「夏休みウミホタル観察会」報告

ご報告が遅くなりましたが、4年目となりました夏休みの「ウミホタル観察会」が、事故無く無事に終える事ができましたので、報告します。
ウミホタル観察会は、最初、別の団体が開催していましたが、メインの方に御不幸があり、引き受ける事になりました。私たちの団体も初めての経験でしたので、渚の駅たてやまに勤務している海の先生に、レクチャーを受け各自勉強して今の状態になりました。
今回の観察会は、ご家族向けで夏休みに日にちを決めて開催をしていますが、普段は、学校や団体向けなどにもやっています。夜の時間帯が難しいという場合は、昼に渚の駅たてやまのレクチャールームを利用して発光体験をやる事が可能です。(今のところ、団体向けになってしまいます。)

さて、ウミホタル観察会の当日の流れをお話します。
まずは、渚の駅たてやまの海の広場前で、受付を行い、お子さんには、ウミホタルの絵で見る解説資料をお渡ししています。リピーターさんとか、一度来た方から「すごくいいから」とすすめられてきた方とか、「子供の自由研究に」という方などが、来てくれています。
時間になったら集合してもらい、ウミホタル観察会の注意事項やウミホタルの生態・採集方法などをお話しします。私たちの団体では、餌はイワシなどの魚を使って採取しています。インターネットとかには、カニカマや魚肉ソーセージ・レバーなどと説明されている所もありますが、なぜ?魚を使って採集するのかを子供達に説明をしています。子供達には、「海の中にカニカマをいますか?魚肉ソーセージはありますか?」などと質問して。観察会には、ウミホタルを大切にする活動も含まれていますので、海の先生からの教えてもらった事を伝えています。その後は、ウミホタルの生態についてお話ししていきます。
ウミホタルは、太平洋沿岸(北は東北・南は沖縄)に生息していますが、館山湾には、多くのウミホタルが生息しています。なぜかといいますと、館山湾が綺麗で砂にもぐりやすいので、ウミホタルにとって生活しやすい場所だからだそうです。ウミホタルは、海にいるミジンコ(動物プランクトン)で、貝をもった2枚貝のミジンコです。オス・メスともに1年くらいしか生きられなく、館山湾にいるウミホタルの大きさは、オス2.8㎜前後、メス3.2㎜前後です。ホタルイカや陸上のホタルなどは、体中発光ですが、ウミホタルは体外発光になります。そんなお話しをしてから、採集場所(たてやま夕日桟橋)へ移動し、採集します。

1組に二つの採集ビンをセットしてありますので、各自、海へと投入していきます。
10分程度沈めておき、その後引き揚げます。ウミホタルをあけるバケツは2組で1セットなので、お互い協力しながら体験してもらいます。ウミホタル1つで、初めての人ともすぐにコミュニケーションが取れる体験になります。


ビンから網にあけると、こんな感じでウミホタルが観れます。この状態では、明るいので発光しててもコスモブルーの輝きは見れません。

電気を消して、少し刺激を与えると、コスモブルーに輝きます。

直接手の上に乗せて刺激を与えるとこんな感じです。

ウニウニ動くので、気持ち悪いなんて声もありましすが、子供も大人も楽しそうに体験していました。
スタッフと海の話や、星が出てると星の話などしながら、何度か繰り返し採集し、最後は、海へと感謝を込めて返します。桟橋の上から返すので、海面には少しの間光っているので綺麗で、無事に砂の中に帰っていくのを願いながら、解散になります。
写真を撮るのもなかなか難しく、フラッシュをたいてしまうと、コスモブルーの輝きは見るこことできなく、フラッシュをたかないと、手振れがしてボケちゃったりします。ミラーレス一眼レフを持っていくのですが、技術がないので上手く撮れません。今回載せている写真は、全てスマホ撮影です。3年前のスマホでも撮れるので、最新のスマホだったらもっと上手く撮れるのかと・・・

今年は、ふるさと納税でのご参加も増え、TVの取材なんか来たりして、インタビューなんかも受けたのですが、カットされていました(笑)市役所のふるさと納税の担当者が、市役所内でインタビューされてましたが・・・(笑)

来年の夏も開催予定ですので、是非、みなさんもご自身の目で、コスモブルーの輝きを見に来て下さい。
日程とかは、またホームページ上でお知らせします。

お散歩ツアー「鴨川港町の歴史を訪ねる」報告

梅雨真っ只中の館山・南房総。週末になると、いろいろなところでお祭が開催されています。
さっさと梅雨が明けてくれないと困ります。

さて、もう7月なのですが、5月のお散歩ツアー「鴨川港町の歴史を訪ねる」を開催しましたの
で報告します。
今回の集合場所は、鴨川市のフィッシャリーナ鴨川の駐車場です。
加茂川を渡り、釈迦寺へ。向かう途中にお稲荷さんを発見。ご近所の方に進められ、お参りしてみました。

詳細は不明ですが、隣には、古峯社も祀っています。景色は、港を一望できて眺めが良い場所でした。

釈迦寺へ。

日蓮宗に属し茂原の藻原寺の末寺です。創建は、平安時代の天長2年(825)に慈覚大師円仁の開基と伝えられていますので、当初は天台宗の寺院だったと思われます。その後、衰退した同寺を日蓮聖人六老僧の一人日向が、鎌倉時代末期の徳治2年(1307)に、日蓮宗の寺院として中興開山したと伝えられています。
釈迦寺には、次のような縁起が伝えられています。釈迦寺の前身は、唐から帰国した天台僧円仁が、諸国巡歴中、磯村の地に開いた道場です。それから長い年月を経た鎌倉時代の末ごろ、磯村前面の海に異変が起こりました。それは漁師の網に釈迦像が3度もかかったことです。しかし、漁師は不思議に思いながらもそのつど海に戻していました。それからというもの海鳴りが続き高波が起こり、夜ごと海中が光輝き、人々は恐れて漁にもでられぬ有様でした。たまたま日向上人は誕生寺に滞在していて、ある夜霊夢を感じました。霊夢は「当国磯村に続く小島(現荒島)近くの海中に釈迦如来の尊像がましますので、速やかに迎え祀り奉れ」というお告げでした。日向上人はお告げに従い直ちに磯村沖の小島に渡り、座を清める香る花を献じて読経すること17日間に及んだ。ついに釈迦如来像を得て、村にもどり、里人に堂舎の所在を尋ねたところ、里人は「昔、慈覚大師の草創と伝える寺がありました。しかし、今は、大日堂と申すお堂が残るのみです」と答えた。日向上人はお堂を釈迦堂と名を代え、尊像を安置しました。そして日蓮宗寺院に改め徳治寺と名付けた。日向上人が釈迦像を安置してからは、波も穏やかになり海中の不気味な光も消え、日夜大漁が続きました。人々はお釈迦さまの慈悲に感銘し、いつしか釈迦寺と呼ぶようになったといいます。

次に、金剛院へ。

真言宗智山派の寺院で山号を海満山といいます。鴨川市川代の勝福寺の末寺で、本尊は観世音菩薩と阿弥陀如来(元・光福寺本尊)です。寺伝によれば、承和13年(846)の秋、慈覚大師円仁が諸国巡礼の途中、磯村の海岸に差し掛かった時、海中が突然光明に輝き、弁財天が姿を現し、「汝を待つこと久し、吾ここに長くとどまりて、一切衆生を救わん」と円仁に告げました。そこで円仁が早速に観世音と弁財天の尊像を彫上げ、海に近い磯村字山の腰に一寺を建立して海満山金剛院と名付けて、尊像を安置しました。その後、年を経て衰微しました。建久4年(1193)に中興開山したのが、祐海法印と伝えられています。江戸時代の中頃までは山の腰に有りましたが、高潮などによって度々境内地が削られる被害を受けたので、宝暦元年(1751)も台地の北町に寺院を移したといいます。明治6年(1873)に山の腰の光照寺を合併し、同42年(1909)に横渚の光福寺を合併しました。
本堂に続く参道には、鴨川の石造物百選の宝塔があります。

鴨川市域に残る希少な中世の宝塔で応永10年(1403)の造立です。かろうじて、塔身・笠・相輪の一部が残っています。塔身には、金剛界四仏の梵字と紀年銘と施主名が刻まれています。十五世紀初頭の宝塔です。
この宝塔には、梶原景時あるいは景清の墓であるとの伝承が残っていますが、景時は正治2年(1200)に駿河で敗死し、景清は景時の父でさらに前代の人なので、年代の開きが大きく供養塔と考えてもおかしいと言われています。銘文に大施主善阿弥とあるので、時宗系の法名を持つ在地豪族による先亡供養塔の造塔と思われるとの事です。この塔は、なぜか勝負事に加護があるとの話が起こり、賭博に走る人々が欠いていったといいます。

お隣の妙昌寺へ。

日蓮宗の寺院で、山号を永長山。本尊は日蓮聖人と三宝です。
明徳2年(1392)に誕生寺第4世貫主日様上人の弟子、妙昌院日教上人によって改宗開山されました。江戸時代後期の地盤沈下によって、ほとんどの歴史的記録や文献などが海の底へ沈んでしまい、わずかに残された口伝と赤い門の「仁王門」だけとなってしまいました。現在、仁王門は平成29年の秋に人的被害の恐れがあるため、仁王像を取りだし解体してしまいましたが、第34世住職を筆頭に総代・檀信徒によって、山門改修工事を進めています。山門の前にあった大きな四爪錨は、今は山門の工事の為別の所にありますが、錨は、漁師の網が綿からナイロン製に変わり強度が上がった時に、引き揚げられたものです。先代の住職曰く「沖合で沈没した船の乗組員の念が錨についている、今まで見つけてもらいたくて網に引っかかっていたから目立つ通り沿いに朽ちるまで皆に見てもらって供養してあげよう」と言われ、置かれているそうです。山門の工事が終われば、また見る事ができるかと思います。

妙昌寺の脇の坂道を登り、八雲神社へ。

祭神は天照大神・須佐之男命・事代主命の三神を合祀しています。八雲神社の創建の記録は残されていませんが、南北朝時代の永和3年(1377)に出雲大社の分霊を移したもものだそうです。八雲神社ははじめ、神仏習合の教えにより、スサノオの化身である牛頭天皇を祭神としてので、天王宮(天皇様)と呼ばれていました。明治になり新政府の神仏分離令を受けて社名を八雲神社と改称しました。やはりこちらの神社もたびたびの波浪に襲われ壊れたり、社地も削られたりしたので、天保2年(1831)に立て直し、嘉永元年(1848)には本殿前に拝殿を造営しましたが、その後も波浪の被害が続いたので、安政2年(1855)に大規模な修復を加えましたが、その後も波浪を防ぐことが出来ず、現在の地に移し再建しました。
拝殿向拝の龍の彫刻は、三代目武志伊八郎信美の作です。

