月イチツアー「里山・山名の歴史を巡る」報告

4月の新年度に入りました。
平成31年度もみなさまお世話になりました。今年度のウォーキングツアー予定表は、リピーター様には、お送りいたしましたが、まだ道の駅などには配れていません。ちょっとなんとかGW前までには、安房地域の道の駅等に置かせてもらいますので、もう少しお待ちください。

さて、平成31年度最後の月イチツアー「里山・山名の歴史を巡る」を開催しましたので報告します。

集合場所は、JA稲都支店跡地を貸していただきそこからスタートしました。
ツアータイトルにもあります、山名地区は、昔、山名村と呼ばれ呼ばれていました。里見氏時代のまた末は709石余、慶長19年(1614)から幕府領、その後寛永15年(1638)旗本三枝勘解由が三代将軍家光から、山名村をはじめ房州で一万石を賜り、御鉄砲頭を仰せ付けられ、大名に列せられました。後に、忍藩領、前橋藩領などを経て、明治の6年(1873)に千葉県所領となる。明治8年「御庄村」と連合村をつくるが、明治22年(1889)の町村制施行によって、「池之内村」「中村」「御庄村」とともに「稲都村」となり、その大字となりました。ちょっと山名地区を勉強したところで、最初に訪れたのは、天徳寺です。

曹洞宗の寺院で、後で行く智蔵寺の末。本尊は、不動尊です。寛文年間(1661~1673)に智蔵寺の九代通珊良撤和尚の創立と言われています。その後、正徳元年(1711)に御庄村を所領した「万石騒動」で知られる北条藩屋代越中守が改修工事をしたという記録があります。
大日如来坐像・天部像・地蔵尊・三山碑などがあります。

山名地区に向かって歩くと、途中にひっそりとお堂があります。ここは、下見の時に見つけた場所で、近くにいた農家の方に聞いたのですが、わからないとの事でした。

詳細は、不明ですが、祭神は櫛石窓神・豊石窓神。

智蔵寺の手前や周辺には、馬頭観音などがありますが、説明していると辿り着かないので、細かな石仏は、今回は省略します。

智蔵寺へは、苔の生えた石段を登っていきます。

山門をくぐり、本堂へお参りします。

曹洞宗の寺院です。本尊は地蔵菩薩。文亀3年(1503)、前甲信太守「武田次郎三郎源信勝」の開基、開山を太巌存高大和尚といい、その後、中興の開基を「印東采女」となっています。夷隅郡御宿町上布施の宝蔵山真常寺の末寺ですが、小本寺と称することを認められていて、俗称を山名の大寺といいます。
寺伝によると、開基の武田信勝は天目山で敗死した武田勝頼の嫡男で、天目山を逃れて房州に落ち延び、智蔵寺を開基したと伝えられています。また、中興の開基は、里見奉行印東采女平忠康とされています。徳川時代初期の寛永15年(1638)、旗本三枝守昌は、安房の国で一万石を賜って大名に列し、陣屋を山名の本郷に置き、智蔵寺を菩提所としました。次の守全は、再び旗本となりましたが、その後天保13年(1842)まで204年の間、山名は、三枝氏の知行所でした。寺内には、三枝守昌の墓(宝篋印塔)とその子、諏訪頼増の墓(板碑)があります。
本堂の欄間には、翼をもった小竜が波間に飛んでいる彫刻は、初代武志伊八郎信由58歳の作です。南房総市文化財です。
墓地に上がっていくと、溝口八郎右衛門の墓があります。

八郎右衛門が生前出羽三山に参拝登山する際の行者姿を彫刻した武田石翁作のお墓です。
天保12年(1841)頃の作といわれ、右手に酒杯、左手に徳利を持ち、右膝を立て、酒樽に座った姿を表現した珍しいものです。八郎右衛門は、天保14年(1848)90歳で亡くなり、時世の歌として、「百の銭90はここで飲みわかれ、6文もって永の道中」と残しました。「6文あればたくさんだ」という意味でしょう。6文は三途の川の渡し賃の値段です。

次は、山名の鎮守熊野神社へ。

祭神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)。文亀2年(1502)正月9日の創立と伝えられています。明治16年(1883)の山名誌によると、当初安房水上神社と称されていましたが、安房と冠するのは安房神社だけであるとの抗議があっと水上神社と改めたと伝えられています。
境内には、日清・日露戦争戦没者碑や三山講碑・出雲大碑などが建立されています。
参道を登りつめた先に、下の農道と立体交差する石橋があります。明治期の作と思われ、切り出した石材を巧みに組み合わせ、お互いに支えあって出来ている一眼のめがね橋です。

