子の命
は木の花のようにはかなくなるだとう」と告げました。
コノハナサクヤヒメは一夜で身篭りますが、ニニギは国津神の子ではないかと疑いました。疑い
を晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天津神であるニニギの本当の子なら何があっても無事
に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中でホデリ・ホスセリ・ホオリの三柱の子を産みました。
ホオリの孫が初代天皇の神武天皇です。
っという神話があります。

足場の悪い所を登っていきますと頂上付近には、浅間講の大きな石宮があります。

なかな立派な石宮です。かつては、大勢の人々の信仰があったと感じられます。

少しだけ登ってみると一番高いところへと行けますが、登りきった場所がもう崖になっているの
で恐る恐る覗いてみると、素晴らし景色がみられます。

鴨川松島と言われる場所が、バッチリ見る事ができます。
鴨川松島は、荒島・弁天島・鵜島・雀島・波濤根島・猪貝島・海獺島の大小7つの島が点在して
います。島々から昇る朝日の被写体は、写真愛好家の王道を極めるといいます。
波太富士の頂上からは、朝日を撮るには、足元が悪いので難しいと思いますので、八岡海岸から
なら安全です。

来た道を戻って帰りますが、これがまた足場が良くないので神経を使いなが降りていきます。

来た道に戻り、波太富士の崩された壁を見にいきます。

ここでロッククライミングが出来るそうです。

あとは、少し坂道を登って一戦場公園へ。お疲れ様でした。
今回、ご紹介したお散歩ツアーのコースの一部は、私有地が含まれていて、許可を頂き通らせて
もらいましたことを、お話ししておきます。

2017年、つたない文章にお付き合いいただきありがとうございます。
来年も頑張っていこうと思いますので、是非、また旅倶楽部のウォーキングツアーにご参加いただき、
地域の歴史や文化を感じていただければと思います。来年もどうぞよろしくお願いします。
皆さま、良いお年を・・・

月イチツアー「二部・仏谷の伝承を訪ねる」報告

もう1年が終わろうとしています。館山・南房総では、寒くなり西風の吹く時期に
なりまいた。いつも穏やかな鏡ケ浦も、西風が吹くと白波が立ち、海岸線は砂が飛
んできます。結構やっかいなんですが、富士山の景色を楽しむにはもってこいの季
節です。寒さと風に負けずに、景色を楽しんでみては・・・

そんな師走に月イチツアー「二部・仏谷の伝承を訪ねる」を開催しました。
当日は、絶好のウォーキング日和でした。
出発地は、南房総市の道の駅富楽里。こちらの道の駅は、オープン前からお客様が
並んで、開店を待っていました。

まず最初に向かったのは、松尾神社。

祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)。「松尾さま」の愛称で全国的に崇められる
酒づくりの神様です。

この日は、イチョウの葉が境内に落ちていて綺麗でした。

次に向かったのが、仏谷にある勝善寺。
本堂へと向かう手前の高いところに鐘楼があります。

そこから少し登り坂を行くと、勝善寺があります。

ご住職がお出迎えして下さいました。
勝善寺は、真宗大谷派の寺院で、本尊は阿弥陀如来立像。建久元年(1190)、天台宗の
僧永範が検儀谷原黒石山に一宇を建立し、柳島院(後、龍燈院)と称したことが始ま
りと言われています。元仁元年(1224)、永範は、親鸞聖人に帰依し浄土真宗に改宗し
ました。天正8年(1580)、火災に遭い、検儀谷原腰掛に移り仮堂を建立しましたが、
慶長年間(1596~1615)幕府の命により、二部仏谷に移り東本願寺の末寺になりました。
明治2年(1869)に本堂が火災で焼失しましたが、明治19年(1886)に落慶しました。
その後、明治35年(1902)に向拝を付け加え初代後藤義光の彫刻が施されました。
勝善寺には、江戸時代の浮世絵師、菱川師宣に関する史料が残っています。菱川師宣
過去帳は千葉県有形文化財です。