八雲神社の手水石は、鴨川の石造物百選です。文政3年(1820)、武田石翁が43歳の時に製作したものです。「壽秀」の刻銘が刻まれています。真ん中に巴の紋を配し、戯れる二匹の獅子が刻まれています。獅子の口の開き方が、阿・吽像一対のを意識した構成であることが窺われます。石材は伊豆方面で産出される安山岩が用いられています。

港町独特の路地を通り、福田寺へ。
浄土真宗本願寺派の寺院で、山号は恵日山。本尊は阿弥陀如来です。由緒などは全く不詳です。
福田(ふくだ)と書いてふくでんといいます。結構ふくだじと読まれてしまうそうです。
本堂に上げさせていただきました。

福田寺から少し坂を上ると、本覚寺に。

浄土真宗本願寺派の陣で、山号は松風山。本尊は阿弥陀如来です。
創建について「明細帳」は、「岩代国(現福島県)会津に所在した、為信寺の十二世善照が元和2年(1616)2月当時に至り、貝渚川口の地に一寺を開き海岸山本覚寺と名付けた」と書いてあります。明治34年(1901)に火災にあい、明治44年に再建されたといいます。「明細帳」には、更に、「境内に仏堂があり、太子堂という聖徳太子を祀る。文久2年(1862)8月に建てられたお堂である」と書かれています。
今回は、ご住職と副住職にお話しをお聞きする事ができました。
お参りさせていただく事を下見の時にお願いしたところ、お話しもしていただける事になったんです。当日も、待っててもらってありがたかったです。
お焼香の仕方とか、じゅっぱひとからげの語源だとか、「なるほど」と思う話をお聞きできました。
1つ前に訪れた福田寺と兼務という事で、ふくでんの意味も聞く事ができました。
お坊さんがいつも身につけている袈裟。また、袈裟の一種である絡子の事を別名、福田衣(ふくでんえ)と言いうそうです。「福田」とは仏教で、善き行為の種子を蒔いて、功徳の収穫を得る日という意味で用いるそうです。
なるほど、そこから来てるのですね。
ご住職・副住職さんに感謝をし、次へと向かいます。

歩いて3分で白幡神社へ。先ずは、敷地内にある観音堂に。

観音堂の前には、鴨川の石仏百選の五智如来を石造に刻んだものがあり、安房地方で唯一だそうです。
板碑型に成形した石材に五智如来を浮彫りにし、中央に金剛界の大日如来が確認でき、最上部には「五智」の文字と尊像にはそれざれ上部に梵字で尊名が刻まれています。尊像下のスペースには中央に「三界萬霊」の文字があります。

階段を上り白幡神社へ。

祭神は日本武尊(やまとたける)。創建は、平安時代初期の弘仁2年(811)正月と伝えられています。創建当時は、海に近い新浜の地に建てられていたといいます。承徳2年(1098)6月に激しい波によって社地が大きく崩れ、その後も激しい波にさらされたので、時期は不詳ですが、高所である現在地に移したと伝えられています。
治承4年(1180)、源頼朝が石橋山の戦いに敗れ安房に逃れて来た時、白幡神社に立ち寄り平家打倒と源家再興を祈願し、源家の旗である白幡一流を納め白幡大明神を称しました。この事によって、以後白幡神社と呼ばれるようになりました。
宝暦10年(1760)に拝殿が造営され神輿が奉納され、安永9年(1780)6月には本殿の改修と石段・石垣などの整備が行われました。その際の彫刻師として武志伊八郎信由(波の伊八)の名が見えます。
因みに向拝正面の彫刻は、初代後藤義光の作品です。

次も歩いて3分位の所、心巌寺へ。

浄土宗の寺院で、館山市の大厳寺の末寺で、山号は寿慶山。本尊は阿弥陀如来です。文永2年(1256)に長狭郡西部の北風原村に創立し、天文2年(1533)の「里見氏の内乱」によって焼失したといいます。天正5年(1577)に里見氏の一族・正木義房とその妻(里見義弘の娘)が、禅師の高風に帰依し、磯村に移転開山しました。
寛政11年の火災・大正の火災等で荒廃、本堂内陣から月を見ることが出来たといいます。そこで昭和5年(1930)第24世の達隠上人が、現在地石子山に移転開山しました。
境内には、正木義房(出家して道俊)と夫人(法号、寿慶大姉)の二人の供養塔ががあります。

心巌寺に伝来する浄土曼荼羅3点は、昭和51年(1976)に鴨川市の文化財に指定され、行道面は、平成7年(1995)に県の文化財に指定されました。曼荼羅は、極楽浄土において阿弥陀如来が諸菩薩のために説法する様子を描いた仏画です。行道面は、寺院の法令や供養の再に用いる面のことで、古い面の作成時期は室町時代と考えられています。
本堂の前には、鴨川の石造物百選の一つ、釈迦如来像があります。

釈迦如来を丸彫りにした石仏で、寛文4年(1664)のものです。肉髻や螺髪をを表し、胸の前で禅定印を結び蓮座上にすわり静かに冥想する姿に造られています。すごくいいお顔をしている釈迦如来です。

次は、心巌寺の脇?の石子山へ。
ここにも鴨川の石造物百選の1つ、磨崖仏があります。

石子山の崖に成形し、壁面を造り最上部に梵字「ユ」が大きく薬研彫りされています。「ユ」の梵字は弥勒菩薩を表すものです。弥勒菩薩は、釈迦入滅後56億700万年の後にと兜率天(とそつてん)よりこの未来のこの世に下り、苦しむ衆生の救済をする菩薩です。
梵字の下に「奉移四国霊場供養塔」と刻まれ、四国霊場88カ所を移した供養であることが分ります。下部には多くの人命や村名が刻まれています。江戸時代中期、享保元年(1716)のものです。

最後は、これまた歩いて3分程度の所にある永泉寺です。

曹洞宗の寺院で、鴨川市内にある長安寺の末寺です。本尊は華厳三聖木像です。三聖の像とは、華厳経の三聖者とされる毘廬遮那如来とその脇士、文殊菩薩と普賢菩薩を加えた三菩薩の像のことです。
はじめは市内磯村字西の崎に建てられていましたが、高潮被害が激しく大正末期(1923)頃に貝渚の石子山の地に移転しました。
向拝の龍は、昭和13年後藤吉徳の作品です。
こちらでも、ご住職からお話しをお聞きしました。ありがとうございます。

あとは、出発地へともどります。鴨川の港町には、多くの神社仏閣がありました。
皆さまも住んでる地域の歴史に少し触れてみるのも面白いと思います。

大人の学習旅行「加曽利貝塚と東京湾アクアライン探検」報告

もうとっくに新年度になっていますが、平成30年度最後に行った「大人の学習旅行」の報告です。
毎回好評の大人の学習旅行を3月の終わりに開催しました。今までの大人の学習旅行で海・空・宇宙とやってきましたので、今度は地下という事を考え、「加曽利貝塚と東京湾アクアライン探検」を開催してきました。ここ近年、インフラツーリズムなんて言葉があるように公共施設などの裏がを見学するツアーが人気なようです。

先ずは、館山から千葉市若葉区にある千葉市立加曽利貝塚博物館へ向けて出発です。
加曽利貝塚について少しお話しをします。
縄文時代、日本列島の沿岸部では、数多くの貝塚がつくられました。東京湾周辺はとくに多い地域のひとつで、湾の奥にある千葉市周辺には、直径100mを越えるような大型の貝塚が集中しています。その中でも最も大きい貝塚が加曽利貝塚なんです。
加曽利貝塚は、直径約130mの北貝塚と、長径約170mの南貝塚が連結し、全体では8の字形となる形状をしています。面積は約13.4ヘクタールで、世界でも最大規模の貝塚です。現在は、敷地は加曽利貝塚公園として管理されていて、千葉市立加曽利貝塚博物館が設置されていて、貝塚周辺には縄文中期の小型貝塚や住居跡が広く分布しています。
加曽利貝塚は、明治20年(1887)に上田英吉の「下総国千葉郡介墟記」によって学界に初めて紹介されました。明治40年(1907)、東京人類学会の調査で、「本邦第一の貝塚」であることが確認されました。
昭和38年(1963)頃、加曽利貝塚のある土地を企業が買収して整地作業を始め、南貝塚の一部を破壊した事を機に、保存運動が高まっていきました。昭和39年(1964)、千葉市は北貝塚の5ヘクタール余りの用地を買収し公園として整備、昭和41年(1966)に、土器や石器、骨など出土品を展示する博物館が開館しました。その後、昭和47年(1972)にかけて南貝塚の土地も買収されました。昭和46年(1971)に北貝塚が国の史跡に指定され、昭和52年(1977)には南貝塚が追加指定され、貝塚のほぼ全域が保存されることになりました。平成29年(2017)に、貝塚として初めて国の特別史跡に指定されました。

加曽利貝塚公園入口で、ガイドさんと待ち合わせをし、4班に分かれガイドツアー開始です。私たちの班は、復元集落から見学です。

貝塚だけでなく、集落跡としても極めて価値が高く、同じ場所で2000年間(5000~3000年前)暮らし続けていたそうです。自然に左右される狩猟採集中心の生活をしながら、同じ場所に住み続けられたのは、自然と共に生きる文化を育み、持続可能な社会を築いていた証拠だそうです。
復元した家の中には、違うガイドさんがいてお話ししてくれました。
しかしながら、今の私たちの生活から考えられないような・・寒くなかったのかしら?

