だんだんと南房総にも冬がやってきました。
先日の日曜日、城跡シリーズ「滝田城」を歩いてきましたので報告します。
前もって言っておきますが、カメラを忘れてしまいスマホでの撮影です(汗)
あまりきれいに撮れてないことをお許し下さい。
滝田城は、標高140mの山城で、築城は、定かではないですが、三芳村史(現南房総市)
によれば、稲村城が文明18年(1486)6月に着工し、延徳3年(1491)に完成し、里見本城
となりました。その支城として間もなく、大津宮本城と滝田城が築かれたと書いてあります。
本城稲村城のある安房中枢部へのおさえとして、また上総への進出の拠点として、里見氏に
とっては重要な意味を持つ城だったと考えられます。
城主は、一色九郎といわれています。この人はもとは鎌倉公方足利氏に仕えていた一色氏の
一族で、安房にあった足利氏の所領を管理していたと考えられています。そして、里見氏が
安房の国主となってから、従うようになったと思われます。
その後、里見氏の跡目争いみたいな事がありまして(天文の内乱)で里見義豊が里見義堯に
負けて、その時滝田城は落城し、一色九郎は、義堯側によって処断さてました。1年後、里
見義豊は、上総から反撃に転じ、滝田城に近い犬掛において義堯軍と遭遇し激しい戦となり
ました。義豊は討死し、義堯軍の勝利となってこの戦は終結し、この滝田城は、前期里見氏
の終焉の地であり、また後期里見氏の出発地という意味のあるお城なんだそうです。
馬場を通り物見台へ。
物見台からは、ちょっと木々が邪魔をしていますが、主要の古道が見える場所に
なっています。
その後、空堀、腰曲輪、溜井、虎口、武者留などを見て二の丸を目指します。
途中、涙滝というのがありました。
この涙滝は、城の内側へ爪で鋭く切り崩されたように食い込み、滝のように垂直に下へ落ち
込んでいる場所です。伝承によれば、一色九郎が、義堯軍に追い込まれ、滝田城を最後と決
めて立て籠もり、力の限り戦いましたが、残念ながら敗れ、一色九郎は、「もやはこれまで」
と部下に別れを告げ、いさぎよくこの深い谷底に身をなげ討死しました。家来は、その哀れな
姿に、涙を流して悲しんだといいます。
本丸るより少し登ると櫓台(八幡台)へ。送電線の鉄塔がドンっと立っていますが、景色は
いい場所です。送電線の近くに小さな祠が立っていて、八幡宮と彫られています。
櫓台から降りて行きます。
結構急な階段なので、ゆっくりおります。
ほんの少し行くと、大津宮本城に連結している尾根道があります。
尾根伝いですが、3㎞ほどで宮本城へ行けるそうですが、現在は、道があれているので、
難しい状態です。
尾根道を通り、遠見台へ。
ここには、「南総里見八犬伝」の舞台出発の地ということで、平成6年に天守閣をイメージ
した望楼(展望塔)があります。
少しギシギシ感がありますが、展望はいい場所です。当日は、あまりよくない天気でした
ので、イマイチでしたが・・・
里見八犬伝発祥の地という事もあり、伏姫翔天の図というオブジェがあります。
伏姫が妖犬八房に乗って、天を翔る姿だそうです。
滝田城跡を下り、その周辺を散策。
滝田の青墓。
里見義豊を稲村城へ逃がすために岡本四郎兵衛頼重は踏み止まって正木大膳と戦い戦死
しました。後日その場所に供養塔が建てられた。滝田の青墓と言われ今でも子孫が供養
しているそうです。
真名板岩
源頼朝伝説の1つです。頼朝一行は、昼食時に大きな岩の当りで昼食と休憩をとる事し
ました。そこは、平群川と増間川の合流する地点の高台で、川流の眺めもよく見渡せる
場所でした。真平らな岩だったので、頼朝の家来たちはその大岩の上で調理をして食事
をとり、上総に駒を進めました。その後、後世の村人たちは、この大岩を「俎岩(まな
いたいわ)=真名板岩」と呼ぶようになりったという場所です。
真名板岩から少し行くと、少し小高い場所に十三塚があります。
里見義豊の家臣、安西左京・山本清六・宇間藤内・早川権之丞・御子神内蔵介・角田忠蔵
・福原信濃守ら十三人の墓だと言われています。今でも土地の方が供養しています。方が
供養しているそうです。
最後は龍喜寺(高月城跡)へ。
里見義通が創建した天笑院が、義豊の法号の高巌院に名を替え、のち現在地に移転して龍喜寺
になったという。曹洞宗。高月城という城跡に建っている。天笑院は義通の法号と同じ。
ここで、雲行きがあやしく雨も降ってきたので、今回は終了しました。
神奈川県綾瀬市から来て下さった方がいらっしゃいまして、都会の方に、少しまた旅倶楽部
の名前が届いて行ったと思うとうれしいです。
次回は、11月23日月イチツアー「幻のトンネルを探す」を行います。是非ご参加下さい。