初代後藤義光晩年の88歳の作品です。義光は明治35年この仕事を終えて没して
います。最後の作品と言われています。

次は、とみやま水仙遊歩道へと向かいます。

スイセンも出荷が始まったみたいです。

遊歩道の頂上には展望台があり、先ほど行った勝善寺の旧跡地です。
景色を楽しみながら、ここで昼食です。

今日のお弁当は、富山地区の青倉商店さんにお願いしました。

いつもお弁当は、開催地でお弁当を頼みます。リュックに入れるので、小さくして欲しいと
無理なお願いをして作ってもらいました。おかずは、地産地消のお弁当です。
参加者からの評判はとても良かったです。
こちらのお惣菜は、道の駅富楽里の2階?にお惣菜屋さんとして出店しています。

お腹もいっぱいになったところで、後半戦へとまいります。
まずは、頂上にある石碑から。

この石碑は、勝善寺のあった場所に建てられているものです。
勝善寺さんのホームページより(訳文)
黒石山勝善寺古址記
此の地は、勝善寺旧址である。勝善寺、本は天台宗に属し僧永範が開基するところである。
謹んで古い記録を調べるてみると、武芸の誉れ高い鎮守府将軍源義家の末孫に又太郎頼綱
子、與次郎昌綱は、信州井上城に居住し、「井上」を氏としていた。昌綱、事情があって
武士身分を去り比叡山に登り僧となり、永範と名のったということである。
永範は多年にわたり諸国をめぐり、建久元年(1190)に安房国検儀谷原黒石山の地を選び、
雑木林や草むらを伐り開き一宇の精舎(寺院)を建立した。これが黒石山龍燈院勝善寺の
始まりである。
元仁元年(1224)に、親鸞聖人が伊豆国から舟で安房国へと渡ろうとした際、つむじ風が
吹き舟が転覆しそうになった。親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の六字名号を書いて海に投げ
入れると風波はおさまり舟は安房国龍島に着いた。親鸞聖人は、やがて黒石山勝善寺に
たどり着くと、自ら袈裟を洗って松の木に掛け乾かした。その松の木を「袈裟掛松」と
言う。その時に水を汲んだ井戸を「御手洗井」と言い、今も存在している。
永範は、聖人に帰依し弟子となると、明空と名を改めた。親鸞聖人は、感ずるところが
あって自ら仏谷の竹を截り、阿弥陀仏像を作り、明空に授けた。それが現在は、大勝院
に祀られている「籠阿弥陀如来」である。天正8年(1580)に、本堂が火災に遭い焼失した。
そこで勝善寺は、ふもとの検儀谷腰掛けに移転した。俗に「天正屋敷」と呼ばれていると
ころである。さらに慶長年間(1596~1614)に、幕府の命令で現在地二部村仏谷の地に移転
した。しかし、籠阿弥陀如来は腰掛けに安置し、今も古本尊として崇敬している。
その時以来、黒石山の地は人々から忘れられた、ただ青山は鬱蒼とし灌木が生い茂り、黒
石山上から遠く見渡せば、伊豆国相模国が霞んで見え、海は渺々と果てしなく広がり際無き
が如しである。その木々の梢の下に一つの大石がある。青黒く大きな十余囲ほどある。それ
を「黒石山」と称していす。その石の上に古松がある。曲がりくねった大きな枝は頭の大き
な龍が天に騰がるように見える。それが袈裟掛松である。その東に泉があり、清らかでつや
つやした水が石の割れ目からきらきらと流れ出ている。それが御手洗井である。
同志の者と相談したところ、ここが親鸞聖人の旧跡であると石に刻んで後世に伝えようと、
私に文章は任された。私は開祖明空の法統二十六世を継ぐ者である。七百余年後に生まれ
法門隆盛の時に遇い、さらにこの挙に会う。これ以上の幸せはあるだろうか。そこで文才の
無いことを顧みず勝善寺旧址の概略をここに記した。
明治二十九年(1896)秋九月 勝善寺第二十六世井上弘昌文を作る。
正四位文學博士重野安繹額を書く。榴堂東南家賢て字を書く。本鶴仙字を鐫る。