公園内を歩いて移動していると、いたるところに貝の破片が落ちています。

次に案内してもらったのが、北貝塚竪穴住居跡群観覧施設です。
発掘調査当時の様子を保存科学の技術を用いて昭和43年(1968)から公開しています。貝層の下からは、竪穴住居がいくつも重なって発見されました。

この日は、苔などの駆除をしていました。やはり、光が当たり人の出入りがあるので、苔などが生えてしまうそうです。

次には、北貝塚貝層断面観覧施設を見学。

貝層断面観覧施設を見学。

巨大貝塚を造り上げた貝は、現在70種ほどが確認されているそうです。特にイボキサゴの数は全体の8割を占めています。
北貝塚竪穴住居群では約7000年前の住居跡が発見されていますが、当時の貝塚は残されていません。巨大な貝塚が作られ始めたのは約5000年前の縄文中期です。加曽利北貝塚は縄文中期(約5000~4000年前)に作られたものです。初期には小規模な貝塚と住居があったが、後にその上に直径約130メートルのドーナツ形の貝塚が約1000年かけて作られました。縄文後期になると北貝塚は利用されなくなり、その南側に南貝塚が作られ始めました。加曽利南貝塚は縄文後期(約4000~3000年前)のもので、約1000年かけて長径約170メートルの馬蹄形の貝塚が作られた。イヌの骨が人間とともに葬られていることが確認され、話題を呼びました。
イヌの骨が人間とともに葬られていると聞くと、犬好きの私には興味深々です。
貝塚からは他の動物の骨も大量に出てきたそうですが、全てバラバラの部分で、食べられた後のゴミでした。縄文人にとっての犬は、現代人の関係と同じようだったと考えられています。因みに、弥生時代の遺跡からは、犬の骨はバラバラなのもが出土しているそうです。
動物考古学の権威の方が言うには、
日本では紀元前7000年から8000年くらいのイヌの骨が、愛媛と神奈川県の遺跡で見つかっていますから、縄文時代の当初から日本にいたことは明らかです。そして、彼らはイヌをとても大切にしたんです。人間と同じように埋葬されていましたが、稀に解体した痕のある骨は見つかることがあり、それは食料とされたということも推測されます。ですが、基本的には食料とされずに、狩猟犬として扱われていたようです。怪我して狩猟犬として役に立たなくなっても大切に育てられていたようです。弥生時代になるとガラリと変わって、ほとんど埋葬されなくなり、骨もバラバラの状態で出土されているので、狩猟犬としてより食料とされていたのだと言っています。
なるほど。今でも、犬を食べている国はありますが、昔からイヌは私たちの生活の中の身近な動物だったんですね。

次に南貝塚貝層断面観覧施設を見学。

最後は、博物館内を見学し、現地ガイドさんとはお別れし、旧大須加家住宅でお弁当タイムです。

もともとは幕張町にあった住宅で、昭和43年に千葉市に寄贈され民族資料の保存のためこの場所に移築されました。江戸時代、幕張町は天領に属し、北町奉行配下にあり、大須賀家はその代官所にあてられ、俗称「北の代官所」と呼ばれていたといいます。この屋敷は、寛保から寛延年間(1741~1750)の建造と思われ、一部には近年の改造のあとが見られます。
ちょっと、バタバタしていて、表の写真を撮るのを忘れていまいました。

お腹もいっぱいになりましたので、東京湾アクアラインに向けて出発です。
予定より早く着きましたので、海ほたるを自由散策。その後、集合しいよいよ東京湾アクアライン裏側探検へと出発です。
まずは、アクアラインの歴史のDVDを見ていきます。


東京湾横断道路の構想は昭和36年(1961)から構想が始まり、30年以上の歳月を経て平成9年(1997)に実現しました。建設工事は東京湾横断道路株式会社が東京湾アクアラインの海上部にあたる約14.3km区間を担当し、日本道路公団は、事業調整・用地買収等のほかに、川崎市と木更津市の陸上部の建設を受持ちました。東京湾の海底は、ヘドロ層の軟弱な地盤であることに加え、地震も頻繁に起こる海底トンネルとしては悪条件が重なったことから、技術上の問題を多くかかえました。工事に用いた鋼材は約46万トン、セメントは約70万トンが使用され、総工費は約1兆4000億にも達しました。
川崎側は、シールドトンネル、木更津川は橋梁を採用しています。昭和46年(1971)頃の構想では、川崎側と木更津側の両側を橋梁構造とし、中央部をシールドトンネルではなく沈埋トンネルとするものでした。トンネルを採用したのは、船舶及び航空機という東京湾の海上及び上空の既存交通との兼ね合いがありました。全ての区間を橋梁構造にすると大型船舶の航行に支障をきたしてしまい、橋梁で大型船舶を通過させるだけの高度を確保すると羽田空港を離着陸する航空機の生涯となってしまうので、大型船舶を高校可能とするトンネル部分を設ける必要がありました。いろいろな事がありましたが、シールドトンネル(東京湾アクアトンネル)と橋梁(アクアブリッジ)は、長さ約650m、幅約100mの木更津人口島(海ほたるPA)で結ばれ、アクアブリッジの橋げたは、海ほたる付近で総トン数2000トンの船舶が航行可能な径間の確保と、桁下部分のクリヤランスを確保するため高くなっています。また、耐震性と走行性の向上を図るため、日本国内には前例がない最多11径間となる多径間連続化が図られました。
東京湾アクアトンネルの掘削は、浮島、川崎人工島(風の塔)、および木更津人工島の3カ所から発進した世界最大径となる、外径14.14mの合計8機のシールドマシンによって進められました。川崎人工島は、トンネルの中間地点に位置するドーナツ型の縦穴基地で、シールドマシンを発進させるため最初に木更津人工島とともに建築されました。川崎人工島は供用開始後トンネルの換気塔のためにも使用され、その忠心には排気ガスと新鮮な空気を入れ替える設備があります。川崎人工島の構造物の素材には、羽田空港を離着陸する飛行機が発するレーダー波を乱反射しないものが採用されています。トンネルの換気塔は川崎側にも設置され、浮島換気口として機能をしています。浮島換気口は羽田空港D滑走路供用開始時には換気口上部が航路の障害となったため、2009年に上部の12mを取り払う改修工事が行われました。
シールド工法の断面は円状ですので、東京湾アクアトンネルの車道下側に、緊急車両などが通る管理用道路や光ファイバーなどの通信ケーブルが設置されています。この車道下側は避難用通路としても機能するように、気圧を0.1%高めるころで火災発生時の煙の侵入を防いでいて、車道からスロープでおりられるようになっています。車道は300m置きに避難口があり、避難用通路には道路管制センターにつながる直通の非常電話も設置されています。
さぁ~実際に避難通路へと移動していきます。
私の班は、最初に将来的に6車線化が可能な構造で建設しているので、その増やせるトンネルの入口へと行きます。

トンネルの先には、いくつものドアがあります。そこから入って行くと避難通路へと入っていきます。

ドアを何枚か抜けていくと、いよいよ避難路へと辿りつきます。

アクアトンネルの防災システムなどのお話しをききます。

東京湾アクアトンネルは、約10㎞の長大トンネルです。「道路トンネル非常用施設設置基準」に基づきAA級トンネルとして十分な対策を行っています。このトンネルの特徴を踏まえた、床版下空間を活用した新しい防災システムを構築しています。この床版下空間は、緊急避難路兼管理用通路(避難・救急・救助及び消防活動への支援)として機能をはたしています。
トンネル内にはCCTV(監視カメラ)は、施設制御室のモニター画面で順次自動切り替えで監視を行っていて、非常電話、火災探知機、押しボタン式通報装置があります。

地上へは非常用階段120段位をのぼり、出てきて資料館を見学。

その後、シールドマシンのオブジェ?を見学し、消防者の車庫へ。

アクアライン消防車庫です。

普通の街の中で活動している消防車両より少し小さいものです。やはり緊急避通路は、高さ幅ともに狭いので、この車両が活動します。

橋梁部分上り・下り線とアクアトンネルの上り線は、木更津市の消防、アクアトンネル下り線は、川崎市の消防が活動するそうです。アクアライン開通後に1度だけ活動をしたそうです。ちなみに、アクアラインの消防車庫には、隊員は常駐していないので、火災等があると近くの消防署より出動してくるそうです。

見学後は、アンケートに答え終了です。

あとは、館山へと戻っていきます。
今回の大人の学習旅行もいろいろと勉強できました。

令和元年の今年度は、どこに勉強に行くか検討中です。楽しみにして下さい。

今回のガイドの独り言で、平成30年度は終わります。令和元年も頑張って報告いたしますので、よろしくお願いします。

月イチツアー「館山地区名所旧跡めぐり」報告

あっという間に5月も終盤になりました。皆さまGWはいかがお過ごしでしたか?
私の場合、11連休でしたが、あっという間に過ぎてしまいました。
観光地に居るので、ちょっと外にでれば観光客気分を味わえます。

そんなこんなで、4月の月一ツアー「館山地区名所旧跡めぐり」を開催しましたので、ご報告します。
ツアー当日は、暑い日になりました。出発は、花見の人達でにぎわう城山公園から出発です。
まずは、天王山・大膳山経由で妙音院をめざします。
天王山、御霊山は里見氏がいた時代に物見として隅櫓の役目を果たし、大膳山へと続く尾根と鹿島堀は館山城の外郭でした。里見以前から宿場があり社寺を多数配置し外部からの侵略に備えました場所です。

説明をしながら、妙音院へ。

高野山金剛峰寺の直末の寺院で古儀真言宗の寺院です。里見時代には161石の寺領があり。徳川の世でも紀州徳川の繋がりで75石を安堵されていました。阿弥陀堂香炉には葵の紋が残っています。境内敷地内には88ヶ所の写しが祀られ、霊場巡りができます。
5月26日(日)午後から火渡りと人形供養が行われます。火渡りは、最初の方だと熱いですが、終盤は大丈夫ですので、是非お参りに行って下さい。

次は慈恩院へ。

曹洞宗の寺院です。里見家代々の持仏堂をして館山城内に創建したのが始まりで、天正9年に里見家康の弟玉峰和尚が、城内に祀られていた千手観世音菩薩と聖観世音菩薩を本尊として現在地へ移しました。慶長8年(1603)に義康が没するとその菩提寺となり、慈恩院となりました。

里見義康の墓と句碑です。

慶長8年(1603)11月16日没、31歳でした。宝篋印塔の墓の裏に建つ「当山開基」の標柱と周囲の石垣は、明治42年(1909)の里見氏墓域整備のときのものです。右側に建つ句碑には、整備に関わった正木貞蔵(号月舟)の句が刻まれています。

次は、十二天神社へ。
境内に茂るビャクシンは千葉県最大で高さ17m、推定樹齢800年と伝わっています。社殿には館山藩絵師・川名楽山が奉納した後藤義光作の龍の彫刻があります。

谷奥には、つとるば祭祀遺跡があり、土製の模造祭祀道具が多数出土したことから、大寺山の遺跡の祭祀場だった可能性が考えられます。本物を使う副葬品に対して祭祀用の土製模造品は本物そっくりに精巧に作られた使い捨ての祭祀道具と考えられています。

次は、沼地区にある天満神社へ。

祭神は、藤原道真公。嘉保3年(1096)安房国司であった源親元が京都天満宮より歓請したと伝えられています。古くは寺を建立する時は、災除けの神社を先に建てる習わしがありました。その名残で天満神社と総持院は同じ梅鉢の紋です。境内には川名楽山の碑があります。

