大人の学習旅行「加曽利貝塚と東京湾アクアライン探検」報告

もうとっくに新年度になっていますが、平成30年度最後に行った「大人の学習旅行」の報告です。
毎回好評の大人の学習旅行を3月の終わりに開催しました。今までの大人の学習旅行で海・空・宇宙とやってきましたので、今度は地下という事を考え、「加曽利貝塚と東京湾アクアライン探検」を開催してきました。ここ近年、インフラツーリズムなんて言葉があるように公共施設などの裏がを見学するツアーが人気なようです。

先ずは、館山から千葉市若葉区にある千葉市立加曽利貝塚博物館へ向けて出発です。
加曽利貝塚について少しお話しをします。
縄文時代、日本列島の沿岸部では、数多くの貝塚がつくられました。東京湾周辺はとくに多い地域のひとつで、湾の奥にある千葉市周辺には、直径100mを越えるような大型の貝塚が集中しています。その中でも最も大きい貝塚が加曽利貝塚なんです。
加曽利貝塚は、直径約130mの北貝塚と、長径約170mの南貝塚が連結し、全体では8の字形となる形状をしています。面積は約13.4ヘクタールで、世界でも最大規模の貝塚です。現在は、敷地は加曽利貝塚公園として管理されていて、千葉市立加曽利貝塚博物館が設置されていて、貝塚周辺には縄文中期の小型貝塚や住居跡が広く分布しています。
加曽利貝塚は、明治20年(1887)に上田英吉の「下総国千葉郡介墟記」によって学界に初めて紹介されました。明治40年(1907)、東京人類学会の調査で、「本邦第一の貝塚」であることが確認されました。
昭和38年(1963)頃、加曽利貝塚のある土地を企業が買収して整地作業を始め、南貝塚の一部を破壊した事を機に、保存運動が高まっていきました。昭和39年(1964)、千葉市は北貝塚の5ヘクタール余りの用地を買収し公園として整備、昭和41年(1966)に、土器や石器、骨など出土品を展示する博物館が開館しました。その後、昭和47年(1972)にかけて南貝塚の土地も買収されました。昭和46年(1971)に北貝塚が国の史跡に指定され、昭和52年(1977)には南貝塚が追加指定され、貝塚のほぼ全域が保存されることになりました。平成29年(2017)に、貝塚として初めて国の特別史跡に指定されました。

加曽利貝塚公園入口で、ガイドさんと待ち合わせをし、4班に分かれガイドツアー開始です。私たちの班は、復元集落から見学です。

貝塚だけでなく、集落跡としても極めて価値が高く、同じ場所で2000年間(5000~3000年前)暮らし続けていたそうです。自然に左右される狩猟採集中心の生活をしながら、同じ場所に住み続けられたのは、自然と共に生きる文化を育み、持続可能な社会を築いていた証拠だそうです。
復元した家の中には、違うガイドさんがいてお話ししてくれました。
しかしながら、今の私たちの生活から考えられないような・・寒くなかったのかしら?

公園内を歩いて移動していると、いたるところに貝の破片が落ちています。

次に案内してもらったのが、北貝塚竪穴住居跡群観覧施設です。
発掘調査当時の様子を保存科学の技術を用いて昭和43年(1968)から公開しています。貝層の下からは、竪穴住居がいくつも重なって発見されました。