長い文章でしたが、お付き合いありがとうございました。言い伝えていくための碑でした。

次は、とみやま水仙遊歩道を通り下山し、検儀谷神社へ。
ちょっと見落としてしまいそうな、急な階段を上がります。

上にたどり着く拝殿が見えます。拝殿の天井には、御神輿が乗せられ?ていました。

なんででしょうか?担当のガイドもわからないそうです。
もしこれをご覧になっている地元の方がいらっしゃいましたら教えて下さい。

次は、すぐお隣にある大勝院へ。
本堂の写真を撮り忘れてしまった!!!入口にあるお地蔵様でお許し下さい。

浄土宗の寺院で、山号を本誓山。本尊は阿弥陀如来。
元和2年(1616)、雄譽霊巌上人が開山となり創建されました。本尊の阿弥陀如来は、慶長
14年(1609)、勝善寺が、検儀谷の「峯」と呼ばれる山頂から今の地に移された後、大勝
院に安置されました。昭和20年(1945)までは、秘仏で、盆と正月以外は拝めませんでし
たが、信者の要望により、常時開帳礼拝できるようになりました。仏像としては珍しく、
房州竹で編みこまれているので、籠阿弥陀様と呼ばれています。「籠」は「加護」に通じ、
耳の不自由な人は、この仏様にお参りして錐(キリ)を頂き、快方に向かうと、御礼の志
に新しい錐を添えて、そのご利益奉謝するという民間信仰が昔から伝えられています。

本堂も窓越しですが、拝見させて頂きました。すてきな阿弥陀様です。

さて、出発地点へと戻ります。
今回のコースは彫刻・花・仏様と楽しめるコースです。
ここで紹介していますが、水仙は、農家さんが出荷するために栽培していますので、勝手に
採ったりしないようにしてください。また、神社仏閣は、地域の信仰の場です。ルールを
守ってお参りして下さい。

番外編・リベンジツアー「佐久間ダム」報告

もう師走に入ってしまいました。この間、年賀状の作成したと思っていましたが、また
年賀状を書く時期になってしまいました。この時期は、車もなんだか増えるような感じ
で、上手な運転ではない人が増えてるような気がします。皆さんも、十分気を付けて下
さい。

さて、今回は番外編として、6月に行いましたお散歩ツアー「佐久間ダム」が大雨で
景色を楽しむ事があまりできなかったので、リベンジツアーとして11月30日に
開催しました。今回も、予報では雨予報が出ていて心配しましたが、雨も降らずに開催
する事ができました。

今回のガイドの独り事は、細かい解説は書きませんので、6月に行いました内容を
ご覧下さい。
お散歩ツアー「佐久間ダム」報告 http://matatabiclub.com/?p=4444

というわけですので、写真をちょっと載せておきます。

乙井沢の滝


越の下の滝周辺


越の下の滝から宮田の滝に向かう林道


宮田の滝周辺。イノシシの罠があります。


スイセンの花もちらほら咲きはじめています。歩いていてもスイセンの香がしていました。

もう少しだけ紅葉を楽しむ事ができるんじゃないかな?って思います。
咲きはじめたスイセンを楽しみながらもみじ狩り。林道を歩いて、木々と川からのパワーをもらった
半日でした。是非、年末忙しくなる前に、心と体をリフレッシュしてみてはいかがでしょうか?
今回の独り事は、この辺で・・・・

月イチツアー「津森山・ふるさと峠でリフレッシュ」報告

いやぁ~最近、天気に恵まれてなくて・・・・
9月のお散歩ツアー「ゆったり丸山・和田散策」は大雨警報が出て中止、10月の月イチ
ツアー「信仰の里・佐久間を歩く」は台風で中止。(両コースとも来年度にやります)
11月の月イチツアー「津森山・ふるさと峠でリフレッシュ」はツアー前日から雨予報。
予報をチェックして午前中が0.1mm、午後から晴れなので大丈夫と思って、朝起きたら・・・
ザーザー振り。雷も鳴って、予報では小雨だったのに・・・9時から雨が止むという予報にかけて、
現地へと向かうと、だんだんと雲が切れて青空が見えるようになり、無事に開催する事ができました。