次は、石塚やぐらへ。
古くは地蔵堂があった場所です。崖面を掘りこんだヤグラ内に五輪塔の浮彫が施されていて、鎌倉時代から室町時代のこの地域の武士の墓だと考えられています。道端には馬頭観音や六地蔵も立っています。

次は、総持院へ。
真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王。平安時代の国司源親元が永長2年(1097)に建てたと伝えられています。地元では「沼の大寺」と呼ばれています。

裏山には、大寺山洞窟遺跡があります。昭和34年(1956)住職が発掘をはじめ、平成4年~10年千葉大が調査を始めました。
館山湾を望む標高25mの沼Ⅰ面にある3本の海蝕洞窟郡で、標高30mの1洞は奥行き25mあり、古墳時代中期に舟葬墓として再利用され200年に渡り利用され、12基以上の舟棺がありました。古墳を造らず海人独自の海上他界観をもった葬送儀式が行われていた事を確認できた初めての遺跡です。副葬品も東国の古墳にも劣らない貴重な短甲、剣、漆塗棺、銅製鈴などが出土し海上交通を支配していた豪族の墓とされています。2洞は、奥行き5m、高さ2mで水が溜まり奥まで調査されていません。3洞は、奥行き10m、高さ4mで沼Ⅱ面の海蝕洞窟形成時(4000~3000)年前漁撈生活の番屋であったらしく、漁労道具・生活用品が数多く出土し、骨角器の制作道具や加工中の材料もあり工房もあったようです。

次は、北下台へ。

北下台のところには、昭和10年(1935)、築港建設に伴う道路開削工事中に発見された、海蝕洞で奥行き30mと推定される北下台縄文遺跡があります。須恵器・碧玉の管玉・瑪瑙の勾玉・海外交易品の銅釧(腕輪)などの副葬品が出土し古墳時代に埋葬遺構として使用されていました。標高的には沼Ⅳ面(1500~700)年前の海蝕棚にあたりますが、沖の島遺跡と同じ海退時の縄文遺跡かもしれません。北下台頂上の露岩にヤグラが掘られ五輪塔が浮彫され、納骨穴、建具取り付け溝跡が残っています。時代的には、鎌倉・室町時代の遺跡です。

あとは、出発地点の城山へと戻りますが、途中、館山神社へと寄り道。

無事に出発地点へと戻りました。城山公園周辺には、すご~く昔からの歴史が多く残っているなぁ~と思ったコースでした。
こんなのもありました。

ヒカリモ

天満神社の牛

田んぼ道からの城山

総持院からの城山

のどかな景色が楽しめるコースでした。

お散歩ツアー「日蓮聖人ゆかりの妙福寺とその周辺を歩く」報告

新年度最初のツアーは、お散歩ツアー「日蓮聖人ゆかりの妙福寺とその周辺を歩く」を開催しました。開催日当日は、お日様には恵まれたのですが、少し風の強い日でした。

集合場所は、南房総市南無谷地区にある豊受神社の境内をお借りしての出発です。
当日は、地元の方が南無谷地区のお話しをしていただきました。

現在の南無谷は、大昔、泉澤村と呼ばれていました。理由は、2つあるそうで・・
1つは、湧水が沢山出ている沢があったため
2つは、泉澤氏という郷士が住んでいたところだったため
どちらかの理由にようるものか定かではありません。
南無谷に変わったのは、日蓮聖人と関係があります。建長5年(1253)の5月に清澄山を出た日蓮が鎌倉に渡ろうと、この地に来たのですが、波浪が厳しく渡る事ができなかったため、3日ほど泉澤権頭太郎の家に泊まりました。日蓮は日蓮宗を日本国中に広めようとしていましたので、泉澤家の人たちにも熱心に法華経を説き聞かせました。老母ふく、権頭太郎、その弟、二郎、三郎はともに教えを信じ、特に老母ふくは、妙福という法名をを授かったほどでした。やがて風波は静まり、日蓮は無事に鎌倉近くの米ヶ浜に上陸したのです。日蓮はこれが縁で文永元年(1264)小松原法難後、再び泉澤家を訪れたといいます。間もなく、村中に日蓮宗が広まり、村の名が南無妙法谷村(まむみょうほうやむら)となりましたが、長すぎるので南無谷となったそうです。

集合場所でもある豊受神社です。

祭神は豊受大神。和久産巣日神(わくむすびのかみ)と弥都波能売神(みつはのめのかみ)の子で五穀をつかさどる女神です。イザナミの孫になります。伊勢神宮の社伝では、雄略天皇(第21代)の夢枕に天照大神が現れ「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井にある御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼びなさい」と言われ、天皇はあわてて伊勢の内宮に近い山田の地に豊受大御神を迎えて祀ったのが始まりです。

最初に訪れたのは、山の神です。

一般的に山の神とは山を支配する神の事です。しとぎやお神酒、おこぜ等を備えますが、地方によっては異なっています。祭神は不明です。鳥居は平成元年に再建し、形は神明鳥居です。本殿と拝殿はかなり古いようですが、いつ造られかは不明です。
拝殿の腰板に船の古材を利用している場所があります。

次は、朝日地蔵へ。

地元ではいぼ地蔵とも言われています。線香の灰をいぼにつけて願いをかけると、いぼが取れるといいます。

次は、川止用水。

消防用に利用するために人工的に川を堰き止めた場所です。

本日のクライマックスは、七面山。

七面山はむかし浅間山と呼ばれていましたが、のちに領主の小浜八太夫が雨乞いの祈祷所として山林を奉献し、七面堂が建てられました。七面堂には、元禄12年(1699)に、身延33代日亨上人が勧請した木造七面大天女が祀られています。
まずは、七面堂まで階段を登っていきます。解説には、222段の石段とありましますが、数えなが上っていくと5段少なく登れました。下の部分がコンクリートで坂道となってしまっていたので、そこで階段が少なくなってしまったのかなぁ~なんてみなさんと話てました。
七面堂に到着しますと、七面堂を守っている妙福寺のご住職が、お堂を開けて下さいました。いつもは、閉まっているのですが、下見に行った際に、檀家さんにお会いしお話しをしたところ、開けてもらえる事になりました。これもなにかの縁です。七面大天女が導いてくれたのかしら?

お堂に上げていただき、ご住職に経を唱えていただき七面大天女を特別に拝ませていただきました。それだけでもありがたいのに、お守りを頂きました。お守りは、七面大天女様が着られている着物を細かくし物が入っています。この着物は、毎年5月の18日と10月の18日に絹衣のお召し替えの儀式が行われるので、天女様が着たものです。
通常は、この日にしか七面大天女のお顔を拝見する事ができません。是非、直接お参りをされたい方は、是非、絹衣のお召し替えの時に、参拝しに行って下さい。

ここで、この七面天女のお話しを・・・
日蓮聖人が身延の谷(山梨県)で弟子や信者に説法をしていると、その中に美しい女性が熱心に聴聞していました。一同は不審に思っていると、日蓮が女性にむかって「皆が不思議に思っていす。あなたの本当の姿を見せなさい。」すると女性は笑みを湛え「お水を少し賜りとう存じます」と答えると、日蓮は傍らにあった水差しの水を一滴、その女性に落としました。すると今まで美しい姿をした女性は、たちまち緋色の鮮やかな紅龍の姿に変じて仰った。「私は、七面山に住む七面大明神です。身延山の裏鬼門をおさえて、身延一帯を守っております。未法の時代に、法華経を修め広める方々を末代まで守護し、その苦しみを除き心の安らぎを満足与えます」と言い終えるや否や、七面山山頂へと天高く飛んでいきました。日蓮は、「いつか七面山に登って七面大明神を祀ろう」と考えていましたが、生きている間には叶いませんでした。日蓮聖人入滅後16年目に弟子の日朗上人は日円と共に、七面大明神をお祀りするために、初めて七面山に登り、永仁5年(1297)に七面山奥ノ院を開創しました。以来、日蓮宗の守護神とされ、本地は福徳を授ける吉祥天で、鬼門の一方だけを閉じ七面を開くといいます。

奥ノ院の方に上がっていきますと、素晴らしい景色を見る事ができます。

次は、妙福寺さんへ。

本堂・祖師堂にお参りしてから、泉沢さんのお墓へと上がらせていただきました。

妙福寺は、日蓮宗の寺院で、山号を成就山といいます。由緒によると、日蓮聖人が建長5年(1253)、鎌倉に向かう途中、富浦の岡本浦から鎌倉へ船で渡ろうとしたころ、嵐で足止めをよぎなくされました。近くの岬に登って一心に祈願すると嵐が治まりました。並みの僧でないことを感じたこの地の泉沢権頭太郎は自宅に招いて3日間、母親と2人の弟と共にお世話をし、直接教えを受けたと伝わっています。別れにあたり日蓮聖人は、お世話になった母親の願いを受けて「妙福」の二字を法号として授けました。
時は経ち弘安2年(1279)、権頭太郎が身延山に隠居していた日蓮聖人を訪ねました。日蓮聖人は権頭太郎にお世話になったお礼として、衣を洗ったときに裸で読経した自分の姿を弟子に彫刻させ、その裸体の像とお題目の掛け軸を添えて授けました。
権頭太郎は帰郷したあと、その像と掛け軸を安置するためお堂を建立し、聖人の弟子であった日頂上人の弟子日念上人を初代住職として迎えます。そしてお寺の名前を、母親が授かった「妙福」を頂き「成就山妙福寺」となりました。6月と10月の13日には、日蓮聖人像の衣替えが行われます。

やはりご住職からお話しを聞くとありがたい気持ちになります。当倶楽部のガイドもちゃんと勉強してるんですけどね。なんででしょう?修行されている人とにわかの人との差かもしれませんね(笑)

次に、衣を洗った井戸へ。

少し前までは、看板があったのですが、私有地かなにかで、足を運ぶ事がなかったのですが、今回は、見学できるようになっていたので、見学してきました。

あとは、海岸に出て、出発地へともどります。

今回のコースは、日蓮聖人と関係のある場所を多く巡りました。妙福寺のご住職にも大変お世話になり、いつもは拝見出来ない七面天女様にもお会いできて、充実したお散歩ツアーになりました。ご住職の暖かいご配慮、この場を借りて感謝を伝えたいと思います。ありがとうございます。

南房総市 妙福寺さんのホームページです。ご興味のある方はどうぞご覧ください。
https://www.akafunkun.net/
ヨガなんかもやられているそうです。

