今回は、南房総市和田地区にある正文寺周辺を調査してきました。
南房総市和田地区の地域協議会さんより7月20日ガイドの依頼ばありまして、その為の下見になります。
今回のテーマは、正木氏の里ウォーキングとして、正木氏と関りのある場所を散策します。
あっ!正木氏ってなに?と思ってる方もいると思いますので、ちょっと正木氏の紹介を・・・
日本の氏族で、三浦半島を中心に平安時代末から鎌倉時代にかけて、房総半島にも勢力をのばし、
東京湾の制海権を握っていた三浦氏の系統だと言われています。
今回のウォーキングコースのメインテーマの正木頼忠氏は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。安房正木氏の一族である勝浦正木氏の当主正木時忠の次男です。
時忠(父)は安房里見氏に属していましたが、里見氏からの自立を目論み、北条氏康に属しました。そのことにより、頼忠は、人質として小田原城に送られ、小田原で結婚し、為春と於万を儲けました。その後、時忠(父)の跡を継いだ兄・時道は、北条氏から離れ里見氏に再属しました。頼忠は、北条氏の縁戚であった為、殺害はされませんでしたが、日常生活は監視されていました。その後、兄の急死、翌年父が死去した為、勝浦正木氏の家督を相続し勝浦城に戻ることになしましたが、妻と子供達は小田原に残す事になりました。頼忠の子・於万(後に養珠院)は、徳川家康に見初められ側室となり、子供は紀州徳川家初代藩主(徳川頼宣)と水戸徳川家初代藩主(徳川頼房)になりました。
ざっとこんな感じなんですが・・・なかなか正木氏は奥が深くて大変なんです。
さて、ちょっと知っていただいたところで、正文寺からスタートです。
正文寺は、日蓮宗大本山小湊誕生寺の末寺です。当初(1175~1180)は、禅宗の寺でしたが、
1574年に正木頼忠が父・正木時忠の菩提のため、亡くなったこの三原の地に日蓮宗として再建
したと伝えられています。
祖師堂です。外陣書面には明治21年、館山の川名楽翁によって書かれた絵馬「日蓮鎌倉帰着之図」
が掲げられています。また、お万の方寄進した物もあります。
残念な事に、籠の方は壊れてしまったそうです。
まだまだ正文寺については書きたいところですが、それだけで終わってしますので、次に・・
正文寺の裏山には、三原城跡があります。正木十郎時通の居城といわれています。また、台地の畑は
大庭遺跡といわれ、縄文土器片や黒曜石が出土するそうです。
地区の境にはこんな物が・・・自分の地区に、病気などが入ってこないようにしたものです。
天御中主神社(あめのなかぬしじんじゃ)に向かう道は、なかなか味のある道です。
最後は、お塚(正木家の供養塔)です。
今回のテーマでもある正木氏の供養塔は外せない場所です。
ざっとご紹介しましたが、抜けてる場所がありますので、ご興味のある方は、是非参加して下さい。
今回は午前中に終わったので、和田町の道の駅WA・O!へ昼食を。。。。
6月から始めたくじら丼
私は食べなかったので味については、分かりませんが・・・みなさん美味しそうに食べてました。