この日は、苔などの駆除をしていました。やはり、光が当たり人の出入りがあるので、苔などが生えてしまうそうです。

次には、北貝塚貝層断面観覧施設を見学。

貝層断面観覧施設を見学。

巨大貝塚を造り上げた貝は、現在70種ほどが確認されているそうです。特にイボキサゴの数は全体の8割を占めています。
北貝塚竪穴住居群では約7000年前の住居跡が発見されていますが、当時の貝塚は残されていません。巨大な貝塚が作られ始めたのは約5000年前の縄文中期です。加曽利北貝塚は縄文中期(約5000~4000年前)に作られたものです。初期には小規模な貝塚と住居があったが、後にその上に直径約130メートルのドーナツ形の貝塚が約1000年かけて作られました。縄文後期になると北貝塚は利用されなくなり、その南側に南貝塚が作られ始めました。加曽利南貝塚は縄文後期(約4000~3000年前)のもので、約1000年かけて長径約170メートルの馬蹄形の貝塚が作られた。イヌの骨が人間とともに葬られていることが確認され、話題を呼びました。
イヌの骨が人間とともに葬られていると聞くと、犬好きの私には興味深々です。
貝塚からは他の動物の骨も大量に出てきたそうですが、全てバラバラの部分で、食べられた後のゴミでした。縄文人にとっての犬は、現代人の関係と同じようだったと考えられています。因みに、弥生時代の遺跡からは、犬の骨はバラバラなのもが出土しているそうです。
動物考古学の権威の方が言うには、
日本では紀元前7000年から8000年くらいのイヌの骨が、愛媛と神奈川県の遺跡で見つかっていますから、縄文時代の当初から日本にいたことは明らかです。そして、彼らはイヌをとても大切にしたんです。人間と同じように埋葬されていましたが、稀に解体した痕のある骨は見つかることがあり、それは食料とされたということも推測されます。ですが、基本的には食料とされずに、狩猟犬として扱われていたようです。怪我して狩猟犬として役に立たなくなっても大切に育てられていたようです。弥生時代になるとガラリと変わって、ほとんど埋葬されなくなり、骨もバラバラの状態で出土されているので、狩猟犬としてより食料とされていたのだと言っています。
なるほど。今でも、犬を食べている国はありますが、昔からイヌは私たちの生活の中の身近な動物だったんですね。

次に南貝塚貝層断面観覧施設を見学。

最後は、博物館内を見学し、現地ガイドさんとはお別れし、旧大須加家住宅でお弁当タイムです。

もともとは幕張町にあった住宅で、昭和43年に千葉市に寄贈され民族資料の保存のためこの場所に移築されました。江戸時代、幕張町は天領に属し、北町奉行配下にあり、大須賀家はその代官所にあてられ、俗称「北の代官所」と呼ばれていたといいます。この屋敷は、寛保から寛延年間(1741~1750)の建造と思われ、一部には近年の改造のあとが見られます。
ちょっと、バタバタしていて、表の写真を撮るのを忘れていまいました。

お腹もいっぱいになりましたので、東京湾アクアラインに向けて出発です。
予定より早く着きましたので、海ほたるを自由散策。その後、集合しいよいよ東京湾アクアライン裏側探検へと出発です。
まずは、アクアラインの歴史のDVDを見ていきます。