集合場所は、平塚区民センター(鴨川市)だったんですが、使えなくなってしまって・・・
ひらつか地域活性化協議会のT氏にご心配いただき、区民センター近くの地主さんにお願いしても
らってお借りする事ができました。ありがたい事です。
ご協力いただいた、「ひらつか地域活性化協議会」の簡単なご紹介を・・・
鴨川市平塚地区の農家さん等の有志で立ち上げた協議会です。にぎわいを呼び込もうと、都市部
からくるハイカーたちに目を付け、地区内にハイキングコースを整備し、おすすめコース3コース
をコース別に色分けした順路標示板を建て、景観や眺望を損ねる雑木などを伐採し、東京湾や富士山、
伊豆大島など一望するビューポイントを整備等の活動をしています。お弁当とかも早めに連絡すると
作ってくれるそうです。毎月第三日曜日(9:00~12:00)には、地元の野菜などの販売をする
朝市を開催しています。

さて、ツアーの報告へと戻ります。
駐車場からまず最初に向かったのは、ぼけ除地蔵。

地蔵盆・地蔵祭・地蔵絵といわれるのは、地蔵菩薩の縁日で毎月24日に行われます。路傍の
お地蔵さんや辻地蔵さんに信仰する風習で、お地蔵尊の廻りに赤い幢が建てられています。

中をのぞいてみると、木彫りのお地蔵様がいらっしゃいました。

お地蔵様に念入りにお参りして、急な坂を上って行きます。

石畑部落へと行くと、里山の景色を見る事ができます。

この景色を見れる場所から少し行くと天竺堂へ。
こちらには、僧侶像墓があります。

次に西禅寺に行くかと思ったのですが、今回は下からのみに。

曹洞宗の寺院で観世音菩薩を安置しています。

西禅寺入口と目と鼻の先に、土砂崩れ現場がありました。

台風等の大雨の影響で、崩れてしまったそうです。もう少しギリギリに行こうかと思いましたが、
ブルーシートが濡れてて、滑りそうで怖かったので安全策をとりました。自然の恐ろしさを知る
事ができました。

上ったり下ったりを繰り返し西畑部落と法明部落の間に光明真言塔があります。

光明真言は、密教系の仏教で唱える言葉です。梵字や陀羅尼を翻訳せずに読誦するのが通例で、23の
梵字から成っています。最後の休止符を加えて24の梵字を連ねています。
これを唱えると、過去・現在・未来の三世が救われると言われ、古来から唱和されてきました。

だんだん津森山へと近づいてきました。法明部落からの景色です。

里山の景色は最高!!です。静かな場所です。

津森山までの道のりは、ほぼ舗装された道です。頂上までは、山の道を10分程度登っていきます。
頂上からの景色は、こんな感じです。

もっと天気が良かったら富士山も見えたんでしょうが・・・三浦半島を見ながら昼食タイムです。

津森山の説明を・・・

古い文献によると積(つもり)山と書かれています。養老2年(718)に安房の国が分国された際、
役人がこの山に登って分界を見積もったことに由来されるといいます。山頂には、木花開耶姫碑・
金毘羅・御嶽碑が建てられています。

津森山を下山し、来た道を少し戻りふるさと峠の方へと下ったり上ったりして行きます。

ちょっと横になっちゃってますが、丸太でできた看板があります。
「ふるさと峠」は、近年、鴨川市の有志によって温もりのある名前が付けられました。かつて近郷
の人々が、見晴らしの良しところの峠に集まって、サツマイモやトウモロコシなどを持ち寄って
団欒を楽しんだといいます。

あとは、下るだけです。

途中、山田組集会所の所にお地蔵さんがいらっしゃいました。

分かりますか?木の根元にお地蔵さんが居るんです。

ひっそりと佇んでいます。
集会所の裏には、墓地があるので、元はお堂だったようです。

あとは、平塚区民センターまで平坦な道を歩いて戻ります。
なんとか天候に恵まれて帰ってくる事ができました。ひらつか地域活性化協議会の方にも
ご協力いただき助かりました。ありがとうございます。