お散歩ツアー「鴨川港町の歴史を訪ねる」報告

梅雨真っ只中の館山・南房総。週末になると、いろいろなところでお祭が開催されています。
さっさと梅雨が明けてくれないと困ります。

さて、もう7月なのですが、5月のお散歩ツアー「鴨川港町の歴史を訪ねる」を開催しましたの
で報告します。
今回の集合場所は、鴨川市のフィッシャリーナ鴨川の駐車場です。
加茂川を渡り、釈迦寺へ。向かう途中にお稲荷さんを発見。ご近所の方に進められ、お参りしてみました。

詳細は不明ですが、隣には、古峯社も祀っています。景色は、港を一望できて眺めが良い場所でした。

釈迦寺へ。

日蓮宗に属し茂原の藻原寺の末寺です。創建は、平安時代の天長2年(825)に慈覚大師円仁の開基と伝えられていますので、当初は天台宗の寺院だったと思われます。その後、衰退した同寺を日蓮聖人六老僧の一人日向が、鎌倉時代末期の徳治2年(1307)に、日蓮宗の寺院として中興開山したと伝えられています。
釈迦寺には、次のような縁起が伝えられています。釈迦寺の前身は、唐から帰国した天台僧円仁が、諸国巡歴中、磯村の地に開いた道場です。それから長い年月を経た鎌倉時代の末ごろ、磯村前面の海に異変が起こりました。それは漁師の網に釈迦像が3度もかかったことです。しかし、漁師は不思議に思いながらもそのつど海に戻していました。それからというもの海鳴りが続き高波が起こり、夜ごと海中が光輝き、人々は恐れて漁にもでられぬ有様でした。たまたま日向上人は誕生寺に滞在していて、ある夜霊夢を感じました。霊夢は「当国磯村に続く小島(現荒島)近くの海中に釈迦如来の尊像がましますので、速やかに迎え祀り奉れ」というお告げでした。日向上人はお告げに従い直ちに磯村沖の小島に渡り、座を清める香る花を献じて読経すること17日間に及んだ。ついに釈迦如来像を得て、村にもどり、里人に堂舎の所在を尋ねたところ、里人は「昔、慈覚大師の草創と伝える寺がありました。しかし、今は、大日堂と申すお堂が残るのみです」と答えた。日向上人はお堂を釈迦堂と名を代え、尊像を安置しました。そして日蓮宗寺院に改め徳治寺と名付けた。日向上人が釈迦像を安置してからは、波も穏やかになり海中の不気味な光も消え、日夜大漁が続きました。人々はお釈迦さまの慈悲に感銘し、いつしか釈迦寺と呼ぶようになったといいます。

次に、金剛院へ。

真言宗智山派の寺院で山号を海満山といいます。鴨川市川代の勝福寺の末寺で、本尊は観世音菩薩と阿弥陀如来(元・光福寺本尊)です。寺伝によれば、承和13年(846)の秋、慈覚大師円仁が諸国巡礼の途中、磯村の海岸に差し掛かった時、海中が突然光明に輝き、弁財天が姿を現し、「汝を待つこと久し、吾ここに長くとどまりて、一切衆生を救わん」と円仁に告げました。そこで円仁が早速に観世音と弁財天の尊像を彫上げ、海に近い磯村字山の腰に一寺を建立して海満山金剛院と名付けて、尊像を安置しました。その後、年を経て衰微しました。建久4年(1193)に中興開山したのが、祐海法印と伝えられています。江戸時代の中頃までは山の腰に有りましたが、高潮などによって度々境内地が削られる被害を受けたので、宝暦元年(1751)も台地の北町に寺院を移したといいます。明治6年(1873)に山の腰の光照寺を合併し、同42年(1909)に横渚の光福寺を合併しました。
本堂に続く参道には、鴨川の石造物百選の宝塔があります。

鴨川市域に残る希少な中世の宝塔で応永10年(1403)の造立です。かろうじて、塔身・笠・相輪の一部が残っています。塔身には、金剛界四仏の梵字と紀年銘と施主名が刻まれています。十五世紀初頭の宝塔です。
この宝塔には、梶原景時あるいは景清の墓であるとの伝承が残っていますが、景時は正治2年(1200)に駿河で敗死し、景清は景時の父でさらに前代の人なので、年代の開きが大きく供養塔と考えてもおかしいと言われています。銘文に大施主善阿弥とあるので、時宗系の法名を持つ在地豪族による先亡供養塔の造塔と思われるとの事です。この塔は、なぜか勝負事に加護があるとの話が起こり、賭博に走る人々が欠いていったといいます。