月イチツアー「里山・山名の歴史を巡る」報告

4月の新年度に入りました。
平成31年度もみなさまお世話になりました。今年度のウォーキングツアー予定表は、リピーター様には、お送りいたしましたが、まだ道の駅などには配れていません。ちょっとなんとかGW前までには、安房地域の道の駅等に置かせてもらいますので、もう少しお待ちください。

さて、平成31年度最後の月イチツアー「里山・山名の歴史を巡る」を開催しましたので報告します。

集合場所は、JA稲都支店跡地を貸していただきそこからスタートしました。
ツアータイトルにもあります、山名地区は、昔、山名村と呼ばれ呼ばれていました。里見氏時代のまた末は709石余、慶長19年(1614)から幕府領、その後寛永15年(1638)旗本三枝勘解由が三代将軍家光から、山名村をはじめ房州で一万石を賜り、御鉄砲頭を仰せ付けられ、大名に列せられました。後に、忍藩領、前橋藩領などを経て、明治の6年(1873)に千葉県所領となる。明治8年「御庄村」と連合村をつくるが、明治22年(1889)の町村制施行によって、「池之内村」「中村」「御庄村」とともに「稲都村」となり、その大字となりました。ちょっと山名地区を勉強したところで、最初に訪れたのは、天徳寺です。

曹洞宗の寺院で、後で行く智蔵寺の末。本尊は、不動尊です。寛文年間(1661~1673)に智蔵寺の九代通珊良撤和尚の創立と言われています。その後、正徳元年(1711)に御庄村を所領した「万石騒動」で知られる北条藩屋代越中守が改修工事をしたという記録があります。
大日如来坐像・天部像・地蔵尊・三山碑などがあります。

山名地区に向かって歩くと、途中にひっそりとお堂があります。ここは、下見の時に見つけた場所で、近くにいた農家の方に聞いたのですが、わからないとの事でした。

詳細は、不明ですが、祭神は櫛石窓神・豊石窓神。

智蔵寺の手前や周辺には、馬頭観音などがありますが、説明していると辿り着かないので、細かな石仏は、今回は省略します。

智蔵寺へは、苔の生えた石段を登っていきます。

山門をくぐり、本堂へお参りします。

曹洞宗の寺院です。本尊は地蔵菩薩。文亀3年(1503)、前甲信太守「武田次郎三郎源信勝」の開基、開山を太巌存高大和尚といい、その後、中興の開基を「印東采女」となっています。夷隅郡御宿町上布施の宝蔵山真常寺の末寺ですが、小本寺と称することを認められていて、俗称を山名の大寺といいます。
寺伝によると、開基の武田信勝は天目山で敗死した武田勝頼の嫡男で、天目山を逃れて房州に落ち延び、智蔵寺を開基したと伝えられています。また、中興の開基は、里見奉行印東采女平忠康とされています。徳川時代初期の寛永15年(1638)、旗本三枝守昌は、安房の国で一万石を賜って大名に列し、陣屋を山名の本郷に置き、智蔵寺を菩提所としました。次の守全は、再び旗本となりましたが、その後天保13年(1842)まで204年の間、山名は、三枝氏の知行所でした。寺内には、三枝守昌の墓(宝篋印塔)とその子、諏訪頼増の墓(板碑)があります。
本堂の欄間には、翼をもった小竜が波間に飛んでいる彫刻は、初代武志伊八郎信由58歳の作です。南房総市文化財です。
墓地に上がっていくと、溝口八郎右衛門の墓があります。

八郎右衛門が生前出羽三山に参拝登山する際の行者姿を彫刻した武田石翁作のお墓です。
天保12年(1841)頃の作といわれ、右手に酒杯、左手に徳利を持ち、右膝を立て、酒樽に座った姿を表現した珍しいものです。八郎右衛門は、天保14年(1848)90歳で亡くなり、時世の歌として、「百の銭90はここで飲みわかれ、6文もって永の道中」と残しました。「6文あればたくさんだ」という意味でしょう。6文は三途の川の渡し賃の値段です。

次は、山名の鎮守熊野神社へ。

祭神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)。文亀2年(1502)正月9日の創立と伝えられています。明治16年(1883)の山名誌によると、当初安房水上神社と称されていましたが、安房と冠するのは安房神社だけであるとの抗議があっと水上神社と改めたと伝えられています。
境内には、日清・日露戦争戦没者碑や三山講碑・出雲大碑などが建立されています。
参道を登りつめた先に、下の農道と立体交差する石橋があります。明治期の作と思われ、切り出した石材を巧みに組み合わせ、お互いに支えあって出来ている一眼のめがね橋です。

石は山名の寺山石を使用しているといいます。

次に訪れた場所は、山頭神社。

詳細は不詳ですが、参道石段下に、行人堂(行堂)があります。講参り(出羽三山講)の前後、ここでお篭りをしたところで、郡市内では現存しているのは、ここの行堂だけです。
行堂は、普段は飯出集会所として利用されています。
明治初期に書かれたものと言われる文書には、飯出谷の者が文久2年(1862)に鎮守の森の杉の大木一本を智蔵寺に断りなく切って、二両二分で売り、社殿の修理費にしようとしたことから起こった事件があり、結局和解しますが、このことによって山頭神社は、以前は今の飯出行堂の傍の平地にありましたが、山崩れに遭ったことで、仙元山の山裾の現在地の地所を智蔵寺から借りて移ったなど、書かれています。

次は、智光寺へ。
真言宗智山派の寺院で、安房国札21番観音霊場です。本尊は、不動明王を本尊とする長楽山智光寺と、千手観音を本尊とする光明寺(宝暦13年再建)、阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂(安永4年再建)とが、江戸時代中期に合併したものと考えられます。
21番の御詠歌「こうみょう寺 のぼりのどけき はるの日に 山名のはなの りつぞおしさよ」と詠われています。
その後、智光寺は大きな火災に見舞われ、仁王門から出た火は、参道沿いの家並みを伝い、お寺の建物を全て焼き尽くしました。この時の教訓から、周辺の家々は母屋を互い違いに建てて類焼を防ぐ工夫をし、その面影は今も残っています。その後、お堂は宝暦14年(1763)に再建され、阿弥陀堂は安永4年(1775)に建築され現在にいたります。

まず、目立つのが仁王門です。

仁王門は、間口5.45m、奥行き3.62m、高さ6m。左右の金剛座には、筋骨隆々の「阿像・吽像」の木造金剛力士像がたっています。製作年代は不詳ですが、言伝えによると、江戸時代の承応年間(1652~1655徳川家綱の時代)に火災に遭いましたが、他の仏像と共に、付近の女性たちの手で搬出され、災難を逃れたといいます。女性の方は力があったんですね。
木像金剛力士像は、平成7年(1995)に南房総市の文化財に指定されました。

参道の脇には、山名学校跡があります。今は畑となっています。山名学校は、明治6年(1873)当初は、智蔵寺に創設された学校で、2年後には、智光寺に移転し、さらに同年西隣の平坦地に校舎を新設しました。明治15年(1882)には、高等小学校を設置し、その際村民から「高等科出願二付誓約書」が提出され、内容は学区資金無尽作って、村民一致して運営に当たるというものです。明治19年に教育令が改正され、山名尋常小学校に改称されました。明治36年(1903)に「御庄学校」と合併し、「稲都尋常小学校」となりました。

その上には、陣屋跡があります。
土地の人は「ごじんや」と呼んでいます。ここは江戸時代の寛永15年(1638)に一万石大名となって、この地に封じられた三枝勘解由守昌の陣屋を置いたところです。陣屋とは、一般的には、城郭のない小さな藩の大名の居所をいいます。大名は実際に、江戸に居た方が多かったようです。なお、三枝守昌は、安永16年に死去し、子息二人が遺領を分割相続して大名から旗本になりますが、山名の知行は、次男諏訪氏に引き継がれ、天保13年(1842)まで続きました。

やっと、智光寺の境内に辿りつきました。

まずは、阿弥陀堂です。

阿弥陀堂は、安永4年(1775)に建築されました。木造阿弥陀如来座像は、像高105cm。胎内背部の墨書銘によって、元和2年(1616)に奈良仏師の井上助一良の作であることがわかります。江戸時代初期の仏像の代表的なもので、館山市大網の大厳院の阿弥陀如来像とほぼ同年代のものです。左右に天部像がいます。昭和55年に市の文化財に指定されています。

観音堂には、木造千手観音立像があります。像高100cm、江戸期の元文2年(1937)に造られました。厨子に入っているので、見る事は出来ませんでした。

寺宝は、木造不動明王立像です。高さ160cmで両脇侍に「こんがら童子、せいたか童子があります。不動明王は南北朝期の作と推定され、両脇侍は江戸期のものです。不動明王は昭和62年、死の文化財に指定されました。