石は山名の寺山石を使用しているといいます。

次に訪れた場所は、山頭神社。

詳細は不詳ですが、参道石段下に、行人堂(行堂)があります。講参り(出羽三山講)の前後、ここでお篭りをしたところで、郡市内では現存しているのは、ここの行堂だけです。
行堂は、普段は飯出集会所として利用されています。
明治初期に書かれたものと言われる文書には、飯出谷の者が文久2年(1862)に鎮守の森の杉の大木一本を智蔵寺に断りなく切って、二両二分で売り、社殿の修理費にしようとしたことから起こった事件があり、結局和解しますが、このことによって山頭神社は、以前は今の飯出行堂の傍の平地にありましたが、山崩れに遭ったことで、仙元山の山裾の現在地の地所を智蔵寺から借りて移ったなど、書かれています。

次は、智光寺へ。
真言宗智山派の寺院で、安房国札21番観音霊場です。本尊は、不動明王を本尊とする長楽山智光寺と、千手観音を本尊とする光明寺(宝暦13年再建)、阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂(安永4年再建)とが、江戸時代中期に合併したものと考えられます。
21番の御詠歌「こうみょう寺 のぼりのどけき はるの日に 山名のはなの りつぞおしさよ」と詠われています。
その後、智光寺は大きな火災に見舞われ、仁王門から出た火は、参道沿いの家並みを伝い、お寺の建物を全て焼き尽くしました。この時の教訓から、周辺の家々は母屋を互い違いに建てて類焼を防ぐ工夫をし、その面影は今も残っています。その後、お堂は宝暦14年(1763)に再建され、阿弥陀堂は安永4年(1775)に建築され現在にいたります。

まず、目立つのが仁王門です。

仁王門は、間口5.45m、奥行き3.62m、高さ6m。左右の金剛座には、筋骨隆々の「阿像・吽像」の木造金剛力士像がたっています。製作年代は不詳ですが、言伝えによると、江戸時代の承応年間(1652~1655徳川家綱の時代)に火災に遭いましたが、他の仏像と共に、付近の女性たちの手で搬出され、災難を逃れたといいます。女性の方は力があったんですね。
木像金剛力士像は、平成7年(1995)に南房総市の文化財に指定されました。

参道の脇には、山名学校跡があります。今は畑となっています。山名学校は、明治6年(1873)当初は、智蔵寺に創設された学校で、2年後には、智光寺に移転し、さらに同年西隣の平坦地に校舎を新設しました。明治15年(1882)には、高等小学校を設置し、その際村民から「高等科出願二付誓約書」が提出され、内容は学区資金無尽作って、村民一致して運営に当たるというものです。明治19年に教育令が改正され、山名尋常小学校に改称されました。明治36年(1903)に「御庄学校」と合併し、「稲都尋常小学校」となりました。

その上には、陣屋跡があります。
土地の人は「ごじんや」と呼んでいます。ここは江戸時代の寛永15年(1638)に一万石大名となって、この地に封じられた三枝勘解由守昌の陣屋を置いたところです。陣屋とは、一般的には、城郭のない小さな藩の大名の居所をいいます。大名は実際に、江戸に居た方が多かったようです。なお、三枝守昌は、安永16年に死去し、子息二人が遺領を分割相続して大名から旗本になりますが、山名の知行は、次男諏訪氏に引き継がれ、天保13年(1842)まで続きました。

やっと、智光寺の境内に辿りつきました。

まずは、阿弥陀堂です。

阿弥陀堂は、安永4年(1775)に建築されました。木造阿弥陀如来座像は、像高105cm。胎内背部の墨書銘によって、元和2年(1616)に奈良仏師の井上助一良の作であることがわかります。江戸時代初期の仏像の代表的なもので、館山市大網の大厳院の阿弥陀如来像とほぼ同年代のものです。左右に天部像がいます。昭和55年に市の文化財に指定されています。

観音堂には、木造千手観音立像があります。像高100cm、江戸期の元文2年(1937)に造られました。厨子に入っているので、見る事は出来ませんでした。

寺宝は、木造不動明王立像です。高さ160cmで両脇侍に「こんがら童子、せいたか童子があります。不動明王は南北朝期の作と推定され、両脇侍は江戸期のものです。不動明王は昭和62年、死の文化財に指定されました。