東京湾横断道路の構想は昭和36年(1961)から構想が始まり、30年以上の歳月を経て平成9年(1997)に実現しました。建設工事は東京湾横断道路株式会社が東京湾アクアラインの海上部にあたる約14.3km区間を担当し、日本道路公団は、事業調整・用地買収等のほかに、川崎市と木更津市の陸上部の建設を受持ちました。東京湾の海底は、ヘドロ層の軟弱な地盤であることに加え、地震も頻繁に起こる海底トンネルとしては悪条件が重なったことから、技術上の問題を多くかかえました。工事に用いた鋼材は約46万トン、セメントは約70万トンが使用され、総工費は約1兆4000億にも達しました。
川崎側は、シールドトンネル、木更津川は橋梁を採用しています。昭和46年(1971)頃の構想では、川崎側と木更津側の両側を橋梁構造とし、中央部をシールドトンネルではなく沈埋トンネルとするものでした。トンネルを採用したのは、船舶及び航空機という東京湾の海上及び上空の既存交通との兼ね合いがありました。全ての区間を橋梁構造にすると大型船舶の航行に支障をきたしてしまい、橋梁で大型船舶を通過させるだけの高度を確保すると羽田空港を離着陸する航空機の生涯となってしまうので、大型船舶を高校可能とするトンネル部分を設ける必要がありました。いろいろな事がありましたが、シールドトンネル(東京湾アクアトンネル)と橋梁(アクアブリッジ)は、長さ約650m、幅約100mの木更津人口島(海ほたるPA)で結ばれ、アクアブリッジの橋げたは、海ほたる付近で総トン数2000トンの船舶が航行可能な径間の確保と、桁下部分のクリヤランスを確保するため高くなっています。また、耐震性と走行性の向上を図るため、日本国内には前例がない最多11径間となる多径間連続化が図られました。
東京湾アクアトンネルの掘削は、浮島、川崎人工島(風の塔)、および木更津人工島の3カ所から発進した世界最大径となる、外径14.14mの合計8機のシールドマシンによって進められました。川崎人工島は、トンネルの中間地点に位置するドーナツ型の縦穴基地で、シールドマシンを発進させるため最初に木更津人工島とともに建築されました。川崎人工島は供用開始後トンネルの換気塔のためにも使用され、その忠心には排気ガスと新鮮な空気を入れ替える設備があります。川崎人工島の構造物の素材には、羽田空港を離着陸する飛行機が発するレーダー波を乱反射しないものが採用されています。トンネルの換気塔は川崎側にも設置され、浮島換気口として機能をしています。浮島換気口は羽田空港D滑走路供用開始時には換気口上部が航路の障害となったため、2009年に上部の12mを取り払う改修工事が行われました。
シールド工法の断面は円状ですので、東京湾アクアトンネルの車道下側に、緊急車両などが通る管理用道路や光ファイバーなどの通信ケーブルが設置されています。この車道下側は避難用通路としても機能するように、気圧を0.1%高めるころで火災発生時の煙の侵入を防いでいて、車道からスロープでおりられるようになっています。車道は300m置きに避難口があり、避難用通路には道路管制センターにつながる直通の非常電話も設置されています。
さぁ~実際に避難通路へと移動していきます。
私の班は、最初に将来的に6車線化が可能な構造で建設しているので、その増やせるトンネルの入口へと行きます。

トンネルの先には、いくつものドアがあります。そこから入って行くと避難通路へと入っていきます。

ドアを何枚か抜けていくと、いよいよ避難路へと辿りつきます。

アクアトンネルの防災システムなどのお話しをききます。

東京湾アクアトンネルは、約10㎞の長大トンネルです。「道路トンネル非常用施設設置基準」に基づきAA級トンネルとして十分な対策を行っています。このトンネルの特徴を踏まえた、床版下空間を活用した新しい防災システムを構築しています。この床版下空間は、緊急避難路兼管理用通路(避難・救急・救助及び消防活動への支援)として機能をはたしています。
トンネル内にはCCTV(監視カメラ)は、施設制御室のモニター画面で順次自動切り替えで監視を行っていて、非常電話、火災探知機、押しボタン式通報装置があります。

地上へは非常用階段120段位をのぼり、出てきて資料館を見学。

その後、シールドマシンのオブジェ?を見学し、消防者の車庫へ。

アクアライン消防車庫です。

普通の街の中で活動している消防車両より少し小さいものです。やはり緊急避通路は、高さ幅ともに狭いので、この車両が活動します。

橋梁部分上り・下り線とアクアトンネルの上り線は、木更津市の消防、アクアトンネル下り線は、川崎市の消防が活動するそうです。アクアライン開通後に1度だけ活動をしたそうです。ちなみに、アクアラインの消防車庫には、隊員は常駐していないので、火災等があると近くの消防署より出動してくるそうです。

見学後は、アンケートに答え終了です。

あとは、館山へと戻っていきます。
今回の大人の学習旅行もいろいろと勉強できました。

令和元年の今年度は、どこに勉強に行くか検討中です。楽しみにして下さい。

今回のガイドの独り言で、平成30年度は終わります。令和元年も頑張って報告いたしますので、よろしくお願いします。

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