ここで少し、寛政8年(1796)におきた事件についてお話しします。
「門学殺害事件」
「秋山家文書」と三芳村中の吉田周蔵翁が残した「覚書」によってこの事件の内容がわかったのです。
寛政8年(1796)、江戸幕府・11代将軍徳川家斉の時代、7月29日の朝5つ時、加茂の南の坂で、虚無僧一人が二人の山伏に殺害され、二人は山伝いに加茂から竹原・中・御庄を経て、山名に逃れ、山名本郷の智光寺の庫裡に隠れました。だが、逃げ切れないと知った山伏の一人が、仲間を騙し討ちにし「これが犯人!」とその首を持って庫裡から出て来て捕えられた事件で、この騙し討ちにあった山伏が門覚でした。
加茂坂で殺された虚無僧は至龍といい、下総国小金(松戸市小金)の普化宗の本山永福寺の役僧で、房総の虚無僧の取り締まり役でした。殺した山伏の人は、水野圓治といい、本名は筑紫我童で豊前国中津の奥平藩の浪人で、若くして酒や女遊びにふけ、公金を横領して国元を逃げ出し行方をくらまし、水野圓治と名を代え、武者修行と称して諸国を放浪していました。もう一人の山伏は、門学といい、日向国佐土原の生まれ、房州国分村萱野修験寺大釈院(廃寺)で水野と出会い、共に九州出身なことから意気投合しました。
事件の発端は、虚無僧取締役の至龍が、平郡高崎村で偽虚無僧に扮して徘徊していた水野に出会い、普化宗のかいこうの奏笛をしましたが、偽者の水野は返礼の奏笛が出来ませんでした。無鑑札の偽者であることを見破られ、宗規によってその天蓋、尺八を没収、大衆の面前で水野ははずかしめられました。この事で深く恨み、報復を謀ったのです。7月29日の朝、加茂坂で待ち伏せをして、水野と門学の二人は至龍を殺害しました。
殺害を目撃した百姓が名主方に知らせて大騒ぎとなり、二人は山中に逃げ込み、智光寺の住職にかくまってもらおうとしましたが、住職が不在で止むなく庫裡に隠れました。追手は手に鉄砲、竹槍などをもって殺到し、庫裡を包囲しました。万事休すの状態です。
水野は自己の欲しんを図るため門学に向かい「自分は貴殿の助短刀で至龍を打ち取り、高崎での恥辱をそそぐことができた。ここで百姓どもに捕えられ、縄目の恥を受けるより潔く自害するから介錯を頼む。至龍殺しの下手人として自分の首を追手に示せば、貴殿は許されるであろう。自分が自害する間、戸を押さえていてくれ」と真しやかに申しでたので、門学はその言葉を信じ一心に戸を押さえていました。水野は自害を装って門学の背後にまわり、門学の首を打ち落としたのです。水野は、門学の生首をひっさげて悠々と追手の前に現れ、「加茂坂で虚無僧を殺害したのはこの門学で、自分は同行したのみである。門学は逃れることのできないことを知って、自分に介錯を頼んで潔く自害した。これが門学の首である。」と大声疾呼したが、恐れて誰も近づく者もなかったそうです。水野は夕方縄目に就き、翌日大井村に送られ、大井村を知行する旗本小笠原若狭守の家臣小倉忠右衛門及び山名村を知行する旗本三枝百助の家臣佐藤宗助(惣助)の取り調べを受けた後、江戸送りとなりました。
白洲における水野の陳述は実に卑怯でした。「自分は浪人して武術修行のため廻国の途次、門学と知り合い親交を結んだ。門学は郷里で兄が虚無僧紫竜斎なる者に討たれ、その仇を討つつため関東に下り、紫竜斎が下総小金の永福寺の役僧となっていることをつきとめたが、紫竜斎は武芸の達人であるので自分に助太刀を懇請した。加茂坂で紫竜斎に遭遇したので義によって助太刀し、門学に本懐を遂げさせたのである。本懐を遂げさせたのである。本懐を遂げた上は直ちにお上にその旨を届け出て、後の処置を待つべきであったが、何分群衆の騒ぎが大きく不本意ながら智光寺まで逃げ、住職に会って事情を述べ罪を待つ心算であった。住職は不在で、追手の追及が急で猶予が与えられなかったので、門学は逃れることができないと観念して自刎した。自分は文覚の頼みによって介錯した次第である。」と言葉巧みに陳述した。吟味役の島田小文治は、水野の陳述に深い疑いをもったが、外に証拠もないので、水野を江戸及び房州両地方追放に処しただけで、一応事件の落着でした。
その後、至龍の門弟らは水野を師の仇とねらい、翌寛政9年(1797)、下総国を流浪中の水野を見つけ、遂に利根川の支流将監川の堤で暗殺し、その死骸は川に流されて魚腹に葬られたと伝えられています。
智光寺の庫裡で非業の死を遂げた門学は、純朴な村人達の同情を集めて鄭重に葬られ、明治41年には墓碑も建てられました。

っというお話が残っています。ちょっとびっくりな事件です。

次は最後の見学場所、八雲神社へ。

明治4年(1871)の「山名村明細取調書上帳」によると、八雲神社は八坂神社として「牛頭天皇」を祀り、祇園社とも呼ばれ、須佐之男命が祭神と記されています。八雲神社と呼ばれるようになったのは大正期に入ってからです。また延享2年(1745)の棟札に「別当長楽山智光寺住宥運謹書」と書いてあったことから、智光寺が別当寺であったことが分ります。

後は、出発地点へと戻りますが、途中には馬頭観音やツナツリがありました。
ウォーキングツアー当日は、御庄地区の神輿が新しくなったので、お披露目の為に御庄の集会所に出ていました。地域の方たちが、大切にしている文化も見学できて楽しい1日でした。

お散歩ツアー「館山市・南条エリアの歴史を巡る」報告

あっという間に2月も終わりに近づいてしまいました。来年度のウォーキングツアーのチラシ作りをしないと、間に合わなくなってしまう今日この頃です。
さて、少し春らしい気候になってきた館山・南房総ですが、やはり朝晩は冷え込みます。っといっても、あぜ道などには、フキノトウが顔を出してきています。花粉も飛び始めていて、花粉症の私にはツライ日々が始まりました。

お散歩ツアー「館山市・南条エリアの歴史を巡る」を開催しましたので、報告します。
集合場所・出発地点は、南条八幡神社。

祭神は、譽田別命(ほんだわけのみこと)です。創建は不明ですが、伝承によると古代南条村は海辺の漁村で、あるとき疫病が流行りました。その為、難病を免れるための神を祀ったのがはじまりと伝わっています。その後、源頼朝が伊豆石橋山の戦いで敗れ、安房国から平を挙げる時、村人が京都石清水八幡宮の御霊を勧請し、南条郷東山の地を選定してはじめて社殿が建立したそうです。戦国時代の天文2年(1533)、南条城主鳥山弾正左衛門大夫時貞が崇敬し、居城の東方に社殿を造営し、守護神としました。

右の写真は、社務所です。大東亜戦争当時診療所として利用されていまし。
大平洋戦争末期、昭和20年に入ると陸海軍部隊の本格的な疎開が始まり、館山市の大賀・笠名にあった洲ノ埼海軍航空隊も兵舎等を解体し半数以上が、豊房村はじめ館山近郊に疎開しました。南条八幡神社付近には、司令部・副官部・通信科・主計科などの洲ノ空の指揮中枢部門が集中していました。

境内の本殿の裏山には、開口した大小38個の横穴があります。いずれも古墳時代の横穴墓で、昭和初期の神社改築の際、数個の横穴を崩したと言われています。

他にも、常明燈(明治26年(1893)建立)は、石工は山荻の安西久三郎ですが、左右の基壇に彫られている牡丹と獅子は後藤義光80歳の時の作で、義光が石に彫刻した数少ない作品です。また、狛犬(明治26年(1893))も遅くは白浜の宇山慶治と祖父によって作成されますが、精密な部分は後藤義光の手になることが刻まれています。

いよいよ、南条城跡へと登っていきます。道は、もう悪いのなんの。勝手にアドベンチャーコースなんて名前付けていますが、細い、滑る、足場が悪いの3点セットです。慣れている方なら問題ないのですが、慣れてない方だと大変だったのではないかな?と心配しました。

西側の頂上?には、戦時中の貯水槽が残っています。空襲時の停電に備えた緊急用の配水池として建設されたものだそうです。

あとは、尾根を下っていき、下っていく途中に、浅間様が祀られています。


明治8年(1875)に奉納した富士講「山三」の石宮のほかに4基の石宮が祀られています。他に、明治11年(1878)に講中で建立した安房百八浅間のうちの第百七番の石碑もあります。

山を下り、一般道路へと出ます。出た所の山側には、文政10年(1827)の出羽三山碑、宝暦8年(1758)の青面金剛庚申塔、明治22年(1889)の光明真言六百万遍供養塔、同年奉納の不動明王などがあります。

次は、姫塚へ。

姫塚は、里見家の天文の内乱(1534)で、里見義豊が里見義堯に敗れたとき、義豊の正室である、一渓妙周も自害し、乳母によって父の居城鳥山城(南条城)の近くに葬られたという伝説があります。姫塚は、その女性の塚だといわれ、昔昔、そこに正室の菩提を弔うための一渓寺があったといい、移転して古茂口の福生寺になったといいます。福生寺にはその女性の墓と伝わる大きな五輪塔があります。
この姫塚は、民家の人に許可を頂いて見学させてもらっています。以前は、堰を回って行けたそうですが、藪やら竹やらで行けなくなってしまいました。

次は、大網にある戦争遺跡へ。


大平洋戦争中に海軍が大日山に防空砲台を築き、4門の高射砲などが置かれていました。今回は、砲台の方には行かず、周辺にある弾薬や食糧などの物資貯蔵用の壕を見学です。壕の中には、正面に山の斜面を切り残して、出入口を見えにくくしたものもあります。
壕は、2011年公開角川映画「日輪の遺産」のロケ地になった場所です。
「日輪の遺産」は、浅田次郎の長編小説です。2011年に浅田次郎の原作とし映画化されました。ストリーは、終戦間近の昭和20年8月10日、主人公の真柴(堺雅人)が帝国陸軍トップらに呼集され、「山下将軍がフィリピンで奪取した900億円(現在で約200兆円)ものマッカーサーの財宝を、秘密裡に武蔵小玉の南多摩陸軍火工廠へ移動し隠蔽せよ」と重大な密命を帯びます。その財宝は、敗戦を悟り祖国復興を託した軍資金でした。極秘任務を遂行する為、20名の12~13歳の少女達を勤労動員先から徴用され、新型砲弾といわれ財宝隠しに加担させられます。任務の終わりが見えた頃、上層部によって彼女らに非常きわまる命令が下されたふしがありましたが、無効命令であることが確認されましたが、終戦の詔勅とその前に米軍機からばらまかれた終戦ビラに動揺した少女達とその少女達を救おうとしていた真柴らとの間で思いもよらない手違いがあり、悲しい運命が起きてしまいました・・・数年たち、やがて郡全にも米軍工兵が遺産の在処を発見するが、マッカーサーが見たものは言葉を失わせる壮絶な情景でした。っというストーリーです。
映画の中では、財宝を隠した壕として使われています。

たぶんこの壕が、映画で財宝を隠した壕だと思われます。

次に訪れたのは、国登録有形文化財になりました小原家へ。


小原家は代々農業を営んでいましたが、七代目小原金治は、政治家・実業家としての道に進み、県会議員や衆議院議員を務めたほか、房総遠洋漁業(株)や安房銀行(千葉銀行の前身)の経営にと携わっていました。
金治の孫の謹治は、椿の研究家。約20年にわたり洋種など700種以上を手掛け、自らも10種ほど品種改良しました。椿の研究を始めたきっかけは、館山市の木に指定された時に同級生にすすめられて仲間6人でやりだしたのがきっかけだったそうです。
私が小学校の入学の時に椿の木をもらっていて、今でも大輪な花を咲かせています。その苗は、小原家からの物だったんですね。
小原金治・・安政3年(1859)~昭和14年(1939)
小原謹治・・明治43年(1910)~平成11年(1999)