ここで少し、寛政8年(1796)におきた事件についてお話しします。
「門学殺害事件」
「秋山家文書」と三芳村中の吉田周蔵翁が残した「覚書」によってこの事件の内容がわかったのです。
寛政8年(1796)、江戸幕府・11代将軍徳川家斉の時代、7月29日の朝5つ時、加茂の南の坂で、虚無僧一人が二人の山伏に殺害され、二人は山伝いに加茂から竹原・中・御庄を経て、山名に逃れ、山名本郷の智光寺の庫裡に隠れました。だが、逃げ切れないと知った山伏の一人が、仲間を騙し討ちにし「これが犯人!」とその首を持って庫裡から出て来て捕えられた事件で、この騙し討ちにあった山伏が門覚でした。
加茂坂で殺された虚無僧は至龍といい、下総国小金(松戸市小金)の普化宗の本山永福寺の役僧で、房総の虚無僧の取り締まり役でした。殺した山伏の人は、水野圓治といい、本名は筑紫我童で豊前国中津の奥平藩の浪人で、若くして酒や女遊びにふけ、公金を横領して国元を逃げ出し行方をくらまし、水野圓治と名を代え、武者修行と称して諸国を放浪していました。もう一人の山伏は、門学といい、日向国佐土原の生まれ、房州国分村萱野修験寺大釈院(廃寺)で水野と出会い、共に九州出身なことから意気投合しました。
事件の発端は、虚無僧取締役の至龍が、平郡高崎村で偽虚無僧に扮して徘徊していた水野に出会い、普化宗のかいこうの奏笛をしましたが、偽者の水野は返礼の奏笛が出来ませんでした。無鑑札の偽者であることを見破られ、宗規によってその天蓋、尺八を没収、大衆の面前で水野ははずかしめられました。この事で深く恨み、報復を謀ったのです。7月29日の朝、加茂坂で待ち伏せをして、水野と門学の二人は至龍を殺害しました。
殺害を目撃した百姓が名主方に知らせて大騒ぎとなり、二人は山中に逃げ込み、智光寺の住職にかくまってもらおうとしましたが、住職が不在で止むなく庫裡に隠れました。追手は手に鉄砲、竹槍などをもって殺到し、庫裡を包囲しました。万事休すの状態です。
水野は自己の欲しんを図るため門学に向かい「自分は貴殿の助短刀で至龍を打ち取り、高崎での恥辱をそそぐことができた。ここで百姓どもに捕えられ、縄目の恥を受けるより潔く自害するから介錯を頼む。至龍殺しの下手人として自分の首を追手に示せば、貴殿は許されるであろう。自分が自害する間、戸を押さえていてくれ」と真しやかに申しでたので、門学はその言葉を信じ一心に戸を押さえていました。水野は自害を装って門学の背後にまわり、門学の首を打ち落としたのです。水野は、門学の生首をひっさげて悠々と追手の前に現れ、「加茂坂で虚無僧を殺害したのはこの門学で、自分は同行したのみである。門学は逃れることのできないことを知って、自分に介錯を頼んで潔く自害した。これが門学の首である。」と大声疾呼したが、恐れて誰も近づく者もなかったそうです。水野は夕方縄目に就き、翌日大井村に送られ、大井村を知行する旗本小笠原若狭守の家臣小倉忠右衛門及び山名村を知行する旗本三枝百助の家臣佐藤宗助(惣助)の取り調べを受けた後、江戸送りとなりました。
白洲における水野の陳述は実に卑怯でした。「自分は浪人して武術修行のため廻国の途次、門学と知り合い親交を結んだ。門学は郷里で兄が虚無僧紫竜斎なる者に討たれ、その仇を討つつため関東に下り、紫竜斎が下総小金の永福寺の役僧となっていることをつきとめたが、紫竜斎は武芸の達人であるので自分に助太刀を懇請した。加茂坂で紫竜斎に遭遇したので義によって助太刀し、門学に本懐を遂げさせたのである。本懐を遂げさせたのである。本懐を遂げた上は直ちにお上にその旨を届け出て、後の処置を待つべきであったが、何分群衆の騒ぎが大きく不本意ながら智光寺まで逃げ、住職に会って事情を述べ罪を待つ心算であった。住職は不在で、追手の追及が急で猶予が与えられなかったので、門学は逃れることができないと観念して自刎した。自分は文覚の頼みによって介錯した次第である。」と言葉巧みに陳述した。吟味役の島田小文治は、水野の陳述に深い疑いをもったが、外に証拠もないので、水野を江戸及び房州両地方追放に処しただけで、一応事件の落着でした。
その後、至龍の門弟らは水野を師の仇とねらい、翌寛政9年(1797)、下総国を流浪中の水野を見つけ、遂に利根川の支流将監川の堤で暗殺し、その死骸は川に流されて魚腹に葬られたと伝えられています。
智光寺の庫裡で非業の死を遂げた門学は、純朴な村人達の同情を集めて鄭重に葬られ、明治41年には墓碑も建てられました。

っというお話が残っています。ちょっとびっくりな事件です。

次は最後の見学場所、八雲神社へ。

明治4年(1871)の「山名村明細取調書上帳」によると、八雲神社は八坂神社として「牛頭天皇」を祀り、祇園社とも呼ばれ、須佐之男命が祭神と記されています。八雲神社と呼ばれるようになったのは大正期に入ってからです。また延享2年(1745)の棟札に「別当長楽山智光寺住宥運謹書」と書いてあったことから、智光寺が別当寺であったことが分ります。

後は、出発地点へと戻りますが、途中には馬頭観音やツナツリがありました。
ウォーキングツアー当日は、御庄地区の神輿が新しくなったので、お披露目の為に御庄の集会所に出ていました。地域の方たちが、大切にしている文化も見学できて楽しい1日でした。

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