お隣の妙昌寺へ。

日蓮宗の寺院で、山号を永長山。本尊は日蓮聖人と三宝です。
明徳2年(1392)に誕生寺第4世貫主日様上人の弟子、妙昌院日教上人によって改宗開山されました。江戸時代後期の地盤沈下によって、ほとんどの歴史的記録や文献などが海の底へ沈んでしまい、わずかに残された口伝と赤い門の「仁王門」だけとなってしまいました。現在、仁王門は平成29年の秋に人的被害の恐れがあるため、仁王像を取りだし解体してしまいましたが、第34世住職を筆頭に総代・檀信徒によって、山門改修工事を進めています。山門の前にあった大きな四爪錨は、今は山門の工事の為別の所にありますが、錨は、漁師の網が綿からナイロン製に変わり強度が上がった時に、引き揚げられたものです。先代の住職曰く「沖合で沈没した船の乗組員の念が錨についている、今まで見つけてもらいたくて網に引っかかっていたから目立つ通り沿いに朽ちるまで皆に見てもらって供養してあげよう」と言われ、置かれているそうです。山門の工事が終われば、また見る事ができるかと思います。

妙昌寺の脇の坂道を登り、八雲神社へ。

祭神は天照大神・須佐之男命・事代主命の三神を合祀しています。八雲神社の創建の記録は残されていませんが、南北朝時代の永和3年(1377)に出雲大社の分霊を移したもものだそうです。八雲神社ははじめ、神仏習合の教えにより、スサノオの化身である牛頭天皇を祭神としてので、天王宮(天皇様)と呼ばれていました。明治になり新政府の神仏分離令を受けて社名を八雲神社と改称しました。やはりこちらの神社もたびたびの波浪に襲われ壊れたり、社地も削られたりしたので、天保2年(1831)に立て直し、嘉永元年(1848)には本殿前に拝殿を造営しましたが、その後も波浪の被害が続いたので、安政2年(1855)に大規模な修復を加えましたが、その後も波浪を防ぐことが出来ず、現在の地に移し再建しました。
拝殿向拝の龍の彫刻は、三代目武志伊八郎信美の作です。

八雲神社の手水石は、鴨川の石造物百選です。文政3年(1820)、武田石翁が43歳の時に製作したものです。「壽秀」の刻銘が刻まれています。真ん中に巴の紋を配し、戯れる二匹の獅子が刻まれています。獅子の口の開き方が、阿・吽像一対のを意識した構成であることが窺われます。石材は伊豆方面で産出される安山岩が用いられています。

港町独特の路地を通り、福田寺へ。
浄土真宗本願寺派の寺院で、山号は恵日山。本尊は阿弥陀如来です。由緒などは全く不詳です。
福田(ふくだ)と書いてふくでんといいます。結構ふくだじと読まれてしまうそうです。
本堂に上げさせていただきました。

福田寺から少し坂を上ると、本覚寺に。

浄土真宗本願寺派の陣で、山号は松風山。本尊は阿弥陀如来です。
創建について「明細帳」は、「岩代国(現福島県)会津に所在した、為信寺の十二世善照が元和2年(1616)2月当時に至り、貝渚川口の地に一寺を開き海岸山本覚寺と名付けた」と書いてあります。明治34年(1901)に火災にあい、明治44年に再建されたといいます。「明細帳」には、更に、「境内に仏堂があり、太子堂という聖徳太子を祀る。文久2年(1862)8月に建てられたお堂である」と書かれています。
今回は、ご住職と副住職にお話しをお聞きする事ができました。
お参りさせていただく事を下見の時にお願いしたところ、お話しもしていただける事になったんです。当日も、待っててもらってありがたかったです。
お焼香の仕方とか、じゅっぱひとからげの語源だとか、「なるほど」と思う話をお聞きできました。
1つ前に訪れた福田寺と兼務という事で、ふくでんの意味も聞く事ができました。
お坊さんがいつも身につけている袈裟。また、袈裟の一種である絡子の事を別名、福田衣(ふくでんえ)と言いうそうです。「福田」とは仏教で、善き行為の種子を蒔いて、功徳の収穫を得る日という意味で用いるそうです。
なるほど、そこから来てるのですね。
ご住職・副住職さんに感謝をし、次へと向かいます。