国登録有形文化財に平成29年に指定された建物は、主屋・離れ・米蔵・文庫蔵・旧長屋門
です。主屋は、寄棟造の主体部に台所部や土間部が接続していて、近世から近代への増改築の変遷をよくとどめています。離れの内部が、座敷と茶室からなり、座敷には床脇の円窓など独自の意匠がみられます。主屋の西に米蔵や文庫蔵が建ち、敷地の南側には旧長屋門が建っています。表門は重量感のある造りで家紋入りの屋根瓦を用いています。
・主屋・・安政6年(1859)/明治29年改修、昭和前期増築
・離れ・・昭和4年頃
・米蔵・・弘化2年(1845)
・文庫蔵・昭和前期
・旧長屋門・・江戸後期/明治中期改修

あとは、出発地点へと戻ります。お散歩コースといいながら、今回は山を攻略したので、少し大変だったと思います。

お散歩ツアー「妙音院守りの人々の里」報告

1月も後半になりました。お正月休みがなんかずっと前だったような気がしてしまいます。平成最後のお正月は、いかがでしたか? 毎年、小塚大師に初詣に行くのですが、おみくじを引いたら「果報は寝て待て」だったので、寝て待とうかと思ってます。出来れば、本当に寝ていたいくらいです。

さて、1月最初のお散歩ツアーは「妙音院守りの人々の里」を開催してきました。 妙音院は、現在館山市にありますが、ずっ~とずぅ~っと昔は、南房総市の白浜にあったそうです。そこから、館山に移る時に、6軒の人々が移り住みました。その里を訪ねてきました。

集合場所は、白浜の城山登山駐車場です。ここから長尾城跡&陣屋跡をぬけて、長尾川上流へと歩いていきます。

長尾藩陣屋跡と・・
慶応3年(1867)大政奉還で徳川政権が300年にわたる政権を朝廷に返上すると、将軍徳川慶喜は水戸へ隠退、家達(いえさと)が徳川家を継いで、1大名として駿河・遠江・三河で70万石の静岡藩主となりました。そのあおりを受け、駿河の諸大名は房総へ領地を移され、田中藩主本多正訥は安房国長尾藩主として長尾(白浜)に陣屋を構えました。

明治元年(1868)、新政府から房州転封を通達せれると、田中藩(本多氏)は、長尾に陣屋を建設することで、準備が進められました。この地を選定し、中心となってここの任に当たったには、藩の兵学者恩田仰岳です。明治2年から藩士の移転も進んでいましたが、その年の夏、大風のため建設中の陣屋は倒壊し、翌年正月から北条へ移転計画がすすめられました。長尾への陣屋建設は当初より、反対もあったため、陣屋倒壊で恩田仰岳は譴責を受け職を辞します。北条鶴ケ谷移転後は、時代の急速な変化に明治4年長尾藩は解体しました。長尾藩陣屋跡は、現在は山林と畑になっています。

白浜浄水場の前を通り、曲田地区へと向かい、まずは片須田山不動尊へ。

本尊は不動明王。境内には文化14年の三山碑があります。

曲田地区とは、館山市の妙音院周辺の小字は、海蔵寺といい、ふるい寺があったことを窺わせます。妙音院の前身かどうかわかりませんが、言伝えに、もとは海蔵寺は、長尾川中流に(白浜の滝田)にあり、寺の移転と同時に上流の曲田から6軒の人が移り住み、門前6軒といわれ、寺の鐘つきなどをしていたといいます。又、「延喜式」の中に、安房の国「白浜馬牧」と記載があり、地形からみても長尾川上流で、山に囲まれたこの地とされています。


曲田地域は眺望にしました。

次に向かうのは、滝山地域です。今来た道を戻ります。
滝山地区への入口には、手づくりの標識があります。

滝山地区は、狭い地域なのに、金銅寺・大門院・廃寺・薬師堂と4軒ものお寺があります。昭和21年に電気が通じたといいます。

先ずは、金剛院へ。

真言宗智山派の寺院です。

すぐの所に、大門院があります。

大門院には、南房総市指定文化財の木造菩薩形坐像・木造天部立像・木造金剛力士立像・木造僧形坐像が祀られています。

木造菩薩形坐像は、像高53センチ 髻を結い、宝冠を戴いて両肩を衣で覆う形式の像です。製作年代は、11世紀半ば前後とみられています。

木造天部形立像は、乙像、像高68.8センチ。甲像、像高70.1センチ。大門院の伝来像で本尊厨子の左右に安置されています。製作時期は、平安時代後期も11世紀あたりまで遡ると思われるそうです。

木造金剛力士立像は、阿形像、像高165センチ。吽形像、像高161.8センチ。等身大の仁王像です。檜材の寄木造で、当初は玉眼を嵌められていたとみられます。両像おも動勢を抑えた太造りの姿形で、ほとんど腰を捻らず、足の踏み出しもわずかです。また阿形像にみられる忿怒相も怒りの表情が抑えられています。製作は、室町時代の前半だと考えられています。本仁王像のような本格的な寄木造の雄作が大門院の仁王門(現在はありません)に造立されたこと、そして町内では他に例をみない仁王像として伝存したことは貴重だと言われています。

木造僧形坐像は、像高34.6cm。 だいぶ傷んでしまって、像容がはっきりしないため、製作年代の推定は困難ですが、平安時代後期、12世紀の作りだと考えられています。

小さなお堂ですが、古いものが多く残されているというのは、古くから大切に信仰されてきたんだなぁ~と感じられます。

次は、廃寺になってしまった場所へ。海蔵寺だった場所じゃないかと言われています。

次に、薬師堂跡へ。

ここは、もと薬師堂があったところです。現在、薬師像は、館山市の自然村の薬師堂に祀られています。この奥への道は、薬師巡礼道があり、下立松原神社の前身があった御幣山に通じています。

あとは、出発地点に戻り終了です。滝田地区は、家の戸数は少ないですが、4軒もお寺さんがあるなんて、ビックリでした。

1月の月イチツアーの報告は、申し訳ありませんが腰痛悪化の為、下見及び当日も歩けませんでしたので、1月月イチツアーの報告はお休みさせていただきます。

月一ツアー「大椙観音霊場跡から平久里川源流へ」報告

今年も残り少なくなってきました。本格的に冬が到来してきました。外に出れば、菜花の収穫が始まっていて、来年の稲作作りの為に田をうなっていたり、ハウスをのぞくといちごが出来てたりと、四季によって景色を楽しむ事ができます。
さて、今年最後の月イチツアー「大椙観音霊場跡から平久里川源流へ」を開催しましたので、報告します。
出発は、南房総市平久里地域にある高照寺前の駐車場からです。開催日は、とにかく寒い朝でしたが、天気には恵まれました。館山市内から集合場所までのの間に気温が2度下がっていました。やっぱり山の方は館山・南房総でも気温が違うのです。

まず、訪れたのは高照寺。


曹洞宗の寺院で、山号を太嶺山と称し本尊は地蔵菩薩。口伝によると、長享3年(1489)頃に川名家初代が建立を発願、開創され里見家兵法指南役川名藤七郎氏により、永禄年間(1558~1569)に建立されたと言われています。
安房国百八箇所地蔵の二十九番札所でもあり、平群二十一箇所弘法大師の二十一番札所大師でもある高照寺。元々、安房国札観音霊場の十五番札所だったのは、大椙山椙福寺で、古くは、山頂のお堂に行基作の十一面観音菩薩像が安置されていましたが、椙福寺の衰退に伴い、大正7年に高照寺へ移されました。
高照寺の入口には、嘉永6年(1853)に建立された高さ2m程の「国札所十五番大杉山」の石標があります。


椙福寺の仏具で永享3年(1431)の銘がある鰐口も寺に保管されていて、今回は見せていただきました。


他にも境内には、安楽阿弥陀如来や蓬莱稲荷が祀られています。


安楽阿弥陀如来の由来は碑に書いてありますので、そのまま書かせていただきます。
時は一回限り、人生も1回限り、四苦(生老病死)の中に一生は終わります。しかしその四苦にくじけることなく、この生きている現世に安楽でありたいと願い、親や子の無事を念じ与えられたこの命を全うし、いつか消えゆく時、安楽に往生したいと祈り願う心の功徳によって現世も来世も安楽に(墓碑より)

蓬莱稲荷は、ほうらいだきにしんてんをお祀りしています。蓬莱とは仙人が住むと言われている霊山より起こったもので、道教の流れをを汲む神仙思想のなかで説かれているものです。仙人のように不老長寿を願い、毎日頂く作物によりこの身体が保たれ、活力の源となり、日々の生業が繁栄できる、という功徳を授けて下さるお稲荷さまです。(高寺寺HPより)

さて、いよいよ、大椙山椙福寺の跡へと向かいます。
途中、嶺岡牧遺構が残されています。


写真は、石垣の野馬土手です。大椙観音霊場跡付近には、嶺岡西一牧の馬囲(追い込み場)、2重の野馬土手・石垣の野馬土手、などの遺構の残っています。

大椙山大椙福寺跡です。


大椙山椙福寺と言い、天長年間(833)頃、境内にあった大杉1本を伐採して七間四面の堂宇を建て、その後、七堂伽籃を建立したと伝わっています。度重なる火災により焼失、一時は北条氏の御朱印も附せられた事もありましたが、廃寺となりました。大正8年(1919)に十一面観音菩薩・鰐口・地蔵菩薩が高照寺に譲渡されました。

敷地の真ん中には、石仏があります。

椙福寺跡を後にし、跳ね岩へ。


ここからの眺望は素晴らしいです。

題目にあります平久里川源流へと、コスモクラッシックゴルフ場を通り嶺岡中央林道を通り向かいます。

嶺岡道の傍らに、「頼朝の楊枝の井戸」があります。伝説によると、頼朝は険しい嶺岡道を主従とともに歩いていましたが、疲れ果てて「ああ、水がほしい」といいながら馬から降り、神仏に祈るように手にしていた楊枝を地面にさすと水がコンコンと湧き出ました。頼朝一行は大喜びで、人馬ともに渇きを癒しました。この頼朝伝説の「楊枝井戸」の水は今も平久里川の源流となっています。

ここからは、林道大川線を通り、駐車場まで向かいます。
この道は、滑りやすいところがあるので、気を付けて下って行きます。
今回は、10キロ近いコースになりました。お疲れ様でした。

今年は、このコースで終了です。来年は1月16日のお散歩ツアー「妙音院守りの人々の里」から始まります。是非、ご参加下さい。

皆さま、本年もガイドの独り言を読んでいただきありがとうございます。来年もまだまだ書いていきますので、よろしくお願いします。
皆さま良いお年をお迎えください。

月イチツアー「古東海道と伊予ヶ岳伝説」報告

平成30年も残すところ1ヶ月を切りました。今年は、冬の訪れが遅いような気がしていましたが、ここの所寒い日が続いています。
先日、都内から来られたお客様とお話ししたのですが、私「今日の朝は、寒かったですね。」お客様「そんな寒くなかったわよ。」と答えが返ってきました。やっぱり館山・南房総市は暖かいのだなぁ~と感じた1日でした。

さて、11月の月イチツアー「古東海道と伊予ヶ岳伝説」を開催いたしましたので、報告します。
開催日の数日前は、雨の予報が出てて心配しましたが、天気も回復し、絶好のウォーキング日和になりました。出発は、南房総市の平久里地域にある天神社からです。

まず向かったのは、金比羅大権現(写真左)・伊豫大明神(写真右)へ。

伊豫大明神の創建は不詳ですが、伊豫ヶ嶽をご神体として「伊豫大明神」と尊称し山麓に祀ったのが始まりと言われています。阿波忌部の伊豫の人々が移住したとき、故郷の伊豫高峯(石鎚山)にそっくりな山容に、故郷を偲び伊豫ヶ嶽と名付け、天狗伝説と共に伝わり、後に現在地に移転します。明治37年以降、諏訪神社に呼称を変更しています。
金比羅大権現の社号額の裏書に、文政7年(1824)甲申五月とあります。

昔話「伊予ヶ岳の天狗」の話を・・・
昔むかし、平群の伊予ヶ岳に天狗が棲んでいしました。天狗は神通力で人里に舞い降り、農家の納屋に置いてある米や、畑の野菜を盗む悪い奴でしたが、しかし村人たちは、その天狗の祟りが怖いので我慢していたのです。天狗はそれをよいことに、ある夜、山の麓のある家に、とんでもない要求を書いた紙きれを投げ込んだのです。
「今月の満月の夜、村で一番きれいな娘を伊予ヶ岳の下の天神社に連れてこい。もし断るならば、儂(わし)の団扇で大風を起し、村中を吹っ飛ばすぞ。伊予ヶ岳の天狗より」
家の主は、びっくりして名主に知らせました。名主は、村一番の知恵者でしたから、「天狗が団扇でくるなら、こちらも団扇で懲らしめてやるべぇ」と言い、天狗の物より三倍の大団扇を作ると、伊予ヶ岳に登り、天狗に見せびらかしました。それを見た天狗は、名主の大団扇が欲しくなり、自分の物と取り替えたのです。間もなくですが、得意になって大団扇を扇いでいた天狗が、山の天辺から舞い降りますと、何と真っ逆さまに落ち、大怪我をしてしまったのです。天狗は団扇を人間の作ったものと替えたため、神通力を失っていたのです。
(南房総市の昔話より)

ここから、坂道をを登って正壽院へ向かう途中、この地域に住んでいるお客様から、旧道に六地蔵があるよと教えていただいき、ちょっと旧道に寄り道。

正壽院の近くからは、伊予ヶ岳がこんな感じで見えます。

正壽院です。

真言宗の寺院で、経瑩山住正壽院住吉寺といいます。本尊は、地蔵菩薩。寺に伝わる縁起では、延喜21年(921)小松寺の七堂伽籃落慶法要の時に安房の国司小松民部正壽の子「千代若丸」がさらわれ、後日、家臣が伊予ヶ岳山中で遺骸を見つけ、法華経1000部の書写を納め墓を作り、小堂を建て、釈迦如来・弥勒菩薩・薬師如来・虚空蔵菩薩・不動明王の五尊を配し、延喜22年(922)に小松民部正壽が開基となりました。幾度か焼失しましたが、諸尊は損傷無く、南の麓に下り、原の十王堂に安置されました。
今回は、たまたまご住職が来られ、本堂をあけていただきました。

境内には、千代若丸の供養のために建てられた観音堂と法華経一千部が納められた供養とと子安地蔵堂があります。

もう一つの昔話「天狗の人さらい」をご紹介します。
伊予ヶ岳には、大昔から天狗が棲み、ときどき世間を騒がすような恐ろしい事をしでかしたそうです。延喜21年(921)2月の話です。朝夷(現千倉)の小松寺で再興した大檀那の安房守小松民部正壽が、七堂伽籃の落成の日、子の千代若丸に、祝いの稚児舞を舞わせていますと、その最中に、伊予ヶ岳の天狗が、突然、襲いかかり、千代若丸を抱き上げると空高く舞い上がり、棲処の伊予ヶ岳に飛び帰ってしまったのです。小松寺に集まっていた大勢に人は、皆驚き大騒ぎになりましたが、相手が神通力を持った天狗ですから、どうすることもできなかったようです。今の小松寺の方でも、そのときの出来事を小松寺七不思議の一つ「乙王の滝」の中で「延喜20年8月8日、本寺七堂伽籃ができ、翌年、坊舎の建築すべてが終わったので2月15日、普請成就の祝いとして当国の国司、安房守小松民部正壽の子息、千代若丸をさらって飛び去り、平久里の郷に捨てたという。千代若丸の従僕、乙王丸はその惨劇に驚き、どうする事もできず、近くの滝壷に身を投じた・・・」と語り継いでいます。(南房総市の昔話より)

ここまで、ずっと登り坂でしたが、ここから下りに入ります。正壽院の近くにある、御嶽信仰の碑へ。

この石碑は、数年前、正壽院の役員さんが、寺の周辺の掃除をしていた時に見つけたそうです。当時は、石碑は倒れ、土に埋もれていたそうです。修復作業の参加者を募りましたが、なかなか集まらず、やっと修復する事ができたそうです。
石碑は、山岳信仰を中心とする神道教団「御嶽教」のものです。高さは1mほどでひし形。明治21年11月に建立したとされています。下には、「太陽講」と彫られています。地元の方の話によると、戦前までは、年に一度、のぼり旗を立ててオコモリをしていたそうで、講元となっていた住民の家が火災で、のぼり旗などが失われてしまったそうで、詳しい資料は残されていましそうです。

少し下ると、視界が開けてきます。目の前には、「富山」が見えています。下見の際に会った人は、「富山登って、いまから伊予ヶ岳登ってきます」と言っていました。少し早いですが、この景色の良いところで昼食です。

昼食のあとは、下見で見つけた、熊野堂へ(おくまんさま)。

創建等については不詳ですが、地元の方がいまでもお供えしているそうです。参道は、竹に囲まれいい感じの道で、綺麗に手入れされていて歩きやす道でした。

次は、八雲神社を目指し、山を下って行きますが、途中、ここも旧道だったところを見つけたので、コンクリートの道からはずれ、通っていきます。その道の途中には、馬頭観音観音がひっそりとありました。
その道をでると、林道になります。車も通らず楽しく歩ける道で、林道を抜けると八雲神社に辿り着きます。

八雲神社は、旧称は牛頭天王宮。創建は棟札に安永2年(1733)とあります。明治初年に八雲神社に改称しました。

次に向かったのは、原の十王堂です。

平群二十一大師霊場二番にあたります。ご詠歌は「諸人の 苦役はらうか 大師尊 原の緑に 晴るる月影」。
堂内の諸像は、正壽院が火災に見舞われた時に避難して安置した諸仏です。十王のうち、二体は盗難に遭ってなくなっています。今は地蔵堂とも呼ばれ境内には、六地蔵やお地蔵さんが祀られています。

今回の見学場所は、ここまでです。あとは、出発地の天神社へと戻ります。

平久里地域には、天狗の昔話がまだ残されています。最後にもう1つ「天狗の仕事」をお話ししましょう。
房州平久里に伊予ヶ岳は、昔から天狗の集まる場所でした。ある夜、天狗たちは頂上の座敷岩に座って、麓の村の灯を眺めながら会議を始めました。先ずは長老の天狗が、「この山は儂(わし)たちの寄り合いに、たいへん都合の良い場所だが、雨風の時は困るので、この岩の下に部屋を造ろうと思うが、みんな賛成してくれぬか。」と話しを切り出しました。大勢の天狗たちは拍手して、「良いところに気が付かれた。儂たちの力なら、たやすく出来上がると思うので、急ぐ事にしよう。」と天狗たちは、自分の棲処まで道具を取りに行く事を決めました。そして天狗たちは羽音高く空へ舞い上がりました。一人残った長老の天狗が、長い髭をしごきながら夜空を見つめていると、出発してまだ間もないのに、もう帰ってくる天狗の姿が、白い星のように見えました。
天狗たちが蝶のように舞いながら、大きな鑿(のみ)を岩に打ち込むと、その度に小さく砕けた岩が流星のように光って散りました。
丁度その頃、麓の村の甚兵衛としう早起きの百姓が、囲炉裏に火を燃やすと、土間で縄をなう稲わらを、とんとんと、打ち始めたのです。その音の響きは、静かな村里にこだまして、しだいに渦のように広がり、伊予ヶ岳へも伝わりました。天狗たちは聞き耳を立てて、顔を見合わせながら、「村に怪しい音がする。」と言いますと、地元の天狗が、「あれは、早起き甚兵衛の朝の音だ。」と言いました。天狗たちは、「しまった。夜が明けたか。残念だが終わりにしよう。村人共に儂たちの仕事を見られたくない。」と言い合って、各自の棲処へ飛び去りました。今でも伊予ヶ岳の頂上には、その時の名残の太い石柱が一本立っているという事です。

今回は3本、天狗にまつわる昔話を書きましたが、書いていて、天狗ってなに?って・・・天狗そのものが神様な鞍馬山の神社とか、猿田彦の化身だったりと、良い天狗がいるのに、昔話になると悪い天狗が出てくるの?って不思議に思い、ちょっと調べました。

鎌倉時代中期に書かれた「沙石集」(1283成立)(仏教説話集)に、天狗の分類の説明がのってます。
天狗というものは、本物の知恵がなく、執着心が強く、偏った考え方で驕り昂った人が天狗の仲間にされやすい。
悪い天狗は、傲慢で、偏屈で、仏法を信じない。良い行いを妨げ、煩悩にまみれ、驕り昂っている。
良い天狗は、仏道に志がある。知恵も徳もありながら、執着心はなく、人の行いを妨げたりしない。また、悪い天狗が悪事をはたらくのを制し、仏法を守る。

なるほど、人間と同じで、色々な天狗がいるのですね。
倶楽部の代表曰く「平久里の天狗は、少し抜けてるところがかわいい」と言っておりました。

12月の月イチツアー、1月の月イチツアーは、平久里地域になります。今年度は、平久里地域特集になっていますね(笑)来年度のコースもそろそろ考えないといけません。駐車場を考えると悩む~いいところがあったら教えて下さい。