歩いて3分で白幡神社へ。先ずは、敷地内にある観音堂に。

観音堂の前には、鴨川の石仏百選の五智如来を石造に刻んだものがあり、安房地方で唯一だそうです。
板碑型に成形した石材に五智如来を浮彫りにし、中央に金剛界の大日如来が確認でき、最上部には「五智」の文字と尊像にはそれざれ上部に梵字で尊名が刻まれています。尊像下のスペースには中央に「三界萬霊」の文字があります。

階段を上り白幡神社へ。

祭神は日本武尊(やまとたける)。創建は、平安時代初期の弘仁2年(811)正月と伝えられています。創建当時は、海に近い新浜の地に建てられていたといいます。承徳2年(1098)6月に激しい波によって社地が大きく崩れ、その後も激しい波にさらされたので、時期は不詳ですが、高所である現在地に移したと伝えられています。
治承4年(1180)、源頼朝が石橋山の戦いに敗れ安房に逃れて来た時、白幡神社に立ち寄り平家打倒と源家再興を祈願し、源家の旗である白幡一流を納め白幡大明神を称しました。この事によって、以後白幡神社と呼ばれるようになりました。
宝暦10年(1760)に拝殿が造営され神輿が奉納され、安永9年(1780)6月には本殿の改修と石段・石垣などの整備が行われました。その際の彫刻師として武志伊八郎信由(波の伊八)の名が見えます。
因みに向拝正面の彫刻は、初代後藤義光の作品です。

次も歩いて3分位の所、心巌寺へ。

浄土宗の寺院で、館山市の大厳寺の末寺で、山号は寿慶山。本尊は阿弥陀如来です。文永2年(1256)に長狭郡西部の北風原村に創立し、天文2年(1533)の「里見氏の内乱」によって焼失したといいます。天正5年(1577)に里見氏の一族・正木義房とその妻(里見義弘の娘)が、禅師の高風に帰依し、磯村に移転開山しました。
寛政11年の火災・大正の火災等で荒廃、本堂内陣から月を見ることが出来たといいます。そこで昭和5年(1930)第24世の達隠上人が、現在地石子山に移転開山しました。
境内には、正木義房(出家して道俊)と夫人(法号、寿慶大姉)の二人の供養塔ががあります。

心巌寺に伝来する浄土曼荼羅3点は、昭和51年(1976)に鴨川市の文化財に指定され、行道面は、平成7年(1995)に県の文化財に指定されました。曼荼羅は、極楽浄土において阿弥陀如来が諸菩薩のために説法する様子を描いた仏画です。行道面は、寺院の法令や供養の再に用いる面のことで、古い面の作成時期は室町時代と考えられています。
本堂の前には、鴨川の石造物百選の一つ、釈迦如来像があります。

釈迦如来を丸彫りにした石仏で、寛文4年(1664)のものです。肉髻や螺髪をを表し、胸の前で禅定印を結び蓮座上にすわり静かに冥想する姿に造られています。すごくいいお顔をしている釈迦如来です。

次は、心巌寺の脇?の石子山へ。
ここにも鴨川の石造物百選の1つ、磨崖仏があります。

石子山の崖に成形し、壁面を造り最上部に梵字「ユ」が大きく薬研彫りされています。「ユ」の梵字は弥勒菩薩を表すものです。弥勒菩薩は、釈迦入滅後56億700万年の後にと兜率天(とそつてん)よりこの未来のこの世に下り、苦しむ衆生の救済をする菩薩です。
梵字の下に「奉移四国霊場供養塔」と刻まれ、四国霊場88カ所を移した供養であることが分ります。下部には多くの人命や村名が刻まれています。江戸時代中期、享保元年(1716)のものです。

最後は、これまた歩いて3分程度の所にある永泉寺です。

曹洞宗の寺院で、鴨川市内にある長安寺の末寺です。本尊は華厳三聖木像です。三聖の像とは、華厳経の三聖者とされる毘廬遮那如来とその脇士、文殊菩薩と普賢菩薩を加えた三菩薩の像のことです。
はじめは市内磯村字西の崎に建てられていましたが、高潮被害が激しく大正末期(1923)頃に貝渚の石子山の地に移転しました。
向拝の龍は、昭和13年後藤吉徳の作品です。
こちらでも、ご住職からお話しをお聞きしました。ありがとうございます。

あとは、出発地へともどります。鴨川の港町には、多くの神社仏閣がありました。
皆さまも住んでる地域の歴史に少し触れてみるのも面白いと思います。

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